カヤノキダナ沢の頭から鍋割山北稜

鍋割峠・雨山峠・オガラ沢乗越?・鉄砲沢乗越?

 

● まずは帰宅後の机上考察から ●

『分県登山ガイド神奈川県の山』(2005年版・山と渓谷社)の
「ユーシン渓谷A塔ノ岳・鍋割山」のページで鍋割山北稜コースを紹介している。
その中で玄倉渓谷と寄村とを結んでいた峠について以下の記述がなされている。
「昭和22年に玄倉からの林道ができるまで、険しい玄倉渓谷は玄倉村からの障害となり、
鍋割山を越えた寄村との関係が深かった。
鍋割峠、雨山峠、鉄砲沢乗越、オガラ沢乗越の4本の峠道がユーシン側の木材や山の幸を運ぶ
大切な道であった。」
この4本の峠道のうち、鍋割峠、雨山峠は現行の登山地図等に記載されその位置と経路は判るが、
鉄砲沢乗越、オガラ沢乗越とはどこのことを指し、どのような道筋であったかは、
昔の丹沢を知らない世代としては理解に苦しむところである。

今回の山あるき、峠あるきは鍋割峠と雨山峠を歩きつつ、
その不明瞭な二つの乗越について思い巡らすというものであった。
が、帰宅後も両乗越についてはいまもって不明解である。

『丹沢だより296』(1994.07.20・丹沢自然保護協会)の
「ユウシン地名考あれこれ(2)」(小木満 著)には次のような記述がある。
「寄村から玄倉川上流に通じる峠径は、鍋割峠と雨山峠の間にオガラ沢乗越と鉄砲沢乗越があって計4つ。
それぞれの峠径の先に製板所や休泊所があって、これらの峠径がひらかれた所以を物語っている。
つまりこれらの峠径は生産点と生活点を結ぶ径路であった。
雨山峠は諸士平休泊所への物資輸送路として拓かれた。
休泊所は以前はオガラ沢出合附近にあったものが水害を蒙って諸士平に移ったという。
そしてこれら4つの峠径は、すべて寄村から見て山向こうの沢の名をつけられて、それぞれの沢への
乗越しができることを示している。」
これによると、両乗越は雨山峠と鍋割峠とを結ぶ短い山稜(カヤノキダナ山稜)の間に位置していることになり、
それぞれ冠された沢(雨山沢、鍋割沢、オガラ沢、鉄砲沢)へ乗越し、玄倉渓谷側へと下降していることになる。

同資料には峠道、乗越道の様子についても次のように記されている。

「熊木は玄倉村に在りながら玄倉よりも隣村の寄村との交流が深く、
毎日薪炭を運ぶ定期便のキャラバンが通っていた。
その道すじは古くからの鍋割峠道ではなく、1105の数字のある隆起(今はカヤノ木ダナの頭と呼ぶ)の
西側を通るオガラ沢乗越径路であった。」

「オガラ沢乗越径路は地図には一度も載ったことがないが、・・・
荷駄が毎日楽々と越える程の良い道で雨山峠径路よりはずっと立派な越路であった。
昔の雨山峠は白ザレ附近がひどい難路であった。」

これによると、オガラ沢乗越は鍋割峠や雨山峠よりも頻繁に利用され、道の状態も良かったことが窺がえる。
「1105の数字のある隆起」とは現行地形図のp1108であり、
その西側をオガラ沢乗越径路が越えていたことを示唆している。
ただし頻繁に利用され、良い道であったはずのオガラ沢乗越径路は地図に載ったことは無いとしている。

『山と渓谷28号』(山と渓谷社)の「丹澤玄倉川と周囲の山々」(坂本光雄 著)にも次の記述がある。
「鍋割山から、北微東へ延びる枝尾根は鍋割沢へ終わり、西ヘ派する尾根は複雑で二岐せられ、
一は北微西へ降り鍋割峠から鍋割沢へ降る点線路を越えて、1100mの等高線の突起がオガラ沢頭、
更に尾根は二岐して、散れ散れになってしまう、
一は鍋割山から西へ村界尾根を降った窪地が、鍋割峠突起を一つ起して、
1100mの等高線の頭が鉄砲沢頭、次の突起が名無沢頭、西ヘ降った窪がヤドリギ沢の詰から、
オガラ沢沿いに箒杉沢に至る乗越し、此の径路は地図上に当然記入されべきもので、
旧図に有るものを不当に抹消されたのは甚だ遺憾である。
むしろ雨山峠を越す径より明瞭だ。
更に村界尾根を南へ屈曲して降った鞍部が、雨山峠970m、玄倉川の諸子平(諸士平)の部落では
物資の供給を松田町へ受けた為に此の峠を寄村へ越した。」
これによると、鍋割北稜の「←キケン/ユーシン→」と赤ペンキで書かれた小突起(後述レポ参照)が
「オガラ沢頭」であること、
鍋割峠から西の1100m(現行地形図p1108)が「鉄砲沢頭」であること、(カヤノキダナ沢の頭とも呼ばれる)
「名無沢頭」の西の鞍部に寄沢を詰めて、村界尾根を乗越す道筋があったこと、
その道筋は雨山峠道よりも明瞭で地図に当然記載されるべきほどの道であり、
オガラ沢沿いに箒杉沢出合へと続いていたこと等を知ることができる。

地図に載っていたものが消されたということは、
「オガラ沢乗越径路は地図には一度も載ったことがない」
という前資料『丹沢だより』の記述に照らし合わせると、
「名無沢頭」の西の鞍部に寄沢を詰めて村界尾根を乗越した道は「鉄砲沢乗越」ということになる。

「1105の数字のある隆起(今はカヤノ木ダナの頭と呼ぶ)の西側を通るオガラ沢乗越径路であった。」
との記述も前資料にあることから、それぞれの並び位置を各資料から類推すると、

雨山峠---鉄砲沢乗越---名無沢ノ頭---オガラ沢乗越---カヤノキダナ沢ノ頭(鉄砲沢ノ頭)---鍋割峠

ということになる。(しかし、これは後で同一経路説として否定する)

次に地形図の変遷を見てみることにする


明治21年測図同25年製版 二万分の一地形図
「塔嶽」 大日本帝国陸地測量部

この地図は関東大震災や大規模な集中豪雨被害前のものである。
鍋割峠の道筋は見られるが、それ以外の雨山峠、オガラ沢乗越、鉄砲沢乗越の道筋を見ることはできない。
記載されている鍋割峠道の寄側の経路は現状とは大きく異なり、
「寄コシバ沢」のはるか左岸の高みを通過している。
現在この道筋がどうなっているのか興味あるところだが、崩壊が激しい場所であり
「地獄ザリ」と呼ばれる大崩落斜面があるので容易に接近することはできないと思われる。

鍋割峠道の玄倉渓谷側の道は「(鍋割)コシバ沢」を下降するのではなく、
「コシバ沢」の左岸尾根を使用しオガラ沢出合へと下降する道筋となっている。
この「コシバ沢左岸尾根」は『分県登山ガイド神奈川県の山』で紹介されているコースと同じである。


昭和30年測図 1:25000地形図
「大山」 地理調査所

この地図では鍋割峠の他に雨山峠の道筋も記載されている。
しかし、やはりそれ以外のオガラ沢乗越、鉄砲沢乗越の道筋は記載されていない。
鍋割峠の寄側の道筋も現在のルートとほぼ同じであり、左岸の高みを通過していた道筋は消えている。
大規模な崩壊地(地獄崩)が発生したためと思われる。
鍋割峠道の玄倉渓谷側の道は、尾根筋を辿るコースではなく、
「(鍋割)コシバ沢」を下降し、鍋割沢出合(尊仏ノ土平)に達する道筋になっている。

これよりも古い地図に鍋割峠道があり雨山峠道の記載が無いという状況から察すると、
歴史的には鍋割峠道の発生の方が早いということだろうか?
「休泊所は以前はオガラ沢出合附近にあったものが水害を蒙って諸士平に移った」
ということに関係しているのかもしれない。(?)

『丹沢・山ものがたり』(とよた時 著・山と渓谷社)に
「玄倉の人たちは、塔ノ岳のお祭りには雨山峠を越え、鍋割峠から尊仏ノ土平に下り、
塔ノ岳の水場あたりから尊仏岩への道をお参りに登った」

とあるから、両峠とも古くから利用されていたに違いないとは思われる。


平成9年部分修正 1:25000地形図
「大山」 国土地理院

現行の地形図では鍋割峠道は寄側も玄倉渓谷側も抹消されている。
雨山峠道の現状は鍋割峠道同様荒れ果ててはいるものの現行地形図には残されている。
国土地理院の地形図への山道記載基準などあれば知りたいところでもある。
もちろん現行図にオガラ沢乗越径路、鉄砲沢乗越径路の記載などあるはずもない。

鍋割峠道の玄倉渓谷側の道、「(鍋割)コシバ沢」へ下降する道、「コシバ沢左岸尾根」を辿る道は
双方とも抹消されているが、なぜかオガラ沢に沿った下降路が記載されている。
この地形図に記載された破線道は『山と高原地図・丹沢』(昭文社)にも反映され表記されるに至っている。
ただし、版によって記載の有無がある。
(1979年版記載なし、1988年版記載なし、1993年版記載あり、1995年版記載あり、2006年版記載あり。
1999年版にはコシバ左岸尾根の道とオガラ沢下降路の両方記載あり。)

地形図を見ても、オガラ沢乗越、鉄砲沢乗越の位置と道筋に関する解答を得ることはできない。
やはり登山関係の文献資料に頼るほかないようだ。


「玄倉川及中川水源概念図」
踏査:秦野山岳会 作図:漆原俊


『丹沢だより296』(1994.07.20)
「ユウシン地名考あれこれ(2)」より転載
1922年(大正11年)第2回修正 1:50000地形図

上図左では名無沢頭の西で山稜を越える乗越を確認することができる。
これが鉄砲沢乗越であると推定される。

上図右は『丹沢だより』で紹介されていた鉄砲沢乗越径路を見ることの出来る地形図であり、
その道筋は「雨山峠のすぐ東側で稜線を越え、北側を水平にからんで鉄砲沢の上部を渡ってから
オガラ沢出合に下っている」と説明されている。
左図と同一の経路であることが確認できる。(右図に鍋割峠道の記載はない)

雨山峠へ向かう途中から分岐し山稜を越えるこの乗越道は
『松田町明細地図』(明細地図社)の「松田町区割図1:25000」や、
『日本山岳案内1丹沢山塊』(鉄道省山岳部・昭和15年)の「鍋割山山稜概念図」にも表記されている。

【注意】
左図の沢名と『山と高原地図』の沢名は異なっている。
『山と高原地図』では「名無沢」を「カヤノギダナ沢」とし、左図の「カヤノキダナ沢」を「鉄砲沢」としている。
しかし、これは『山と高原地図』側が誤っているようである。
(最新2006年版では鉄砲沢の名前しか記載されていないので結果としては誤っていない。
ちなみにオガラ沢はオカラ沢と記載されている。)

『奥野幸道丹沢資料コレクション』(丹沢自然保護協会)の「カヤノキダナ山稜周辺詳細図」でも
左図と同様な沢名配置となっており、「カヤノキダナ沢=鉄砲沢」が正しいと思われる。
(神奈川県環境部発行の県水利用状況図によるとカヤノキダナ沢はカトロ沢になっている。)

沢名の齟齬が反映されてか、1995年版の『山と高原地図』にはp1108の西側の小突起(名無沢ノ頭)に
「茅ノ木棚沢ノ頭」という地名が付与されるようになった。
本屋さんで立ち読みしたところ最新2006年版の『山と高原地図』でもこの状態は継続している。

このカヤノキダナ沢ノ頭の迷走については、『丹沢だより296』の中でも触れられていて、
「カヤノ木ダナの頭の名称は、丹沢大山自然公園管理事務所の手で1040の隆起に道標が建てられた
ことで、わけのわからぬ名称になった。」とある。
(1040は前出の明治21測図の地形図参照)

話は逸れてしまったが、鉄砲沢乗越については地形図に載っていた時期もあり、
雨山峠と名無沢ノ頭の間にあることが概ね判明した。
それではオガラ沢乗越とはどの場所を指し、どのような径路であったのだろうか?


『丹沢の山と渓』(昭和27年) 山と渓谷社


『丹沢の山と谷』(昭和37年) 山と渓谷社

雨山峠と鍋割峠との間の山稜を一般にはカヤノキダナ山稜と呼ぶが、昭和初期の資料を見ても
そこにはオガラ沢乗越らしき表記を見出すことはできなかった。

『丹沢山塊』(ハイキングペンクラブ・登山とスキー社・昭和17)の「雨山峠越え」の項で
「オガラ沢乗越」の言葉を拾えただけである。

「鉄砲沢ノ頭に喰込む枝沢に入って行ってから、本沢との間に半島の様に突出た山脚を乗越して
本沢の底に降りる。 寄沢の源谷、既に水も涸れた谷は凄惨目を掩う様な荒涼たる渓貌を呈するが、
夜径には大して気にもならず、右に
オガラ沢乗越の荒れた径を岐って峠へと急ぐ。
二、三の枝谷を岐つが踏み跡を拾って行くと、思ったより簡単に雨山峠の上に立つことができる。」

オガラ沢乗越への道も鉄砲沢乗越への道と同様に雨山峠へ向かう途中から分岐するかの記述である。
確かに上図に示したとおり、この短い山稜の間にいくつかの鞍部マークを見ることができるが
そのうちの一つが鉄砲沢乗越で、また一つがオガラ沢乗越ということなのだろうか?
どうもスッキリとしない。

オガラ沢乗越と鉄砲沢乗越は同一径路と考えるとスッキリするのだがいかがなものだろうか。
「寄村から玄倉川上流に通じる峠径は、鍋割峠と雨山峠の間にオガラ沢乗越と鉄砲沢乗越があって計4つ」
という文章の「間」という表現に縛られ、山稜上に並んでいると勝手に解釈してしまっていたが、
オガラ沢乗越と鉄砲沢乗越は同一径路上の、一連の乗越ではないかと考えるとスッキリするのである。

先に示した「玄倉川及中川水源概念図」(作図:漆原俊、踏査:秦野山岳会)に記載されている
名無沢頭の西側でカヤノキダナ山稜を越える部分が「鉄砲沢乗越」であり、
オガラ沢ノ頭の先でオガラ沢への下降点となる尾根越し部分を「オガラ沢乗越」だとすると、
一気に問題は解決し、スッキリとするのである。
(しかし、
オガラ沢乗越径路は地図には一度も載ったことがないとの記述には矛盾することになる。)

果たしてこの解釈でOKなのか、
昔の丹沢を知らない世代は、たかが「乗越」の一つや二つで悩み続け、
地名の疑問を乗り越えることができないのである。

ちなみに、『分県登山ガイド神奈川県の山』ではオガラ沢ノ頭と思われる写真に、
「オガラ沢コースと合流する分岐点のオガラ沢乗越」とのキャプションを付けている。
「乗越」というくらいだから分岐ピークよりも、オガラ沢への下降点を「乗越」としたいものだが、
権威ある「山と渓谷社」の記載を信じるべきなのだろうか?

● 実地の山あるき、峠あるき ●


寄本流から見上げる稜線部


鍋割峠道と雨山峠道の分岐

 お山の天気は上々、気分も上々。
数日前に「後沢-鍋割山-鍋割峠-寄」と歩いたばかりの見慣れた寄沢本流沿いの道を辿ります。
こんな河原のゴロ石の道や、鎖の設置されたザレた斜面の道を、昔は玄倉渓谷と寄村とを結ぶ
物資輸送のキャラバン隊が本当に通過していたのかという疑問も湧いてきます。
それとも今の道の様子は荒廃の成れの果てということなのでしょうか。

鍋割峠への分岐を見送り、植林地内へと続く雨山峠道に入ります。
数度のジグザグを経てp1108から南に伸びる尾根の末端に辿り着きます。
p1108は「カヤノキダナ沢ノ頭」(鉄砲沢ノ頭)と呼ばれ、今回はこのカヤノキダナ沢ノ頭の南尾根を
拾って山稜上に出ることを目指します。

現行の地形図に道は描かれていませんが、丹沢マイナー尾根マニアのM-Kさんが歩かれており、
そのレポには「あっけなく」との表現もあり、危険な場所やヤブがないことは承知済みであります。
また、一部の古い地図などには南尾根に道が描かれていることもあるので問題は無いことでしょう。


カヤノキダナ沢の頭南尾根取り付き点


ヒノキ植林地の中間、ブッシュ混じりの防火線?を登る

カヤノキダナ沢ノ頭南尾根取り付き点は、左上画像の注意看板が目印となります。
また、地形図と照らして地形上からもすぐそれと判ることでしょう。

南尾根に明確な人の踏み跡はありませんが、鹿が利用しているようで獣道を拾えば問題はありません。
植林と植林の間の切り開け道(防火線?)に潅木が生えた急登ですが、
ジグザグを適当に切って登れば息があがるほどの道ではありません。
といいつつ、テープのマーキングをしたり、写真を撮ったりと理由を見つけては立ち止まり息を整えていましたが。


尾根中段より望む雨山峠の凹


尾根中段より望む鉄砲沢乗越の凹(推定)

勾配が緩むと中間部の平坦地となり、雨山とオツボ沢ノ頭との鞍部である雨山峠の凹を望むことがてきます。
さらに視線を東に振ると鉄砲沢乗越の鞍部と思しき凹も確認することができます。
この南尾根を辿ることにしたのは、もしかしたら鉄砲沢乗越へと続く尾根を横切る古道でも
あるのではないかという淡い期待があったからでもあります。
しかし、それらしき道は見当たりませんでした。


上部はブッシュも消え中木林混じりの切り開け道


p1108カヤノキダナ沢の頭(鉄砲沢の頭)

平坦地が終わると再びの急登ですが、前半部の低木ブッシュとは異なり、
疎林の中木の中を進むようになります。
迷うようなところはなく、ただ一点、高みを目指すばかりの道であります。
これは何の修行なのかとボヤキが出る頃、ヒョイと山頂に飛び出すことになります。
山頂には白い杭と境界見出標が埋まっているだけで山名標識はありませんでした。
『山と高原地図』ではこのピークをカヤノキダナ沢ノ頭と認めていないので、標識を取り付ける人が
いないのかもしれません。

葉の落ちたブナの林は明るく、北側には玄倉川流域の山々を望むことができます。
この南尾根はM-Kさんのレポ通り「あっけない」ものでありましたが、
ガレ場恐怖症や団体登山で落石誘発の危険が想定できる場合、天候急変で沢の増水が見込まれる場合
などは崩壊の進む鍋割峠道を回避する道として有効だと思われます。


鍋割峠全景


鍋割峠全景

先が長いのですぐに東へ向けてカヤノキダナ山稜を進みます。
数日前に訪れた鍋割峠はやさしい陽だまりに包まれていました。
セクシー石仏も御変わりなく鎮座していますが、
中身の少ない軽いペットボトルの賽銭入れが風で飛ばされていたので石仏の傍らに戻してあげました。
賽銭が溜まったら赤い前掛けでも買うのだろうか?それとも峠道の道普請に使われるのだろうか?
溜まっている金額では工事に使う木製階段の一本も買えはしないだろう。


鍋割峠道ユーシン側


数メートル先で完全崩壊している

鍋割峠から未知の道である玄倉川側への峠道を進んでみます。
しかし、十メートル程進んであっけなく消滅。
それも斜面崩壊による完全消滅なので先へ進むことができません。
無理して先へ進むと(先は無いのですが)、落石の餌食になること間違いありません。
鍋割山頂と鍋割峠とを結ぶ登山道途中にある大崩壊地が峠道を完全に飲み込んでしまっていたのでした。


『丹沢アルパインガイド』(昭和37年)羽賀正太郎 山と渓谷社

昭和37年発行のガイドブックには「此の間一般ハイカー危険」とあるものの、
危険でも通れたことを示しているので、大崩壊はそれ以後のことだと思われます。
おそらく昭和47年に丹沢を襲った集中豪雨の残した傷跡が峠道を崩壊に至らしめたと推定されます。
(昭和46年発行のアルパインガイドにすでに「廃道で、すぐ先で崩れ落ちている」とあるので
豪雨被害を受ける以前より崩壊が進んでいたのかもしれません。)


峠から見る蛭ヶ岳

峠道の崩壊で鍋割山北稜へのショートカットができないので、
鍋割山に向けて崩壊地の縁を木製階段で登ります。 ひとしきり登ると北稜への踏み跡があり、
それを辿ると「ユーシンへの道 通行厳重注意」と書かれた立看板の背後からのびる道と合流します。


鍋割山北稜を下る


大プナのオンパレード

鍋割山北稜は見事なブナ林の道で冬枯れのこの時期に訪れたのはちょっと失敗だったかも知れません。
新緑か紅葉の時期に訪れるのが正解だと思われます。
加えてこの季節の乾燥した急傾斜の下降はザレて滑りやすくヒヤヒヤさせられる羽目に。

マーキングは豊富でそれを忠実に拾えば迷うことはないでしょう。
テープやビニールヒモの目印はオガラ沢出合に下降するまで続いているので問題はありません。


鍋割峠からの道が合流する鞍部
峠への道は完全崩壊、鍋割沢支流コシバ沢へは道跡あり


「←タニ、キケン ユーシン→」の赤ペイント
オガラ沢の頭 p1100

ひとしきり下降を終えると小さな十字路に到達します。
ここが鍋割峠から峠道が合流する地点ですが、先述の通り峠に至る道は大崩壊で消失しています。
(鍋割)コシバ沢へ下降する道は道形が残っていますがどこまで続いているかは不明であります。
このコシバ沢沿いの道へ踏み出すことも考えましたが北側斜面の沢沿いの道は厳冬期には凍結の
心配もあるのでやめることにしました。

『丹澤記』(吉田喜久治・岳書房・1983年)によると、
「熊木-鍋割口での山仕事がなくなったので、里人は殆んど通らない。
山登りがたまに越えるくらい。コシッパはどっち側も荒れ放題」 
とあります。
寄コシバ沢側の峠道の崩壊のような状況が鍋割コシバ沢側でも見られるのかもしれません。

小さな十字路からひと登りした小さなピークが「オガラ沢ノ頭」です。
立木に赤ペンキで「←タニ、キケン ユーシン→」と書かれています。
『分県登山ガイド・神奈川県の山』ではこの小ピークを「オガラ沢乗越」としていますが、
もう少し進み、稜線からオガラ沢への下降点がある場所が本来の「オガラ沢乗越」ではないかと思い、
「←タニ、キケン」の方向に従って進んではみたものの、
数メートル先のヤセ尾根直下のトラバースで行き詰まり(ビビリ)、あきらめることにしました。
マーキングはその先にも見えていましたが、本能がヤバイと感じたので引き返すことにし、
「ユーシン→」の指示に従い極めて安全な尾根道を伝い玄倉林道への下降を試みることにします。


尊仏ノ土平方面


p942手前で左手の涸れ沢へ下降

コシバ沢左岸の尾根は踏み跡もマーキングも明瞭で、ヤブや危険な箇所はありません。
途中、視界が開け「尊仏ノ土平」方面の平地を望むことができます。
自然林から植林地に変わり、p942の手前で左手に折れると涸れ沢に降り立つことになり、
金網式堰堤を越え、沢に沿って進むと玄倉林道へと導かれます。

箒杉沢から建設重機の音が響いていたので堰堤工事の車両が入っているようですが、
それでも人影のない林道歩きは淋しいものです。
落石を警戒しながら凍り付いた水溜りが随所に見られる林道をとぼとぼと歩き雨山峠の登り口へ向かいます。


熊木ダム横の素掘りトンネル


玄倉林道通行止の看板
「歩行者
自転車も通行止」とある

熊木ダム横の素掘りのトンネル内に垂れ下がった氷柱をへし折って、
ペロペロとナメながら単調な林道歩きは続きます。
一本終わると、また一本と林道脇の岩壁から垂れ下がった氷柱を口にしながら進みます。
熊木ダム下流域の水の流れのない広河原でも数台の建設重機が盛んに動き回っていました。

ユーシンロッジ分岐の先に「道路工事に伴う玄倉林道通行止」のお知らせが張り出されていましたが、
こういう重要連絡事項は寄側の鍋割峠口、雨山峠口などの登山口にも掲示する必要があると
思うのですがねぇ・・・・。たまたま通行止については知っていましたが、知らない人が寄側から入山して
玄倉バス停を目指す予定であった場合どうしろというのでしょうか?
なにしろ歩行者も通行止めとあるのですから・・・

ここで特筆すべきは警告板に「歩行者自転車も通行止」とある点です。
工事期間外なら自転車の通行は許されると解釈していいのでしょうか?
通常、玄倉林道は一般車両通行止とされゲートで固く封鎖されています。
この車両には自転車も含まれるものと思っていましたが工事をしていない時は自転車走行OKなのでしょうか?
だとすると、玄倉川流域の山々を訪れる際のアクセスが飛躍的に短縮できるのですが・・・。
(ユーシンロッジに宿泊する人の車の通行は許されると聞いていますから、
宿泊する人の自転車の通行のみが許されると解釈すべきなのでしょうか?)


雨山峠入口


桟道の連続する雨山沢沿いの道

クラシックルート雨山峠道に入ります。
現地案内板によると、玄倉側の入口の標高が700m、雨山峠の標高が950m、寄側の入口が480mとあります。
ここからは登高250mで峠に達することができます。

峠道は歩き始めからボロボロで数々の桟道によって補強整備されています。
終始、雨沢の右岸沿いに道が刻まれ、鉄製の桟道や木製の桟道、鎖やワイヤーによる補強尽くしです。
玄倉林道が出来る前、玄倉川支流の沢登りに訪れる西丹沢の開拓者たちは前夜渋沢駅に降り立ち、
三廻部から中山峠(センボノ台)を越えて寄集落に入り、夜中に寄沢を詰めて
雨山峠で朝を迎えたという人も多かったと聞きます。
玄倉川流域開拓の黎明期、多くの登山者を迎えた雨山峠は荒廃が進み瀕死の状態と言ってもいいでしょう。

「西丹沢の根拠地であるユーシンに入るには、神縄から玄倉経由で山神峠を越えるか、
渋沢から、“雨山三里”といわれた雨山峠越えの道を、たいていは夜道で、眠い目をこすりながら
歩くより仕方がなかったものだが、今では車を使えば脚を動かさなくてもユーシンまで入れる、
などと聞かされれば、やはり今昔の感はまぬがれがたいのである。」
 (『山頂への道』山口耀久著・平凡社より)

現在、眠い目をこすりながら月明かりを頼りに峠道を歩くとなれば命がいくつあっても足りないだろう。


雨山峠


雨山峠

雨山峠は小さな凹地形で、カヤノキダナ山稜と雨山・檜岳とを結ぶ尾根道がクロスしています。
古ぼけたテーブルと登山指導標が建つ狭く小さな峠ですが、玄倉側の展望は、暗い谷底のような峠道を
辿ってきた峠の旅人にとっては実際以上に開豁に感じられたことでしょう。


白ザレの崩壊進む峠道を下降する


白ザレの回廊 ここを左折すると鉄砲沢乗越か?

峠から寄へ向けての下降は白ザレの崩壊が進む道となります。
水の流れがないだけで沢の中を歩いているようなものです。

しばらく降ると切り立った白ザレの回廊といえる場所になります。
登山指示標識「稲郷→」に逆らって、左に折れて再びカヤノキダナ山稜へ向かう涸れ沢を辿るとなると、
あるいは鉄砲沢乗越に至るのではないかとも思えますが、それらしき可能性のある箇所は他にも数箇所あり、
判断をつけることができませんでした。

日が傾き始める中、単独の日蔭の沢歩きは心細いものがありますので、
深入りはせずに今回の山あるき、峠あるきは終わりを告げることになるのです。
あとは帰宅してから文献資料をあさって、解明できなかったオガラ沢乗越、鉄砲沢乗越について
机上で山あるき、峠あるきを続けることにします。

『丹澤記』(吉田喜久治著・岳書房・1983年)にオガラ沢打越(乗越ではなく打越と表現)について、
以下の記述があるので紹介して結びとします。

「オガラ沢打越は比較的新しいもので、1940年前後刊のガイドブックには紹介されていたし、
鍋割峠や雨山峠みちよりハッキリしていた。 オガラ沢、テッポー沢周辺に山仕事があったのだろう。
いま寄側は辛うじて道形はのこっているが、玄倉側は跡形をとどめないほど荒廃してしまった。
こうなっては峠あるきどころか、山なれない人にはよりつけないのではないか。
山登りで実際にあるいた人があるかどうか。 あってもごく少ないと思う。」

「オガラ沢打越は、昭和16年頃は寄の炭焼きが繁く通っていたのでみちが立っていた。
雨山峠みちよりよかったので、うっかりさそいこまれて主尾根まででてしまったことがある。
その後山仕事はなくなり、だれも通らなくなった。
もともと風化のはげしいとこ、ひと雨あるごとにこわれ、いまではほとんどみち形は消えているので
勝手を知らない者はあるけないだろう。
みちは鍋割峠とほぼ同方向に走っている。くわしく説明すると、オガラ沢に入り、右股をつめ、
テッポー沢界尾根を越え(980メートルのタワ。こういうところを中っ峠という。)
テッポー沢をよぎり、対岸下手のクボをつめ、名無沢界尾根を越し、ヒラをトラバース、
さらに主尾根をまたいで雨山峠みちに合流するのである。
名無沢源頭はゴッソリそげおちているので尾根のボサをわけるか、下手のガラ場をまわりこむか
しなければならない。昔(昭和15-16)はオガラ沢出合に道標があってガイドブックなどにも
紹介されたが、実際にあるいた者は(山登りでは)あるかどうか。
わびしい廃路のひとつ。」

「オガラ沢打越---おきすてられて顧みる者もいない。 雨裂と荒廃の山丹沢にふさわしいクドレのブッコシ」

どんなところだろうか? 帰宅してからさらに一層、興味が深まってしまった。

 

(峠行:2007.01.13)

ヤッター!年代もののピッケル発見かと思いきや…

カヤノキダナ沢ノ頭南尾根の取り付き点で
土に半分埋まっていたピッケルらしきものを発見!
「ヤマノウチ」のピッケルか、「カドタ」のピッケルか、
あるいは海外メーカーの一流舶来品かと期待が高まる。

ラッキー、ラッキー!
これは収獲だと掘り出してみるとツルハシでした、残念!!

崩壊の進む雨山峠道を修復するのに使われたものなのでしょうか?
そっと、木に立てかけてきました。

寄大橋10:00-鍋割峠12:00-北稜下降開始12:30-:林道13:30-雨山峠入口14:20-雨山峠15:00-寄大橋16:30

● 鉄砲沢乗越径路の掲載された地形図をもっとハッキリと見る