★ 大茅尾根を歩く

大羽根峠・・・殿平・・・コハチノ頭(大羽根山)・・・大茅・・・大沢山・・・クメケタワ・・・牧(槙)寄山・・・西原峠(数馬峠・郡内峠)


古い地形図には「大羽根峠」の名前がある

飯尾と長作をつなぐ県道が開通する以前、両集落をつないでいたのは大羽根峠越えの道でした。【*1】
古い版の地形図には「大羽根峠」の名前を見ることができますが、
現行版の地形図では峠名が抹消されています。 
小菅村と上野原市を結ぶ途上に位置する歴史ある峠なのに扱いがぞんざいに思えてなりません。
地形図の「猪丸」図幅と「七保」図幅のほぼ境目という目立たぬ立地が禍したのでしょうか。

今回は、その大羽根峠に飯尾側から上り、デンデエロに立ち寄った後、
「大茅尾根」と呼ばれている大沢山から西南に派生する尾根を辿ります。
大沢山を踏み一般登山道である笹尾根に乗った後は、西原峠から原へと下る峠道を選択しました。

大ガヤ尾根は、大沢ノ頭から分岐して西南に走り、独標1236米の大茅となる。
飯尾部落から喰込む飯尾川の源頭に臨みつつ、1040米圏で真南に出すのがヨゴク尾根だ。
山稜は「丹波」図幅に移ってコハチノ頭という954米の三角点を擡げ、南に降って大羽根峠となる。
つい最近まで鶴川沿いに往還が出来るまでは、長作と飯尾の交通はこの峠で結ばれていたのだ。
峠の南に960米のぽっこりした小山をデンデーロという。

                             −『復刻版・奥多摩』 宮内敏雄著 百水社 より−

大澤山から鶴川谷に派出した支脈は、△954mの大羽根三角点を経て、
飯尾部落から小菅村長作へ通ずる大羽根峠の鞍部を見せ、次いで殿平の一丘を起して鶴川に終わる。
近頃この殿平の裾を巻く川沿ひのムナムキ新道と云ふのが出来て、旅人は大羽根峠を越す必要はなくなった。

              −『山小屋』創刊号 「三頭山より三國山まで-甲・武國境山脈-」 岩科小一郎著 より−


飯尾バス停の先に大羽根峠を示す標識が立つ


畑の中を行く峠道から本日歩く尾根を望む

原集落の一の宮神社にお昼の30分前に到着、車を鳥居の前に乗り捨て、
p878デンデエロのふくよかな丸みを正面に見据え、飯尾へ向けて鶴川沿いのバス道を急ぎ足で歩きます。
飯尾集落の古い民家の佇まいと軒先に干されたカラフルな洗濯物にギャップを覚えつつも、
道端の日溜りで世間話をしている老人の傍らを怪しまれぬように通り過ぎ大羽根峠の登り口を迎えます。
これより冬うららの半日を峠歩きと静かな尾根歩きに捧げます。

鶴川に沿ってデンデエロを迂回するようにつけられているアスファルトの県道と別れ、
「大羽根峠方面⇒」の標識に従ってコンクリート道を進みます。
最終民家を過ぎれば土道となり、小さな木の橋を二つ渡れば畑の中を行く峠道となります。
峠道というより、斜面に開かれた畑へ通うための野良道といった感じですが、
これが昔は上野原と小菅を結ぶ幹線道だったのです。
たいした登りではないのですが、出だしのペースが乱れたために、呼吸も多少乱れます。
どんな道でもゆっくり歩みを進めれば息が切れることはないのですが、歩行開始時間が遅かったため、
里道で遅れを取り戻そうと、無理にペースをあげてしまったのがいけなかったようです。
しかし、それでも峠までの距離は短く、背後に鶴川の谷を望むと、植林地内の小さな峠に辿り着きます。


大羽根峠

笹尾根上のハイカーで賑わうメジャーな峠とは異なり、
訪れる人の少ない大羽根峠はひっそりとした中にあります。
植林が光を遮り、薄暗く、そして肌寒いのですが、陰々たるというほどの雰囲気ではありません。
しかし、夕暮れ時にこの峠道をひとり歩くとなると、なにか物の怪でも現われそうな気もします。
それは牛飼側にある「首斬り沢」というおどろおどろしい地名の印象から受ける
不気味さのせいなのかもしれません。

峠には二本の大きなブナの木があり、闖入者に睨みを効かせるかのように聳立しています。
大羽根峠は二度目の訪問なのですが、
「こんな大木あったかなぁ?」と、人の記憶の曖昧さ、いい加減さを実感させられます。
植林されたスマートな木々と比べ、一際、幹が太く、背の高い風格あるブナの大木の根元に、
湯呑みや酒瓶などが散乱しているところを見ると、里人から霊木として崇められているのかもしれません。


「大羽根峠」の標識を取り付けた


謎の石文と頭の欠損した石仏

峠には公的な標識はなく、立ち木に巻かれた赤テープにその名がマジックで記されているだけです。
そこで、ゴミになるとは思いつつも、お粗末な手製の峠名標識を取り付け、
ひそかに地形図への峠名記載復帰を願ったりするのです。

足もとには落ち葉に埋もれた石文と頭部の欠損した小さな石仏があります。
石文には「天保八酉年 帰元 木道一行禅者 正月廿五日」と刻まれています。
西原の地名を詳しく調べあげた『西原の山・川・地名・旧跡』(西原中学校編)によると、
この場所は「モクジキハクドウの連れの人が亡くなった場所」とのことで、それにまつわる石造物のようです。

ちなみに、この石造物の謎に迫った優れた考察が、
『あしなか243号』(山村民俗の会編)の「大羽根峠・石ぶみの怪」(岡倉捷郎著)にあります。
当事の世相と“長作観音セイノカミ事件”、“首斬り沢”の伝承などを結びつけて興味深い推察をしています。
峠に漂う独特な雰囲気を感じとり興味を持たれた方は是非一読をお薦めします。


峠には二本の大ブナが聳える


ツタンカーメンの石の柩?

東へ大茅尾根を辿る前に、峠から西方の踏み跡を拾ってp878のデンデエロ(殿平)に寄り道します。
峠のすぐ脇の小広い台地には、ピラミッド内部に置かれている石の柩のようなものがあります。
防火用水の貯水槽でしょうか?かつてこの付近にあったという人の生活のニオイを感じます。

『西原の山・川・地名・旧跡』によると、昔はデンデエロの頂上に御邸(オヤシキ)や烽火(ノロシ)台があり、
実際に人が住んでいて、烽火を上げていたといいます。
こんなさびしい場所に本当に人の暮らしがあったのでしょうか?
そして何のために烽火を上げていたのでしょうか?武田軍の密偵屋敷だったのでしょうか?
牛飼側にある地名の「首斬り沢」は、罪人の首を斬る処刑場であったとの言い伝えもあるようですから、
役人が駐在する番所のような建物があったのかもしれません。


p878 殿平(デンデエロ)山頂

峠からヤブを漕ぐこともなく、ひと登りでデンデエロの頂上に達することができます。
昭和30年頃までは一帯が畑だったようですが、大方植林に囲まれ、視界の閉ざされた山頂になっています。
山頂の片隅にはNHKの中継アンテナ施設があり少々興醒めしますが、
登山者の訪れている様子は窺がえず、見向きもされない寂峰に独り立つ心細さに妙な快感を覚えます。
頂上から南へ、地形図に記されている峠道を経由しないで直接、飯尾へ下る踏み跡も確認できます。

デンデエロといえば、「丹波天平・保之瀬天平」と、初狩の「殿平」が有名です。
この西原の「殿平」と合わせて、これからは勝手に「三大デンデエロ」と呼びたいと思います。
しかし、デンデエロという割には、広さを感じない山頂です。
確かに平坦な部分は所々にあるのですが、丹波天平のバカ広さに比べたら名前負けの感も否めません。
ここの地形を見る限り、デンデエロの「デン」は「殿」という字よりも、「段」という字の方が
しっくりするような気もしますが、ここに住んでいたという人がエライさんだったならば、
「殿」もありなのかもしれないと思ったりもします。


尾根の取り付きに聳える栂の大木


スズタケの繁茂する斜面から殿平を振り返る

デンデエロから大羽根峠に戻り、大茅尾根の登攀を開始します。
峠に聳えるブナの大木の背後から実に良い道がのびていますが、
直ぐにその明瞭な仕事道とは分れて尾根筋を直上する踏み跡を辿ることになります。
尾根の取り付き点には、立派な栂の大木があり圧倒されますが、これから辿る尾根に期待を持たせる
好演出とも思えます。

しかし、序盤は、「大茅」尾根ではなく「大笹」尾根ではないかと思わせるスズタケの繁茂する中を進みます。
踏み跡はいたって明瞭なのですが、急な斜面に降り積もった落ち葉が歩行労力の支払いを倍加させ、
二、三歩進んで一歩ずり下がるという徒労を強いられます。
それでも丹沢山中と違って、スズタケの通過に際してもダニの取り付きが皆無であるというのは、
精神的には非常に楽なことであります。
額に滲む心地好い汗に振り返れば、先ほど山頂を踏んだばかりのデンデエロが
疎林の向こうにシルエットを浮かび上がらせ、尾根歩行の清々しさを感じさせてくれるのです。


伐採地から望む奈良倉山と鶴峠のヘコミ

落ち葉のラッセルはくたびれますが、自然林と植林の間につけられた踏み跡をひとしきり登れば、
大伐採地の一角へと飛び出し、スズタケともここでオサラバです。
大伐採地からの展望は、これがためだけにこの尾根を訪れてもよいと思わせるほど開豁で見事なのです。
佐野峠、奈良倉山、長作観音堂、そして鶴峠のヘコミなどを一望におさめることができます。


伐採地から望む三頭山、神楽入ノ峰、小焼山

東方に目を転じれば、三頭山、神楽入ノ峰、小焼山の連なりと、
そこから派出する長作尾根、牛飼尾根、神楽入尾根などを手にとるように望むことができます。
眺望に没頭する一方で、まだまだ先は遠く、長居はしてられないと少々焦りも芽生えます。
カバンからコロッケパンを取り出し、食べ歩きをしながらp954三角点の埋設を見つけます。


片面は「コハチノ頭」


片面は「大羽根山」

さて、この三角点p954ですが、『奥多摩』や『甲斐の山山』では「コハチノ頭」とありますが、
『静かなる尾根歩き』では「大羽根山」とあり、標識の取り付けに際してはちょっと迷うところです。
まぁ、どちらも正しいようなので、リバーシブル標識にすればどちらかが違っていても対応できることでしょう。

大羽根山という山名は、檜原村の数馬にも同じ笹尾根から派生したp992の同名の山があります。
二つの大羽根山は兄弟なのか、夫婦なのか、それとも赤の他人なのか知りませんが、
どうも数馬側の大羽根山の待遇は良いようで、地形図にも「山と高原地図」にも名前が記されています。
また、数馬側の大羽根山には山頂標識やベンチが設置されていて訪れる人も多いと聞きます。
それに比べて甲州側の大羽根山はなんと冷遇されているのでしょうか!
三角点の有無と処遇は一切関係はないようです。

笹尾根を背骨と見た場合、両大羽根山の位置する支脈は翼のように見えないこともありませんが(強引か)、
そもそも「羽根」とはどういう意味なのでしょうか?(発音はオオバネと濁るようです)
『奥多摩』には、「・・・川の辺などの少しの緩傾斜地を、ハバと云ふのから分化した語ではないかと思ふ」と
書かれていますし、『地名の研究』には「羽根」とは「高地のふもとを意味する地名」とあり、
「根」は嶺(峰)と同じく山をいう場合と、山の根方すなわち山のふもとをさす場合とがあるとも書かれています。
個人的には、「根」はきっと尾根の「根」で、「ハ」は「端」で、「はし」を意味すると思うのですがどうでしょう?【*2】
「端山」という言葉があるのだから、「端根(羽根)」もアリだと思うのですがね。


地形図の飯尾からの破線道が合流する地点


落葉樹林に囲まれるp1237大茅

三角点から先、葉の落ちた明るい自然林帯をしばし進み、そして再びの植林内を快調に進めば、
地形図に記載のある飯尾からp820を経由して尾根に登ってくる破線道と合流します。
分岐点にはヒモやテープの目印がつけられていますが、さほど多くの人の通行があるようには思えません。

飯尾から登ってくるこの地形図の破線道はp1237大茅を前にして、地形図からは消えますが、
踏み跡はその後も続くので何の心配もいりません。
合流後も植林内を登る道が続きますが、松などが入り混じっているため暗い雰囲気ではありません。
地形図の破線道が終了する辺りからは、自然林一色となり、
心地好い落葉樹林内のプロムナードが大茅まで続きます。
辿り着いた大茅は明るさと暖かさに包まれ、大茅尾根における白眉といえるでしょう。


「←飯尾・原」と書かれた大茅南尾根入口の目印


大茅から望む大沢山はまだまだ大きい

山頂には消えかけた文字で、「←飯尾・原」と読み取れる大茅南尾根を指し示す目印がありました。
飯尾や原の人たちは、昔はこの辺りまで茅を刈に来ていたのでしょうか?
現行版地形図の大茅南尾根上に道は描かれていませんが、古い時代の地形図には
大茅と原とを結ぶ破線道が記載されています。(明治40年測図昭和4年要部修正測図「五日市」五万図)

いつまでもこの気持ちの良い小ピークで休んでいたいものですが、
西原峠までの行程はまだ長く、そのわりに冬の日は短く、出発しないわけにはいきません。
しかし、大茅から眺める次なる目的地の大沢山は一際高く、登行意欲を挫くには十分過ぎる高度差があります。


大沢山への登りは岩混じりの潅木急斜面


麓から見る大沢山は威風堂々としているが
山頂は威厳に欠ける

地形図の等高線の詰まり具合を見ても分かるように、大沢山への登りは結構なアルバイトです。
それに加えて、大沢の谷筋から冷たい風が吹き上がり鼻水が出てくる始末です。
岩混じりの急登は手足を使った全身運動で、立ち木に掴まり上体を持ち上げないと、
すぐに滑り易い落ち葉に足を掬われてしまいます。
全身運動のおかげで体は温まり、汗なのか鼻水なのか、もう判らなくなってきます。

急登の連続で踏み跡は薄くなりますが、高みを目指せばいい訳で、進路に戸惑うことはありません。
また、汚らしいながらも立ち木には黄色のペンキ目印が点々と付けられているので、
それを拾いながら進めば迷うことはありません。
ただし、下降路としてこの尾根道を使う際には道を見誤ることもありそうなので注意が必要です。

不幸が永遠に続くことがないのと同じように、終わりのない登りはないわけで、
ひとしきり急登に耐え抜くとやさしい光に包まれた大沢山の山頂に立つことができます。


なぜか登山標識に「大沢峠」とある


丹沢でよく見かける熊野修験の札が奉納されている

麓から眺める大沢山の偉容に比べ、その頂きは威厳に欠けているようで、
設置された休憩ベンチや俯瞰案内図などが登山者に媚を売っているかに思えてきます。

大沢山に立つ立派な道標には、なぜか「大沢山」ではなく、「大沢峠」の標示があり、
峠マニアとしては一瞬得した気分にもなりますが、はたして本当にこんな呼び名があるのだろうかと、
すぐに疑念が沸き起こります。
これは「都民の森」の管理者による標識設置業者に対する発注ミスなのでしょうか?
それとも、単なる標識製作業者の製作ミスなのでしょうか?
この「大沢峠」の「峠」は、「ドッケ系」を意味するものなのかもと考えてみましたが、
文献資料でそのようなことを裏付ける記述を見たことはありません。

不可思議な道標の根元には、近頃、丹沢山中でよく見かける熊野修験者の御札が奉納されており、
その行動範囲の広さに驚かされます。


三頭大滝分岐(ここがハチザス沢ノ頭か?)


マイナー地名の標識が嬉しい

大沢山から西原峠へ向けて笹尾根を南下しますが、道は今までと比べ格段と良くなります。
さすがハイカーに人気の笹尾根だけあって、しっかりと踏み固められた山道となります。
都民の森の領分である三頭大滝分岐が、『奥多摩』に名のある「ハチザス沢ノ頭」なのでしょうか?
(「蜂巣沢ノ頭」と表記してある文献資料もある)ハチザス沢ノ頭は「金山(カナヤマ)」とも呼ばれていたようで、
この付近では昔、金を求めて採掘が行われていたようです。

ひとしきり下った尾根のタワミには、東京都山岳連盟が設置した「クメケタワ」の標識があります。
「クメケタワ」の名は『奥多摩』の中にも記されていますが、このようなマイナーな地名を標示してくれるのは、
大変ありがたいことだと思います。(別に、設置者の名前は要らないと思いますが・・・)
「クメケ」の意味を考えたところで判るはずもないのに、しばらくは「クメケ、クメケ、クメケ・・・」と
呪文のように唱えながら笹尾根南下を続けます。


p1188 槙(牧)寄山 (センゲンダイラ)


鶴川の谷を挟んだ山向こうに日が沈もうとしている

西原峠手前の小ピークが槙寄(牧寄)山で、丸太のベンチの置かれた好展望地になっています。
宮内本『奥多摩』には、「牧寄山は槙寄山なぞとも書くが、無論宛字だ。いや牧寄そのものが山名でなく
附近一帯の字(あざ)なのだ」とあり、甲州側では「千間平」というと書かれています。
岩科資料にも「千軒平という方が、甲州側では通りがよい」とあり、
「千軒は浅間から来たもので、富士を祀った意に外ならない」と記されています。

「センゲン」は、「千間」、「千軒」、「浅間」といろいろ表記されますが、
「千間」だとすれば、現地周辺には確かに広いスペースがありますし、
「千軒」だとすれば、金鉱を目当てに訪れた山師達の住居で賑わっていたとも考えられますし、
「浅間」だとすれば、富士を遠望できる立地に素直に頷くこともできます。

山頂はやわらかな西日に包まれ、恍惚とした気持になりかけますが、
鶴川の谷を挟んだ山向こうに日が沈んでしまうまでそう時間はかかりません。
気を引き締めて急ぎ足で山を降りることにします。


西原峠 (数馬峠・郡内峠)

槙寄(牧寄)山から南下した目と鼻の先に西原峠は位置しています。
昔は塩や米がこの峠を越えて檜原側へ運ばれたともいいますが、
現在では交易のために峠を越える人はいないことでしょう。 【*3】
笹尾根ハイキングのスタート地点として、また終了点として、ハイカーに踏まれることが多い峠道です。

 「此の西原峠は数馬の人に忘れ得ぬ峠である。そのむかし数馬は鶴川の人が山越えをして拓き、
 その後川下へ、人里、川乗、柏木野と拓いた云う口碑があるが、数馬には西原村との縁戚関係が多い。
 此の峠は数馬にとって、嫁取り峠でもある。」

                    −『山と渓谷89号奥多摩特集』 「秋川をめぐる峠」 宮崎茂夫著 より−

交易が廃れれば、しぜんと人の交流も廃れてゆくことでしょう。
峠を越えたお嫁さんたちは里帰りするのに今でも峠を越えているのでしょうか?
それとも、もうそのような人たちは残っていないのでしょうか?

峠には、檜原温泉センター「数馬の湯」のチラシが置かれ、
また一方で、西原にある温泉民宿「三頭山荘」の看板が建てられています。
観光客をどちらの里へ引き寄せるか、峠では両集落による静かなバトルが繰り広げられているようです。


「ツネの泣き峠」の案内板


明確な凹道が残る一級の峠道

日暮れとの競争に負けぬように、原集落へ向けて峠道を下ります。
かつての主要幹線道だけあって、道形は明瞭幅広で安定しています。
凹部に降り積もった落ち葉がフカフカで良いクッションになり快適に下降することができます。
登りだったら落ち葉のラッセルに苦しめられることでしょうが、下りでは蹴散らし蹴散らし邁進します。

葉の落ちた樹林からは本日歩いた大茅尾根や笹尾根が望まれ飽きることはありません。
足もとの鶴川の谷には郷原、原の集落が沈み、
こんなに深い谷だったかと、辿り着かぬうちから膝がガクガクとしてきます。

峠道の途中には上野原の観光課が設置した「奥多摩情話“つね泣き峠”の由来」と題した案内板が
掲げられており、愛する人のために夜な夜な狼を供にして、奥多摩の川野から郷原の宝珠院へと、
厳しい山越えをしてまで通い続けたというツネのラブロマンスについて書かれています。 【*4】
毎夜、遠隔の地より女性を通わせた香蘭という坊主はよっぽどスゴイ男だったのか・・・? 

ツネが山里で暮らす屈強の女性だったとしても、本当に毎晩、山を越えて、愛を育み、
そして夜明けまでに家へ戻ることなどできたのだろうか?
登山地図のコースタイムによると、往復10〜12時間の道を、しかも暗い夜道を、
通うことなど本当に可能であったかと疑いたくもなりますが、ハセツネカップで笹尾根を快走する
女性トレイルランナーがいることを思えば、まんざら伝説だと切り捨てることもできません。
まさかハセツネランナーはオツネの霊に憑依されているわけでもなかろうが・・・
(「ハセツネ」の「ツネ」は「長谷川恒男」の「ツネ」で、ラブロマンスの主人公の「ツネ」とは多分関係ありません)

『西原の山・川・地名・旧跡』によると、つね泣き峠の案内板がある付近には以前、鳥居があったそうで、
三頭山の一ノ鳥居ではなかったかと伝えられています。
昔、三頭山の頂上には、西原、数馬、小河内の三つの集落の御堂が建てられていたといいますから、
逢瀬を重ねるのであれば、この御堂を利用するのが合理的とも思われますが、
修行僧の身であった香蘭には寺を抜け出せぬ事情があったのでしょう。


里を目前にした場所の標識で戸惑う


紫煙の立ち上る夕暮れの原集落に辿り着く

西原峠から郷原の宝珠院へと続く、弦のような尾根は地元では「郷原弦根(ツルネ)」と呼ばれています。
原集落から笹尾根に上がる小尾根は「原弦根」であり、この地域では山稜が長く延びている所を
一般に「ツルネ」(「根」は尾根の意)と呼び、「鶴峠」の「ツル」もここからきていると思われます。
「ツネ泣き峠」の「ツネ」は、「ツルネ」の転化であり、
「泣き」は、叶わぬ愛に涙することでも、朝帰りを叱られ涙することでもなく、
各地によくある「涙の出るほどツライ坂、キツイ坂」の意味であると、
現実的に考えることはきっと味気ないことなのでしょう。

  「明治末のころ、数馬の炭焼が、上野原に行き、ローソクや干物や、日用品を一杯買い込んで
  夜道を帰ってきた。安い買物ができて、村に持ち帰れば、かなりな口銭が取れると思い、
  酒を飲み上機嫌であった。西原峠を越し、八本松の所まで来た。もう数馬は目の下である。
  安心したためか、急に酔いがまわってきた。無理に目を開いて歩いていくと、
  行手から次々と買い手が現われ、非常に高い値で買っていく。彼の懐はたちまち金で一杯になった。
  と、目が覚めた。彼は八本松の一本の根方で正体もなく眠り込んでいた。
  背負ってきた荷は一カケラもなく、懐には枯葉が一杯詰まっていた。」

                                  −『檜原村紀聞』 瓜生卓造著 東京書籍 より−

こういう峠に残る言い伝えは、そのまま素直に受け取る方が愉しく、
所持金を酒につぎ込んでしまった言い訳に捻り出した嘘だとか、酔っ払いの戯言に過ぎないだとかと、
現実的に考えてしまっては峠の味が薄まってしまうというものです。
おツネさんも実在していたし、狐や狸に化かされ葉っぱのお札をつかまされた人も居たと信じる方が
峠と峠歩きを愛着深いものにしてくれます。

西原峠から、かなり飛ばして降りてきたため、足がプルプルしていますが、
なんとか日没前に里へと辿り着くことができました。
峠道の最後で、獣柵(シシムネ)に行く手を阻まれ右往左往し、餌を目の前にした猪の気持を味わいましたが、
無事に扉を発見し、おツネさんが通い詰めた宝珠院の前を通り過ぎ、半日の山旅が終わります。
ちなみに、宝珠院には武田の花菱を付けた障子戸があり、武田信玄の息女松姫は、
ここに身を寄せ八王子恩方へ脱出を計ったとも言われています。

  「高尾山から三頭山への嶺には和田峠、三國峠、栗坂峠、その他、人里(へんぼり)から猪丸へ越すもの、
  笛吹から大垣外へ越すもの、笛吹から藤尾へ越すもの、数馬から郷原に越すものなどがあって、
  多くは南秋川の渓谷を甲相の人里と結ぶ。
  これ等は何れも人里と人里とを結ぶこと餘りに遠く寂しい気持を起させるものでなく、さればと言って、
  餘りにあっけなくそれ等を結ぶものでもない。
  峠の眺望は割合によく、峠の頂は割合に眺望によい附近の最高点と離れてゐない。
  そして秩父のように大森林はもってゐないが、人家を離れると山深いという感じを抱かせ、
  道が嶺にとりつく仕方にはいつも趣き深いものがある。
  峠から見かへる背後と前面とに、無数の山々が続いて聳立し、応接にいとまのないことを感ぜしめる。
  山は割合に深く、気持はのんびりして、あたりの風貌は深閑としてゐる。
  三國峠、人里から猪丸へ越す峠、数馬から郷原へ越す数馬峠、何れもそうだ。
  これ等の峠を越すごとに感ぜられることは、これ等の峠から見た都下は意外に山深く、
  人里が信州、飛騨、上州の山奥に入ったと同じように幽寂で、山の数が多く、
  しかもそれ等の山々の最高峰は二千米突を多く出でない代りに、千米突以上の山の数が多いために、
  総体としての山の配列、山脈の容姿が美しいといふことである。
  そしてそれだけ峠に立って見る感じは、群山聳立のそれである。
  東京都下の山を少しも顧みない人達は、も少し都下の山や渓谷や峠に眼をそそぐ可きであらう。
  これ等の山々や峠を徒らに低山として顧みない人達は、山を理解し得ない者であり、
  又、美しい自然に対して驚異することを知らない人達である。・・・・」

                       −『峠と高原』 「東京都下の山と峠」 田部重治著 角川文庫 より−

笹尾根の峠を礼賛する言葉が述べられている文章です。
おツネさんや松姫の伝説が鏤められた笹尾根の峠がまた好きになりました。

【*1】 飯尾と長作とをつなぐ鶴川に沿った県道が開かれたのは大正5年のこと。
     ただし、それ以前にも、狭く、曲がりくねった道であったが、鶴川沿いに道はつけられていたので、
     大羽根峠越えによらない交通もあったとのこと。(川の氾濫時は峠越えを余儀なくされた)
     大正5年の開通後、陸の孤島と呼ばれた長作からの馬の荷物運搬は容易になり、木炭や鉄道の枕木、
     お墓の塔婆、棺箱材、経木、下駄材などの木材製品が村から搬出された。 (参考:『小菅村長作今昔物語』 守重保作著)

     小菅本村からは鶴峠を越えて長作に入り、大羽根峠を越えて西原に入り、そこからさらに藤尾峠(笛吹峠?)を越え
     檜原村を経て五日市に通じていた。五日市との交易のために三つの峠越えが必要であった。
     上野原との交易が頻繁になるのは鉄道中央線の上野原駅開設に伴い物資が大量に流通されるようになった後のことで、
     それも西原村を中継地として行われた。上野原に一日と六日のつく日の月六回市がたったので
     その日は直接、上野原まで出ることはあったという。 (参考:『小菅郷土村誌』)

【*2】 『地名用語語源辞典』(東京堂出版)、『地名語源辞典』(校倉書房)によると、
     「羽根」は当て字で、鳥の羽根とは関係ないとのこと。
     「羽根」とは「ハニ」(埴、羽仁、羽生)で、黄赤色の粘土の意味であり、粘土質の土地の地名に使われる語であるとあります。
     「ハニ」より「ハネ」の方が新しい語なので、遅れて開かれた土地に多いともあります。
     また、「羽根」には「ハネ」(撥、刎)で、「離れた」という意味や「切り落とす」の意味もあるようです。
     そうすると、首を刎ねた、切り落としたという「首切り沢」とも関連あるのだろうか?
     『日本民俗語大辞典』(桜楓社)には「尾を引いたような山の続きをヲ(ウネ、ヲバネ)と称える」ともあります。

【*3】 檜原村南秋川筋の人々は当初は五日市との交流を持っていたようですが、五日市商人は狡っ辛くて、村人は次第に
     上野原側へ向かうようになったといいます。提灯を手に十人、二十人と集団で西原峠を越えて買出しにでたといいます。
     上野原側は五日市よりも物価が安く、人も親切であったとのこと。
     時代が下がって中央線が通じると、西原峠を西原へ下るよりも、人里から日原峠を越えて上野原の中心地へ向かう人が
     多くなり、西原峠を通る者は減ったといいます。
     檜原村の人は奥多摩町、氷川の人とはあまり仲がよくなく、お嫁さんを貰うにも村内か甲州からであり、
     奥多摩町とは滅多に縁組はしなかったといいます。 (参考:『檜原村紀聞』)     

【*4】 『日本山岳ルーツ辞典』(竹書房)という個人的にはあまり信用していない辞典によると、
     宝珠院に移されたのはツネのほうであり、西原側から香蘭の居る奥多摩の川野へ通ったとあります。
     ちなみに、喉に刺さった骨で苦しむ狼を助け、その後、御礼として狼が道行きのお供をするという話は各地にあります。
     荒船山西牧の峠にも同じような狼伝説が残っています。

【参考文献】
『西原の山・川・地名・旧跡』 西原中学校編
『奥多摩』 宮内敏雄著 百水社
『静かなる尾根歩き』 「10.三頭山南面の尾根」 松浦隆康著 新ハイキング社
『地名の研究』 松尾俊郎著 新人物往来社
『奥多摩』 田島勝太郎著
『甲斐の山山』 小林経雄著 新ハイキング社
『峠路をゆく人々』(山村民俗の会編)「炭焼きのゆきかう道-相模川源流の峠交通-」(杉崎満寿雄著)

松姫伝説は『山のこぼれ話』(関本快哉著・大日本絵画)の「戦国秘話・松姫の甲州脱出行」がおもしろい。
『檜原村史』にも「松姫の逃避行」が記されている。

(峠行2008.12.12)