藤野町南端の忘れられた峠みち

綱子天神峠・<仮称>菅井天神の峠・<仮称>ヌタノハラの峠・大川原天神峠


昭和4年測図昭和22年発行 「鳥屋」25,000図 地理調査所

自動車の走り抜ける林道や県道が整備されておらず、
山のあちら側とこちら側とを容易に結びつける隧道が無かった時代、
綱子集落と道志谷の集落とをつなぐ何本かの山越えの道が発達していました。

綱子と大川原を結ぶ「大川原天神峠」、綱子と長又を結ぶ「ヌタノハラの峠(仮称)」、
綱子と菅井を結ぶ「綱子天神峠」、これらの峠は道志谷で生産された薪炭・絹織物・繭などを
上野原の市日に出荷する際には越えねばならなかった苦労が染み込んだ峠です。
また、これらの峠道は大山詣での道として、人びとの願いや希望が染み込んだ道でもあるのです。

今回は綱子を起点に、一部残されている旧峠道を辿り「綱子天神峠」に登った後、
県道開削以前、菅井と長又とを連絡していた「菅井天神の峠(仮称)」の古道を拾います。
そして長又からは「ヌタノハラの峠」を越えて綱子に入り、「大川原天神峠」の旧道を探索します。

菅井と長又を結ぶ菅井天神の峠道は、天神隧道の開鑿、県道青根藤野線の開通によって、
完全に忘れられた存在となり、現行版地形図からは抹消されています。
長又と綱子を結ぶヌタノハラの峠道は、現行版地形図では綱子側の道が消去され、
道の記載の残る南面では、峠道を侵蝕している採石場の規模拡大の影響が懸念されます。
綱子と大川原を結ぶ大川原天神峠の峠道は、綱子大川原林道の開通により、
綱子側の旧峠道が現行版地形図からは消去されています。
これら地形図から消されてしまった峠道の現在がどのような状態なのか探ってみることにしました。

綱子集落から綱子天神峠・(仮称)菅井天神の峠へ


綱子隧道の北側、綱子林道の途中から旧峠道に入る
送電鉄塔佐久間東幹線360の巡視路になっている


道は良好で、幅広で安定している

綱子集落から綱子天神峠に向かう旧峠道は、
完全舗装された綱子林道がその一部をなぞっているらしく下部には痕跡が見られません。
林道の途中から擁壁の階段を登り分岐する山道が、かつての峠道の残りだと思われます。

この道は送電線巡視路を兼ねているらしく「佐久間東幹線360→」の標識が設置されています。
道の状態は頗る良好で、藪や欠損箇所もありません。
割と広めの道は、かつて駄馬が行き来していたことを想像させます。


山道にはアケビや山栗がたくさん落ちている


峰山と綱子天神峠をつなぐ峰山南方尾根に接続する

落ち葉の敷かれた道の上には、熟したアケビの実や山栗のイガイガがたくさん落ちています。
遅れをとった蝉がジージーとまだ鳴いているのに、山はすっかり秋モードになっています。
鉄塔直下の見晴らしの良い草地を通過すると、峰山と綱子天神峠をつなぐ尾根道に合流します。

合流部には「←峰山・菅井→」と標示された赤いプレートの公的標識が設置され、
傍らの台地には佐久間東幹線360の鉄塔が建っています。


綱子天神峠

尾根合流部から平坦な尾根道をわずかばかり南下すれば綱子天神峠で、
顔馴染となった文政期の馬頭観音と寛政期の百番供養塔が置かれた十字路となります。

昔、道志谷側の集落からは、絹織物や繭が人馬の背によってこの峠を越え、
上野原で開かれていた市へと運ばれていったのです。
また綱子、奥牧野や山梨県の秋山村から大山詣でに向かう人々は、やはりこの峠を越えて、
菅井へと下り、伏馬田を経て霊峰大山を目指したのです。
供養塔の台座には今も「東 大山道 西 あをね道」の刻字を認めることができます。


手製標識を取り付ける


峠には百番供養塔と馬頭観音が置かれている

峠に設置されている東海自然歩道の公的登山標識には峠名の記載が無いので、
こっそりと立木に「綱子天神峠」の名を記した手製標識を括りつけます。
公的登山標識の青根を示す腕木には「←天神峠」というマジックの書き込みが見られますが、
これはここより西に位置する大川原天神峠を指し示したものなのでしょう。

石造物背後のコンモリとした丘状部は『ふじ乃町の地名』によると、
「トリヨウボー」の呼び名があるようです。
『ふじ乃町の古道』には「鳥坊主(トリヨウボウ)」との表記も見られます。
「鳥坊主」とは一体どういう意味なのでしょうか?
そのコンモリとした丘状部に登ってみましたが手掛かりとなるものは見当たりませんでした。


「藤野町基準点22」が埋設されているp508
トリヨウボウ(鳥坊主)と呼ばれる附近を探索する


東海自然歩道を外れ天神隧道の上を経て菅井天神へ

峠の石造物の前を通り、東にのびる細道を辿ってp508の山頂まで行ってみましたが、
石祠があるわけでもなく、藪っぽい植林地の小峰に藤野町の基準点が埋設されているだけでした。

ここで踵を返し、次に綱子天神峠から尾根を西へと向かい、綱子隧道の真上を通過する手前で、
南に折れる明瞭な分岐道へ入ります。
東海自然歩道から離脱し、p521(姫松)へと続くこの南東尾根の途中に、
次なる目的地である菅井と長又とを結んでいた「菅井天神の峠(仮称)」が存在しているはずです。


天神隧道真上の鞍部(p416)


この小ピーク(p493)で東に流されやすい

東海自然歩道を離脱した道は、南東尾根の真上ではなく、その脇を通って緩やかに下降しています。
途中、隧道入口へ下降できそうな踏み跡を見送ると、尾根上を踏むようになり、
天神隧道真上の小鞍部に達します。

天神隧道真上には越える道も無ければ石造物などもありません。
菅井天神の峠は、次の小峰(p493)を越えて下った先で、p521(姫松)との最低鞍部になります。
その次の小峰がなかなかクセモノで、うっかりしていると踏み跡とプラ杭に釣られて、
東の菅井集落側へと流されてしまいます。
ここは木の間から望まれるp521を目標物にし、自信を持って進路選択するのが正解です。

(仮称)菅井天神の峠から長又集落へ


(仮称)菅井天神の峠


天神社の台座だろうか?平板の石が残る

小峰から立木に掴まりながら足場の悪い急斜面を下降すると、菅井天神の峠となります。
『ふじ乃町の地名』には、この小鞍部に「菅井天神」の名が付されています。
かつては天神社があったのでしょうか、その台座とも思える平たい石が置かれています。

旧版地形図を見ると、菅井と長又とを結ぶ確かな道が描かれていますが、
現行版地形図では、この道は抹消され、菅井側の谷筋に破線道がわずかばかり残るのみです。
実際は菅井側にも、長又側にも道は確認できますが、峠そのものは夏草に覆われています。
峠の南東に位置するp521(姫松)のピークにも立ち寄る予定ではありましたが、
少々藪っぽいので、この季節の探索は見送ることにします。


峠の馬頭観音

峠の凹部には「大正拾四年 馬頭観世音 施主高崎家」と刻まれた馬頭尊が安置されています。
高崎という姓は菅井地区に多く見られる名前なので、菅井の住人が祀っているものなのでしょう。
現在の県道及び天神隧道が出来る以前は、菅井と道志谷の長又をつなぐ道として
人馬の往来が頻繁にあったに違いありません。

蜘蛛の巣が邪魔をするものの長又へと下る道は明瞭です。
この先どうなっているのか?どこへ飛び出すのか?ワクワク感が高揚してきます。


峠から長又側へ下る道


やや荒れてはいるがこんな良い状態の道も残る

道は沢の流れに近い場所では小規模な崩壊が見られますが、全体を通して概ね良好です。
字名「大洞」と呼ばれる谷筋に入り、「センノサワ」を左岸から右岸へと伝い下降します。
蜘蛛の巣が顔面にまつわりついたり、小さな小さなダニの一団がズボンに取り付いたりするのを
気にしなければ快適に歩行することができます。

ゴミの無さや路面状況から察してイノシシより多くの人が歩いている様子は感じられませんが、
驚くほど状態の良い箇所もあり、昔は相当の往来があった幹線道ではなかったかと思われます。
ほんの数メートルという短い区間の薄い笹ヤブの通過もありますが、
それを過ぎれば県道下の沢へと降り立つことになります。


橋の土台と思しきコンクリートの塊が残る


下流対岸に斜上する踏み跡を見つける

降り立った沢の流れはチョロチョロとしたもので、飛び石で簡単に渡ることができます。
対岸へ渡る橋は大水で流されたのか、それとも朽ち果てたのか、その姿はありません。
橋脚と思しきコンクリートの塊だけが残されているだけです。

採石場近くに特有な白っぽい砂が川原の石に付着しているのを見ます。
魚がいるようには思えず、タイヤの不法投棄が転がっているのが目立ちます。
崖上からは県道を走るダンプやバイクの音が聞こえてきますが、その登り口が見当たりません。

しかし、よくよく探すと、ほんの少し下流側の崖を斜上する踏み跡が見つかります。
頼りない道ですが、プラ杭などもあるのできっと旧道の残存なのでしょう。
笹ヤブもありますが、道が細いため、これを束ねて手掛かりとなるので助かります。
一箇所、沢側に口を開けた危険な崩落地通過箇所があるので注意を要します。
わずか2メートルほどの区間ですが、ここは慎重に高巻いて通過します。


サイレントリバーキャンプ場の誘導路に飛び出す


県道を横断し擁壁の切れ目から取り付く

危険箇所を通過すれば前方が明るくなり、コンクリ舗装の道へ突然飛び出します。
そこは「管井131 007 12 酒井」のプレートのある電柱の脇で、
「藤野キャンプ場サイレントリバー」の誘導路の坂道の途中に飛び出したのです。
こんな所に出るのかと、いままで県道を通過していても峠道の入口に気付かなかったわけです。

これで菅井天神の峠から長又への道を歩くことができたことになります。
地図から道を抹消し、廃道の烙印を押すには早いと思いますが、
沢に橋が無いこと、崖上の道が滑り落ちていること、沢沿いに小規模な崩壊が見られることを
考慮すれば、地形図から姿を消すのも止むを得ないのかもしれません。
便利な県道、尾根を穿つ隧道があるのですから、誰しも不便な旧道など歩きはしません。
こうして地図から消された道は、人の記憶からも次第に忘れられてゆくのでしょう。

  「菅井地区から長又地区に行く道路は、尾根又は沢底の急峻なものばかりであったが、
  現県道が造られるにあたって、菅井、天神の二隧道が貫通し、
  これから長又への道は自衛隊の協力に開設されるなど、谷越え山越えの道が
  省略され距離的にも極めて短縮され面目を一新し便利となったのである。」
                        (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年)

菅井天神の峠道が、これに記されている「沢底、谷越えの道」だったのでしょう。
次に「尾根、山越えの道」であったヌタノハラの峠を目指すことにします。
サイレントリバーキャンプ場の道から県道に出て、その正面の擁壁の切れ目から取り付きます。

長又集落からヌタノハラの峠へ


長又集落からのびる明瞭な山道にぶつかる


舟山から派生する東南小尾根を乗り越す場所

ヌタノハラの峠は長又と綱子とを結んでいる山越えの道ですが、
峠から東へ、東海自然歩道の尾根道を辿れば最前の綱子天神峠とも結ばれているので、
菅井との連絡路でもあったのです。
今歩いて来たばかりの菅井天神の峠と同様に、長又と菅井とを結び付けていたともいえます。
両者は下ってから登るか、登ってから下るかの違いであったのでしょう。
いずれにしても不便であったことに違いはありませんが。

長又からヌタノハラ(奴田ノ原)への道は、現行版地形図にはその一部が破線表記されています。
しかしながら旧版地形図にあった峠から綱子側へと下る道は抹消されています。
また、峠南面は採石場の拡大に伴って道の存続及び通行が危惧されますが、
HP『山梨東部の山・相模の山』の中で実地踏査レポがあったので安心して踏み込むことができます。

県道から植林地の斜面を登ると、長又集落からの明瞭な道にぶつかります。
現行版地形図では集落まで破線道が続いていませんが道は現存しているのです。
峠に向けてp587(舟山)東南からのびる小尾根を乗っ越す場所には、小さな昭和期の馬頭観音と
自然石の百番供養塔が安置されています。
この道もやはり以前は頻繁なる往来があったのでしょう。


植林地内の水平道から採石場が望まれる


採石場に行く手を阻まれる

小尾根を乗っ越すと植林地内を行く水平歩道となり、足下にはダンプが行き交う県道が見え、
樹間からはガンガンガリガリと山を崩す採石場の重機が動き回っているのが見えます。
道の状態は極めて良好で、道を支える古い石積みも見られます。
「テラゾーリ」と呼ばれる最初の沢筋を回り込む辺りから若干道が細くなり頼りなくもなりますが、
すぐに安定した道に戻るので心配はいりません。

沢筋では獣臭もしましたが、こう近くでガンガンと岩を削る騒音がしていれば、
獣とバッタリ出くわす心配もないでしょう。
二番目の沢筋である「ヌタノサワ」に回り込む手前で、突如「←迂回路」の看板が現われ、
古道の通行は強制終了を余儀なくされます。

   「工事中のためご迷惑をおかけしますが迂回路を設置しましたので
   しばらくの間ご協力をお願いします  (株)武相藤野採石事業所」

と書かれた看板の指示に従順に従い、山側に新造された迂回路のジグザグを登ります。
それにしても「しばらくの間」とはいったいどのくらいの期間なのでしょうか?
「工事中」とありますがその期間が終了すれば原状回復がなされるのでしょうか?
「工事」という言葉が相応しくないほどに、周囲の地形は大きく変貌してしまっているのですが・・・


地形を無視して強引に開かれた迂回路歩行を強いられる


ヌタノハラの鞍部は目の前だが・・・

「ヌタノサワ」の沢筋は採石場の土砂に完全に埋まり、
峠に続いていたであろう本来の道は採石場内に飲み込まれています。

迂回路は迂回というだけあって、採石場の外縁を回り道させられます。
それだけなら我慢できるのですが、沢筋の詰めで迂回路は消滅し、
結局は採石場内を歩かされて途切れた道の反対側に行くことになるのです。
一体この採石場はどこまで拡大し、どれほどまでに山肌を侵蝕するつもりなのでしょうか?
そして採石終了後の後地はどのように活用されるのでしょうか?


峠側の迂回路案内板


(仮称)ヌタノハラの峠

採石場を抜けてからの峠側の道はわずかしか残されていません。
つまり採石場は東海自然歩道の通う稜線部に肉迫しているのです。
東海自然歩道の「自然」とは何なのかと毒づきたくもなりますが、無惨に削られてゆく山肌を
見せつけることで、自然の大切さを教えようとする反面教師的な計算された教育的配慮なのかも
しれないと解釈するほかないようです。

ヌタノハラの鞍部で尾根を越えるこの場所を便宜上「ヌタノハラの峠」としますが、
正式な名前のある峠であるかは不明です。
『中央線の山を歩く』(藤井寿夫著・新ハイキング社)では、この場所を「天神峠」としていますが、
本当に地元でそのように呼ばれているかは調査不足でわかりません。
綱子天神峠とさほど距離が離れているわけではありませんから、この辺の尾根を越える峠道の
総称として「天神峠」の名が一般化していたことも十分考えられます。

(仮称)ヌタノハラの峠から綱子集落へ下り、大川原天神峠へ


綱子への道は薄暗いがしっかりした道


墓地を過ぎると自然林の明るいジグザグ道となる

ヌタノハラ(奴田ノ原)は昔、農地であったとのことですが、現在は植林地の中にあります。
「枯木倒木注意」の看板があり、東海自然歩道の標識が菅井と青根を指し示しています。
尾根を越える綱子、長又を指し示す標識はないので、ハイカーが尾根を越えることは
想定していないのかもしれません。

綱子へと下る道は現行版地形図から消去されていますが、
「佐久間東幹線357」の送電線巡視路として、また植林地を整備する作業道として
利用されているようで、しっかりとした道が綱子まで続いています。

「神奈川県森林公社分収造林地」の看板の前に、加藤家の墓地を見ると、
そこから先は暗い植林地内の道から解放され、自然林の明るい中を行く道となり、
数度のジグザグを経て、綱子と大川原とをつなぐ舗装された林道に接続されます。
それにしても墓地が随分と集落より高い位置にあるものです。
川の氾濫を警戒してなのか、それとも日当たりを考慮してなのか、ちょっと気になるところです。
加藤という姓は綱子集落に多く見られ、古くから土着している名前のようです。


ヌタノハラからの峠道出口


水源分収林看板脇の丸木橋 (渡らない)

降り立った林道の対面には「山のブルーベリー・もぎとりえん」の看板が見られます。
また分岐には送電線巡視路を示す黄色の標識もあるのですぐに取り付き点はわかるでしょう。
なぜこんな状態の良い道が現行版の地形図では消去されているのか謎ですが、
私有地内を通っているとか、遭難事故があったとか、なんらかの事情があるのかもしれません。

次なる探索対象の綱子から大川原天神峠に至る旧道も現行版地形図からは消えています。
さてその取り付き点はどこだろうかと昭和22年発行の旧版地形図を見ると、
安寺沢へ越える綱子峠(造道峠)の分岐より先に取り付き点があるかのように描かれています。
これを信じてしまったのは失敗で、昭和47年発行の旧版地形図を見れば分かる通り、
ヌタノハラの峠道入口からさほど離れていない場所にその登り口はあったのです。

そうとも知らずに大平橋の脇にあるコンクリートの堰から川床に降り、綱子川の対岸に渡って
黒い導水管に沿って続いている踏み跡を拾ってしまったのです。
川岸の台地上には水源分収林の白い看板があり、現地名は「字大平10368-イ外23筆」と
記されています。その看板脇の小沢を丸木橋で渡って続く踏み跡はどう見ても、
p486「マルヅカ」方向へとのびてしまっているので選択せず、水源分収林看板背後の植林斜面から
旧峠道の痕跡を求めて探索を開始したのです。


東海自然歩道に合流する


手製標識を取り付ける

しかし、いくら探してもハッキリした道の痕跡は見出せず、植林整備の作業道らしき踏み跡が
錯綜するばかりで、それを辿ってみても途中で消滅してしまうという有様です。
もうこうなればとりあえず道無き斜面を登り上げ、ひとまず大川原天神峠に辿り着いてから、
峠から逆に旧峠道を探ろうと予定を変更します。

植林斜面を汗して登ることしばらくして、「ああ、こんなところにあったのか!」と、
旧峠道と確信できる水平道にぶつかり安堵します。
「こんな高い場所にあったのか、それにしてもこんな立派な道の登り口を見落とすだろうか」と、
読図力や地形読みの甘さを思い知ります。
峠方向にしばらく進むと、舟山北面を巻く東海自然歩道の安定した道と接続し、
すぐに大川原天神峠に飛び出すことになるのです。


大川原天神峠

大川原天神峠はいつ訪れてもひっそりとしていて、
舗装された林道が越えてはいるものの、峠道を往来する交通は滅多にありません。
汚いスプレー落書きがあるところを見ると、夜は賑やかなことがあるのかもしれませんが、
こんな山奥に暴走族が出没するとも思えません。

この峠道も昔は、道志谷の大川原や青根方面から上野原へ向けて絹織物や繭が越えた峠で、
山峡の集落にとっては現金収入や生活必需品を運び入れるために必要な道だったのです。
峠は村の経済を支え、峠道は山峡の集落で暮らす人々の生命線であったのです。

大川原天神峠旧道から綱子集落へ


綱子へ向けて旧峠道を下る


手入れされている植林地内を進む

峠から綱子へ下る旧道は、p486(マルヅカ)を迂回する林道が出来て以来、通行が激減したに
違いありませんが、依然として明瞭な道が残されています。
旧峠道は手入れの行き届いた植林地内を緩やかに下降し、若干薄暗いものの、
通行を妨害する藪も無ければ、足を踏み外し大惨事を招く危険箇所などもありません。

こんな不安要素の無い道を地形図から消す必要がどこにあるのだろうかと、
国土地理院の仕事ぶりに懐疑的にすらなってしまいます。
植林整備作業の邪魔になるからハイカーは通るべからずということなのでしょうか?
地形図から道が消されるにはそれなりの理由があると思うのですが皆目見当がつきません。


大川原天神峠の旧道出口


二点の距離は40歩しか離れていなかった!

一体どこに降り着くのだろうかと不思議に思いながら足を進めると、
見えてきた下降地点に見覚えがあります。
そこはなんとヌタノハラの峠道入口から40歩と離れていない場所で、林道を歩いているときに
「あそこに踏み跡があるなぁ〜」と目に留まった場所でした。

昭和22年発行地形図の取り付き点はあきらかに現状とは異なり、
昭和47年発行地形図通りの場所に飛び出たことになります。
ヌタノハラの峠道とは舟山北面から流下する「マツノキザワ」という沢筋を挟んでいるだけになります。
こんな近接した場所に、二つの峠道の取り付き点は存在していたのです。


昭和4年測図昭和44年改測昭和47年発行 「青野原」25,000図 国土地理院

ヌタノハラ南面の採石場や綱子隧道が出現する前の昭和47年発行の旧版地形図には、
ヌタノハラの峠と大川原天神峠の綱子側の峠道が描かれています。
これらの道は地形図より消し去る必要性は無く、しっかり現存しているし、描かれた破線道は正確です。
なのになぜか現行版地形図からは抹殺されてしまっているのです。

歩く人が減ったり、利用価値が減衰した道は地形図から消される運命なのでしょうか?
地形図から消えた道は、人の記憶からも次第に消え、
後世に至っては道が存在していたということすら忘れられてしまうことでしょう。
峠が村の経済や人びとの暮らしを支えていたという過去までも忘却されはしないかと心配になります。
峠や古道はもっと顕彰されてしかるべきものでしょう。


綱子公民館


綱子隧道へ向かう登り口に石造物が安置されている

綱子川に沿った道を綱子の中心地に向けて進みます。
中心地といってもわずか数戸の集落ですが、なぜか訪れる度に仄々とした雰囲気を感じます。
実際にこの地で生活するとなると大変でしょうが、訪れる度に心がホッとするのです。
人間の暮らしには都会の便利さや華やかさばかりでなく、不便であろうと、地味であろうと、
心落ち着く静けさも必要なのでしょう。

綱子から峰山に登る「ナナンマガリ」の山道を確認しつつ、
路上に落ちた山栗を拾いながら車を乗り捨てた綱子隧道へ向かう道を登ります。
イガイガを足で押し広げ、取り出した栗の実をズボンのポケットに仕舞い込みます。
綱子隧道へ向かう登り口には赤い衣を着せられた二体の石仏が小舎に安置されています。
拾い集めた秋の味覚を、ひとつばかし御裾分けして静かな村を後にしました。

(峠行:2009.09.19)

【参考文献】

『かながわの峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年
『あしなか245号』 「山に祀られた天神 -奥相模の天神峠-」 杉崎満寿雄著
『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会編集 昭和54年
『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年
『中央線の山を歩く』 藤井寿夫著 新ハイキング社 平成10年

【備考】

田部重治著の『峠と高原』の中に「丹沢山脈縦走記」という紀行があります。
これは昭和6年4月に与瀬から道志谷の上野田に入り、蛭ヶ岳に登頂した時の紀行文ですが、
小舟集落から道志川に越す尾根道を歩いた際の描写がみられます。
具体的にどこの峠を越えたかは不明ですが、ヌタノハラの峠あるいは大川原天神峠ではないかと推測できます。
美しい山里の描写が心をひきつけます。

  「山里の桜や李は今を盛りと咲き乱れ、鶯は鳴き、道ばたの木瓜は赤く、岩躑躅はところどころに咲いていた。
  山の斜面の山吹は黄色に、炭焼きの煙はのどかに、水車は平和な音を立てていた。
  相模の山里は概して山里らしい感じを与える。それは信州に見られるような大きな山や大きな渓谷で
  出来ているのではなく、寧ろ余り高くない山や渓谷で細かく分かれているので、一層、山村らしいのどかな
  風情をもっている。しかし、それだけ山村から山村へと通うにも、径は細く峠は多く、いく度か道を問い、
  いく度か踏み歩いた道を戻るよう余儀なくさせられる。
  渓は細かいが故に、新しい渓に入る毎に春は新しく、麦は青く菜の花は黄色に、時には高原的な情調をもつ
  広場も見られる。こうして小舟村に着く前の高原的な気分や、小舟村から道志川に越す尾根の上を歩いた時分の
  気持は、この上もない春めいたものであった。」

「小舟村から道志川に越す尾根の上を歩いた」とは、きっと現在の綱子隧道真上辺りの尾根道をヌタノハラへと
歩いていたのでしょう。当時はもちろん採石場の雑音はなく、鶯の声が耳に届いていたことでしょう。

● 大川原天神峠・綱子天神峠・ヌタノハラの峠を初めて訪れた時のレポートを見る
● 前回、大川原天神峠・綱子天神峠・ヌタノハラの峠を訪れた時の
レポートを見る