変わり果てた峠 / 貉坂峠・物見峠・順礼峠・津古久峠

 

 かつての順礼の道を、普段の信心のなさを反省して訪ねてみた。
その割には、朝も遅くまで寝ていて、飯山観音のバス停に降り立ったのは正午を過ぎていた。


貉坂峠 (むじなざかとうげ)

これより古くから信仰のために開かれた順礼峠と
板東33番札所巡礼の第6番である飯山観音を結んだ尾根を縦走する。

まずは飯山観音に見参して旅程の無事を祈る。
社の背後より登山道がのびる。
男坂・女坂の分岐で男坂を勇断して進み白山山頂を目指す。
あたりはコナラ・クヌギの明るい雑木林で、
軽い気持で階段状の道をひとふんばりすると山頂だ。

雨乞い伝説の残る「白山池」は、「池」というより「穴」。
単なる窪みに水が溜まった感じで威厳が無い。
行基がこの地に白山大権現を勧請したそうである。
ファミリー向けの展望台もあり、厚木の街を一望できる。
山頂からわずかな距離で貉坂峠に辿り着く。

たしかに「貉」の棲んでいそうな雰囲気ではあるが、
由来は峠を結んだ六つの地名から「六つ名峠」と呼ばれ、
いつしかそれが「貉名」に転化したそうである。
貉坂峠は上古沢と大山道を結んだ。 【*1】


物見峠

物見峠はベンチとやかましい看板がある。
ちょっとしたアップダウンはあるが大した事はない。
右手に鉄条網が現われると、その向うにゴルフ場が出現する。
なんと興ざめなことか。

時折、笑い声やファー!などと聞こえてくるのにはげんなりしてしまう。
順礼の道も変わり果てたものだ。
いまや、この地は、グリーンを巡礼する接待ゴルファーが
幅をきかせている。


順礼峠

背後に大山の姿をいただいた山ノ神の祠を見送ると
まもなく順礼峠に辿り着く。
峠の手前から、何が祟ったのか急激に風が強くなる。
大山颪だろうか、落ち葉が横殴りに吹きつける。

厚木方面から飯山観音への順礼で賑わったことから
その名がついた順礼峠。
順礼姿に身を変えた女隠密が雪の峠で息を引きとり、
村人によって峠に墓が作られ手厚く葬られたという哀しき峠でもある。                                              【*2】
今、峠には赤いよだれかけをした大きなお地蔵さんが、
静かに訪れる人を待っている。

さらに七沢森林公園を南下して、津古久峠を目指すが、
左手には不気味な「森の里住宅地」が展開する。
みんな同じ屋根の色をした建物、妙に静まり返り人の気配がない。
背後には青山学院大学が鎮座している。
何もこんな山の中にと思ったが、やはり大学は撤退することになった。


変わり果てた津古久峠

玉川農協の裏手から山道に再び入り、適当に南下する。
名もなき落ち葉の峠を越えると
日産テクニカルセンター前の車道に出た。
津古久峠はその施設の狭間に無残な姿をさらしていた。

津古久峠を撮影した古い写真を見たことがある。
農夫が籠を背負って峠を登っている姿だ。
その古い写真から感じた情趣は微塵もなかった。

この峠は古代の東海道で、
後北条時代は小田原と武蔵を結ぶ小田原道として発達し、
江戸期には大山詣での大山道の一つとなり栄えたそうで、
峠には茶屋もあったという。 
【*3】
戦時中には演習地に向う陸軍もこの峠を越えたそうであるが、
華やかしき往時の面影は今はなく、石標が淋しげであった。

変わり果てた峠を後にして伊勢原駅に向かって歩みつづけることにする。
峠の南側には、木々に囲まれた旧道らしき道が東富岡の集落に続いていた。
集落の路傍には石仏などもあり、変わり果てた峠で傷ついた心を慰めてくれた。

しかし、それもつかの間で、田園地帯を抜けると第2東名高速道の測量杭が現われる。
わが愛する丹沢山地は、すでに林道でボロボロなのに、さらに第2東名でとどめを刺される。
変わり果てた津古久峠・順礼峠道を、さらに変えるのは、第2東名やゴルフ場や宅地造成を進める
自然に対する畏敬の念や信心を忘れた人間の心なのか。

【*1】 六つの地名とは、白山、長坂、月待場、花立峠、京塚、細入江です。(花立峠が気になりますね)
     「むっつのな→むつな→むじな」になったそうです。

【*2】 巡礼峠は七沢城攻撃の時、北条方の隠密が巡礼姿で城の様子を窺っていた場所と云われている。

【*3】 津古久峠には茶店があり、酒をもとめて近在の青年達が集まる憩いの場であったそうです。 

     「明治、大正時代には、峠の茶屋があり、若い衆たちの憩いの場として知られ、旧伊勢原町の商人も、往路は最初に
     津古久峠の茶屋で一服して東京へ向かい、復路は藤沢から田村や戸田の渡しを通って伊勢原に帰っている。
     昭和20年の終戦前には、陸軍の相模湾防衛を担当した第53軍の軍団司令部が厚木市立玉川小学校に置かれ、
     軍司令官の赤柴八重蔵中将をはじめ、53軍幹部が駐留し、七沢温泉の中屋等が宿舎として利用された。
     津古久峠の裏側の凹地を利用して、大磯から鵠沼海岸に上陸が予想される米軍を迎え撃つべく、旧満州東部の
     牡丹江にいた関東軍の砲兵隊の陣地が構築されていた。」
                               (『伊勢原史話・第一集』 伊勢原市教育委員会 小沢幹著 昭和58年)

【参考文献】

『かながわの峠』 植木知司 かもめ文庫
『碓氷峠・足柄峠への古道』 蜂矢敬啓 高文堂出版社

●後日、貉坂峠、物見峠、順礼峠を訪れた時のレポートを見る
●後日、津古久峠を再訪した時の
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