学童も越えた峠
山神峠・折門峠・栂ノ峠(地蔵峠)
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| 高地集落御弟子と無住の村となって久しい折門とを結ぶ山神峠を訪ねました。 峠には戸の固く閉ざされた木造の社が祀られていますが、 人が足繁く参拝に訪れている様子は感じられません。 板戸の節穴からは蜜蜂が頻繁に出入りし、訪れる人が稀な峠の空を飛び交っています。 昭和48年閉校になるまで御弟子には古関小学校折八分校がありました。 |
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◆ ところで、「折門峠」は移動したのでしょうか? ◆ |
| 少し前までの地形図を広げて見ると、 「折門峠」はp1188(大平山)の東方、蛾ヶ岳と釈迦ヶ岳を結ぶ主稜線上に表記されていました。 しかし、最新版の地形図ではp1188の南方へとその場所が移動しています。 これは、なぜなのでしょうか? 現地に設置された登山標識に従って地図表記が修正されたといえばそれまでですが、 |
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| 蛾ヶ岳-大平山-釈迦ヶ岳と結ぶ主稜尾根上に「折門峠」の名は記されている。 芦川沿いの高萩へ下る峠道もしっかり描かれている。 鬼ヶ窪(オニンクボ)付近の描写も的確で、測量精度の高さが窺がえる。 |
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| やはり、蛾ヶ岳-大平山-釈迦ヶ岳と結ぶ主稜尾根上に「折門峠」の名は記されている。 「栂ノ峠」の栂の大木も地図に描かれている。 二重山稜に挟まれた窪地を通過する道も描かれている。 |
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| これまた、蛾ヶ岳-大平山-釈迦ヶ岳と結ぶ尾根上に「折門峠」の名は記されている。 二重山稜の窪地を通過する道が尾根を越える地点に「地蔵峠」の名が付加された。 |
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| 「折門峠」の記載位置が大平山の東から南方へと移動した。 (実際、現地の標識も大平山の南にある) 古くから地図上に描かれてきた「折門峠」の位置は、あっけなくも移動した。 なぜだろうか? 移動した先も、高萩と折門とを結ぶ峠道の途上に位置していることに変わりはないので 「折門峠」には違いないだろうが長年に渡り固定されていた峠位置が 突然変更されたのは腑に落ちない。 ちなみに、「地蔵峠」の位置も東から西へと微妙に移動している。 以前まで、地図上の「地蔵峠」であった場所には名を示す標識等は無く、 六地蔵の位置が移されたものなのか、それとも単なる地図上だけの名前の移動なのか? |
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| 「折門峠」は実に不思議な峠で、移動ばかりか分身もするようです。 観光協会などの公的な機関が発行する観光ガイドマップ等では、 手持ちの1992年版『山と高原地図』(昭文社)を見ると、 |
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| 『続・中高年向きの山100コース』という登山ガイド本に記載されている図が 一番正確にそれぞれの峠位置を表記していると思うのですが、どうでしょうか? それとも現地標識に従うのが、やっぱり正しいのでしょうか? まあ、こんなことは些末な問題なのでしょう。 |
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◆ さて、本題の山神峠へ向かいます ◆ |
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| 御弟子集落に向かうべく、一気に折八古関林道を駆け上ります。 もちろん手抜き(足抜き?)して自動車で。 総工費36億2800万円の林道ですから出来た以上使わなければ勿体無い。 天空を走り抜ける林道からの眺望は素晴らしいの一言に尽きます。 |
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| 本栖湖北岸尾根に位置する反木峠、精進湖西岸尾根の根子峠、 それら峠から湖岸とは反対側へと下る道がどのような状態になっているのか、 いつか歩いてみたいと、峠道が眠るであろう谷筋を眺めては思うのです。 富士の絶景ポイントに、以前は無かった |
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| ネパールやチベットを連想させる高地斜面にへばりついた数戸の集落が御弟子です。 『下部町誌』によると、海抜は870メートルで、 上折門、八坂の960メートルに次ぐ高地に集落を形成しています。 林道が開通する以前は、自動車でのアクセスは不可能で、反木川沿いの沢の集落から 里程800メートル、標高差250メートルの山腹を足で登らなければ辿り着くことができませんでした。 こんな高地から下界を見下ろす生活とはどんなものなのでしょうか? 林道脇の草茫々の空地が折八分校の跡地です。 分校跡地の片隅には分校の発展に尽力された方の顕彰碑が草に埋もれています。 |
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| 分校跡地の隣りには、ちょっと有名な起舟後光型の双体道祖神が祀られています。 双神とも性器を露わにした特異なお姿は微笑ましくあります。 ワイセツ物陳列罪などと目くじらを立てないで下さい。 道祖神は行路の神、旅行安全の神、生者と死者、人間界と幽冥界との境を司る神、 外界から侵入する疫病、悪霊などを防ぎ止める防障防塞の神としての意味合いの他に、 男女の和合、縁結びの神としても信仰されていたのです。 子供達の目に触れる分校の脇に、このような姿をした道祖神を祀るのは ひょっとすると、上折門から御弟子へ道祖神を移す際には、 |
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| 道祖神前からは左ではなく、右に行くのが山神峠へと向かう道です。 分校跡地背後の石積みの上には赤い鳥居と神社(諏訪神社?)が祀られ、 その脇には一体の石仏が何気なく置かれています。 かつて折門のターノミヤという場所にあったという峠の観音堂の本尊、三十三体の観音像が 山神峠へ向かう道は極めて明瞭であり、 |
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| 折八分校が開校されていた頃、 山神峠には毎朝通学する折門の子供達の姿があったことでしょう。 幼い弟や妹の手を引く年長者の姿や、 友と肩を組み歌を口遊みながら登校する元気な学童の姿などが目に浮かびます。 しかし、常に子供達の笑い声が山にこだましていたわけではないでしょう。 子供達の賑やかな声で峠の朝が始まり、 |
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| 明治期の古い地形図を見ると峠には「卍」マークが記されていますが、 その後の改版された地形図では「神社」マークに変っています。 南北向かい合う建物の、北側が寺で、南側が神社ということなのでしょうか? それとも廃仏毀釈の影響でも受けて、寺から神社へと変身したのでしょうか? 『下部町誌』によると、南側の建物は皇太神社であるようです。 |
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| ここを「山神峠」と村人が呼んでいたかは定かではありませんが、【*2】 冒頭に提示した『日本山岳案内』の図中には、御弟子と折門を結ぶ峠の名として 「山神峠」の名前が見られます。 峠には錆びついた標識があり、 目立たぬように「山神峠」と書いた手製標識を取り付けてみましたが、 |
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| 峠は日当り良好で、春のやわらかな光に包まれています。 年に何度かこの場所で例大祭が行われ、村人達の祝宴なども繰り広げられたのではと、 また要らぬ妄想が広がります。 社殿を閉ざす板戸の節穴からは、ポカポカ陽気に誘われて蜜を求める蜜蜂が忙しそうに出入りしています。 |
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| 峠には武田菱?の刻まれた石碑もありますが、何を意味しているのか不明です。 口碑によれば八坂の集落は甲斐源氏の一族の忠臣が村の開祖であるといわれていますので、 武田氏とも深いつながりがあったのかもしれません。 峠からはすぐに折門の集落跡へ下ろうと思いましたが、 |
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| 折門峠へ向かう山道は快適の一言に尽きます。 自然林に囲まれた明るい道、落ち葉フカフカの幅広の道です。 芽吹いたばかりの緑が目に眩しく、このぶんだと紅葉の時季も素晴らしいに違いないと、 晩秋の再来をひそかに心に誓うのです。 ミヤマツツジの美しさに見とれながらも、大平山のシルエットが近付いてくると、 |
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| 蛾ヶ岳と三方分山とを結ぶ一般ハイキングコースが通る折門峠には、 峠名を表記した標識と腐りかけたベンチがあります。 峠名標識をめくりあげると一代前の錆びついた古い標識が残されており、 そこにもここが折門峠であることが記されています。 以前までの地形図とは異なり、現地ではここが古くからの折門峠であったことの証左ともいえます。 |
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| 折門峠は折門八坂地区で暮らしていた人々にとって重要な峠であったようで、 町村合併以前の折門八坂地区住民の目は 南の古関側ではなく、峠を越えた北の芦川側へと常に向けられていたようです。 『折八地区臨地研究報告』の「八坂折門地区の生活文化史考察」(野沢昌康著)という資料の中では、 @折門峠越えの時期 A木馬道と林道の時期 Bトラック路開通の時期 以上、三期の変遷を経て、従来は市川大門町、高萩の商圏に属していた折八地区は、 |
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| 大平山からの富士は日本一の眺めであると礼賛する看板は既に文字が消えかかり判読が難しくなっています。 その看板脇からひと登りすれば、朽ちたベンチのある三角点p1188の大平山です。 雪を纏った富士がちらりと見えはしましたが、この日はご機嫌斜めか厚い雲がその姿を隠します。 『日本山岳案内』には「ボウギ山」の名が見られますが、そんな呼称も別にあるのでしょうか? 「ボウギ」は「朴の木」の意味でしょうか、それともこの山でなにやら「謀議」がなされていたのでしょうか? 大平山の東側山腹を巻いて進めば少し前までの地形図に記されていた折門峠の場所です。 前・折門峠といえるこの場所に峠名を示す標識は無く、高萩へ下れることを示す道標もありません。 |
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| さらに尾根を東へと進むと、何度訪れても好印象を受ける栂ノ峠です。 大木の根元に祀られた六地蔵も御無事で、訪れる旅人をやさしく迎えてくれます。 高萩へ下る折門峠の峠道と接続するであろう踏み跡が確認できますが、 折八古関林道へと下る地形図の破線道はどこにあるのやら。 栂の大木の肌に手を触れ、六地蔵に挨拶をくれると、 |
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| 山神峠から折門峠へ向かう途中にあった分岐から折門へと下る道に入ります。 分岐には標識がポツンと立っていますが、何が書いてあるのか判読はできません。 廃村になってから長い時の経過があるものの、道は極めて明瞭に残されています。 戦死した出征兵士を弔う墓の前を通り過ぎます。 山の子供達の笑い声も、家畜の鳴き声も、炭焼き釜から立ち昇る煙もありません。 |
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| 家屋や畑があったと思われる雛壇状の平坦地は、草が蔓延り荒れるに任せています。 進むべき道が見出せなくなり戸惑いを覚えます。 この地で亡くなり、この地に埋葬された村人の霊が、 廃屋を見るためにはもう一段下まで降りないとダメなのでしょうか? 山神峠へと向かう明確な道跡は見当たりませんが、 「上折門、下折門はかつて18戸を数えていたが、各所に分散移住し、 もしも自分がこのような土地で生まれ育っていたならば、 かつて学童が越え、教師が越え、生活物資を背負った村人が越えた峠道、 |
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| 【*1】 折門八坂の地域においては、江戸時代にはいわゆる寺子屋式の教育も行われず、 その後、昭和16年には下九一色国民学校折門分教場、同22年には下九一色小学校折門分校と改称し、中学校も発足。 町誌には、折八分校より各集落までの距離が次のように記されています。 上折門までは、もっと距離があるように感じましたが、それは山道だったせいでしょうか。 本校の古関小学校校歌三番には「すがしい 朝の坂こえて 通いよりそう この窓べ♪」との歌詞がありますが 【*2】 『新ハイキング509号』1998.03月号の「蛾ヶ岳から天狗岩」(小林経雄著)の紀行文の中で、 |
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| 【参考文献】 『下部町誌』 (身延町のHPで全文閲覧可能) ● 初めて折門峠、地蔵峠を訪れた時のレポートを見る ● 二度目の地蔵峠訪問レポートを見る |
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(峠行2008.04.25) |
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【折門峠】 「折門の御弟子と三珠町高萩の向村を結ぶ峠。 「御坂山地内、釈迦ヶ岳(1256)から大平山(1188)に至る稜線上の鞍部の一つで、 |
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