★ 大茅尾根を歩く
大羽根峠・・・殿平・・・コハチノ頭(大羽根山)・・・大茅・・・大沢山・・・クメケタワ・・・牧(槙)寄山・・・西原峠(数馬峠・郡内峠)
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| 飯尾と長作をつなぐ県道が開通する以前、両集落をつないでいたのは大羽根峠越えの道でした。【*1】 古い版の地形図には「大羽根峠」の名前を見ることができますが、 現行版の地形図では峠名が抹消されています。 小菅村と上野原市を結ぶ途上に位置する歴史ある峠なのに扱いがぞんざいに思えてなりません。 地形図の「猪丸」図幅と「七保」図幅のほぼ境目という目立たぬ立地が禍したのでしょうか。 今回は、その大羽根峠に飯尾側から上り、デンデエロに立ち寄った後、 |
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| 大ガヤ尾根は、大沢ノ頭から分岐して西南に走り、独標1236米の大茅となる。 飯尾部落から喰込む飯尾川の源頭に臨みつつ、1040米圏で真南に出すのがヨゴク尾根だ。 山稜は「丹波」図幅に移ってコハチノ頭という954米の三角点を擡げ、南に降って大羽根峠となる。 つい最近まで鶴川沿いに往還が出来るまでは、長作と飯尾の交通はこの峠で結ばれていたのだ。 峠の南に960米のぽっこりした小山をデンデーロという。 −『復刻版・奥多摩』 宮内敏雄著 百水社 より− |
| 大澤山から鶴川谷に派出した支脈は、△954mの大羽根三角点を経て、 飯尾部落から小菅村長作へ通ずる大羽根峠の鞍部を見せ、次いで殿平の一丘を起して鶴川に終わる。 近頃この殿平の裾を巻く川沿ひのムナムキ新道と云ふのが出来て、旅人は大羽根峠を越す必要はなくなった。 −『山小屋』創刊号 「三頭山より三國山まで-甲・武國境山脈-」 岩科小一郎著 より− |
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| 原集落の一の宮神社にお昼の30分前に到着、車を鳥居の前に乗り捨て、 p878デンデエロのふくよかな丸みを正面に見据え、飯尾へ向けて鶴川沿いのバス道を急ぎ足で歩きます。 飯尾集落の古い民家の佇まいと軒先に干されたカラフルな洗濯物にギャップを覚えつつも、 道端の日溜りで世間話をしている老人の傍らを怪しまれぬように通り過ぎ大羽根峠の登り口を迎えます。 これより冬うららの半日を峠歩きと静かな尾根歩きに捧げます。 鶴川に沿ってデンデエロを迂回するようにつけられているアスファルトの県道と別れ、 |
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| 笹尾根上のハイカーで賑わうメジャーな峠とは異なり、 訪れる人の少ない大羽根峠はひっそりとした中にあります。 植林が光を遮り、薄暗く、そして肌寒いのですが、陰々たるというほどの雰囲気ではありません。 しかし、夕暮れ時にこの峠道をひとり歩くとなると、なにか物の怪でも現われそうな気もします。 それは牛飼側にある「首斬り沢」というおどろおどろしい地名の印象から受ける 不気味さのせいなのかもしれません。 峠には二本の大きなブナの木があり、闖入者に睨みを効かせるかのように聳立しています。 |
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| 峠には公的な標識はなく、立ち木に巻かれた赤テープにその名がマジックで記されているだけです。 そこで、ゴミになるとは思いつつも、お粗末な手製の峠名標識を取り付け、 ひそかに地形図への峠名記載復帰を願ったりするのです。 足もとには落ち葉に埋もれた石文と頭部の欠損した小さな石仏があります。 ちなみに、この石造物の謎に迫った優れた考察が、 |
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| 東へ大茅尾根を辿る前に、峠から西方の踏み跡を拾ってp878のデンデエロ(殿平)に寄り道します。 峠のすぐ脇の小広い台地には、ピラミッド内部に置かれている石の柩のようなものがあります。 防火用水の貯水槽でしょうか?かつてこの付近にあったという人の生活のニオイを感じます。 『西原の山・川・地名・旧跡』によると、昔はデンデエロの頂上に御邸(オヤシキ)や烽火(ノロシ)台があり、 |
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| 峠からヤブを漕ぐこともなく、ひと登りでデンデエロの頂上に達することができます。 昭和30年頃までは一帯が畑だったようですが、大方植林に囲まれ、視界の閉ざされた山頂になっています。 山頂の片隅にはNHKの中継アンテナ施設があり少々興醒めしますが、 登山者の訪れている様子は窺がえず、見向きもされない寂峰に独り立つ心細さに妙な快感を覚えます。 頂上から南へ、地形図に記されている峠道を経由しないで直接、飯尾へ下る踏み跡も確認できます。 デンデエロといえば、「丹波天平・保之瀬天平」と、初狩の「殿平」が有名です。 |
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| デンデエロから大羽根峠に戻り、大茅尾根の登攀を開始します。 峠に聳えるブナの大木の背後から実に良い道がのびていますが、 直ぐにその明瞭な仕事道とは分れて尾根筋を直上する踏み跡を辿ることになります。 尾根の取り付き点には、立派な栂の大木があり圧倒されますが、これから辿る尾根に期待を持たせる 好演出とも思えます。 しかし、序盤は、「大茅」尾根ではなく「大笹」尾根ではないかと思わせるスズタケの繁茂する中を進みます。 |
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| 落ち葉のラッセルはくたびれますが、自然林と植林の間につけられた踏み跡をひとしきり登れば、 大伐採地の一角へと飛び出し、スズタケともここでオサラバです。 大伐採地からの展望は、これがためだけにこの尾根を訪れてもよいと思わせるほど開豁で見事なのです。 佐野峠、奈良倉山、長作観音堂、そして鶴峠のヘコミなどを一望におさめることができます。 |
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| 東方に目を転じれば、三頭山、神楽入ノ峰、小焼山の連なりと、 そこから派出する長作尾根、牛飼尾根、神楽入尾根などを手にとるように望むことができます。 眺望に没頭する一方で、まだまだ先は遠く、長居はしてられないと少々焦りも芽生えます。 カバンからコロッケパンを取り出し、食べ歩きをしながらp954三角点の埋設を見つけます。 |
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| さて、この三角点p954ですが、『奥多摩』や『甲斐の山山』では「コハチノ頭」とありますが、 『静かなる尾根歩き』では「大羽根山」とあり、標識の取り付けに際してはちょっと迷うところです。 まぁ、どちらも正しいようなので、リバーシブル標識にすればどちらかが違っていても対応できることでしょう。 大羽根山という山名は、檜原村の数馬にも同じ笹尾根から派生したp992の同名の山があります。 笹尾根を背骨と見た場合、両大羽根山の位置する支脈は翼のように見えないこともありませんが(強引か)、 |
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| 三角点から先、葉の落ちた明るい自然林帯をしばし進み、そして再びの植林内を快調に進めば、 地形図に記載のある飯尾からp820を経由して尾根に登ってくる破線道と合流します。 分岐点にはヒモやテープの目印がつけられていますが、さほど多くの人の通行があるようには思えません。 飯尾から登ってくるこの地形図の破線道はp1237大茅を前にして、地形図からは消えますが、 |
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| 山頂には消えかけた文字で、「←飯尾・原」と読み取れる大茅南尾根を指し示す目印がありました。 飯尾や原の人たちは、昔はこの辺りまで茅を刈に来ていたのでしょうか? 現行版地形図の大茅南尾根上に道は描かれていませんが、古い時代の地形図には 大茅と原とを結ぶ破線道が記載されています。(明治40年測図昭和4年要部修正測図「五日市」五万図) いつまでもこの気持ちの良い小ピークで休んでいたいものですが、 |
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| 地形図の等高線の詰まり具合を見ても分かるように、大沢山への登りは結構なアルバイトです。 それに加えて、大沢の谷筋から冷たい風が吹き上がり鼻水が出てくる始末です。 岩混じりの急登は手足を使った全身運動で、立ち木に掴まり上体を持ち上げないと、 すぐに滑り易い落ち葉に足を掬われてしまいます。 全身運動のおかげで体は温まり、汗なのか鼻水なのか、もう判らなくなってきます。 急登の連続で踏み跡は薄くなりますが、高みを目指せばいい訳で、進路に戸惑うことはありません。 不幸が永遠に続くことがないのと同じように、終わりのない登りはないわけで、 |
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| 麓から眺める大沢山の偉容に比べ、その頂きは威厳に欠けているようで、 設置された休憩ベンチや俯瞰案内図などが登山者に媚を売っているかに思えてきます。 大沢山に立つ立派な道標には、なぜか「大沢山」ではなく、「大沢峠」の標示があり、 不可思議な道標の根元には、近頃、丹沢山中でよく見かける熊野修験者の御札が奉納されており、 |
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| 大沢山から西原峠へ向けて笹尾根を南下しますが、道は今までと比べ格段と良くなります。 さすがハイカーに人気の笹尾根だけあって、しっかりと踏み固められた山道となります。 都民の森の領分である三頭大滝分岐が、『奥多摩』に名のある「ハチザス沢ノ頭」なのでしょうか? (「蜂巣沢ノ頭」と表記してある文献資料もある)ハチザス沢ノ頭は「金山(カナヤマ)」とも呼ばれていたようで、 この付近では昔、金を求めて採掘が行われていたようです。 ひとしきり下った尾根のタワミには、東京都山岳連盟が設置した「クメケタワ」の標識があります。 |
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| 西原峠手前の小ピークが槙寄(牧寄)山で、丸太のベンチの置かれた好展望地になっています。 宮内本『奥多摩』には、「牧寄山は槙寄山なぞとも書くが、無論宛字だ。いや牧寄そのものが山名でなく 附近一帯の字(あざ)なのだ」とあり、甲州側では「千間平」というと書かれています。 岩科資料にも「千軒平という方が、甲州側では通りがよい」とあり、 「千軒は浅間から来たもので、富士を祀った意に外ならない」と記されています。 「センゲン」は、「千間」、「千軒」、「浅間」といろいろ表記されますが、 山頂はやわらかな西日に包まれ、恍惚とした気持になりかけますが、 |
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| 槙寄(牧寄)山から南下した目と鼻の先に西原峠は位置しています。 昔は塩や米がこの峠を越えて檜原側へ運ばれたともいいますが、 現在では交易のために峠を越える人はいないことでしょう。 【*3】 笹尾根ハイキングのスタート地点として、また終了点として、ハイカーに踏まれることが多い峠道です。 「此の西原峠は数馬の人に忘れ得ぬ峠である。そのむかし数馬は鶴川の人が山越えをして拓き、 −『山と渓谷89号奥多摩特集』 「秋川をめぐる峠」 宮崎茂夫著 より− 交易が廃れれば、しぜんと人の交流も廃れてゆくことでしょう。 峠には、檜原温泉センター「数馬の湯」のチラシが置かれ、 |
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| 日暮れとの競争に負けぬように、原集落へ向けて峠道を下ります。 かつての主要幹線道だけあって、道形は明瞭幅広で安定しています。 凹部に降り積もった落ち葉がフカフカで良いクッションになり快適に下降することができます。 登りだったら落ち葉のラッセルに苦しめられることでしょうが、下りでは蹴散らし蹴散らし邁進します。 葉の落ちた樹林からは本日歩いた大茅尾根や笹尾根が望まれ飽きることはありません。 峠道の途中には上野原の観光課が設置した「奥多摩情話“つね泣き峠”の由来」と題した案内板が ツネが山里で暮らす屈強の女性だったとしても、本当に毎晩、山を越えて、愛を育み、 『西原の山・川・地名・旧跡』によると、つね泣き峠の案内板がある付近には以前、鳥居があったそうで、 |
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| 西原峠から郷原の宝珠院へと続く、弦のような尾根は地元では「郷原弦根(ツルネ)」と呼ばれています。 原集落から笹尾根に上がる小尾根は「原弦根」であり、この地域では山稜が長く延びている所を 一般に「ツルネ」(「根」は尾根の意)と呼び、「鶴峠」の「ツル」もここからきていると思われます。 「ツネ泣き峠」の「ツネ」は、「ツルネ」の転化であり、 「泣き」は、叶わぬ愛に涙することでも、朝帰りを叱られ涙することでもなく、 各地によくある「涙の出るほどツライ坂、キツイ坂」の意味であると、 現実的に考えることはきっと味気ないことなのでしょう。 「明治末のころ、数馬の炭焼が、上野原に行き、ローソクや干物や、日用品を一杯買い込んで −『檜原村紀聞』 瓜生卓造著 東京書籍 より− こういう峠に残る言い伝えは、そのまま素直に受け取る方が愉しく、 西原峠から、かなり飛ばして降りてきたため、足がプルプルしていますが、 * 「高尾山から三頭山への嶺には和田峠、三國峠、栗坂峠、その他、人里(へんぼり)から猪丸へ越すもの、 −『峠と高原』 「東京都下の山と峠」 田部重治著 角川文庫 より− 笹尾根の峠を礼賛する言葉が述べられている文章です。 * |
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| 【*1】 飯尾と長作とをつなぐ鶴川に沿った県道が開かれたのは大正5年のこと。 ただし、それ以前にも、狭く、曲がりくねった道であったが、鶴川沿いに道はつけられていたので、 大羽根峠越えによらない交通もあったとのこと。(川の氾濫時は峠越えを余儀なくされた) 大正5年の開通後、陸の孤島と呼ばれた長作からの馬の荷物運搬は容易になり、木炭や鉄道の枕木、 お墓の塔婆、棺箱材、経木、下駄材などの木材製品が村から搬出された。 (参考:『小菅村長作今昔物語』 守重保作著) 小菅本村からは鶴峠を越えて長作に入り、大羽根峠を越えて西原に入り、そこからさらに藤尾峠(笛吹峠?)を越え 【*2】 『地名用語語源辞典』(東京堂出版)、『地名語源辞典』(校倉書房)によると、 【*3】 檜原村南秋川筋の人々は当初は五日市との交流を持っていたようですが、五日市商人は狡っ辛くて、村人は次第に 【*4】 『日本山岳ルーツ辞典』(竹書房)という個人的にはあまり信用していない辞典によると、 【参考文献】 松姫伝説は『山のこぼれ話』(関本快哉著・大日本絵画)の「戦国秘話・松姫の甲州脱出行」がおもしろい。 |
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(峠行2008.12.12) |
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