三重連の峠![]()
先日新聞のテレビ欄を見ていたら、NHKの深夜番組アーカイブスで
「新日本紀行・三重連の峠」が目にはいった。
なにを見誤ったか、「三重県の峠」に関する番組だと早合点して、
鈴鹿山脈の峠でも紹介すると思い、放送開始を心待ちにしていた。
放送内容は蒸気機関車D-51が3両連結で青森秋田県境の矢立峠を越える
最後の雄姿を追ったものであった。
冬の矢立峠は吹雪の峠となり、蝦夷征伐に向かった坂上田村麻呂も苦しめられた。
豪壮な蒸気機関車三重連の運転手は煤煙に苦しめられている。
また、峠周辺は秋田杉の宝庫で、戦後毎年一万本伐採された木材が三重連が曳く
貨車で全国各地に運ばれ戦後復興に役立ったと番組では紹介していた。
矢立峠の勾配改良工事とトンネル工事で三重連が疾走する姿は消えることになり、
新しい時代の流れの中で姿を変えていく峠を記録した秀作であった。
鉄道ファンではないので、鉄道に関する峠というと碓氷峠と塩狩峠、狩勝峠
ぐらいしか思いつかないが、鉄路に歴史を刻んだ峠は多いことだろう。
ところで、同番組ではかつて「新日本紀行・二つの上野〜長野県諏訪・伊那」
(昭和48年11月12日放送)という番組も再放送していた。
有賀峠の近くに、二つの上野村が寄り添ってある。
諏訪市上野と上伊那郡辰野町上野である。
この二つの集落を今は民放のアナウンサーである森本氏が訪れる紀行であった。
隣り合う村にもかかわらず、生活様式や言葉遣いが異なる。
屋根の造りや間取り、囲炉裏の座り方、果ては握り飯の大きさまで異なる。
普通、国境は峰の稜線や峠に置かれることが多いが、ここでは諏訪側の領地が
分水嶺を遥かに越えて、伊那側に食い込んでいるということに興味を覚えた。
番組の中では云い伝えとして、昔、諏訪の殿様と伊那の殿様が早起きをして、
歩きはじめて出会った所を境として決めたと述べていた。
抜け目の無い諏訪の殿様が早起きをして先に歩き出したので領土を伊那側に
せりだすことに成功したというのだ。
諏訪湖周辺の気候も厳しく、土地も狭い所の人々は合理的で無駄の無い
諏訪文化を作り上げ、
天竜川沿いの農村地帯でゆったりと暮らした人々は鷹揚な
伊那文化を作り上げたという。
そんな諏訪気質が反映しているのかもしれない。
抜け目無いというか合理的であったのは諏訪の殿様の時代から続くものなのか。
諏訪の岡谷で製糸工業が栄えたころ、女工さんの一汁一菜の粗末な食事の
材料の大根を諏訪上野の大根が一切担い、峠を越えて運ばれていたという。
その後は、精密機器工場の下請け雇いなど
諏訪上野は諏訪の商業圏にガッチリと組み込まれていった。
番組の最後は、有賀峠付近のゴルフ場開発を取り上げ、
工事中の中央高速道で都心と結ばれることによる経済効果への期待もある中、
伊那側の人々だけが開発反対をしているということで結んでいた。
有賀峠付近がその後どうなったか、今どうなっているのか、
それぞれの上野の気質が今も残っているのか、
興味深いところだが、訪れるには至っていない。
ところで、殿様の早起き云々の話は各地にあるようで、
臼田町から下仁田に至る田口街道の田口峠も上信の国境になっていない。
信州側の田野口藩の殿様が、暗いうちに鶏にときの声をあげさせて
早く出発したため、峠を越えた関東側に境界を拡大することができたという。
信仰の道・塩の道であった秋葉街道(信州街道)の兵越峠(ヒョー越峠)では、
信濃国南信濃村と遠江国水窪町との間で国盗り綱引き合戦なるイベントが
開かれ、勝てば向う一年領土を広げ、負ければ一年雪辱に闘志を燃やすという。
案外、国境の決定などというものは、
このようなことからなされたのかもしれない。
いい加減ではあるが、戦をするよりも賢い裁断なのかもしれない。