荻野越(用野越路)

〜 経ヶ岳と華厳山との鞍部に位置する荻野越(用野越路)をゆく 〜


大正10年測量 昭和29年修正測量 昭和29年資料修正
1:25000 「上溝」、「厚木」 地理調査所


1965年 「清川村全図」 製作:東京マップ

清川村煤ヶ谷法論堂地区と厚木市上荻野用野地区とを結ぶ「荻野越」(用野越路)を訪れました。

法論堂と愛川町半原を結んでいる「半原越」は有名ですが、
そのお隣りの「荻野越」(用野越路)はあまり知られてはいません。
知っていたとしても、そこを敢えて越えようとする人は今では極めて稀であります。

古い地形図や登山地図では経ヶ岳と華厳山との鞍部に名前こそ記されてはいませんが、
「荻野越」(用野越路)の径路を確認することができます。
現在この道はどうなっているのでしょうか?
知名度の高い「半原越」は舗装された法論堂林道が越えており昔の道筋を今にとどめてはいません。
「半原越」の旧道の様子も気になるところですが、今回はよりマイナーな「荻野越」(用野越路)を
歩いてみることにします。

「荻野越」(用野越路)を越える人は稀であると書きましたが、
ここを越えた貴重な記録を二点発見しましたので、これらを参考にして現地に赴きます。

【「荻野越」(用野越路)を紹介した貴重な記録】

@『新ハイキング 412号』(新ハイキング社・1990年2月号)
  「-巡礼と花嫁行列が越えた- 東丹沢・用野越路」(祖父川精治著)

A アイランドさんのホームページ『荻野高取山をゆく』
  「荻野越え」 (http://www.geocities.jp/island_az/sizen/humiato/oginogoe/oginokoe.html)


半原越

舗装林道が越える切通し状の半原越は、峠の情緒には若干欠けるかもしれません。
しかし、昭和初期の登山ガイド本に紹介された美しい一文を読むと、
昔は滋味ある峠であったことが窺えます。

「・・・その名も床しい半原越えの軽いハイキングコースについて語ろう。
これは家族向の稍々上級コースとして、まことに優秀なもので、そのしんみりとした
物静かな持味には捨て難い佳さが秘められている。
 半原越えはいい峠だ。 地図で想像すると、小さく切通しなどがあったりして、
味もそっけもないように考えられるが、事実は小さいながらまとまりのある芝地の峠で、
附近の植林や疎林の気分にも何処かほのぼのとした明るさがあり、
大きな期待をかけて行っては失望するかも知れないが、とにかく感じのいい場所である。
ハンノキが新芽を吹き、ヤマザクラが点々と咲く四月半ばも悪くはないし、
わけても物みな静謐の黄に色づく仲秋の頃の雰囲気にすぐれたものが見出される。」
           (『丹澤山塊』ハイキングペンクラブ・登山とスキー社・昭和17年 より)

現在、林道の谷側斜面に捨てられた不法投棄のゴミの山を見ると、
“静謐”というより“物騒”な気もします。
往時の峠の様子を思い浮かべるにはかなりの想像力が必要となることでしょう。

昔、養蚕を営む家が多かった煤ヶ谷の村々からは、この半原越を越えて、
糸の町として栄えた半原に向けて繭(まゆ)が運ばれました。
繭の運び出しに利用され、また幾多の行商人が越え、
村の経済を支えた由緒ある峠道が不法投棄に汚されるのは残念でなりません。


法論堂林道から荻野越古道の入口


踏み跡がある

さて、本題の荻野越(用野越路)ですが、法論堂側の峠道下部は林道によって、
用野側の峠道下部はゴルフ場によって破壊されていると推定し、
探索は鞍部周辺部だけに限ることにいたしました。 (本当は単なる手抜き調査ですが・・・)

原チャリで一気に林道を駆け上がり、経ヶ岳と華厳山との鞍部の撓みに近い
林道上のカーブから荻野越(用野越路)へと向かいます。
ここから荻野越(用野越路)までは以前に一度歩いたことがあるので何の問題もありません。
ガードレールの背後にはうっすらと踏み跡があり、それを辿るとすぐに植林地内へと
吸い込まれていきます。
薄暗く、やや湿り気味の植林地内はどことなく不気味ですが、防鹿柵の扉を二つ通過すると、
歩き始めてわずか数分で荻野越(用野越路)に立つことができます。


荻野越(用野越路)

荻野越(用野越路)は植林に囲まれた経ヶ岳と華厳山との鞍部です。
稜線に沿って防鹿柵が築かれ、それを越えるために脚立が設置されていますが
防鹿柵は穴だらけなので脚立は無用の長物になっています。
山仕事をする人や、あるいは鹿や猪が鉄条網を切断し、穴を開けるとも思えないので、
稜線を越え、この越路を通行する人間がいまでもいるということなのでしょうか?

鞍部には「荻野越(用野越路)」の名を表わした標識の類は設置されていません。
尾根道を通行するハイカーの中にはこの場所が法論堂と用野を結ぶかつての峠であったと
は気付かずに通り過ぎている人も多いことでしょう。

法論堂からの峠道下部は割愛してしまいましたが、
昔の登山ガイド本には荻野越(用野越路)に至るまでの道の様子が紹介されています。

「・・・分岐地点では左右から道に沿って、小さな沢が流下して来ていて、
右の道は、経ヶ岳と華厳山との鞍部に当たる、荻野越えの道であり、
左の沢沿いの道は半原越えの道である。
左へと半原越えに行く道と沢を見送って、右へと指導標の通りに沢沿いの道を入る。
高度はこの分岐からグングン高まるのであって、
道の両側の雑木林は静かな山道の気分を出させる。
沢を左右に搦み、やや暫くで左岸に渡ると、道はそのまま経ヶ岳南方の山腹を
ジグザグに刻み始めるのである。
やや暫くの登高を続けると雑木林は切れ切れになり、
間もなく茅戸の面を所々に持つ荻野越えに着く事が出来る。
 荻野越えは、中津川沿岸田代方面から、荻野部落を経由して、
煤ヶ谷の下原、別所の方面へ越す峠であって、両村の村人達はこの峠を越えて
関係を保っている。」
                (『日本山岳案内第一集』鉄道省山岳部・博文館・昭和15年 より)

これによると林道建設以前の峠道は、
沢に沿った雑木林内の静かな道であったことがわかります。
また、鞍部は今のように植林一色ではなく、茅戸面があったことが窺がえます。

『清川村地名抄』(清川村教育委員会・昭和57年)の中では
「用野越路(ヨオノコウジ)」という呼称で紹介され、
「この峠近くには、カヤ野や開拓地もあって必要な道であった」と説明が添えられています。
共有の茅刈場や焼畑、耕作地が峠近くにあり、そこへ通う道として峠道が利用されて
いたことがわかります。

尾根を通過する度に、防鹿柵の向こう側、つまり用野側へと続く
か細い踏み跡のことは気になっていました。
さて、用野側に峠道の痕跡は残っているのでしょうか?
昭和17年発行の『丹澤山塊』には「荻野越の径は殆んど草に埋まっている」とあり
当時から既に廃道の兆しがあったことが窺がえます。
先人のレポ(アイランドさんのHP「荻野越え」)からもトゲトゲ植物を含むヤブとの
格闘が待ち構えていることはわかっていますが、忘れられゆく峠の古道への想いが
防鹿柵を越え、用野側の植林斜面へと足を一歩また一歩と踏み入れさせるのでした。


ヤブの斜面を荻野へ向けて下降


防鹿柵の切れ目を通過する

植林地内にあった踏み跡程度の作業道(?)はすぐに消え、どちらへ進むべきかと
悩むこと数回、立ち止まり稜線へ引き返そうかと弱気も生じましたが、
いまさら滑り落ちてきたような斜面を這い上がる気にもなれず、左手に派生する
小さな尾根筋に乗って下降を続けます。
もはや道跡とはいえない中を山椒や野薔薇のトゲトゲ植物に苦戦しながら、
かつて峠道があったとは思えない斜面を転がります。

突然行く手を阻む防鹿柵が現れますが、若干左手に回避を計ると、鹿柵の切れ目があり、
そこから先は葉を落とした自然林の立木をこちらからあちらへ、あちらからさらにむこうへと
飛び移りながら体の落下速度を抑えつつ移動します。
時々、頼りにしていた太い枝などが予想外に脆くもポキリと折れてしまうのには
ヒヤヒヤしますが、だんだんと沢音が近付き急降下にも終わりがやってくるのでした。


源頭部の左俣は流れの涸れたやや急なガレ沢


源頭部の右俣は水の流れがある。

視界が開け、降り着いた場所は、右手にはやや急峻な流れの涸れたガレ沢、
左手は水量は少ないながらも水の流れのある河原。
丁度、二つの沢に挟まれた小尾根を下ってきたことになります。
冬場だからいいものの夏場であればきっとヤマヒルくんの歓待を受けたことでしょう。

ここから沢の流れに沿って下降を続けるか、それとも河岸上に道を求めるか、
どうしようかと辺りを見回すと、水流のある沢の対岸上の防鹿柵に切れ目があり、
ササヤブを掻き分けると植林地の中に作業道を見出すことが出来ました。
旧峠道なのか?とも思いつつ、これを拾って下降を続けることにします。


沢の対岸に防鹿柵の切れ目があり仕事道がある


左岸尾根の植林地内の仕事道を拾って下降する

荻野川源流部の左岸尾根に付けられた作業道(旧峠道?)を歩きます。
この道は何箇所か不明瞭な部分があったり、枝分かれしていたりするので、
山勘が物を言います。 道迷いの不安を楽しみながら下ります。
もがいて沢沿いに逃れようとしても防鹿柵が行く手を阻み、
沢沿いコースへの復帰を許してはくれません。
金網の向こうに行きたいと思っても容易にその願いは叶いはしないのです。
ふと、そんな時、鹿くんの気持ちが理解できたりもするのです。


よかった! 鹿柵を通過できる扉があった


沢沿いにもちゃんと踏み跡があるぞ・・・

この道はどこまで続くのかと思い始める頃、沢の流れに向かってジグザグと下降を始めます。
「やった!扉だ!」と安心するのも束の間、背後から何かが迫ってきます。
「ヤバイ!何かに追われている!」と、焦って扉を開け防鹿柵に囲まれたエリアから脱出します。

ホッとした数秒後、息せき切って一匹の白い猟犬が後に続いて扉の外へと飛び出してきました。
どうやらいつからか後を追跡されていたようです。
人間様の匂いと、獣の臭いとを間違えるとはケシカラン猟犬である。
追っていたのが人間だったと気付くと猟犬は「しまった・・・やってもうた・・・」という顔をして
鹿柵の扉も閉めずに沢に沿って下降していきました。

鹿柵の扉を閉めて周囲を見渡すと、上流から防鹿柵に沿って踏み跡が確認できます。
河岸上にわざわざ道を求めなくても、素直に沢に沿って下降を続けていれば
労力を無駄にすることはなかったのかもしれません。


沢を渡ると石積みがあり、
右岸尾根へ向かう仕事道がある(マーキングあり)


華厳山への一般コース(用野尾根)に合流する

沢を徒渉して対岸へ渡ると、古い石積みがあり、その背後の植林地斜面には尾根へと続く
明瞭な作業道があり、マーキングテープも確認できます。
これは華厳山からのびる用野尾根から派生している支尾根であり、これを登りつめて行けば
華厳山に達することができるとは容易に想像がつきます。
ここで荻野越の探索を切り上げて荻野川右岸尾根を登ろうか・・・
でも、用野集落まで行かなければ峠越えをしたという充足感を得ることはできないぞ
との思いもあり悩むところです。

しかし、そもそも法論堂側の峠道の下部も未見であるし、
さらに、この先はつまらないゴルフ場であることも承知しています。
そうであれば荻野越の探索はここで切り上げて、原チャリを停めた法論堂林道へ戻るために
荻野川右岸尾根の作業道を選択するのは自然な流れであるでしょう。
この判断を決定的にしたのは再度の猟犬の登場です。

先ほどの猟犬が、姿を消して行った下流から再びあらわれて、
なんと今度は銃を手にしたハンターを連れています。
ハンターの出現で探索気分も一気に冷めて、
逃げるように右岸尾根に付けられた作業道を駆け登ることにしたのです。
作業道は極めて良好で、幾度かのジグザグを繰り返し、あっという間に高度を上げていきます。
先ほどまでうろついていた左岸尾根の様子も手にとるように判ります。
このまま荻野越の直下まで続いていて、あるいは旧峠道との接続もあるのではとの
淡い期待もありましたが、ひとしきりの登高でやはり用野尾根に接続されました。


華厳山 (天丸)

用野尾根に出てからは、ひと登りで華厳山の頂きに立つことができました。
腰掛けるのに丁度よい丸太が数本転がり、春の訪れを前にしたやわらかい陽射しが
山頂を暖めています。

荻野越(用野越路)の全容は確認することはできませんでしたが、
経ヶ岳と華厳山とを結ぶ稜線の地形上の弱点である“撓み”を利用した交通が
数十年前には存在していたのだとの思いを馳せながらヤブに埋まった斜面を
探索するのはおもしろいことでありました。

高取山南尾根のように採石場によって山自体が跡形も無く消え去ってしまえば、
古き道を尋ねることなど二度とできませんが、
ヤブに埋もれ自然の姿に還っていく道であるならば、ちょっとした労苦を厭わなければ
いつでも尋ねることができるのだから。

風に乗って届く採石場からの削岩音を耳にしながら山頂を立ち去りました。


鞍部付近から用野側を見下ろす

『新ハイキング412号』の「東丹沢・用野越路」(祖父川精治著)には次のように記されています。

「用野の人達の話を幾つか紹介する。 用野越路のことをノボリョウ、またはオオダルミともいう。
法論堂から、お嫁にきたおばあちゃんは、用野越路を越えて嫁入りしたと懐かしそうに話す。
お里帰りには、むずかる子供達の手を引いて、最短距離のこの小さな峠をまた越えていった。
時間の要する平坦な遠回りの道よりも、上りくだりの苦しみは問題ではなかった。」

この今ではヤブに埋まる峠道をお嫁さんが越えていたという驚きの事実。
土地の人たちはその越路を愛着を込めてノボリョウ、またはオオダルミと呼んでいた。
なんとも心がキュンとなる話である。 【*1】

鞍部から用野を見下ろすとゴルフ場が第一番に目に飛び込んでくる。
そして背後には大きく広がる平野がある。
法論堂からのお嫁さんが峠に立った時代、ゴルフ場は無かっただろうけれど、
広大な平野を見渡す眺望は今とは変わりがなかったはず。
山峡の村、煤ヶ谷で育った娘さんは、嫁いでゆく平野側の土地に何を感じたことだろうか?
興味あるところである。

現在、ゴルフ場に用のない人はもちろん、用のある人も、この越路を越える人はいない。
無論、嫁いでゆくのに山を越える人なども皆無である。
車の時代は最短距離ではなく、平坦で安全な遠回りの道が利用される。
遠回りといっても、それは移動距離の問題であって、移動時間はかえって短縮されている。
いま越路を越えるのは時間の観念を失った気まぐれな峠マニアだけなのかもしれない。

【*1】 「オオダルミ」について

西山を守る会発行の『荻野西山登山マップ』によると、華厳山と高取山の間の尾根道に「大たるみ」の名称が見られます。
鞍部そのものを指すのではなく、付近一帯の総称なのかもしれません。
ちなみに華厳山から経ヶ岳へと続く尾根道は「市道 I-776」号線とのこと。「市道」であり「私道」ではありません。
市道とは市民のための市民共有の道であり、市長や市議会、市役所の専用道というわけではありません。

【補足】 雑誌『山179号』(昭和26年2月号)「仏果山・経ヶ岳・高取山縦走」(武州大五郎著)に荻野越に関する記述がありました。

「経ヶ岳と華厳山の鞍部で、かき消すごとき一條の踏跡が両側へ下っているが炭焼き以外余り利用されぬ廃道同様の侘びしい峠だ」