武蔵越と大垂水峠旧道 / 武蔵越・大ダルミ

「武蔵越え」・・・どことなく甘美な響きを持った名前です。
この名前を初めて目にしたのは『峠と路』(馬場喜信著)という
八王子の峠と坂を紹介した本の中でした。

以前、この「武蔵越」を探し求めて南高尾山稜を歩いたことがありますが、
その時は情報が少なく場所を特定することができませんでした。

今回は、再訪して「武蔵越」を特定するとともに、
現在の国道20号線の前身である「大ダルミ」の旧道を歩くことができました。

【武蔵越】

「武蔵越の名は、初めに人文社の広域市街地図で見つけた。
国道20号線が越える大垂水峠から小さな突起をひとつへだてた南側にあった。
(中略)古い地形図を見ると、この武蔵越らしきルートは、千木良の東方の赤馬の
集落から尾根を登って山稜上の鞍部に達し ―― そこが武蔵越の地だ ――、
谷沿いに下って、案内谷の最奥の集落・大平の上手のあたりで甲州街道に合流している。
(中略)赤馬へ下る道は、かすかな踏み跡を強引にたどってゆくと、
いつしか古道の気配の濃い道に出た。
その山麓には、文化十四の庚申塔も建っていた。」
           (『峠と路』 「武蔵越え」p84 馬場喜信著 かたくら書店 1987年 より

【武蔵越】

「南浅川町大平から小屋場谷をつめ相模湖町千木良へ下る旧道が通じていた峠。
高さ450メートル。小屋場谷ではその跡をはっきりと辿ることはできないが、
千木良側からの道は峠近くまでよく踏まれている。」
                             (ホームページ『web八王子事典』 より)


昭和4年測図同24年資料修正 昭和24年発行 「与瀬」 地理調査所
大ダルミの旧道がクネクネと屈曲しているのがよくわかる。
大ダルミから南へ小さな突起をひとつ隔てた場所に尾根を越える破線道が描かれている。

古い版の地形図を見ると、武蔵越えの経路が破線道で描かれているのを確認できます。
この経路は現行版の地形図からは抹消されていますが、
ゼンリンの住宅地図(2007年版)には赤馬から送電鉄塔を経由して
武蔵越へ至る同経路が載せられています。
(ゼンリン住宅地図では、大ダルミ峠旧道からも分岐して武蔵越に達する道が描かれている)


桂橋から望む赤馬の集落

春の高尾山周辺には近寄り難いものです。
なにせスギ花粉の渦巻く中心地に飛び込むことになるのですから。
それでも陽気が良くなると、原チャリに跨り近場の山々などをツーリング気分で訪れてみたくなるものです。
今回は、赤馬集落の阿寺沢橋の袂にバイクを停めて、幻の峠である「武蔵越」の道を辿ります。
尾根上からは現在の国道20号線の前身である「大ダルミ」の旧道を下りスタート地点に戻ることにします。


阿寺沢橋近くの「武蔵越」への入口


三基の石造物が路傍に祀られている

以前、「武蔵越」を探し歩いたときは資料が乏しく、越路に関する情報を得ることができなかったのですが、
最近になって、『相模湖町史・民俗編』(相模湖町史編纂委員会・平成19年)の中に、
「武蔵越」に関する記述があるのを見つけ、再び現地へ足を運ぶことにしたのです。

  「 八王子に行くときには、小仏峠裏街道を使い武蔵越をしたが、
  現在この道は大垂水の頂上から右側の稜線を通り、
  城山の峰の薬師に通ずるハイキングコースになっている。
  
武蔵越の頂上にはテレビの共同アンテナが建っていて、千木良はこのアンテナを使用している。
  頂上からは若柳・青根・青野原・三ヶ木方面が見渡せる。
  
この道は赤馬の阿寺沢川にそった道で、峠の登り口 猿久保沢の竹薮の上には
  『左 大山 右 小原甲州街道』の道標のほか、道祖神がまつられている。
  道は途中から上りがきつくなり、なかなか大変な道だった。

  高尾に下って浅川の山下という集落までは家がなく、最初の一軒の家のあたりまで行くと
  一休みしたものであった。山下は棚田地帯で養蚕の盛んな集落であった。
  生糸を運ぶ時も、お祭りの山車につける提灯の電池を充電しに八王子の大和田の
  山口バッテリーに行くのも、みなこの道だった。
   八王子までは四時間くらいかかるが、大八車や馬で荷物を運んだものであった。
  八王子から帰ってくるときには、猿久保沢の道祖神のところまでくると、
  ようやく自分のムラにたどり着いたと感じたものであったという。
   
この道は大山街道とも呼ばれ、峠と逆方向に行くと『長尾の渡し』を渡って道志へ抜け、
  道志から三ヶ木の野尻に上り、青野原へと上っていった。
  千木良からそちらへいくのは割合近かったが、物資も人も難儀な坂道を越えても
  大消費地を控えた東京へ東京へと流れていった。」
                 (『相模湖町史・民俗編』 「東京に近いムラ・千木良」p177-178 より)

以上、「武蔵越」の位置と道の様子、往時の利用状況について記載されています。
また、この武蔵越の道が大山街道であったということも知ることができます。


「右 大山道」の文字が読み取れる

阿寺沢橋を渡り、原チャリを乗り捨て、竹林の中に続く道に入ると路傍に三基の石造物を見ます。
苔生し磨耗しているので年代の判読はできませんが、真ん中の馬頭観音の側面には、
「左 八王子 右 大山道」と刻まれた文字をはっきり読み取ることができます。

馬頭観音の置かれた角度のせいでしょうか、「左 八王子 右 大山道」の方向に違和感を覚えますが、
昔の道と現在の道とでは若干付け替えられた箇所があるのかもしれませんし、
観音様が移設されたことも考えられるので深く悩むことはないでしょう。
「大山へはチョ九里 御嶽山へはゲッ九里」とか、「大山ちょっくり 御嶽げっそり」という言葉が
相模湖町の村々にはあったといいます。
大山への参詣は道程も楽だったが、御嶽(青梅市)への参詣は山越えが多く、難儀であったことを
言い表しているといいます。 【*1】


集落背後の日当たりの良い斜面畑の縁を歩く


庚申塔分岐 ここで左に折れる

よく踏まれた道は、赤馬集落背後の斜面に開かれた畑の縁に沿って、ほぼ水平に続いています。
畑にはもってこいの日当たり良好の道はポカポカで、うっすらと額に汗が滲み始めます。
相模川を挟んだ対岸には丹沢の山々を望むことができます。

しばらく進むと、古い地形図の表記通り、里から登って来るもう一本の道をあわせる分岐となります。
分岐には文化年間の庚申塔が祀られ、隣りには馬頭観音と壊れた石造物が祀られています。
頭に戴いた馬頭の姿が妙に細長い馬頭観音には「左 大山道 右 甲州道」と刻まれています。
この庚申塔のある地名が『相模湖町史』にある「猿久保沢」の分岐なのでしょうか?【*2】

  「峠の登り口 猿久保沢の竹薮の上には
  『左 大山 右 小原甲州街道』の道標のほか、道祖神がまつられている。」 (『相模湖町史』)

  「千木良の赤馬東部(長尾)の庚申塔は、八王子の案内からの、鎌倉街道とも呼ばれる大山道と、
  甲州街道の裏街道が分岐する所に立っている。
  隣接して『左ハ大山道 右ハ甲州道』と見える馬頭観音が立つ。」 (『相模湖町史』)

『峠と路』の中でも武蔵越の道には、「その山麓には、文化十四の庚申塔も建っていた」とあるので、
どうやらこの分岐からの道が、幻の峠である武蔵越に導いてくれるに違いありません。


文化年間の庚申塔と年代不詳の馬頭観音


『子どもといっしょに遊べる山』(二木久夫著)挿入図より

庚申塔分岐で左に折れて山へと入って行くのですが、
送電線巡視路を示す黄色い杭標は右に折れる道の行き先を「59鉄塔」としています。
左に折れて登った先にも送電鉄塔があるはずなのですが、それについては何も書かれていません。

南高尾山稜へと上がる武蔵越の道は、
『子どもといっしょに遊べる山』(二木久夫著)の中で、大洞山への登路として紹介されています。
このガイド本は「子どもといっしょに」と題してはいながら、なかなか渋いハイキングコースを
紹介している面白い本です。


手入れの行き届いた植林地内の道となる


新多摩線60号鉄塔台地

庚申塔分岐で左に折れ、放置された果樹林(?)を横目に、少し登ると神奈川県の設置した
「水源の森林づくり契約地(水源分収林)」の看板があり、そこに示された概略図で、
現在地が「千木良字尾上峯」であることがわかります。
その後も植林地の中に明瞭な道が続いていますが、幸いにして、花粉の飛散は最盛期を過ぎたらしく、
花粉症を発症する事もなく、快調にジグザグ道を登ることができます。

共聴テレビの電線を架ける電柱が姿を現し、
武蔵越の頂上にはテレビの共同アンテナが建っている」という『相模湖町史』の記述に
適合していることに安心感を覚えたりします。


潰れた祠の屋根のようなものが放置してある


水平道終点部 この先は潅木トンネル道で進めない

巨大な送電鉄塔新多摩線60号のある辺りは、少々草ヤブもありますがたいしたことはありません。
すぐにまた鉄塔背後から明瞭なジグザグ道となります。
鉄塔からわずかばかり登った所に、押し潰し破壊されたような小屋(?)の残骸を見ますが、
これは一体何なのでしょうか?山ノ神の祠ではないことを祈りますが・・・。

植林の尾根筋を離れて、古い地形図に記されているトラバース道の踏み跡を辿り始めると、
道は次第に細く、そして頼りなくなっていきます。
道に被るアオキの潅木を掻き分けながら進みますが、
肩幅程度にまで狭くなった踏み跡は、油断すると谷側へと足が滑り落ちてしまいます。
ほぼ水平のトラバース道は、とうとう背を屈めなければ通過することができない
薄気味悪い潅木のトンネル道となり、これ以上は進むことが難しくなります。
あ〜、あと少し、谷をクルリと回りこめば、武蔵越と思しき鞍部はすぐそこなのですが、諦めます!


南高尾一般ハイキングコースに合流


大洞山

前進に窮し、尾根筋に戻るために植林斜面を直登しますが、傾斜が強く一苦労です。
汗をびっしょりかかされ尾根筋の道に出たところには「共聴テレビ15」の電柱が立っていました。
送電鉄塔新多摩線60号から先は、共聴テレビの電柱に沿って植林尾根を登っていれば、
こんな苦労をすることはなかったようです。
でも、素直に植林尾根を登ることよりも、「武蔵越」へと向かう古き峠道の痕跡を拾うことが
最大の目的だったのですから致し方ありません。

尾根筋につけられた明瞭な踏み跡を登りつめると、
すぐに一般コースである南高尾山稜ハイキングコースの指導標の裏手に出ます。
その標識には、「大垂水峠1.0km 大洞山0.1km」とあるので、100mの近さならばと大洞山に立ち寄ります。


『山小屋4号』 「武相國境(三)小佛峠以東」 挿入図より
大平山と大洞山との関係は?


『相模湖町史』でいうところの「武蔵越」
テレビ共聴アンテナが立っている

その大洞山ですが、とあるロードマップには「大羽山」とあり、
そんな呼称もあるのかと、いやそれは単なる誤植ではないかと戸惑いもしますが、
『八王子事典』(八王子事典の会・かたくら書店)によると、「大羽山」との別称もあるとのこと。

また、『山小屋4号』に掲載されている「武相國境(三)-小佛峠以東-」(岩科小一郎著)によると、
大洞山と大ダルミの間には、「大平山」という峰もあるようで、それは一体どこなのかと疑問も生じます。
【*3】

大洞山のベンチに腰掛けて菓子パンを頬張りエネルギー充填をしつつ、武相国境の尾根を渡る
爽やかな風を受け、火照った体をクールダウンします。
その大洞山から大垂水峠へ向けて、ひとくだりした鞍部が「武蔵越」なのでしょうか?
『相模湖町史』の「
武蔵越の頂上にはテレビの共同アンテナが建っている」の記述の通り、
一本のテレビ電波受信アンテナが建っています。
割と小広い場所なので峠を越える人の休憩スペースも得られたと思いますが、
尾根を越える確かな道の痕跡などは見出せません。


武蔵越


赤馬方向へわずかに残るトラバース道

そこからさらに北へ進んで階段を降りると、「大垂水峠0.7km 大洞山0.5km」の道標があり、
赤馬側の谷からトラバースしてくる確かな道の痕跡を認めることができるのです。
最前、潅木ブッシュに阻まれ通行を諦めた道の予想延長先と高度とを考え合わせれば、
この場所が赤馬からの道に接続していた「武蔵越」に間違いないと特定できます。

赤馬側にトラバースする道を進んでみると、少し入った植林地内であやふやになってしまいます。
結果、「武蔵越」の道は、ほんのわずかな距離の通行が、潅木ブッシュ帯によって妨害されていることになります。
南高尾山稜三度目の訪問で、今まで幻だった「武蔵越」の場所をやっと特定することができました。
現在、「武蔵越」の名は字(あざ)名として残っていますが、峠としては広く認知されていないようで残念です。


峠の茶屋が木の間越しに見える尾根を下る


この急斜面を下降し旧道に立つ

「武蔵越」を特定できたことに意気揚揚とし、次なる目的である「大ダルミ旧道」を目指します。
現在の国道上の大垂水峠へ向かう分岐標識を無視して、そのまま尾根を北上します。
現国道と旧道は接続しているのですが、峠の茶屋の私有地を通らなければならないので、
事実上、旧道に現国道から踏み込むことはできません。(しっかりした進入禁止のゲートがあるらしい)

ならば、道なき斜面を下り旧道に降り立とうと考えます。
地形図のp386水準点あたりには破線道が記され、難無く旧道に降り立てるかのように見えますが、
そんな道は見当たらず、桜の生えた小ピークから西方へ、適当に尾根を下ることにします。
(最新版の地形図には、この破線道の記載は無い)
道無き尾根からは木の間越しに交通量激しい現国道や峠の茶屋が見えています。
立ち木に掴まりながらの急下降をしばし続けると前方が開け、林道が足下に出現します。
トラロープの張られた急斜面を転落に注意しながら降下すれば旧道上に無事、立つことができるのです。


なんとも立派な道で路肩には側溝もある


切り通し部分もある

旧道はなんとも立派な道で、路肩には雨水を逃がす側溝も切られています。
現国道方向に進んでみたい気持もありますが、ガラクタや重機が置かれていて足が向かいません。
ここは「無断進入禁止だぞ!」と怒られる前に、赤馬に向けて旧道を下り始めます。
路面にはなぜかゴルフボールが散見されますが、きっとこれは山林をネグラとするカラスが
近隣のゴルフ場から咥えてきたものでしょう。

古い地図には峠名が「大ダルミ」と表記されてありますが、
「大垂水」の文字が使われ定着するようになったのはいつの頃からなのでしょうか?
「タルミ」は、やはり尾根の「撓み」を意味した地形語なのでしょうか?

  「大ダルミと云う名の語源は二つの漢字あて字に依って考えてみるに、
  大垂水と書する垂水は滝の意で、これは案内川の水源だと謂われている大ダルミの滝の事を
  含んでいるのかも知れない。いま一つの大弛の弛はユルムの字義を持っているが、
  国道の蛇行状態を表現したものであろうか、又考えるに山言葉の内の鞍部を意味する
  タル(ダル)が働いて出来た名称でもないかとも思う、一般には道がくねっているから
  大タルミだ位に解釈されている。」
                   (『山小屋4号』 「武相國境(三)-小佛峠以東-」 岩科小一郎著 より)


放置された炭焼き窯がある


幅広道ではあるが、すれ違いは厳しいと思う

道はなるほどくねっていますが幅広で、路面状態も勾配も安定しています。
幅広と言っても、相互通行の自動車二車線道路だとすると、すれ違いは厳しかったかもしれません。
この道は明治20年頃に北方の小仏峠越えの旧甲州街道に代わって開かれたもので、
この開通により甲州、信州方面と東京方面との商品流通は飛躍的に改善されたといいます。

当時は、富国強兵・殖産興業の時代で、急峻な小仏峠をなんとか開削して物流を容易にすることが、
国力増進には欠かせないと考えられていました。
明治17年に甲州街道を利用した詩人・思想家北村透谷は、
商業の盛んな山梨県の谷村と八王子を比較し、次のように述べてその問題点を提示しました。

  「谷村は此街道にて八王子に次ぎたる商業場にて、やはり定まり日に市を立て、
  貿易場に送り出す事盛んなリ、されど八王子に劣る所以は小仏峠の峻谷にて交通の便を
  妨げられ、商業上の翼を活発に伸ばし得ざるのみなり・・・」 (『富士山遊びの記憶』)

甲州街道の改修、あるいは新路線の開削は急務となり、次の3路線が検討されることになりました。

  【案下通】   上恩方――案下峠(和田峠)――佐野川――上野原
  【小仏通】   上長房――小仏峠――小原――上野原
  【千木良通】  上長房――大垂水峠――千木良――上野原

工費の面と工事の技術面から当初より「千木良通」案が有力でしたが、
選考途中で上恩方村の「案下通」への強力な路線変更要求などもあったようです。

結果的には、案下峠路線より大ダルミ路線の方が、橋梁が少なく工費が安く済む点、
峠越えにあたり隧道を要せず、土を崩して平坦にする切下工事だけで済むという技術的に容易な点、
また、これまでの街道に面した村々から街道を変更することは、宿場や村人の生活を奪うことになる点
などが考慮され、「千木良通」が、これまでの小仏峠越えの旧甲州街道に代わって、
新たな甲州街道として誕生することになったのです。

ちなみに小仏峠を改修開鑿するという案は工費が莫大過ぎて当初より見送られていました。
甲州街道の路線選定過程については、『相模湖町史・歴史編』の「甲州街道の開削」や
『かながわ風土記30号』の「甲州街道大垂水ルート決定顛末」に詳しく記されています。


旧国道の遺構 今でいうガードレールだろうか?


谷筋を横断する箇所には暗渠が設けられているが
このようにフタ部分がないと通行に苦労する

交通が途絶えて久しい旧大ダルミの道ですが、
道の両側は背の高い木々が聳え、歴史ある道としての風格すら感じられます。
欝蒼たる森の中に、切り通しになった部分やかつての大動脈である甲州街道の遺構などが見られ、
道そのものに威厳というか、堂々とした歴史の重みが感じられます。

すぐ頭の上を現在の国道20号線が走り抜けている割には、
トラックの走行音やバイクのエンジン音が時折響くだけで、旧道は静けさに包まれています。
鳥の鳴き声やチョロチョロとした沢の流れの音がやさしく耳に届きます。

かつて千木良の村人はこの道を越えて八王子との交易をしていたのでしょうか。
『相模湖町史』には大垂水峠を越えた千木良の炭売りの話が載せられています。

  「古くから底沢から小仏峠、後には大垂水峠を越えて甲州街道が通っていたので、
  八王子や上野原への行き来が多かった。
  大垂水峠を越えて高尾を経て八王子までは四里半の行程で、
  朝、焼いた炭を馬の背に付けて出発し、帰りには炭を売った代金で米や酒を買って来た。
  また、千木良と八王子の間は馬力屋が行き来していた。
  毎朝5時か6時に千木良を出て八王子に向かい、夕方千木良に帰って来たので、
  この馬力屋に炭の運搬を頼み、時には八王子での買い物を頼むことがあったという。」 【*4】

また昔は、相模湖町の人々は八王子に映画を見に行くにもこの峠を越えたといいますし、
御嶽参詣の他、榛名神社、古峯神社など各地の信仰地へ赴く際も、大ダルミを越えていたことでしょう。
逆に他地方から相模湖町内の社寺への参詣も多く、
底沢の半僧坊や虫封じ祈願で有名な顕鏡寺、与瀬神社、慈願寺などの参詣には、
全国各地から訪問があったようで、とりわけ小仏峠、大垂水峠を越える武蔵からの参詣者が多かったようです。
そして「大山道」の道しるべからもわかるように、大山詣での人びとが峠を往来する姿もあったのでしょう。

今、この大ダルミの旧道を歩く人は廃道マニアや峠マニアの他に無く、
ひっそりとした中に、道の歴史を語る遺構が残されているのを見るばかりです。


谷筋の水を逃がすための暗渠


旧国道の遺構 土留めの石積み

倒木や落石、谷筋横断部での損壊が一部で見られますが、旧道はほぼ良好な状態で残されています。
谷筋横断部に築造された暗渠や、土留めの石積みをみれば、その筋の専門家なら
当時の土木工事技術のほどを窺い知ることもできるでしょう。

ある程度整備すれば文化遺産≠ニして集客力のある観光ハイキングコースになるのではと思うのに、
ただ放置されたばかりの姿が実に惜しいです。
明治から昭和初期にかけて、甲信地方と東京とを結びつけた物流の大動脈なのだから、
もっと顕彰され、丁重に扱われても良いと思うのですが、
谷筋には現在の国道上から投げ捨てられたと思しき不法投棄が転がっているのが残念です。


一番崩壊の激しい沢筋横断部分


暗渠のフタは消え丸太が渡されている

現在の国道20号線は、昭和7年から8年にかけて、内務省直営事業として千木良の西久保から
大垂水峠への新道開鑿工事が行われて開通しました。
この工事は昭和恐慌下の救済事業としての性格を持ち、千木良や与瀬などから多くの人たちが
動員されましたが、50kgのセメント樽が担げないと雇ってはもらえなかったといいます。
開通当初は砂利道でしたが、自転車が普及するようになってからは自転車で八王子へ行くようになり、
砂利道では大変苦労したといいます。
舗装道路になったのは昭和30年頃のことだったといいます。 (『相模湖町史』)

現在、国道20号線は昼夜を問わず、ひっきりなしに大型トラックや自動車が流れています。
夜は夜で、騒がしい「走り屋」が跋扈するといいますから、旧道の静けさからは想像もできません。
最近では「走り屋」から現金を奪う「走り屋狩り」が出没したというから騒がしさ以上に恐ろしさもあります。
幸いにして「走り屋狩り」の一団は逮捕されたようですが、まるで峠路に出没して人を化かすタヌキが
キツネに化かされ、そのキツネを捕らえて懲らしめたというような話にも聞こえてきます。


集落が近付けば道はさらに安定する


旧道入口には「全面通行止」の看板があった

阿寺沢の流れを見ながら安定した道を進めば大ダルミの旧道も終わりを迎えます。
起点には「全面通行止」の看板がありましたが、歩行までを禁止したものではないでしょう。
ハイカー専用自然歩道やMTBトレイルコースとして売り出せば、訪れる人も多くなることでしょう。
しかし、その一方で、こういった道は亡びてゆく姿に味があるのかもしれないとも思います。
過剰な整備をしては道の持つ滋味を損なうことにもなりかねません。


相模川に架かる桂橋が見える


月読神社

旧道出口は柳馬場背後の台地で、そこからは桂橋や相模湖ピクニックランドを擁する低山が望まれます。
原チャリを乗り捨てた阿寺沢橋の袂へは月読神社を通り抜けるのが近道です。

月読神社は赤馬地区の氏神様で、月夜見尊を祭神とするとのこと。 
月夜見尊は女性神で素盞鳴命の母御にあたることから月読神社と牛鞍神社の祭神は
母子関係だといわれています。小さな境内ではありますが厳かな空気が漂う心落ち着く神社です。
神楽殿もあり、昔は村の祭には神楽が奉納されていたのでしょう。
武蔵越や大ダルミを越えてきた旅芸人の一座が、ここで演舞したこともあるのではと思いを巡らせます。

古い峠道を歩いていると、聞こえるはずもない鈴や鉦の音が聞こえることはありませんか?
それは、御嶽講や大山詣での巡礼者や馬力屋の馬につけられた鈴の音かもしれません。
走り屋やローリング族が爆音を振り撒く現在の道ばかりを歩いていては聞こえない音が
古道には今も残っていると思います。

【*1】

相模湖町、津久井町の村々から御嶽へと向かうには、南高尾尾根を越えて浅川に入り、
そこから小津へと向かい入山峠を越えて五日市に出て、金比羅尾根を登り、
麻生山、日ノ出山といくつもの峰を越えて参詣したとのこと。
一方、大山へ向かうには赤馬東部の西長尾から相模川河畔に出て、寺尾(寺子)の渡しで若柳に渡り、
宝福寺の門前を経て鎌倉街道に出て、正覚寺の西で町道関口道志線に入って、
関口から増原、道志に入り、道志川を渡って三ヶ木へ出る道程だったといいます。 (『相模湖町史・民俗編』より)

大山への参詣は雹害除け、雨乞い、雨止めなどの祈願に。
盗難除けは御嶽山へ、嵐除けは榛名山神社へ、火伏せは古峯神社へと講が組まれていたとのこと。

【*2】

近世後期の村絵図では、「さる久保沢」とある。また、同図では阿寺沢に「掘込沢」の名が見られる。

【*3】

「大平山(520m圏)は、多摩郡村誌「上椚田村」の條に、

   大平山  高凡そ二百六十丈、西方に位す。
         嶺上より西は相模國津久井郡千木良村に属し、南は同國同郡三井村に属す。
         山脈西北の方本郡長房村小佛嶺より聨絡し、東南の方中澤山に延亘し、椴松疎生す。
         登路一條あり、申二十八度より西面して登ること二十四町二十七間にして絶頂に至る。
         此より西方千木良上長房両村界に通ず。

と記載されている。図上位置は、大ダルミから数えて第三峰に与えらるべき名称であるが、ここでは従来の例に慣つて置く。
武蔵通誌に依ると、大平山の次峰はハイタギ頭 高八八三尺となっているが、これに相当する名称の峰は未だ見当たらない。
510mの測点を有する峰は相模側では大洞澤のセリに当るので大洞山と呼んでいる。
武州名は何と云うか知らない。以下武蔵通誌記載の山名を並べると、金毘羅山(一八九〇尺)高岩山(一七ニニ尺)
中澤山(一六九七尺)榎久保山(一四八ニ尺)と標高はいやに細かく刻んで出ているがこれが当てにならぬ事は自明の理である。」
                                  (『山小屋4号』 「武相國境(三)-小佛峠以東-」 岩科小一郎著)

「大平山」の名は、『多摩川相模川分水山脈』(武田久吉著)の中でも見られる。
「現今の甲州街道をなす国道の大弛(オオダルミ)と呼ばれる部分は、武相の国境に跨って高距約400mを算し、
武州の案内村から緩やかに上る道は、国境を越えると直に相州千木良に向かって急に下って行く。
大弛以東で分水背をなす山脈は、一里余の間相模川本流の左岸に密接し、城壁の如く連なる低い山脈で、
最高峰は高距530mの大平山(オオダイラヤマ)で、これから東南に連なる金比羅山(560m)、高山(476m)、榎之窪山を経て・・・・」

ちなみに『八王子事典』(八王子事典の会・かたくら書店・1992年)によると、
「金比羅山」(p514.7)の別名に、「大平山」の呼び名があるという。

【*4】

中央線の与瀬と八王子間は明治34年、甲府までは明治36年に開通し、八王子や上野原への行き来には鉄道が使えるようになった。
しかし、日当が30銭ほどだった昭和初期には、汽車は与瀬から八王子まで6銭の運賃で、これがもったいないので、
草鞋履きで出掛けて片道は歩いた人もいる。庶民が鉄道を日常的に利用するようになったのは後年のことである。
八王子と上野原では、炭や織物は八王子の商店との取引が多く、買い物は八王子ですることが多かったとか、
上野原の方が買いやすかったとか個人差がみられた。八王子は大きな町で気後れした人もあったという。 (『相模湖町史』より)

【参考文献】

『相模湖町史・民俗編』 相模湖町誌編纂委員会編集 相模原市発行 平成19年 
『峠と路』 馬場喜信著 かたくら書店 1987年
『子どもといっしょに遊べる山』 「南高尾・大洞山」 二木久夫著 けやき出版 1998年
『山小屋4号』 「武相國境(三)-小佛峠以東-」 岩科小一郎著
『相模湖町史・歴史編』 「甲州街道の開削」 相模湖町誌編纂委員会編集 平成13年
『かながわ風土記30号』1980年1月号 「甲州街道大垂水ルート決定顛末」 沼謙吉著
『八王子事典』 八王子事典の会 かたくら書店 1992年

『高尾から小佛峠へ』(尾島知之著・みどりや書店・昭和5年)の中に、「武蔵越え」について書かれている。
 「大垂水の左方、山脈の峯近く斜めに一筋の山道らしいものが所謂「武蔵越」という昔からの間道で、
 関所を通れぬ者が関守の眼を盗んで密かに往復していたものである。
 山脈の中程の小高い平地に当時、見張り小屋があって、間道を物凄い眼光で役人が見守っていたものである。」と記されている。