学童も越えた峠

 山神峠・折門峠・栂ノ峠(地蔵峠)


廃村折門に残された石仏


『日本山岳案内3・中央沿線に沿ふ山・御坂山塊』
鉄道省山岳部編・博文館・昭和15年

高地集落御弟子と無住の村となって久しい折門とを結ぶ山神峠を訪ねました。
峠には戸の固く閉ざされた木造の社が祀られていますが、
人が足繁く参拝に訪れている様子は感じられません。
板戸の節穴からは蜜蜂が頻繁に出入りし、訪れる人が稀な峠の空を飛び交っています。

昭和48年閉校になるまで御弟子には古関小学校折八分校がありました。
今は廃村となった折門集落の子供たちが毎朝通学する姿が峠にはあったことでしょう。
登校する子供達の笑い声が消えた峠で耳に届くのは蜜蜂の羽音だけです。

◆ ところで、「折門峠」は移動したのでしょうか? ◆

少し前までの地形図を広げて見ると、
「折門峠」はp1188(大平山)の東方、蛾ヶ岳と釈迦ヶ岳を結ぶ主稜線上に表記されていました。
しかし、最新版の地形図ではp1188の南方へとその場所が移動しています。
これは、なぜなのでしょうか?

現地に設置された登山標識に従って地図表記が修正されたといえばそれまでですが、
かなり昔の地形図から連綿と引き継がれてきた「折門峠」の位置が突如変更されたことに
多少違和感を覚えます。


明治21年測量同24年製版同年3月出版
「蛾嶽」 2万図 大日本陸地測量部

蛾ヶ岳-大平山-釈迦ヶ岳と結ぶ主稜尾根上に「折門峠」の名は記されている。
芦川沿いの高萩へ下る峠道もしっかり描かれている。
鬼ヶ窪(オニンクボ)付近の描写も的確で、測量精度の高さが窺がえる。


明治21年測図昭和4年第2回修正測図
「市川大門」2万5千図 参謀本部

やはり、蛾ヶ岳-大平山-釈迦ヶ岳と結ぶ主稜尾根上に「折門峠」の名は記されている。
「栂ノ峠」の栂の大木も地図に描かれている。
二重山稜に挟まれた窪地を通過する道も描かれている。


昭和4年測量昭和46年改測平成7年修正測量平成8年発行
「市川大門」2万5千図 国土地理院

これまた、蛾ヶ岳-大平山-釈迦ヶ岳と結ぶ尾根上に「折門峠」の名は記されている。
二重山稜の窪地を通過する道が尾根を越える地点に「地蔵峠」の名が付加された。


最新版の現行地形図

「折門峠」の記載位置が大平山の東から南方へと移動した。
(実際、現地の標識も大平山の南にある)
古くから地図上に描かれてきた「折門峠」の位置は、あっけなくも移動した。
なぜだろうか?
移動した先も、高萩と折門とを結ぶ峠道の途上に位置していることに変わりはないので
「折門峠」には違いないだろうが長年に渡り固定されていた峠位置が
突然変更されたのは腑に落ちない。

ちなみに、「地蔵峠」の位置も東から西へと微妙に移動している。
これは「栂ノ峠」と「地蔵峠」が同一であるとの解釈に因るものだと推測される。
実際、現地の登山標識には、その同一性を表すかのように「栂の峠(地蔵峠)」とあり、
栂の大木の根元には六角柱石に浮彫りされた六地蔵が祀られている。

以前まで、地図上の「地蔵峠」であった場所には名を示す標識等は無く、
凹とした道形だけが残されている。
またそこには名の由来となるだろうはずの地蔵の姿もない。

六地蔵の位置が移されたものなのか、それとも単なる地図上だけの名前の移動なのか?
ちょっと気になるところでもあります。


河口湖町観光ガイドマップ より


富士五湖観光連盟の観光マップ より

「折門峠」は実に不思議な峠で、移動ばかりか分身もするようです。

観光協会などの公的な機関が発行する観光ガイドマップ等では、
「折門峠」の名が図上二箇所に記されているケースが見受けられます。
これはどうしたことなのでしょうか?
「折門峠」は分身の術を使うのでしょうか?頭が混乱していけません。

手持ちの1992年版『山と高原地図』(昭文社)を見ると、
「折門峠」の位置が旧地蔵峠付近に表記されています。
すなわち高萩への下降点からさらに東へ行った地点に描かれているのです。
もしかしたら分身した背景には、この登山地図の影響があったのかもしれません。


『続・中高年向きの山100コース』
浅野孝一・山と渓谷社・1984年

『続・中高年向きの山100コース』という登山ガイド本に記載されている図が
一番正確にそれぞれの峠位置を表記していると思うのですが、どうでしょうか?

それとも現地標識に従うのが、やっぱり正しいのでしょうか?
現地住民がどれほどシビアに地名を捉えているかという問題もありますが・・・・

まあ、こんなことは些末な問題なのでしょう。
きっと、峠オタクしか関心の持たないどうでもよいことなのでしょう。

◆ さて、本題の山神峠へ向かいます ◆


林道から見る天狗岩-蛾ヶ岳の連なり
谷あいを流下する沢は風巻沢

御弟子集落に向かうべく、一気に折八古関林道を駆け上ります。
もちろん手抜き(足抜き?)して自動車で。
総工費36億2800万円の林道ですから出来た以上使わなければ勿体無い。

天空を走り抜ける林道からの眺望は素晴らしいの一言に尽きます。
高地集落や山肌をくねる車道は目に入りますが、
それ以外の人工的な猥雑物が視界に入らないのが優れた点です。
ゴルフ場や送電鉄塔や堰堤群などとは無縁の景観です。
また周囲の山々はその大半が自然林に覆われ、
スギ・ヒノキの黒い人工林が少ない点も景観を好ましいものにしています。


林道から見る根子峠・反木峠へ詰め上げる谷筋

本栖湖北岸尾根に位置する反木峠、精進湖西岸尾根の根子峠、
それら峠から湖岸とは反対側へと下る道がどのような状態になっているのか、
いつか歩いてみたいと、峠道が眠るであろう谷筋を眺めては思うのです。

富士の絶景ポイントに、以前は無かった
国土交通省関東地方整備局、(社)関東建設弘済会の名前の刻まれた
「関東の富士見百景・富士山の見えるまちづくり」のプレートが
取り付けられていました。
道路特定財源がこんなプレートにも化けているのでしょうか?


斜面にへばりつく御弟子の集落


古関小中学校折八分校跡地
平成17年までは校舎が残されていた

ネパールやチベットを連想させる高地斜面にへばりついた数戸の集落が御弟子です。
『下部町誌』によると、海抜は870メートルで、
上折門、八坂の960メートルに次ぐ高地に集落を形成しています。
林道が開通する以前は、自動車でのアクセスは不可能で、反木川沿いの沢の集落から
里程800メートル、標高差250メートルの山腹を足で登らなければ辿り着くことができませんでした。

こんな高地から下界を見下ろす生活とはどんなものなのでしょうか?
都会の超高層マンションの上層階で暮らす人々と共通する感慨などがあるのでしょうか?
都心のベイフロントからの眺めとは目に入るものが違い過ぎますが、
どちらで暮らしたいかと問われれば、
ライトアップされた街の夜景よりも、翠嵐の瞰臨を選ぶことでしょう。
むろん都会の高層マンションに居を構えるバブリーな資産は持ち合わせていませんし、
僻村の奥山という厳しい自然環境の中で生活する忍耐力も持ち合わせてはいないのですが。

林道脇の草茫々の空地が折八分校の跡地です。
この地には折門と八坂、沢の子供達が就学した古関小学校折八分校がありました。【*1】
初めてこの山域に足を踏み入れた際のこと、日没後の暗闇の山中で遭難しかけた翌日に、
山から脱出すべく雨の中の林道を歩き、廃校舎の軒先を借りて雨宿りをした思い出があります。
こんなさびしい所に学校があったのか・・・と感じ入ったのを覚えています。
当時まだ残っていた校舎は平成17年に取り壊されたそうで、
雨宿りをした時に校舎の写真を撮らなかったことが悔やまれます。

分校跡地の片隅には分校の発展に尽力された方の顕彰碑が草に埋もれています。
卒業生を送り、新入生を迎える山桜の白い花がいまはなき校舎の跡地に咲いています。


御弟子に祀られた上折門の道祖神
折門廃村の折、この地に運ばれたと説明板にある


まぁ、微笑ましいお姿なのです

分校跡地の隣りには、ちょっと有名な起舟後光型の双体道祖神が祀られています。
双神とも性器を露わにした特異なお姿は微笑ましくあります。
ワイセツ物陳列罪などと目くじらを立てないで下さい。
道祖神は行路の神、旅行安全の神、生者と死者、人間界と幽冥界との境を司る神、
外界から侵入する疫病、悪霊などを防ぎ止める防障防塞の神としての意味合いの他に、
男女の和合、縁結びの神としても信仰されていたのです。

子供達の目に触れる分校の脇に、このような姿をした道祖神を祀るのは
教育的配慮に欠けるなどと、つまらないことを言わないで下さい。
この道祖神は昭和47年の折門集落の無人化により、盗難を恐れた区民の求めに応じて
分校の廃校後に上折門からこの地へと移設されたものなのですから。
また、たとえ廃校前の移設であったとしても、
この種のものは、おおらかな性教育に寄与したのではないでしょうか?

ひょっとすると、上折門から御弟子へ道祖神を移す際には、
人に背負われ、あるいは一輪車に載せられして山神峠を越えて来たのかもしれません。


折八分校跡地背後の神社横に祀られた石仏


山神峠へ向かう道

道祖神前からは左ではなく、右に行くのが山神峠へと向かう道です。
分校跡地背後の石積みの上には赤い鳥居と神社(諏訪神社?)が祀られ、
その脇には一体の石仏が何気なく置かれています。

かつて折門のターノミヤという場所にあったという峠の観音堂の本尊、三十三体の観音像が
折門集落が無人になった関係上、紛失を恐れて御弟子の諏訪神社に遷されとの記述が町誌にはあります。
峠を越えるのは村人ばかりではありません、道祖神や観音様などの神仏も峠を越えていたのです。
(ターノミヤとは峠の宮で、折門峠にあった宮のようです)

山神峠へ向かう道は極めて明瞭であり、
かつては両村間の繁多な往来があったことを窺い知ることができます。
青いトタン屋根の小社に山の神が祀られているのを見て、二、三のジグザグを切ると、
二棟の木造の社が南北に向かい合って建つ山神峠に到着です。


山神峠

折八分校が開校されていた頃、
山神峠には毎朝通学する折門の子供達の姿があったことでしょう。
幼い弟や妹の手を引く年長者の姿や、
友と肩を組み歌を口遊みながら登校する元気な学童の姿などが目に浮かびます。

しかし、常に子供達の笑い声が山にこだましていたわけではないでしょう。
雨の日も、雪の日も、険しい山道を通学路として歩かねばならなかった苦労は、
小学校も中学校も自宅から平坦な舗装路を徒歩わずか数分で通えた身には慮ることはできません。

子供達の賑やかな声で峠の朝が始まり、 
山仕事を終え家路へと急ぐ大人達の足音を聞いて峠は夜の帳に包まれる、
そんな峠の日常があったのではと思い巡らすのは、単なる幻像に過ぎないのかもしれません。


明治21年測量同24年製版出版  2万図 「蛾嶽」 大日本陸地測量部

明治期の古い地形図を見ると峠には「卍」マークが記されていますが、
その後の改版された地形図では「神社」マークに変っています。
南北向かい合う建物の、北側が寺で、南側が神社ということなのでしょうか?
それとも廃仏毀釈の影響でも受けて、寺から神社へと変身したのでしょうか?

『下部町誌』によると、南側の建物は皇太神社であるようです。
(北側の建物については記述が見られません。二棟で一つの社なんでしょうか?)
この神社は元禄八年折門村が高萩村から分村した際に、
高萩村の天神社から神霊を勧請奉祀したもので、祭神は天照大神、五男三女命とのこと。
折門は、江戸時代前期においては九一色郷高萩村の枝村であったものが、
中期、元禄年間に分村独立したものです。
ここに祀られている神霊は、高萩から山道を登り折門峠を越えて遷座されたものなのでしょう。
“峠道は神様も越える”そんな光景があったのです。


明治21年測図昭和4年第2回修正測図 2万5千図 「市川大門」 参謀本部

ここを「山神峠」と村人が呼んでいたかは定かではありませんが、【*2】
冒頭に提示した『日本山岳案内』の図中には、御弟子と折門を結ぶ峠の名として
「山神峠」の名前が見られます。

峠には錆びついた標識があり、
「右ハ 折門峠・・・」とまでは判読できますが、その後に続く文字はまったくの判読不能です。
この場所の地名について書かれてあったのではと思われ、大変気になるところです。

目立たぬように「山神峠」と書いた手製標識を取り付けてみましたが、
『日本山岳案内』以外での裏付けが得られていないのでちょっと心配です。


手製標識を取り付ける


良い雰囲気の峠なのです

峠は日当り良好で、春のやわらかな光に包まれています。
年に何度かこの場所で例大祭が行われ、村人達の祝宴なども繰り広げられたのではと、
また要らぬ妄想が広がります。

社殿を閉ざす板戸の節穴からは、ポカポカ陽気に誘われて蜜を求める蜜蜂が忙しそうに出入りしています。
静かな峠に蜜蜂たちの羽音だけがブンブンブーンと聞こえます。


錆びついて判読不能の標識
「右ハ 折門峠・・・・」と書かれていることだけは判る


峠に祀られている武田菱?の刻まれた石碑

峠には武田菱?の刻まれた石碑もありますが、何を意味しているのか不明です。
口碑によれば八坂の集落は甲斐源氏の一族の忠臣が村の開祖であるといわれていますので、
武田氏とも深いつながりがあったのかもしれません。

峠からはすぐに折門の集落跡へ下ろうと思いましたが、
せっかくここまで来たのだからと、折門峠、大平山、地蔵峠まで足を運んでみることにします。


折門峠へ向けて自然林の明るい道が続く
スゴイ快適!


大平山のシルエットが見えてきた
ミヤマツツジが奇麗でした!

折門峠へ向かう山道は快適の一言に尽きます。
自然林に囲まれた明るい道、落ち葉フカフカの幅広の道です。
芽吹いたばかりの緑が目に眩しく、このぶんだと紅葉の時季も素晴らしいに違いないと、
晩秋の再来をひそかに心に誓うのです。

ミヤマツツジの美しさに見とれながらも、大平山のシルエットが近付いてくると、
上折門へと下る道を合わせて現行版地形図上の大平山南方に位置する折門峠へと辿り着きます。


折門峠

蛾ヶ岳と三方分山とを結ぶ一般ハイキングコースが通る折門峠には、
峠名を表記した標識と腐りかけたベンチがあります。
峠名標識をめくりあげると一代前の錆びついた古い標識が残されており、
そこにもここが折門峠であることが記されています。

以前までの地形図とは異なり、現地ではここが古くからの折門峠であったことの証左ともいえます。
ということは、遅ればせながらやっと地形図が現地の情報に追い付き、修正されたということになるのでしょうか。

折門峠は折門八坂地区で暮らしていた人々にとって重要な峠であったようで、
町村合併以前の折門八坂地区住民の目は
南の古関側ではなく、峠を越えた北の芦川側へと常に向けられていたようです。

『折八地区臨地研究報告』の「八坂折門地区の生活文化史考察」(野沢昌康著)という資料の中では、
折門峠の変遷を三期に分けて考察しています。

@折門峠越えの時期
未明の折八地区から林産物(主として木炭)を背負って高萩へと下り、更に市川へと出る。
約三里の行程が昭和初期まで何百年か続いてきた主要路であった。
南側の根子川沿いの道は馬の通るも困難な程の極めて不便な道で、折八地区にとっては裏口になっていた。

A木馬道と林道の時期
昭和18年頃、王子製紙で松を出すため、八坂集落の下から根子まで木馬道が開かれた。
林道は既に昭和14年頃瀬戸から根子まで敷設されていたので、木材の搬出は急に盛んになり
木炭など林産物も南側から移出されるものが出てきたが、折門峠越えは依然として盛んに行われていた。

Bトラック路開通の時期
昭和22年、沢の集落までトラックの走る道路が開通した。
これは折八地区に未曾有の大変化をもたらして従来の表口と裏口がこれで完全に入れ替わってしまった。
トラックは木材、木炭のみではなく日常物資は勿論のこと、所用で盆地方面へ出かける人までを運んでしまった。
人間の場合は大抵、瀬戸までトラックに便乗し、そこから県道を往来するバスに乗って久那土へ出るようになった。

以上、三期の変遷を経て、従来は市川大門町、高萩の商圏に属していた折八地区は、
久那土、瀬戸の商圏に属することになってしまった。
常に往来の絶えなかった折門峠も一片の木炭も越さぬようになり、人影も疎らに芝草が道幅を狭めてきた。
下九一色村から分村して、表口に接続した古関村に合併しようという動きが生じたのも
当然なことであったと、資料は結んでいます。
(以上、「八坂折門地区の生活文化史考察」(野沢昌康著)の要約


△1188 大平山


旧地形図の折門峠

大平山からの富士は日本一の眺めであると礼賛する看板は既に文字が消えかかり判読が難しくなっています。
その看板脇からひと登りすれば、朽ちたベンチのある三角点p1188の大平山です。
雪を纏った富士がちらりと見えはしましたが、この日はご機嫌斜めか厚い雲がその姿を隠します。
『日本山岳案内』には「ボウギ山」の名が見られますが、そんな呼称も別にあるのでしょうか?
「ボウギ」は「朴の木」の意味でしょうか、それともこの山でなにやら「謀議」がなされていたのでしょうか?

大平山の東側山腹を巻いて進めば少し前までの地形図に記されていた折門峠の場所です。
高萩へと下る落ち葉の降り積もった凹状の道が確認できます。
初めてこの山域を訪れた際、山中で日没を迎え、暗闇の峠道を不安を抱えながら
高萩へと下ったことが懐かしく思い出されます。

前・折門峠といえるこの場所に峠名を示す標識は無く、高萩へ下れることを示す道標もありません。
近くの立ち木に付けられた「←精進湖--蛾ヶ岳→」の標識に、
誰が書き加えたか、「地形図の折門峠」との文字が見られます。


栂ノ峠(地蔵峠)


盆地からも見える栂の大木


栂の大木の根元に祀られた六地蔵様も御無事です

さらに尾根を東へと進むと、何度訪れても好印象を受ける栂ノ峠です。
大木の根元に祀られた六地蔵も御無事で、訪れる旅人をやさしく迎えてくれます。
高萩へ下る折門峠の峠道と接続するであろう踏み跡が確認できますが、
折八古関林道へと下る地形図の破線道はどこにあるのやら。

栂の大木の肌に手を触れ、六地蔵に挨拶をくれると、
ここで踵を返し、再びの折門峠から廃村折門の集落へと向かうことにします。


判読不能の標識の立つ分岐から折門へと下る


上折門に残された石仏と落ち葉の道

山神峠から折門峠へ向かう途中にあった分岐から折門へと下る道に入ります。
分岐には標識がポツンと立っていますが、何が書いてあるのか判読はできません。

廃村になってから長い時の経過があるものの、道は極めて明瞭に残されています。
凹とした道形には落ち葉が敷き詰められ、足裏には優しいクッションとなっています。
歩きやすい適度なジグザグと幅広の道、よく設計された道づくりがなされています。
今の今までお客さんが入浴していたであろう濁ったヌタ場を過ぎ、
錆びついたドラム缶が数個転がっている様などを見て、
人間の生活の臭いが残っているのを感じられるようになると上折門です。

戦死した出征兵士を弔う墓の前を通り過ぎます。
出征兵士を村から送り出した場所は折門峠だったのでしょうか?
それとも、もうその頃には久那土へ向かう道が外界への表口として使われていたのでしょうか。

山の子供達の笑い声も、家畜の鳴き声も、炭焼き釜から立ち昇る煙もありません。
生活音も人煙も一切合切消えた廃村で、稀なる旅人を迎えてくれたのは、ただ一体の路傍の石仏でした。
この石仏は御弟子側の神社脇に置かれていたものとそっくりです。


上折門の集合墓地に迷い込んだ


山神峠南のp1031を目指せば峠道は見つかる

家屋や畑があったと思われる雛壇状の平坦地は、草が蔓延り荒れるに任せています。
進むべき道が見出せなくなり戸惑いを覚えます。

この地で亡くなり、この地に埋葬された村人の霊が、
昔話を教えてくれようとしたのか、旅人は集合墓地に呼び込まれ背筋が寒くなるのです。
生きている人は村を立ち去ることができても、
先祖代々の亡骸を移動するのは容易なことではありません。
墓地が残っているということは、墓参にやって来るかつての住人がいるということでしょうか。
「八坂は武士の村、折門、御弟子は坊主の村」との言い伝えもあるぐらいですから、
死者を弔う心は簡単に消えはしないでしょう。

廃屋を見るためにはもう一段下まで降りないとダメなのでしょうか?
しかし、あまり高度を落としてしまうと、山神峠に復帰するのが面倒になるので、
墓地を見たきりで廃村上折門を後にします。

山神峠へと向かう明確な道跡は見当たりませんが、
峠方向に進路を取り、峠南のp1031峰のシルエットを目印に歩き始めれば、
すぐに踏み固められた峠道が出現し、不安は解消されます。
落ち葉に埋まる小さなナメ沢を巻き込むように道はつけられ峠へとのびています。
この道を歩いて折門の子供達は分校へと通学していたのです。

「上折門、下折門はかつて18戸を数えていたが、各所に分散移住し、
残った村人も昭和45年3月挙村離村し、現在は完全な無人部落化してしまった」
『下部町誌』にはこのように書かれているだけで、なぜ廃村になってしまったのか、
村人達はどこへ移住していったのか、その詳細については記述されていません。

もしも自分がこのような土地で生まれ育っていたならば、
どのような人生を送っていただろうか、人生がどう変っていただろうか?
人はその生まれた場所によって人生を大きく左右される・・・
そんなことを考えながら峠までの踏み固められた道を学童の幻影を追いかけて歩むのでした。

かつて学童が越え、教師が越え、生活物資を背負った村人が越えた峠道、
遷座のために神霊が越え、道祖神も越えた峠道。
いまは年に数度の墓参者と廃村の響きに誘引される旅人を迎えるだけなのでしょう。
再び踏んだ山神峠に、先ほどまで飛び交っていた蜜蜂の姿はなく、静けさが取り戻されていました。

【*1】

折門八坂の地域においては、江戸時代にはいわゆる寺子屋式の教育も行われず、
学生発布後数年を経た明治10年に折門分教場が設置され寺子屋式の教育が行われるようになったといいます。
明治22年には下九一色尋常小学校折門分教場となり、
同31年にはこれまで主として使われてきた上折門のお堂(すでに焼失)から新築校舎が開校となり、
やっと学校の形態が出来上がります。
しかし、人家を遠く離れた寂しい山の神の場所故に教師も永く勤めかね、
数年後には、上下折門の反対を押し切って強引に現在の跡地に分校は移転したと分校沿革史には記録されています。

その後、昭和16年には下九一色国民学校折門分教場、同22年には下九一色小学校折門分校と改称し、中学校も発足。
同26年には折八分校となり、同29年には折八地区合併により下九一色村を離れ、古関小学校の分校となりました。
昭和35年には中学校折八分校が、昭和48年には小学校折八分校が、根子分校、磯分校と共に本校に統合され閉鎖されました。

町誌には、折八分校より各集落までの距離が次のように記されています。
 下折門まで1,100メートル、三ッ沢まで2,900メートル、上折門まで800メートル、八坂まで3,000メートル、沢まで900メートル

上折門までは、もっと距離があるように感じましたが、それは山道だったせいでしょうか。
「分校の位置は、山の中腹で各集落間のほぼ中央にあった。従って学校への道は、狭い尾根伝いか、又は沢沿いの道で、
雨の日や雪の日の登校は、想像以上の困難が伴ったものと思われる」とも記されています。

本校の古関小学校校歌三番には「すがしい 朝の坂こえて 通いよりそう この窓べ♪」との歌詞がありますが
分校に通う生徒や先生の峠越えの朝は「すがしさ」ばかりではなかったはずです。

【*2】

『新ハイキング509号』1998.03月号の「蛾ヶ岳から天狗岩」(小林経雄著)の紀行文の中で、
蛾ヶ岳-天狗岩間のp1174〜p1052を歩かれている描写に「造林地標示板に字山ノ神と書いてある。この辺りが山ノ神峠だろうか」
との一文が見られます。この付近には同様の峠名が他にもあるのでしょうか?

【参考文献】

『下部町誌』 (身延町のHPで全文閲覧可能
『折八地区臨地研究報告』 下九一色村  「八坂折門地区の生活文化史考察」 野沢昌康
『日本山岳案内3・中央線に沿ふ山・御坂山塊』 鉄道省山岳部編 博文館

● 初めて折門峠、地蔵峠を訪れた時のレポートを見る

● 二度目の地蔵峠訪問レポートを見る

 

(峠行2008.04.25)

 


折門峠


栂の峠(地蔵峠)

【折門峠】

「折門の御弟子と三珠町高萩の向村を結ぶ峠。
御坂山地西部の釈迦ヶ岳から蛾ヶ岳に至る稜線には数ヵ所の峠があるが、そのうちの一つ。
標高1,100メートル余。峠の鞍部にタワの宮が祀られており、タワ峠ともいう。
峠は山稜の鞍部に位置するのが一般的で、峠の語源はその形状を意味する<撓む>から派生したとされる。
タワの宮とは鞍部に鎮座した峠の宮をさしたものであろう。
当峠は芦川流域及び市川大門村方面とを結ぶ交通路として重要な役割を果たしていた。」
(『山梨県の地名』 平凡社 1996年 行政区分は当時のまま)

「御坂山地内、釈迦ヶ岳(1256)から大平山(1188)に至る稜線上の鞍部の一つで、
大平山を東に下った部分に位置する。西八代郡三珠町と下部町の町界をなす。
標高約1,105m。三珠町の高萩方面と下部川上流の下部町折門方面とを結ぶ。
現在は分水界を境に2町に区分されるが、かつては同一の下九一色村に属し、
かつ折門から久那土方面へは道路が長いため、当峠が利用された。
なお折門には昔銅山があったと伝えられる。
(『角川日本地名大辞典』 角川書店 1984年 行政区分は当時のまま)