
平成12年に完成した尾名手川と鶴川の出合の大堰堤
何を勘違いしたかこの堰堤を右岸から越えようとした
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歩き始めの峠道は良い状態で残っている
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体調が悪いようです。 眠いし、体が重いし、車の運転にも疲れてしまいました。
初戸から鶴川沿いの細道を通り、腰掛集落と阿寺沢集落との間の路肩に車を停めます。
この細道(林道腰掛線)は隘路のため駐車スペースに気を使わなければなりません。ちょっと戻って、腰掛集落へ。
「腰掛」という名の通り、山裾に数軒の民家がまさに腰掛けています。
余所者のケハイに敏感な番犬に吠えられましたが、それ以外は沢の流れの音しかしない
静かな環境に包囲されたささやかな集落です。
「西原数え歌」には、「二つとせ 再び来(く)まい 腰掛へ 山の奥ざに住まいする 住まいする」
と歌われています。
まさに山峡の奥座というにふさわしい雰囲気ですが、
ここからさらに奥、人目につかない場所に腰掛集落に属していたという尾名手の集落があったのです。
足が重く、気分が乗らないせいもあるでしょうが、いきなり歩き始めでコースを誤り、
平成12年に完成した大堰堤を乗り越えようと尾名手川右岸に向かってしまいました。
とんだ勘違いです。
正しき道は鶴川の流れを白いパイプ欄干の橋で渡った後、
無住の民家の裏手へ回り込まなければならないのです。
図々しくも民家の玄関先を通って進むと大堰堤へと導かれ混乱する羽目になるのです。
民家裏手の急斜面に開かれた畑で農作業をしているお爺さんに気付かれまいと、
こっそりと、峠道へと足を進めます。 (別に気付かれてもいいのですが)
さすがにかつてこの奥に人家があったというだけあって道はよく踏まれており、
明瞭な道が植林地の中へと続いています。
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尾名手尾根への道を分ける
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立派な水平歩道も次第に怪しくなってくる
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これから向かう尾名手川奥地には明治以後、六世帯の家族が入植し、
炭焼きを生業とした暮らしが営まれていたといいます。
今は誰一人居住していませんが、かつて生活の為に歩かれた峠道(生活道)はしっかりと残されています。『甲斐の山旅・甲州百山』(小俣光雄・実業之日本社)の「権現山」の項には以下の記述があります。
「・・・明治以後炭焼きで六軒入植し、子供たちはそんな奥から小学校に山越えし、
葬式の柩は遠く中群山の墓まで担がれた。・・・」
尾名手川の奥に暮らしていた子供たちは尾名手尾根を越え、阿寺沢を経由して
郷原の学校へと通っていたのでしょうか? だとするとこれはスゴイ通学路です。
私などは、小学校も、中学校も歩いて5分、走れば2分という恵まれた環境で育ちました。
尾名手奥地の子供たちの通学風景とはいかなるものだったのでしょうか?
落石や滑落の危険にさらされて通学していたなど都会育ちの子供には想像できないことでしょう。
現代の都会で暮らす子供達の通学風景も、交通事故や児童誘拐の危険を考えると
決して安全で快適とはいえませんが、雨の日も、雪の日も山越えを強いられた尾名手奥地の
子供たちの通学は厳しいものだったに違いありません。
ひとしきり植林地内の登路で高度を一定程度まで稼ぐと、後はほぼ平坦な山腹道となります。
自然林に切り替わる箇所には、尾名手尾根へと向かうと思われる道が分岐しています。
ここからは葉を落とした明るい自然林の中をしばらくの間進むのですが、
今までの状態の良い道からは打って変わり、滑り落ち気味の斜面に残された危うい道となるのです。
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権現山の背中を見ながらほぼ水平な道が続く
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植林地内の道は良好
植林の手入れも行き届いている
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しかし、通行困難というほどでもなく、石積み炭焼き釜の跡を二つほど見ながら快調に進みます。
この尾名手川左岸の山腹道は地元では「日方道(ヒガタミチ)」と呼ばれ、日方の斜面にある道で
日当たりが良く、冬でも暖かいからそう呼ばれていたといいます。自然林が尽きると再び植林地へ。
植林地内の道は安全明瞭で、植栽された林の手入れも行き届いています。
この傾向は尾名手峠道全般についていえることで、
《自然林内=道は崩落気味,植林地内=道は安定明瞭》という図式が成り立ちます。
無住の地となった今でも植林の手入れを施しに訪れる人があるようです。
(これはかつての居住者とは無関係で、単に委託を受けた森林組合の仕事なのかもしれませんが)
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古い石積みが残る沢筋も通過する
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最初の住居の痕跡
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岩塊を打ち砕いた水平歩道や、古き石積みで補強された沢筋を越え、
再び歩みの捗る快適な植林地を進んで行くと、最初の住居の痕跡らしきものを目にします。
古い石積みとコンクリート製の貯水槽のようなもの。
かつて人の生活が此処に存在していたことの証しであります。この先で道が分岐しますが右手の道を選択、
尚も植林地を進むと、またもや出現する古い石積み群。
これらはまさに住居の土台部分であり、敷地には建物の部材だったと思しき
朽ちた柱などが転がっているのを見るのです。
周囲の植林に混じって棕櫚の木などが生えているのを見ると、うら寂しい気分にさせられます。
きっと昔は庭先の観賞木として植えられていたものなのでしょう。
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石垣上に残る朽ち果てた住居の残骸
棕櫚の木などが植林に混じって生えている
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古い石積みだけが残る住居跡
中央、大木の背後の自然林のジグザグを登る
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さらに歩みを進めると、今までの植林地内の住居跡とは異なり、
自然林の中に古い石積みを見ることになります。
その中央部にスクッと一本の大木が伸び、その幹には何やら文字の刻まれているのを見ます。
この大木の背後より自然林の中の踏み跡のジグザグが始まり、わずかばかり高度を上げて、
再び植林地に入ると、前方には待望の尾名手の廃屋を目にすることができるのです。腰掛から約1時間ほどで到着です。
もっと腰掛から近い場所をイメージしていましたが、実際はかなり奥地にまで入り込んでいます。
本当に、この辺りから山を越えて子供たちは通学していたのでしょうか?
子供の足ではさぞかしつらい道のりであったことでしょう。
また、この地から柩が担がれ中群山の墓場まで運ばれていたのでしょうか?
山腹に刻まれた危ういトラバース道を谷への滑落に注意しながら重い柩を担ぐのは
容易なことではなかったはずです。
確かに住居の土台と思われる石積みは多く目にしましたが、墓地や墓石を見ることはありませんでしたから
そのような葬送方式が執り行われていたのは事実なのでしょう。
それにしても厳しい生活環境です。
都会で暮らす人々が普段の生活からは想像できやしない厳しい生活が
此処にはかつて存在していたのです。
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唯一残存する廃屋
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廃屋の中に残された石臼と壊れた農機具
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そもそもなぜこんな山奥に居を構えることになったのでしょうか?
このような場所での生活では、いざというとき救急車も消防車も来てくれません。
すべてのことがそこで生活する者たちの協力でなされていたことでしょう。
生活物資ひとつ買いに行くのにも「ちょっとそこまでお買物」という訳にはいかず、
朝も早くから、足拵えをして、遠くの村まで自身の足を唯一の頼りとして買い求めに出掛けたことでしょう。
郵便配達夫もこの尾名手の奥地までやって来ていたかどうか疑問であります。廃屋の中を覗いて見ると、重くて持ち去ることのできなかったと思われる石臼がポツンと残されていました。
また、その傍らには壊れた農機具らしきものも放置されています。
なんともさびしくなる風景です。
この峠道に残された唯一のこの廃屋も、土台を見ると崩壊の危機を迎えています。
もってあと数年、大雪でも降ればそれも早まるかもしれません。
それにしても、ここの住民はどこへ去ってしまったのでしょうか?
木炭の需要が減り、炭焼きの時代が終わりをむかえた同時期に、
ここの住人もどこかへ転居していったのでしょうか?
田舎暮らしや、自給自足生活がブームとして取り扱われる昨今の風潮の中においても、
ここの廃屋を借りて住もうなどと考える人は居ないことでしょう。
住むにはあまりに不便過ぎます、そして寂し過ぎます。
植林に囲まれた一軒家では軟弱な現代人の花粉症一家はまず生存できやしないでしょう。
西原地区に伝わる「木挽歌」には次のような一節があります。
「木挽 山クワ 山にも住むが ヒノキ サワラの実は食わぬ
木挽ゃ 山中 一軒家に住めど 住めば 都の 風が吹く」
「住めば都の風が吹く・・・」、山中で生活していた者の逞しさ、力強さを感じずにはいられません。
きっと、実際は「都の風」ではなく、板壁の隙間から漏れる「山地の冷たい風」に震えていたに
違いないのですから。
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最終住居跡に散乱していた瀬戸物の欠片
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最後に目にした炭焼き釜
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廃屋からさらに先へと進みます。
途中、植林地内の分岐は右手を選択し、前方に竹林が見えてくれば最終の住居跡に到着です。
住居跡と書きましたが、古木に囲まれた雰囲気から察すると、
神社でもあったのではないかと思える場所です。石垣だけが残り、敷地部分にはやはり朽ち果てた柱の残骸らしきものだけが転がっています。
人里臭さが残る竹林の中には、コンクリート製の貯水槽のようなものもあります。
足もとにはかつての生活を想起させる茶碗の欠片などが散乱し、寂しさがいっそう募ります。
最終民家跡から右手の道を選択し、(直進しやすいので注意)
だんだん心細くなる道を進むと、最終の炭焼き釜です。
ここらの炭焼き釜で焼かれた炭はいったいどこへ運ばれていったのでしょうか?
尾名手峠を越えて瀬戸、猿橋方面へ?
それとも尾名手川、鶴川と下り上野原の街へと運ばれていったのでしょうか?
道は次第に怪しくなり、落ち葉の降り積もった滑りやすい斜面を微妙なバランスで遣りこなす
か細き一条の踏み跡に姿を変えていきます。
転んでもたいしたことはなかろうと調子に乗って歩いていると本当に転んでしまいました。
体が重く、頭もパッとしない中でも、命に関わる反射神経は衰えていないようで咄嗟に立木に掴まり、
大事には至りませんでしたが、落ち葉がクッションになるとの予想は見事に外れ、
落ち葉に隠されていた岩で右ひざをしこたま強打してしまいました。
幸い、骨は折れませんでしたが、気持が脆くも折れてしまいました。
転倒の衝撃でポケットに入れていたおやつのソフトサラダセンベイは粉々になってしまい残念ですが、
歩行続行が可能なだけでもラッキーだと思わなければなりません。
こんな山中で歩行不能になったら・・・と思うとぞっとします。
それだけこの道は谷間の奥深くまでのびているのです。
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この人工的な石積みの前で道は消える
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「大寺山」の山名標識
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不運は重なるもので、寒空からは俄か雪が降り出す始末、天気予報は晴れだったのに、
空はどんよりとし始めます。 こうなると、早く尾根に出たいとの気持は募るばかりです。
なんとなく体が重く体調もすぐれず、歩き始めから道にも迷い、その上、転倒に、天候の急変ですから
気持は萎える一方です。
体が弱ると、気持も弱るということでしょうか。そしてとうとう人工的に積まれたとみられる石積みの前で道は完全に姿を消し行き詰まりをみせるのです。
否、正確に言うと、赤テープのマーキングはさらなる進路を示していたのですが、
どうも正しいような気がしない、というより、早く尾根に逃げ出したいとの弱気に
心が完全に支配されてしまったのです。
ここで敵前逃亡です。
確信犯的に道を逸れ、主たる尾根に向けて登れそうな小尾根を這い登ることにします。
正規の道はこの小尾根じゃないぞと思いつつも、知らぬ振りを決め込んで体は這い登りを止めません。
これは峠道探索からの明らかな逸脱行為です。
登りついた主尾根は、なんと尾名手尾根!
逸脱するにしろ、せめて大寺山の南鞍部付近に出ると思っていたら、とんだ感覚違いで、
大寺山から東に伸びる尾名手尾根に飛び出してしまいました。
どうしたものかと、ひとまず数分の登りで大寺山の山頂へ達し、山頂で今後の予定を考え直します。
本来ならば、尾名手峠に出て、そこから西原峠へ向かい阿寺沢へと下降する予定でしたから、
計画は大幅に狂ってしまいました。
このまま大寺山から西原峠へ向かっては、尾名手峠の現状を知ることもなく、また峠を踏むこともなく、
敗北感に苛まれ続けることでしょう。
突然襲われた弱気に屈し、逃亡を図ってしまいましたが、ここはやはり尾名手峠へ向かい
今度は逆方向、つまり峠から下降しながら道を見失った地点まで戻ってくるというのが
筋というものでありましょう。
そうと決まれば、大寺山から一路南へ、麻生山へ向けて尾根を辿ります。
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尾名手の大ダルミ
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「郡内鋸岳北峰」の標識がある
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大寺山から南へ急下降した鞍部である大ダルミは、単なる地形上の撓みというだけではなく、
峠の一種“乗越”としてかつては道がつけられていたようです。『山岳15年第1号』「多摩川相模川の分水山脈」(武田久吉著・大正9年)には、
「大寺沢から西原の尾名手沢に通ずる明瞭な乗越路がある」と書かれています。
また、『山と渓谷110号』「鶴川水源の山々を探る」(田中新平・昭和23年)には、
「幽かな乗越しの径が東の腰掛から尾名手沢沿いに西へ七保村葛野川のオモレに通じている。
所謂、尾名手大ダルミが此処だ。東側に麦畑が望まれ、その傍らには一軒の民家があり、
西側には大寺沢がある。」と書かれています。
「尾名手大ダルミ」から望まれた「一軒の民家」とは、先の最終民家や廃屋のことなのでしょうか?
「麦畑が望まれ」とあることから炭焼きばかりではなく、焼畑などをしていたことも窺がえます。
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「権現山とその附近」(岩科小一郎著)挿入図より転載
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「権現山とその附近」(岩科小一郎著)には、
「鶴川の支流尾名手沢の沢添いに通う道が麻生山とミツモリの間を乗越す地点を尾名手峠、
同じ道が分岐して大寺山とミツモリ間の鞍部を越えるのを尾名手大ダルミと俚人は云って居る」として、
その道筋を明確に解説しています。
尾名手峠道の途中から分岐して「大ダルミ」を越える道筋がかつては確かに存在していたようです。大ダルミからイワウチワの繁茂する小さな岩峰のアップダウンを繰り返すと、
「郡内鋸岳北峰」の看板のある好展望地に到着します。
ここからの眺望は素晴らしいの一言です。
最近登った山の中ではここに優る眺望はないというくらいの優れものです。
大菩薩、小金沢、雁ガ腹摺、大峰、御坂、道志の山々、そして富士の姿、
大月市の選定した「秀麗富嶽十二景」からの眺望よりも上をゆく好展望を得ることができます。
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尾名手峠
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「郡内鋸岳北峰」を下れば本来、最初の目的地であったはずの尾名手峠。
なるほど明るい自然林の中の可愛い四辻で、誰からも好かれそうなタイプです。
大月市の設置した新しい登山標識は三方を示すだけで、腰掛側に向けては何も示されていません。
すでに廃道になって久しいのでしょうか?
新しい登山標識の傍らには、先代の木製標識が横倒しにされ、そこには「←腰掛部落へ」との
表示を見ることができるのですが・・・・。『山と渓谷110号』「鶴川水源の山々を探る」(田中新平・昭和23年)に、
「急激な麻生山を西北に下れば、其処は西原村腰掛から七保村瀬戸へ越える尾名手峠である。
南北に走るこの峠路は最近あまり利用されていないらしく、かすかな踏跡程度である」とあり、
昭和23年頃にはすでに踏み跡程度の道しかなかったことが窺がえます。
しかし、『霧の旅』「佐野峠から権現山」(松井幹雄・大正10年)の紀行文の
大寺山からミツモリを経て尾名手峠に至る描写には次の記述があります。
「馬でも通うりっぱな道がある。地図上の腰掛から瀬戸へ出る道だろう。(大寺沢の鞍部からこの尾根を
伝わらずに、尾根の下を回って、ここに出る道らしいのを認め、途中馬小屋のあるのを見た)」
ここでは馬の通えるほどの立派な道であるとの記述があります。
また、大ダルミから尾根上の岩峰のアップダウンを通過せずに、岩峰東側の直下沿いに尾名手峠へ
接続する道があり、馬小屋も見られたとの記述もあります。
当時は、大ダルミや尾名手峠を馬で越えての地域間交流があったのかもしれません。
尾名手の奥地で焼かれた炭が尾名手峠を越えたということも考えられないことではないようです。
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四辻を表わす古い道標は倒されていた
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「腰掛部落」を指し示す腕木
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ここまで来て、再び凍てついた岩峰群を登り返し、大寺山の急登をやっつけて西原峠へと
向かう気持ちは到底起こりません。
日暮れも近いことですし、観念して尾名手峠を下ります。苦闘が予想される峠道の下降ですが、下り始めの道の様子は極めて健全。
道形明瞭、視界良好、雰囲気上々、これは案外楽勝かもしれないと根拠の無い期待感に包まれ
安心感までが漂い始めます。
ところが、明瞭なジグザグ道を快調に下降すると、沢の源頭部で突然、予告もなしに道跡が
プツリと途絶えてしまうのには驚かされます。
結婚を誓い合ったのに、いざ婚姻届を出す段になって、婚約指輪をつき返された心境になるのです。
一体この俺が何をしたんだと叫んでみても何の反応もなく、ただ道は忽然と消失しているのです。
そんなバカなと、沢筋の脆い崩壊斜面をもがきトラバースしてみると、
再び道跡は出現するものの、長続きはせず、その後は極めて不明瞭。
別れた女性同様、再び明瞭な峠道は姿を現わすことはないのです。
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峠道の下り始めは実に明瞭!
楽勝かと思われた・・・
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涸れ沢源頭部の凹状の道を拾う
かすかな道跡らしき凹が頼り
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それでも目を凝らすと、涸れた沢筋に沿って凹とした道跡らしき残滓を認めることができます。
これを丹念に拾って進むしか、ほかに逃げ道はないようです。
日の陰る谷間は心細さを倍加し、足跡やゴミなどの人間の痕跡を感じさせない不気味さは
「道迷い遭難」の恐怖を想起させます。なぁに何とかなるさ、いざとなれば降りてきた道を戻れば済むことじゃないかと思ってはみるものの、
振り返ると、主稜線はすでにはるか上方。
また今の今、降りてきた道もどこをどう歩いてきたか曖昧模糊としている有様。
ちょっぴり不安がよぎります。
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苔のついたゴロ石の堆積する涸れ沢を下降する
逆方向だったら(登りに歩いていたら)迷いそうだ
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水の流れが現われ、前方にゴルジュが見えてくる所で
左手尾根に斜上する踏み跡を拾う(赤テープの目印あり)
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苔の付着したゴロ石帯を通過し、なおも沢筋を下降して行くと、
チョロチョロとした水の流れが姿を現し、前方にはゴルジュ風の谷が細まった地形が見えてきます。
無事に通過できるだろうかと心配し始めると、ゴルジュ手前の立木に赤テープが
帯状に巻かれているのを見ます。
久々の人間臭にホッとし、左手の小尾根を見るとゴルジュを避けるように斜上する明確な踏み跡。
これで一安心と、左手の小尾根の山腹を巻きにかかります。しかし、小尾根を巻き終えると、踏み跡は再び消滅。
次なる二つ目の小尾根も中腹を巻き越えるのか、
それとも一つ目の小尾根と二つ目の小尾根に挟まれた涸れ沢を下降するのか迷うところ。
悩んだ末に涸れ沢を下降したところ、二番目のゴルジュへと導かれ、
そこを覗くと滝となっていて万事休す。
やはり二つ目の小尾根も中腹を高巻くのであったかと、涸れ沢から斜面上方へ這い上がると
微かな踏み跡と赤テープのマーキング。
なるほど、この峠道踏破の鉄則は《沢筋にあらず山腹トラバースにあり》と心得る。
二つ目の小尾根を回り込む道は明瞭で、再び逃げられた彼女に再会した気分。
しかし、その喜びも長続きはせず、すぐに道は斜面の滑り落ちによって掻き消されている。
右手の幅広な快適自然林尾根に逃げ出したい気もするが、その下部は沢の出合いに落ち込み
どうなっているかはわからない。
ここは鉄則に従って、落ち葉の積もるグズグズの斜面をトラバース。
この選択が正しいことを示す赤テープの無言の励ましが嬉しい。
既存の赤テープを補強しながら前進すると見覚えのある風景。
そう、往路で道を見失った人工的に積まれた石積みの前に無事に接続された。
往路で道を見失ったときに見た赤テープの指示は正しかったのだ。
それを信じることもなく、弱気に襲われ尾名手尾根に逃げてしまったことが悔やまれる。
しかし、指示を信じて進んでいたとしても涸れ沢の苔石地帯で道に迷っていたようにも思える。
結果よければすべて良しということで、後は勝手知ったる廃屋街道を腰掛へと駆け下り
安堵感にどっぷり浸るのでした。
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二番目のゴルジュ地形、滝になっているので、
やはり左手尾根の山腹道で高巻き回避する構造だ
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滝を回避した所で再び明瞭な道となるが、
しばらく行くと道は斜面と同化して姿を消す
赤テープを信じて進めば、登りの際に道を見失った
人工的石積みの前に接続となる
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「廃屋」、「廃道」、「廃峠」、一番最初に廃れていったものは何でしょうか?
家屋でしょうか、道でしょうか、峠なのでしょうか?人が住まなくなったから道は荒れ、峠の交通も減ったのでしょうか?
それとも道が荒廃し、生活に不便をきたすから人が転出してしまったのでしょうか?
峠を挟んだ交流が減ったがために峠道は死に体と化したのでしょうか?
あるいは全部同時に、あるいは相互に関連性などなくそれぞれが突発的に?
その真相は知り得ません。
でも、もしかしたら一番最初に廃れたものは人心だったのかもしれません。
厳しい環境の中で生き抜いていく力、生命線だった道への関心、外界との窓口であった峠への愛着、
そんなものが時の流れとともに薄れ、廃れていった結果、家も道も峠も荒廃していったのかもしれません。
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