栃谷から奈良子道を登り奈良子峠へ
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「栃谷川と吉野沢の間の尾根道を、奈良子道という。
頂上即ち相武境に上る途中に大きな楢の木がある。樹齢は三百年以上と推定されるが
現在では枯死寸前の状態にある。江戸末より明治の頃、駄馬で木炭を恩方方面に運んだ通行人が
馬を繋いで休むのに好適な場所であった。
この楢の大木より名付けてこの尾根をナラゴ尾根と言ったという説もあるが、
吉野宿の上には奈良本がありここは南下の沢が吉野沢であることから
奈良子とは大和の奈良、吉野に由来しているものと考えられる。
楢の木から約200メートルの所に馬頭観音文政9年(1826年)があり、
続いて頂上に馬頭観音嘉永2年(1849年)があって馬の通った道であることを示している。」
(『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年) 「旧吉野町明王峠の東南約100mの尾根に長者屋敷という所がある。
承久の乱に北条義時と戦って敗れた官方の武将の子、越後守重方が弘安7年(1284)この地に
移り住むと伝えられる。」 (『藤野町史資料編下』 藤野町 平成6年)
「明王峠を吉野方面に下ると「女が塚」という塚があり、武田信玄の姫君が旅の途中
身重の体の疲れからこの地で不慮の死をとげたという伝説の地がある。」 (『ふじ乃町の古道』)
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『藤野町全図』 藤野町発行 1962年
奈良子尾根に「大楢」とあり、大木のマークが描かれている。
また、現在の明王峠付近には「長者屋敷」とあり、その南方に「女ヶ塚」の名が見られる。
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奈良子峠登り口の標識
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尾根に取り付くとすぐに明るい樹林道
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低山趣味の提唱者であり、『山を行く』、『行雲とともに』、『山麓通信』等の著者である高畑棟材が
かつて隠棲していた栃谷、その静かな山間集落を栃谷川の流れに沿った里道を歩いて
奈良子道の取り付き点を目指します。 「風に追われる浮雲のように何処というあてもなく都会を脱け出した私が、
武相二国に跨る陣場山の麓、相模国津久井郡沢井村の栃谷という山間部落に隠棲してから
早くも二星霜を閲した。いったい何の為にこんな山の中へ来たのであろうか。
来ざるを得なかったのであろうか。理由は山ほどある・・・・」
(『山麓通信』 高畑棟材著 昭和11年 昭森社)
高畑氏に何があったかは知りませんが、遁世したくなるという気持はよく分かります。
まともな神経の持ち主が生きてゆくには、この世界は煩雑で、高速で、冷淡であり過ぎると思います。
厄介な人間関係や無意味な日々の繰り返しから逃亡したくもなるというものです。
空の狭い谷特有の閉塞感も苦ではなく、かえって日陰暮らしがお似合いのカビやキノコのような
人間にとっては好都合な土地かもしれません。
貝のように尾根と尾根の間が狭まり完全に閉じてしまっても構わないとさえ思えてきます。
このような喧噪とは無縁の土地で、囲炉裏の火を見つめながら、
捨て犬なんかと一人と一匹で、しんみりと暮らすのも悪くはないとペシミストはすぐに考えてしまいます。
家族連れハイカーを追い越し、トレイルランナーに追い越されしながら秋晴れの空の下を進みます。
「なんだ・・・ちっとも暗くないじゃないか・・・」
谷間の割には太陽の光が降り注ぎ、期待外れに(?)めっぽう明るいじゃないか!
暗い人間が歩くには眩しすぎるほどの光量です、これではこちらの暗さが一層際立ってしまいます。
栃谷は明るさに満ちた集落で、カビやキノコのような人間が暮らすには不向きな土地かもしれません。
「旅館・陣渓園」あたりの沢の流れに、「雨乞い淵」と呼ばれた淵があるようです。
雨乞い淵の水を全て掻き出して、振宿(八王子市)龍蔵神社下の醍醐川の龍神淵から運んだ水に
入れ替えてやると、たちまち雨が降り出したといいます。
昔は雨乞いのために、わざわざ醍醐峠や和田峠を越え、神聖な水が尾根を越え運ばれていたのです。
トイレらしい匂いを放つ(要するに臭い)公衆便所が建つ場所が奈良子尾根の取り付き点で、
「←陣馬の湯を経て藤野町4.2km / 奈良子峠2.0km 陣馬山3.5km→」の標識が設置されています。
正面の尾根に取り付き、数度の折り返しで自然林主体の明るい尾根に乗ることができます。
よく踏まれた道で、これなら炭を背にした駄馬も難なく歩くことができただろうと想像できます。
『ふじ乃町の地名』によると、この尾根の南側斜面に「ホンジンヤシキ」という地名が見られます。
それが明王峠付近にあったという「長者屋敷」の住人が一時期移り住んだという場所なのでしょうか?
「古い地図を見ると明王峠附近に「長者屋敷」という場所があり、重方という武将が住んでいたが、
奈良子道を下って吉野沢入口に一時居を構えたと伝えられていて、
その居所跡は今もその形を留めている。」 (『ふじ乃町の古道』)
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林道に出た所にある温泉看板
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林道に分断された峠道
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足に優しい歩きやすい道を快調に登って行くと、眼前に林道が現われあっけなく諧調は乱されます。
栃谷と底沢を結ぶ舗装された林道が峠道を分断しているのです。
森林整備作業や災害復旧作業、あるいは遭難者救助作業には欠かせない道なのかもしれませんが、
由緒ある奈良子道が分断されているのはちょっぴり残念です。林道との合流点には、ハイカーを誘う姫谷温泉の看板があり、商魂の逞しさを窺うことができます。
栃谷温泉に三軒ある旅館の間では温泉客獲得競争が繰り広げられているのかもしれません。
「姫谷温泉」の「姫」とは、「女ヶ塚」に祀られている姫のことだろうかと考えつつ、
舗装林道を少し右手に行き、擁壁沿いの階段を登って分断された峠道の先へと復帰します。
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朽ち果てた大木と峠名由来看板
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「ナラコ峠の由来」の書かれた看板が放置されている
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ひと登りすると、奈良子峠の由来が書かれた痛みの激しい看板が放置されているのを目にします。
その脇には朽ち果てた大木の残骸が無造作に転がっています。
この大木が峠名の由来になったという「楢」の木なのでしょうか?
「樹齢は三百年以上と推定・・・」などと文献にはあるものの、まったくもって見る影もありません。 「明治・大正にかけて栃谷部落の人は馬に木炭を三俵ずつ両方に負わせ、自分も二俵背負って
此の峠を八王子に行き、米などを買って通っていました。
ここまで来ると馬を休ませるため、つないだ木がこの楢の木で、ナラコ峠の名が付いたと
言われております。大事にしていきたいと思います。」 (現地看板 より)
この峠名の由来の書かれた看板は地主である陣渓園旅館が設置しているようで、
「これより20分 御休憩にどうぞ」というハイカー誘い込みの宣伝文句も忘れてはいません。
文面には「大事にしていきたいと思います」とありますが、楢の大木の姿はすでに無く、
馬の嘶きも馬子の息遣いも、遠い昔の出来事となっています。
峠の歴史を記したこのような看板は教育委員会や文化財保護委員会が古道顕彰の観点から
設置してもよいと思うのですが、町には財政的余裕が無いのでしょうか?
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「ナラコ」の名に相応しい楢の林をゆく
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峠道中盤に安置されている文政期の馬頭観音
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奈良子道の通う奈良子尾根は吉野の領分で、造林看板を見ても現地名欄に吉野の名が見られます。
栃谷は上栃谷(峯栃谷)と沢栃谷に分れ、上栃谷は沢井分ですが、沢栃谷は吉野分となっています。
ですから栃谷温泉は吉野分ということになります。
吉野というと甲州街道沿いの宿の印象が強いので、尾根を越えてまで領分があるとは意外です。
古くは、吉野と沢井との間で山地境界論争が繰り広げられ血生臭い事件も頻発していたようです。 「この道は吉野地で、南側は小字吉野沢、北側は小字陣馬、そして下方を小字枡口沢という。
・・・元禄のころ、境界の事から論争が起こり、代官所から御留山として入り会いを中断され
訴訟となり、またこの山では暴力沙汰も起こり、山論は50年以上も続いたのである。」
(『藤野町の文化財・広報ふじの第2集』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会 平成4年)
「ナラコ(ゴ)」の名に相応しいミズナラ、コナラのやさしい樹林に包まれた明るい尾根を
左に上倉沢、右に吉野沢の谷筋を見ながら緩やかに登ってゆくと木陰に佇む馬頭観音を見ます。
木漏れ日の中、馬の頭を載せ穏やかな表情を浮かべている観音様を眺めていると、
こちらの心も穏やかになってくるというものです。
できることなら観音様に代わってここに根を下ろし、俗世からの逃亡を決め込み、
ボンヤリと行き交う人々を眺めていたいなどと思うのですが、夏は暑いし、冬は寒いし、
雨にはうたれ、闇には怯えるしで、すぐに弱音を吐くに違いありません。
文政9年の銘がありますから、随分と長いこと峠を上り下りする人々を見守ってきたのでしょう。
山地論争のない時代には、近郷の入会地として、秣、薪、茅、山菜を採るために
馬を利用してこの道を通行する者が多かったといいます。
また、木炭搬出の最盛期には、恩方に向かう馬列を静かに見守り続けていたのでしょう。
「この道に二基の馬頭観音石像が建立されている。
一基はならご道の中間で文政9年(1826年)、もう一基は上方で嘉永2年(1849年)のものである。
このころは、近在で生産される木炭を駄馬で恩方方面に運ぶ者が多かった。
東京都側は「七ッ久保」と呼ぶ所が恩方に通ずる道であり、頂上を右尾根伝いに小仏に通ずる。」
(『藤野町の文化財・広報ふじの第2集』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会 平成4年)
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峠道上部は明るい植林地内をゆく
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なんとなくバランスのいい名前だ
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峠道は上部に行くにつれ、自然林から植林へと切り替わります。
植林内の道といっても暗さは無く、よく手入れされた林には明るい陽射しが入ります。
木の間越しには陣馬山へ続くスカイラインが望まれ、気持の上でも明るさが増してきます。
息が上がるような急登はなく、ゆっくりと足を前へ進めると奥高尾縦走路と交差する奈良子峠を迎えます。「奈良子」とは、なんとなく可愛い名前です。
娘さんの名前にいかがでしょうか?でも、「奈々子」の方がいいかなぁ・・・
新しい登山標識には、目立つ赤い文字で「←陣馬の湯を経て藤野駅」などと書かれています。
赤い文字は尾根道を歩く大勢のハイカーの目に留まることを意図した配色なのでしょうか?
ハイカーを温泉へと誘導するための、ささやかな作戦なのかもしれません。
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奈良子峠
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峠の小ピークに祀られた馬(牛)頭尊
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秋の行楽日和、それも祝日とあって奥高尾縦走路はすごい人出です。
えっ、こんなにハイカー人口はあったのかと、あまりの往来の多さに目を疑ってしまいます。
俄かハイカーも紛れているでしょうが、これほど多くのハイカーがこれまでどこに隠れていたのでしょう。
人の流れは途切れることが無く、峠の写真を撮ろうにも必ず人物が入り込んでしまいます。峠脇の小ピークに登ると墓石のような馬頭尊が祀られています。
これが文献にある嘉永2年の馬頭観音なのでしょうか?
「牛」という刻字も見られますから、馬だけではなく牛も峠道を行き来していたのかもしれません。
奈良子峠から案下に下る道は以前歩いたので今回は見送ることにして、
このまま明王峠を経て奈良本尾根に向かおうと思いましたが、山頂の混雑具合が気にもなり、
陣馬山へ寄り道してみることにします。
正直言うと、普段ヤブ山では見慣れぬキレイな女性ハイカーが陣馬山へ向かっているのに釣られたのです。
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南郷峠を推理する
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南郷頂(南郷ノ頭)
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「南郷山」と書かれたテープが巻かれている
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いや、キレイな女性ハイカーに釣られたのではなく、「南郷峠」の存在を再確認しようと試みたのです。
「南郷峠」の名前は『峠と路』(馬場善信著・かたくら書店)、Web『八王子事典』の中に登場しています。 「南郷峠:陣馬山の東の肩あたり、案下川から藤野町の栃谷へ越える古い峠みちが越えていたという」
(Web『八王子事典』 より)
また、高畑棟材著『山を行く』の「高尾山より三頭山まで」の中でも「南郷峠」の名前は登場しています。
「相州小原町から底沢川を遡って武州恩方村上案下へ通う案下峠に出る。
次いで明王峠・南郷峠を踰えて暫く行くと陣馬峰の緩やかな上りとなり
忽ち其の明るい草原つづきの頂上に着く。」 (『山を行く』 より)
しかし、古い地図やガイド本を見ても「南郷峠」という「峠」の名を見出すことはできず、
「南郷ノ頭」、「南郷頂」の名前を見るばかりです。
よく踏まれた一般道から外れて、それらしき起伏の植林斜面に付けられた踏み跡を拾ってみれば
「南郷山」と書かれた黄色テープの巻かれた山頂に立つことができます。
なんとも愛想のない山頂で、笹の下草に覆われ腰掛けるスペースも、見はるかす眺望もありません。
しかし、人でごった返す山頂よりも、大多数のハイカーから見向きもされない無愛想な頂きに
なぜか心の落ち着きを見出したりしてしまうのです。
自分が山だったら、きっとこんな表情をするだろうとの同調がそんな思いを抱かせるのかもしれません。
斜面の下方から届く一般道を行き交うアベックハイカーや家族連れの楽しそうな笑い声を耳にしながら、
カバンからもぞもぞと一個のクリームパンを取り出してモグモグと立ち食いをするのです。
こんな惨めな思いに心の平安があるというのは、健全な人から見れば異常と思われるかもしれませんが、
異常と正常の距離、厭世と楽天の距離、悲劇と喜劇の距離は案外と近いものです。
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『武相国境観光地図』 武相国境観光地図刊行会 昭和13年
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『武相国境と道志の山に』 小野幸著 山と渓谷社 昭和22年
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『広域市街地図八王子・高尾・相模原』 人文社 1994年
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この陣馬高原下への分岐が「南郷峠」でしょうか?
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Web『八王子事典』には「南郷頂」という項目もあるので、「峠」と「頂(頭)」は別物だと思われます。
つまり、ドッケ系の「峠」という意味ではなく、いわゆる尾根を越える本来の「峠」道があったことになります。 「南郷頂:案下川の源流近くの南郷沢の水源の山、高さ789m、陣馬山の東にあり縦走路が通る。
山名末尾の訓みは不詳」 (Web『八王子事典』 より)
では「南郷峠」とはどこなのか?それらしき場所といえば、陣馬高原下バス停へと下る分岐となりますが、
公的登山標識に「南郷峠」の名は見られません。
尾根反対側には陣馬山南面直下を巻いていると思しい踏み跡が見られますから、
結構いい線なのかもしれません。ここを推定「南郷峠」としておきましょう。
(南郷頂の東南鞍部も気になりますが・・・)
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良いお天気で〜す
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ススキがステキ
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陣馬山に登る人、陣馬山から下る人、尾根道は老若男女で混みあっています。
歩く人もいれば、走る人もいて、へばる人もいれば、誰構わず「こんにちは」と発する元気な若者もいます。
「こんにちは」と声を掛けられれば、こちらも「こんにちは」と返答はしますが、
「オマエは下界でも本当に元気よく挨拶をしているのか」と若者に問い質してみたくもなります。
こう尾根道が混みあっていると、歩速の違うハイカーは障害物でもあり、追い越すには一苦労です。
高速トレイルランナーの姿も多数あるのですから衝突事故が起きないかと心配です。
一定方向に全員が歩くか、全員が走るかしないと危険ですが、そんなことはできないので、
背後から忍び寄るトレイルランナーの皆さんには接近を知らせる小さな鈴でもつけて欲しいものです。さて山頂はというと、ベンチというベンチは全て満席で、山頂の茶店はどこも満員です。
ビールが飛ぶように売れ、美味しそうな昼御飯の匂いが山頂に漂っています。
あまりの人の多さに休憩する気にはなれず、風に揺れるススキの穂を撮影してすぐに下山です。
タッチアンドゴーの山頂滞在ですが、空気の澄んだ秋晴れの眺望は見事です。
冬場以外でこうすっきり見渡せる日はなかなかありませんが、素っ裸のようで色気がありません。
それにしてもビールがよく売れているのを見ると、ウマイ商売はできないかと思案してしまいます。
車の入る和田峠はすぐそこですから、缶ビールの一ケースや二ケースを担ぎ上げるのは容易です。
ディスカウントショップで仕入れて、山頂価格で販売すれば一缶当たり300円の利益が出ます。
一日100人位に販売できるとして、あっという間に3万円の荒利益を手にすることができます。
既存の茶店に文句を言われそうですが、怖い組織の名前でもほのめかせば大丈夫かしらん。
茶店はビールの他に、原価の怪しい食事も提供しているのだからウハウハに違いありません。
山頂まで税務調査が来るなんて聞いたことがありませんから、
結構ウマイ商売ができるかもしれないぞと、見苦しい皮算用をするのです。
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明王峠から矢ノ音へ
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明王峠
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不動明王が祀られている
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喧噪の山頂に見苦しい目論見を置き捨てて、次なる目的地である奈良本尾根を目指します。
奥高尾縦走路を引き返し、奈良子峠から萩ノ丸を過ぎればドッケ系の明王峠です。
明王峠の茶店も大繁盛で、ここでもビールが飛ぶように売れているのを見ると、
再び汚い企てが脳裏をよぎりますが、できもしない金儲けのことは忘れましょう。「藤野町十五名山 明王峠 標高738.9m」の標柱が建ち、大勢のハイカーがここでも寛いでいます。
茶店の脇には名前の由来になった不動明王が祀られています。
もとはここより東にある底沢峠(案下峠・旧明王峠)にあったものだともいわれています。
現在の明王峠は観光用に拵えられたものでドッケ系の峠です。
底沢峠(旧明王峠)を越える人が減少したことにより、
ハイカー向けに見晴らしの良い峰(ドッケ)に峠が移動してきたのです。
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石投げ地蔵・嬢ヶ塚
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林道を横断して矢ノ音へ
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明王峠で奥高尾縦走路から離脱し、桜の植えられた急な階段を下ります。
あれほどまで尾根道に溢れていたハイカーの姿はすっかり消えてしまいます。
先刻の陣馬山頂上の賑わいがまるで嘘のようです。
ビール販売をするなら、出店する場所を間違えると大赤字になってしまうことでしょう。ダラダラと尾根筋を下って行くと、前方には小石を積み上げた塚が現われます。
このコンモリとした塚が「石投げ地蔵・嬢ヶ塚」で、現地案内板には次のように書かれています。
【明王峠の石投げ地蔵嬢ヶ塚】
「景信山と明王峠の山稜を結ぶ間に「堂所山」という小峰がある。その昔、武田信玄が北条と合戦の時、
鐘によって敵の情報を知らせるための鐘撞き堂のあった跡でその名が付けられた。
また明王峠は武田不動尊を祀り武運を祈願した所と伝えられる。
この峠の山頂に登り詰める一歩手前の道筋に小石を積み重ねた小塚があるのが目につく。
伝説に塚の由緒を記すが、時は天正年間、甲斐の武田一族の姫君が常陸の国佐竹家に嫁したが、
不幸にして離縁となり幼女を残して生国の甲斐へと戻された。
その後幾とせ、残された幼女は美しい姫となった。
ある日、乳母より実母のことを聞かされ、次第にまだ知らぬ母に思慕の念が募るようになった。
やがて秋も深まろうとする頃、母と対面する好機が訪れ、乳母と共に母の消息を尋ねたいと
父に懇願し、許しを得て従士三人乳母等五人で甲州に旅立つことになった。
何分にも当時は戦国乱世の時、旅は決して楽なものではなく、
敵方の難を逃れるため間道や峰道を通らねばならなかった。
ある時は木の実を食し、沢の水で空腹を満たすほど殆んど不眠不休の旅であった。」
(相模湖町・相模湖観光協会)
また、藤野町の観光マップには次のように紹介されています。
「天明の頃、武田一族の姫が不縁となった嫁ぎ先の常陸の国佐竹家に残した乳呑み子が
美しい佐竹白百合姫となり、母へ思慕の念から母の里甲州へ旅立つ途中、この地で息絶えたという。
村人達も姫を哀れに思い、地蔵尊を建て小石を供えて石投げ地蔵と呼び冥福を祈ったといわれている。」
(観光マップ『ゆずの里藤野』藤野町商工会)
天正と天明と時代背景に違いはありますが書かれていることは同じです。
現地案内板は以前設置されていたものとは文面を異にしていますが大筋は変わっていません。
以前の案内看板には、姫が明王峠にさしかかった時に激しい腹痛に襲われたこと、
乳母が驚いて従士を村里へ助けを求めに走らせたこと、乳母は姫を背負い峠を下りはじめたが
弱り果てた姫は苦痛から母上様と呼び息絶えたことなどが書かれていました。
従者らはこの急な惨事に慟哭しながらも、姫の亡骸を手厚くこの地に葬り、
遺髪を持って何処かに去って行ったといいます。
後に、武田・佐竹一族がこの地に参り、小さな地蔵尊を建て懇ろに供養したのが嬢ヶ塚であり、
この峠を往来する旅人が線香の替わりに石を供えたので石上げ地蔵又は石投げ地蔵と
呼ばれるようになったといいます。
(『相模湖文化財調査報告書第8集 史跡編』 「明王峠・石投げ地蔵嬢ヶ塚」 相模湖町教育委員会)
姫を襲った腹痛は単なる腹痛なのか、それとも陣痛だったのか気になるところです。
『ふじ乃町の古道』には「身重の体の疲れからこの地で不慮の死をとげた」とあります。
また、藤野町の資料では「女ヶ塚」とありますが、相模湖町の資料では「嬢ヶ塚」と表記されています。
読み方は同じなのでしょうが、気になるところです。
そして積み上げられた小石の下には本当に地蔵尊が祀られているのでしょうか?
当地には佐竹家白百合姫伝説とは異なる伝説も残っているようです。
明王峠付近に美しいお姫様が暮らしていたそうで、その姫は陣馬山、景信山周辺を馬で駆け回るのが
好きだったようです。しかし、ある時いつものように馬を乗り回していると山伏の弓に射られてしまい、
命を落としてしまったとのこと。そのお姫様が息絶えた場所が嬢ヶ塚のある場所だといわれています。
「御転婆なお嬢様」が亡くなった地だから「嬢ヶ塚」なのでしょうか?
このお姫様は明王峠付近にあったという「長者屋敷」の姫様だといわれています。
また、山伏の放った矢の音から「矢ノ音」の地名が生まれたとの説もあるようです。
(参考:Web『相模原の歴史シリーズ』 相模原郷土の歴史研究会 「白百合姫 石投げ地蔵嬢が塚」)
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矢ノ音北側の巻き道分岐
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藤野町十五名山「吉野矢の音」
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お姫様とは縁が無いので奈良本尾根を先へと進みます。
ひと気は無く静かな尾根道ですが、よく踏まれていて道標も整備されているので不安はありません。
木陰から弓矢に射られぬように用心しながら進むと吉野と与瀬とを分かつ矢ノ音北側の分岐となります。
p633矢ノ音山頂へ向うには、与瀬側へ折れてすぐの場所にある「矢ノ音」と黒マジックで書き込まれた
標識の前から踏み跡に入ります。自然林に包まれた小笹の踏み分け道は心地好く、たいした登りもなく頂上に達することができます。
頂上には「藤野町十五名山 吉野矢の音 標高633m」の標柱と手製の標識が見られます。
今回は見落としてしまいましたが、山頂付近の大きな松の根元には石仏も置かれているとのことです。
矢ノ音南面は植林地で南尾根を辿るらしき踏み跡が確認できます。
「矢ノ音」の名の起こりは、武田と北条の合戦の折の凄まじい弓矢の音(鏑矢か?)によるといいますが、
先の山伏による「お姫様暗殺(?)伝説」も捨て難いものがあります。
現在、登山地図やガイド本、地元発行の観光マップではp633を矢ノ音としていますが、
古い地図ではp633に「ショウノ塚」の名を付しているものもあります。
(『絵地図・高尾山』(村松昭作)でもp633をショウノ塚としている)
相模湖町発行の観光マップでは「ショウノ塚」なる地名が大平付近に表記されていて混乱も見られます。
「ショウノ塚」と「嬢ヶ塚」とは同一なのでしょうか?
「女ヶ塚=嬢ヶ塚=ショウノ塚=石投げ地蔵」と理解してよいのでしょうか?謎です。
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『広域市街地図八王子・高尾・相模原』 人文社 1994年
p633を「ショウノ塚」としている
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『相模湖町ガイドマップ』 相模原市相模湖経済環境課
「ショウノ塚」は貝沢分岐にある
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『相模湖町文化財調査報告書第12集地名編』 相模湖町教育委員会 平成8年
p633は「矢の音」であり、「ショウノ塚」の名前は見られない
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相模湖町の地名を詳しい解説と地図で紹介している『相模湖町文化財調査報告書第12集地名編』でも
p633は「矢ノ音」となっています。(地名由来は武田北条合戦説を採用)同資料では大平の東に「五衛門屋敷」という地名も見られ、
この屋敷には美しいお姫様がいなかったのかと気にもなります。
しかし、「〇〇屋敷」といったところで、武将が住んでいたとは限らず、小金持ちの炭焼長者の出小屋の
ようなものだったのかもしれません。
この付近では「孫山」にも地名の混乱が見られるので再訪しなければなりません。
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「ヨセワカサレ」(与瀬分かされ?)か?
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『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 昭和54年
「ヤノート」の名がある。「矢ノ音」のことか?
それにしては場所が違う・・・?
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地名の混乱といえば、『ふじ乃町の地名』によると、「ヤノート」(たぶん矢ノ音のこと)は、
p633のはるか西方、横橋集落背後の峰にその地名が記載されています。
p633には何の地名も示されていなく、「ヨセワカサレ」という場所のさらに西に「ヤノート」があるのです。
このズレから察するに「矢ノ音」とは特定のピークを指すのではなく、周辺一帯の総称なのかもしれません。
本当に弓矢の音だとすれば広い範囲で聞こえていたはずですから、それでもおかしくはありません。「ヨセワカサレ」の「ワカサレ」とは、「分かれ道」のことだと思われ、確かに旧版地形図を見ると、
横橋へと下る道が確認できます。
p633山頂から西方へと下る道は灌木が茂っているものの踏み跡は明瞭で迷うことはありません。
矢ノ音北側分岐で山頂を巻いてきた道が合流する場所には道標もあるので、
逆コースからでも取り付き点を見落とすことはないでしょう。(矢ノ音を指し示す標識は倒れている)
防火用水のドラム缶を見ると、山道は林道のようになり、軽トラなら走行可能な道幅と路面になります。
「ヨセワカサレ」を過ぎた後、p562へ立ち寄ってみようと植林斜面を登ります。
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p562西尾根には明瞭な踏み跡が続く
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頭部を欠損した石仏が祀られているのを見る
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p562は植林地の平凡な小突起でなんの特徴も標識もありません。
そのまま尾根筋を拾って奈良本峠を目指そうと歩き出しましたが何だか変です。
左手にイタドリ沢ノ頭へと続く奈良本尾根が見えているのですから・・・・あれれれ、あまりに状態の良い山道と、それに沿って林班界杭の目印が点々と続いていたので、
ついついp562西尾根に誘い込まれてしまいました。
あっ、そういえばこの尾根道は、初めて奈良本峠を訪れた時にも迷い込んでしまっているのです。
その時は麓の奈良本から国体コースを経てp562西肩の分岐に出て、
現在地を把握できぬままに奈良本峠を探し求めてp562西尾根に乗ってしまったのです。
このp562西尾根は地形図では栃谷の陣渓園背後辺りに降りられそうに見えますが、
途中で明瞭な道は消滅してしまうといいます。
そういえばこの道は「クロベーマーリー」(黒兵ヱという人が転落した場所)という
危険エリアにつながっている道です。
ひょっとすると《崖から落ちた黒兵ヱの呪い》が人生の転落者を呼び寄せているのかもしれません。
このままではイカンとp562へ引き返すと、大きな木の下に頭部を欠損した石仏を発見するのです。
馬頭観音のようですがハッキリとせず、刻銘も風化して判読不能です。
昔はこの尾根道を木材を引き出す馬や薪炭を運ぶ馬が行き来していたのかもしれません。
もしかすると案外簡単に栃谷へと下降することができるのかもしれませんが深入りは止めておきましょう。
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p562西肩分岐
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標識背後の踏み跡を辿り自然林の小ピークを経て奈良本峠へ
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石仏の前を通りp562の起伏を西側から巻くように進むと、p562の西肩分岐に出ます。
ここには「森林公社分収造林地」の看板があり、現地名欄には「吉野沢1889-イ-20、外1筆」とあります。
最前まで歩いていたp633矢ノ音からの幅広な林道が合わさり、
道端には「平成10年第53回神奈川国体縦走コース」と書かれた手製看板も見られます。
奈良本峠へ林道経由ではなく尾根筋を拾っていく場合には、
「←日野を経て藤野駅」と書かれた手製標識(防火用水ドラム缶に黄色のペイント矢印がある)に従い、
『ふじ乃町の地名』でいうところの「ヤノート」北面をトラバースしていきます。平坦な植林尾根に姿を変える辺りが、『ふじ乃町の地名』にある「ダイミョウジン」という場所のようです。
それを過ぎると前方にはこんもりとした起伏(529.5m)が見えてきて、それを巻くようにして
明瞭な山道はつけられています。
この場所には「←藤野駅 / 明王峠・陣馬山→」の手製標識がありますが、ここはそれを無視して、
標識背後の薄い踏み跡を辿って自然林に包まれた小ピークを越えます。
ピークの立ち木には黄色のペイント矢印がつけられているので、
おとなしくそれに従えば、植林地の中の奈良本峠が視界に入ってくるのです。
この奈良本峠東方の起伏近くの地名として『ふじ乃町の地名』には「サンボギ」の名が見られます。
『藤野の山と峠』(植木知司編・北丹沢山岳センター・2003年)には「三本木」とありますから、
「サンボギ=三本木」なのでしょう。
かつてはオバQの頭の毛のように、小ピークに目立った三本の木が生えていたのでしょう。
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奈良本峠の道をゆく
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奈良本峠(奈良本側)
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先に訪問した奈良子峠のハイカーの多さに比べると、奈良本峠のこの静寂はなんでしょう。
植林地内の仄暗い峠ですが、敬遠されるほどの不気味さはありませんのに。
ハイカーの少ない場所であると見切っているのか、ここには「陣馬の湯」の宣伝標識もありません。
石仏も祠もなく、峠名を標したものもありませんが、たしかな道が奈良本側から上ってきています。
栃谷への下降点は少し離れた場所にあり、変則的な十字路を形成しています。奈良本峠は栃谷と奈良本を結ぶ峠で、古い地図にもその道筋が描かれています。
峠名こそ地形図に載ったことはないようですが、登山地図や地元自治体が発行している観光マップには
しっかりと「奈良本峠」の名前が記載されています。
「栃谷峠」ではなく「奈良本峠」と呼ばれているところをみると、
主に栃谷の村人が甲州街道筋に出るために多く使われた道だと思われます。
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峠名標識を括りつける
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栃谷へ下降する前にイタドリ沢ノ頭へ向かう
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奈良本口と栃谷口のどちらに、持参した手製峠名標識を取り付けるか迷いましたが、
とりあえず奈良本側の公的標識の柱に括りつけておきます。
峠南麓の奈良本の集落は桂川河岸段丘上の緩やかに傾斜している土地のようですから、
「奈良本」の「ナラ」は、「奈良子」の「ナラ」とは異なり、緩傾斜地を表わす地形語なのかもしれません。栃谷へと下降する前に、p505三角点峰であるイタドリ沢ノ頭に寄り道することにします。
栃谷口分岐から、ほとんど平坦な尾根道をわずかばかり西へと進めば山頂らしからぬ山頂となります。
山頂標識や登山地図、観光マップでは「イタドリ沢ノ頭」の名が採用され定着しているようですが、
「吉野山」とも呼ばれているようです。
『中央線の山を歩く』では「奈良本山、別名イタドリ沢ノ頭である」との記述も見られます。
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イタドリ沢ノ頭
金比羅山、吉野山、奈良本山
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『新ハイキング542号』2000年12月号
「吉野山-矢ノ音-孫山ノ頭」(松浦隆康)挿入図より
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また、1962年藤野町発行の『藤野町全図』ではp505三角点峰に「金比羅山」の名が記されています。
古い山のガイド本でもこのピークを「金比羅山」としているものがあります。
現在では、p505からさらに西方のp449を「金比羅山」とするのが一般的なようです。
また、p505南方の小ピーク(p477)には「大沢ノ頭」の標識があるといいます。「イタドリ沢ノ頭」という名称は、どうやら新しいという印象を受けますが、
広く定着しているところをみると、なんら問題はないのでしょう。
ちなみに『ふじ乃町の地名』には、p505三角点峰になんの名前も付与されていません。
南方p477のさらに南に「コンピラサマ」とあり、西方p449に「コンピラ」の名が付されているだけです。
また、p505から北西に伸び落合に降下する支尾根上には「やらし」などという興味を惹く地名もあります。
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『藤野町全図』 藤野町発行 1962年
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奈良本峠(栃谷側)
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「栃谷1.1km / 奈良本2.2km」の標識が立つ栃谷口から峠道を下降します。
歩き始めこそ快適なのですが、中盤は顔を叩く灌木の小枝が道に張り出していて少々目障りです。
それでもヤブというほどの大袈裟なものではありません。
それに以前歩いたときに比べると、灌木の小枝の鞭はやさしくなったかに感じます。
前回歩いた時は陣馬山頂で飲んだ缶ビールのせいでホロ酔い気分となり、
歩行がままならぬ状態でもあったのですが・・・・ |

丸太の土留めが施されている
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標識も設置されているが通る人は少ない
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峠道全般に丸太による土留めが施され、下部では標識の設置もあり整備の努力が窺えますが、
ここを歩いているハイカーが、さてどれほどいるのでしょうか?
陣馬山や景信山の登路として、この道を選ぶ人は稀でしょうし、下山路としても奈良本峠から
駅側の奈良本への峠道ではなく、わざわざ山側の栃谷への峠道を選択し下降する人はいないでしょう。最前歩いた栃谷から奈良子峠の峠道中盤のミズナラやコナラに囲まれた明るく健康的な道に比べると、
奈良本峠から栃谷へと下る北側植林地内の峠道は薄暗く、陰湿に感じます。
「奈良子峠」と「奈良本峠」、名前は似ていますが両者は似て非なるものです。
奈良子峠の道が「陽」で、奈良本峠の道は「陰」です。
結婚式と葬式 薔薇と菊、向日葵と彼岸花ほどの違いがあります。(大袈裟か!)
ことに通行量は大差があり、人通りも人気も明らかに奈良子峠道の方が勝っています。
しかし、薄暗くヤブ気味で不人気、そんな奈良本峠道と波長が合うのか、この道が嫌いにはなれません。
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集落と山の境にある神木か?
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なぜか峠道にはゴルフボールがたくさん落ちている
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中盤で灌木の小枝が顔を撫でる道も下るにつれて安定した道となります。
植林を整備する道としての利用は今もあるようです。
沢音が近付き、木の間から民家が見えてくるようになると、峠道の下降も終わりを迎えます。
集落と山地との境界の目印なのか、それとも山道を守る神木なのか、出口付近には根元から
二つに幹の分かれた特徴ある大木が生えています。なぜかこの峠道の下部には無数のゴルフボールが落ちています。
前回訪れた時はカラスの仕業ではないかと推理しましたが、カラスの姿など一匹も見かけません。
暗い道に無数の白いゴルフボールが落ちているのはちょっと不思議な光景で、
栃谷川を挟んだ対岸山上の上栃谷の集落からフルスゥイングで
打ち込んだものではないかと思えてなりません。
それともゴルフボールを使ったイノシシを撃退する秘密兵器があるのではないかと、
考えてもみるのですが・・・やっぱり謎です。
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澄んだ流れを見せる栃谷川を小さな橋で渡る
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畑の石垣脇の細い道が峠道
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澄みきった栃谷川の清流を小さな鉄橋で渡ると沢栃谷の集落です。
畑の石積み脇の細い道を通り、民家の間を抜けて舗装路へと飛び出します。
逆側からだと、こんな細く頼りない道が尾根を越えている峠道だとは思わないでしょう。『ふじ乃町の古道』には、「沢栃谷より栃谷川を渡り東南方に上る山道があるが、
古くより吉野、奈良本往還である」と書かれていますが、これでも「往還」なのかという貧弱さです。
それでも当時としては馬が通れれば立派な道であったのですから、これは歴とした「往還」なのでしょう。
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城の石垣のような造り
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立派な巨木が峠の通行者をチェックする
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民家土台の石垣は、まるでお城のような造りで上手く積み上げられています。
素人の農民や村の石工の築造とは思えず、軍事に携わった人間の手による労作に思えてなりません。
武田と北条が争っていた時代には、陣馬山には武田軍が陣を構えていたといいますし、
栃谷の民家には「伝通」、「釜場」と云う屋号があり、当時通信伝達の仕事や軍兵の食糧関係の仕事を
していたという伝説も残されていますから、築城技術を持った工兵の末裔が居付いたとしても
なんらおかしくはありません。峠道を往来する人を監視しているかのような大きな木が出入り口には立っています。
ウロがまるで目のようで、ジロリと睨まれているような気がします。
「怪しい者ではありません、ただのハイカーです、ちょっくら通らせて下さいまし」と心の中で呟いて
前を通り過ぎて舗装路に飛び出ます。
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栃谷側の峠道入口
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栃谷側の奈良本峠入口は見落としやすいですが、
「←イタドリ沢ノ頭 奈良本 / 藤野駅65分 陣馬高原口35分→」の登山標識が建っているので
これを信じて踏み出せば心配することはありません。奈良本峠道は地形図に記載されているし、登山地図にも、観光マップにも載っている道ですが、
それにしては歩かれている様子が窺えません。
スゴイ人気の山である陣馬山のすぐ近くにありながら、
ハイカーが奈良本峠道をその登降路として選択することはめったにないようです。
ことに栃谷側の峠道は薄暗さと、軽いヤブと、静けさの中に沈淪しています。
何も好き好んで暗く寂しい気分にさせられる道を選択する人はいないでしょう。
しかし、奈良子峠のような明るく健康的な峠道ばかりを万人が好むとは限りません。
奈良本峠のような暗く陰々とした道を歩くことで、心の平安を得る人もいるのです。
この世界は明るい太陽が照らすところばかりで成り立っているのではありません。
光が射せば影もでき、光が強ければ強いほど影も濃くなります。
陰なる世界を人はとかく敬遠しがちですが、そのような場所が自分のような陰気な人間には、
心の落ち着きと平安、そしてわずかばかりの希望すら与えてくれることもあるのです。
この世界がきらびやかなネオン街やお洒落な街並み、きれいなファッションに清潔なカフェレストラン、
健康的な運動と、最先端かつ高速の科学技術ばかりだったら、窮屈で息苦しくなってしまいます。
太陽光線の降り注ぐ明るい公園で、家族と、恋人と、友人と過ごすひと時を好む者もあれば、
心の深淵を覗くかのように、静寂に沈んだ暗い森の中を独り彷徨うことを求める者もいるのです。
そしてその行為が彼にはこの上ない「救い」に結びつくことがあるのです。
彼が目にする「光明」がたとえ小さく弱々しくても、暗い世界で見る光は眩しく感じられるものです。
人気のない暗い峠道にも光は射しこんでいるものです。
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(峠行2009.10.10)
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| 【参考文献・資料】 Web『八王子事典』(http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/index.php)
Web『相模原の歴史シリーズ』 相模原郷土の歴史研究会 「白百合姫 石投げ地蔵嬢が塚」
『相模湖文化財調査報告書第8集 史跡編』 「明王峠・石投げ地蔵嬢ヶ塚」 相模湖町教育委員会 1986年
『峠と路』 馬場善信著 かたくら書店 1987年
『かながわの峠』 植木知司著 1999年
『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会編集 昭和54年
『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年
『ふじの町の文化財・広報ふじのより・第2集』 「古道を探る・ならご道」 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会
『ゆずの里藤野ガイドマップ』 藤野町商工会
『中央線の山を歩く』 「奈良本山(イタドリ沢ノ頭)」 藤井寿夫著 新ハイキング社 平成10年
『藤野の山と峠』 植木知司編 NPO法人北丹沢山岳センター 2003年
『相模湖町文化財調査報告書第12集地名編』 相模湖町文化財保護委員会 相模湖町教育委員会 平成8年
『新ハイキング542号』 「吉野山-矢ノ音-孫山ノ頭」(松浦隆康) 2000年12月号
『藤野町全図』 藤野町役場 1962年
『武相国境観光地図』 武相国境観光地図刊行会 昭和13年
『広域市街地図八王子・高尾・相模原』 人文社 1994年
『相模湖ガイドマップ』 相模湖町役場産業観光課 相模湖観光協会
『武相国境と道志の山に』 小野幸著 山と渓谷社 昭和22年
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