西丹沢の奥深き峠

山神峠・織戸峠・富士見峠


異彩を放つ山神峠の石祠


朽ちた道標が転がる富士見峠

念願の山神峠から椿丸を経由して、織戸峠、富士見峠と巡る西丹沢の奥深き峠を拾う山旅をしてきました。
「山神峠」といっても、有名な玄倉の「山神峠」ではありません。
謎を秘めた浅瀬の「山神峠」です。

以前に同コースを歩こうと、挑戦したのですが、山神様のパワー(?)でカメラが故障したのと、
静かな山域を守り続ける小さな衛兵であるダニの猛襲を受けたことで、
敢え無く山神峠で敗退してしまいました。

今回は、ダニ対策では完全武装を施し、リベンジの覚悟で挑みました。
山神の秘めたるパワーでカメラが故障した時に備えて予備機を持参する徹底振りでした。
またぞろ失敗して、次の機会にと簡単に再挑戦することができないエリアだからです。

●浅瀬から取り付き点まで●

三峠の内でも、山神峠と織戸峠は神奈川県内の「〇〇峠」と名前が付く中では最難関の峠であると思います。
(〇〇乗越や〇〇打越、〇〇タルを除いた中では)

「エーッ!そんなことはないだろう!」と異論を述べる方も大勢いるかもしれませんが、
「ダニノイローゼ(ダニ恐怖症)」の身にとっては、最も難度の高い峠行と成り得るのです。
ダニに比べれば、東丹沢のヤマヒルのほうが我慢できます。
(最近は、カニの姿がダニを巨大化した姿に見えて食べることがなくなりました。 かなり重症のようです・・・)


浅瀬のゲート

ダニ好き(?)の人にとっても、この三峠はなかなか厄介です。
公共交通機関の便の悪さ、長い林道歩き、地図に載っていない山道、
一部不明瞭な踏跡、皆無の標識、ハンターと猟犬、等々
いくつもの高いハードルをクリアしなければなりません。

せめて、自転車で林道が走れればいいのですが、
浅瀬監視小屋の前でガッチリとゲートは閉ざされています。
「平成7年から事故多発の為、一般車両、自転車の乗り入れ禁止」
「早朝4時前の入山禁止」の看板が括りつけられています。

当日、ゲート付近には多くのハンターが集結していました。
数日前に駿河小山で誤射による人身死亡事故があったばかりなので、
ぞっとしましたが、話し掛けてみると、そんな奥には入山しないとのこと。


この看板が目印

ついでに、ハンター独自のダニ対策を伺ってみると、
「そんなもんは無いなぁ〜」とのことでした。
ハンター氏曰く、「ダニは一年中居る」し、
「どんな寒い日にも居るべぇ〜」とのことでした。

前回は3月の啓蟄の日に訪れ、ダニの猛襲を受けて撤退したので、
今回は冬本番クリスマスの翌日に訪れたのに意味が無かったかな?
でも、暖かい日より寒い日のほうが活動が鈍ることは確かなようなので
意味が全く無いわけでもありません。

本当はもっともっと寒い厳冬期に訪れたかったのですが、
路面凍結で車による浅瀬までのアクセスが難しくなると、
日が短い時季だけに計画自体が困難になりますし、
ただでさえ薄い踏跡が積雪に隠される心配もあり、
多少のダニとのお付き合いは覚悟しなければならないのです。


ダニ対策完全武装

ゲートの脇をすり抜け、トボトボと林道を歩きます。
吐く息は白く、フードをスッポリ被っていないと耳が痛くなります。
この寒さからして意外にダニは少ないのではとの期待を抱きますが、
取り付き点の「山神悪沢取水口入口」の看板に辿り着いた時には、
朝陽が山上を照らし、気温の上昇は決定的になっていました。

前回の反省から簡単にダニの取り付きを許す軍手の装着はやめて、
食器洗い時に使うようなビニール手袋を採用しました。 
これはなかなかの優れもので、取り付いたダニを
弾き飛ばすには好都合ですし、袖口からの侵入も防いでくれます。
しかし、手袋内部が汗でグショグショになるという欠点があり、
かえって汗の臭いでダニを引き付けているのではと疑念が湧きます。

前回未使用のロングスパッツは見事に威力を発揮してくれました。
不思議とスパッツ部分に取り付く奴は少なく、
膝から上の腿の部分に取り付きが集中していました。
 (単に、色のせいで目立たなかっただけなのかも?)
それでも、靴の中への侵入を防ぐスパッツの功績は評価できます。


三保山荘の廃屋

さらに、家庭用殺虫剤「アースジェット」を持参しました。
効果・効能の表示欄に「イエダニの駆除」とありましたので、試しに・・・
対戦相手のヤマトダニ、フタトゲチマダニあるいはツェルツェマダニに
効果があるかは知りませんが、気休めに。

北海道の山を歩く時に持つ「ヒグマ除けスプレー」のようなもので、
持っているだけで、なんとなく心強いものです。
背丈を越える笹ヤブをくぐる時に散布してみましたが、
実際に効果があったかは不明です。
風が吹くと自分の顔にかかったり、あらぬ方向に流れたりと、
取扱いに多少の問題がありますし、
生態系に悪影響を与える可能性もあるので、
使用は今回が最初で最後です。

さて、ツルツル素材のアウターに身を固め、
頭に手拭を巻き、フードをスッポリ被り、廃屋の三保山荘の裏手から
いざ!難敵が息を潜めて待ち構える尾根に取り付きます。

でも、静かな山からして見れば、
尾根に取り付き、自然に踏み込み、勝手な振る舞いをする人間は、
ダニのような存在なのかもしれません。

本来のダニは静かな山を守る小さな衛兵なのかもしれません。

●謎を秘める山神峠●

廃屋の裏手から檜の植林地を抜け、取水口巡視路の分岐までは何の問題もありません。
この分岐から真っ直ぐ尾根を辿り、植林地の斜面を登るのですが、その入り口のわずかな笹ヤブで
早くもダニの歓待を受けることになります。
「あぁ〜やっぱり」と落胆しつつも、一匹一匹指で弾き飛ばして先へ進みます。

地図をよく見て尾根を拾って行けば、山神峠には辿り着くことができますが、
なにもクソ真面目に尾根を拾うことはありません。 少しでも笹ヤブとの接触を避ける必要があります。
踏跡も実際には進行方向右側に巻き気味に付いているのでそれを辿るのがよいでしょう。
そうすれば笹ヤブは、微かな作業道が越える名無しの鞍部(青テープと牛乳ビンと焚火跡あり)付近と、
鹿の糞が散乱している鹿の寝床付近の二箇所ぐらいで済みます。


峠の凹からは富士が見える
社は富士を背にしている

再び対面することができた異彩を放つ山神峠の山神様。
前回訪れた時にもあった御神酒の「富久娘」が
そのままの姿で残っていました。
あれから9ヶ月、お参りに来た人はいないのでしょうか?

丹沢山中広しといえども、ここの山神様ほど
得体の知れぬパワーを感じる所はありません。
どんな目的で祀られた神様なのでしょうか。

山中奥深くにしては立派な社の中に、
三つの異なる部材からなる石を微妙なバランスで積み上げています。
中央には木札が納められているのですが、
何が書かれていたかは判読できません。


山奥にしては立派な社だ

山中の移動民であった木地師や鉱山師(付近に金坑跡あり)、
あるいは猟師の信仰の対象だったのでしょうか?
それとも、幻の漂泊民「サンカ」と関係があったのでしょうか?

祠脇の凹とした峠の窓からは富士を望むことができます。
つまり、この石祠に頭を下げることは、
富士に向けて頭を下げることにもなります。
さらに空想を膨らますと、木地師の総本山とも言うべき、
滋賀県蛭谷や、天皇のおわした京都に向けて
頭を下げることになります。


台座に刻まれた十六花弁の菊の紋章

注目すべきは台座に刻まれた十六花弁の菊の紋章です。
その脇には、唐草模様のような波形模様も見られます。

確かに木地師は菊の紋章を使うことがありますが、
そう滅多矢鱈には使用することはなかったとも言います。

名著『丹沢・桂秋山域の山の神々』(佐藤芝明著)の中では
様々な推測が展開されていてとても興味深いです。 
<*1>

この菊の紋章の謎が謎を呼び
醍醐天皇との関わり、醍醐寺と修験道、大政奉還後の御料林、
駿河小山の古老の話としての鉄砲の神様と弁財天、
雛鶴姫との関係、南北朝時代の新田勢との関わり、等々
いろんな憶測を巻き起こしたとか・・・。


『丹沢・桂秋山域の山の神々』
(佐藤芝明著・丸ノ内出版)

大正時代には「山神と醍醐様の伝説」を発端にして、
埋蔵された財宝探しが繰り広げられたとも記されています。
読んでいてワクワクするし、著者の私的な山神との不思議体験も
おもしろいところです。
山神峠を訪れる際は是非一読されることをお薦めします。

台座には菊の紋章の他に、
「新山小奉行」と「平岡文(久)八」他計四名の名も
刻まれているそうです。

山中移動漂泊民の信仰対象物だと思っていましたが、
「新山小奉行」とあるところをみると公的な機関が設置した
ものなのかもしれません。
・・・それはなぜか?

『足柄の文化12号』(山北町地方史研究会発行)の
「相甲駿国境紛争と公裁」(石田昇著)という 
<*2>
江戸時代の古文書に見られる国境争いを考察した記事を
拝見していたところ、文中に「山神峠」の名を見つけました。

甲州側が大棚や土沢付近まで、さらには三国峠から見通して
山神峠・箒沢・二俣杉(二本杉峠かな?)・狗越路(犬越路)まで
の領有を主張するのに対して、相州側が反発する内容です。

その中に、「昔から山神峠に石祠を勧進し、領主役人の名も
刻んでいるのだから、まぎれもなく相州領だ!」といったような
趣旨の話が出てきます。

  「山神社の儀も、往古勧進いたし候由申す・・・
  新山小奉行宮津五右衛門他四人の名前彫り付け・・・」 云々等。

結局、国境争いは、甲州側の主張は却下され、
相州側の主張が多くの証拠をもとに受け入れられるのですが、
裁定の際には山神社の存在と刻まれた新山小奉行の銘が
大きな意味を持ち、相州側に有利に働く役割を果たしたようです。


東側は山神沢に下る道があります。

西側はザレていて危険ですが、
s-okさんの記録によると、
林道に降りることができるそうです。

相州側の領域であることを裏付ける数ある証左の中でも、
重要なものの一つであったようです。

もしかしたら、この山神峠の石祠は、
相州領域内であることを主張する為にわざわざ置かれたもの、
あるいは後に既成事実化するために祀ったものではないでしょうか。
積み重なった異なる石材からなる石祠は急拵えの感もあります。
慌てて証拠作りに躍起になって拵えたものかもしれません。

菊の紋章なんか付けちゃうと、さらに威厳が増して、
甲州側は文句の一つも付け難いことでしょうから。

勿論、推論の域を出ませんが、
山神峠の山神社と国境線紛争は何か関係がありそうです。

<*1> 同著者の『山の神の民俗と信仰』にも山神峠の記述があります。ともに丸ノ内出版。

<*2> ここに記された山神峠が、今回訪れた山神峠のことか100%自信はありませんが…。
    高指の北、要所小屋ノ頭を山神の峰とも言うそうですし、椿丸も山神ノ頭とも言うそうです? でもそこには山神社はない?
    この文献には、他にもいろんな名前の峠が出てきて興味深いです。 
      吉政峠(字高指の峰)、二俣杉(二本杉峠?)、綱峠(ヅナ坂?)、狗越路(犬越路)、芳坂峠(切通峠)、
      くらふね峠(鞍骨峠)?、ざれ峠(馬場峠)、安永度境筋堀切?、籠坂峠、天神峠 など。 
      特に鞍骨峠ってどこのことだろう・・・?
    世附・中川・玄倉を奥山家三ヶ村とか「新山三ヶ村」といったようです。
    小田原藩は世附奥の山間部一帯を「新山」と称していたようです。

●椿丸を経て織戸峠へ●

 謎の多い山神峠を後にして、椿丸へ向けて北に続く尾根を辿ります。
とりあえず次の尾根に出るまでが一直線の急な登り道で汗が噴き出します。
幸いなことに、ダニの取り付きが少ないことに救われます。


椿丸へ続く道 ほぼ水平

登り切った小ピークには、なぜかUHFのアンテナがあり、
ここを直角に東に向けて折れて進みます。
足下には境界見出標61があり、椿丸まで続きます。
途中で番号は消えてしまいますが120ぐらいまであったかな。

しばらくはアップダウンの少ない、快適な道ですが、
枯れた笹ヤブが現れ出すと、ズボンにはいつの間にか
ダニが取り付いています。 油断できない道です。


椿丸手前の大栂分岐から大栂・菰釣山を望む
手前は伐木後のススキ原

椿丸手前の大栂分岐から椿丸は目と鼻の先。
景色が良いのは大栂分岐なので、こちらで小休止。

立ったままで99円ショップで買ってきたパンを食べます。
座って休みたいのですが、ダニを極度に警戒し過ぎて、
落ち着かない立ち食いとなりました。


平凡な椿丸山頂

椿丸山頂は極めて平凡。
山頂手前からの眺望は極めて非凡。

「椿丸」とはいうものの椿は咲いていない。
「ケヤキ丸」という別称もあるらしいが、欅の姿も見られない。
「ススキ丸」とか「ダニ丸」にしたらどうだろうか。
それにしてもいろんな意味で遠い山である。
もう今後訪れることは無いかもしれない。

外れかけた山名プレートに「SHC」の文字があった。
「新ハイキングクラブ」の意味であると思われる。
恐るべし中高年グループ。


山頂付近から丹沢中心部を望む
前衛の凹は二本杉峠 右の山体は権現山

椿丸からさらに尾根を進み、838m峰、795m峰、780m峰と
つなぎ浅瀬に戻ることもできるらしいが、
食指が動くことは無かった。

大栂分岐から織戸峠の間は、
最高の濃密度でダニが棲息しています!!

歩きはじめの伐木跡地のススキ原は、
躊躇することなくススキ原を突進すべきでありました。
ススキ原と笹ヤブの境に踏跡があり、
そこを歩いてしまった為に下半身はダニの取り付きが著しい。

ススキの穂がまとわり付くのを嫌ったが為に、
それ以上の不快な状況を招いてしまったのは選択ミスでした。



ダニに用心あれ!!

左写真のダニは小形サイズです。
写真に写らない超極小サイズがいるので要注意です。
大袈裟ではありませんが、毛穴に入り込みそうなぐらいミニな奴です。

大形サイズは腹の模様が不気味だし、動きが速いので、
取り付かれたら直ぐに指で弾き飛ばします。

ちなみに擦っただけでは、別の場所に移動するだけなので、
指先で弾き飛ばすことが肝要です。
軍手では弾く際に指に取り付かれることがあるので、
ゴム手袋が有効です。

明るい色のズボンを履き、発見を容易にする必要があります。
間違ってもフリース素材のアウターなんかを着用してはいけません。
ツルツル素材に限ります。
できれば、縫い目やポケットなどの少ないものがいいでしょう。
帰宅後ポケットの中にお土産が・・・なんてことがないように。

なにせダニはツルツルしたガラス面にもくっ付くことができる高い運動能力を持っていますから侮ってはなりません。
単独行の場合は手鏡を持参して、顔への取り付きチェックが必要です。
同行者がいる場合は、同行者を自分より先に歩かせるなどの工夫(謀略?)が必要かもしれません。

ダニが何に反応して人間に取り付くか疑問だったので、いろいろ調べてみると、
高性能のセンサーを持っていることがわかりました。
ハスラー器官と呼ばれる独特な器官で、熱・振動・二酸化炭素を感知して、瞬時に飛びついてきます。
そして、柔らかい場所、皺のある場所を探して這いまわり、ノコギリの刃のような鋏角で切開し、
ギザギザのカギの付いた口下片を傷口に差し込み、セメント状の物質でガッチリと固めてしまうのです。
そして、ゆっくりと時間をかけて血を吸い、体重の数十倍の血液でお腹を満たすのです。
それだけならヤマヒルと同様で、たいした問題ではないのですが、
厄介なのは一部のダニが日本紅斑熱やライム病の原因となるボレリアというスピロヘータの一種を媒介する点です。
北海道のツェルツェマダニの15.3%は病原体を保有しているといわれています。

下山後は、衣服を払い落とし、入浴し、着替えをすることが大事です。
入浴の際は脇の下、膝の裏、陰部、腹、首筋を要チェック!
食込んでいても48時間以内に見つければ、細菌・ウイルスの感染は防げるといわれています。
食込んでいるダニを見つけても無理に引っ張ってはいけません。顎だけ残してちぎれてしまうことがあるからです。
また、引っ張る際にダニの体を潰してしまうと体液が逆流してウイルス感染の危険が高まることになります。
アルコール等で弱めてからだと抜きやすいともいいますが、アルコールが強すぎて殺してしまうと抜けなくなるともいいます。
容易に抜けないときは皮膚科に行って切開手術で取り除いてもらうしかありません。

ヤマヒルも不気味ですが、ダニはなんて恐ろしい奴なんでしょう!
(自分もダニのような生活を送っているから批判ばかりもできないが・・・)

一匹のメスのマダニは3000〜4000の卵を産むそうです。
ちなみに、衣服に取り付いている場合、洗濯しても死なないそうです。
それに加えて飢えにも強く一、二年何も食べなくても生き続けることができるそうです。
小さいくせに忍耐の塊のような生物です。 (その後、ダニをフィルムケースに入れて持ち帰ったが数日後に死んだ!酸欠か?)
こんな強靭なダニを採集してペットボトルに詰めて、満員電車の中で解き放ったりしたら・・・これは立派なテロですね。



織戸峠全景
といっても笹ヤブにしか見えないかも

大栂分岐からススキ混じりの笹ヤブを抜けると、
鹿柵(鹿ネット)のあるピークへ。

ピーク手前で早くから左手の踏跡に逃れてしまうと、
ピークから派生する小さい西尾根に流されてしまいます。
実際明確な踏跡があったので誘い込まれてしまい、
ちょっと道に迷ってしまいました。
(ミスコース上の二ヶ所に白いビニールヒモを付けて、
そのまま残置してきてしまったのが心残りです・・・)

途中でコースミスに気付いて軌道修正したのですが、
笹ヤブを右往左往した為に、
大小無数のダニに取り付かれてしまいました。
この付近は、「三歩足を運んでは十匹付着する」という
棲息密度ハイレベル地帯です。

さすがにここでは「ヒェー!なんじゃこりゃ!」と
悲鳴をあげてしまいました。


富士見峠へ続く道側から見ると
一応、峠らしく凹としている

古い雑誌『山と渓谷98号』に「世附川流域の峠」という記事があり、
織戸峠については次のようなコメントがありました。

 「付近の峠中、最も旅情豊かなところと云えよう。
  静かに味わうべき峠であり、追憶にふけるには
  ふさわしい境地である」
 と、

追憶に耽る余裕など無く、ダニのことしか頭には無かった。

●織戸峠から富士見峠へ●

 織戸峠の表記は降戸峠・折戸峠・オット峠・オリド峠と様々です。
「オリト」とは地形語で「坂をオリタトコロ」の意味であるといいます。
道志村から菰釣山を経て大栂からの坂を「オリタトコロ」の意味であったと思われます。
地蔵平から、あるいは水ノ木から、道志村とを結ぶ山越えの道として往時は人の行き来が頻繁にあった
重要路だったと考えられています。


富士見峠への道
出だしは快適な道に見えたが・・・

織戸峠からは大栂を経由することなく、
直接に富士見峠へ向うことにしました。

かつては「地蔵平〜富士見峠〜織戸峠〜馬印〜切通峠〜山中湖」を
結ぶ古道があったといいます。

開設当初の「東海自然歩道」もこのコースを採用していました。
今では道筋は地図から消え、笹ヤブに埋もれ、
多くの箇所で崩壊していることでしょう。
そのほんの一部分である織戸峠〜富士見峠間を
探索してみることにしました。


法行沢に出た地点
小広い台地となっている

出だしの数十メートルは、ほぼ水平な快適歩道だったので、
「なんだ、意外に良い道が残っているじゃないか」と思いましたが、
すぐに最初の沢筋の崩壊地が出現し、
そんな甘い思いも一瞬で消え去りました。

対岸に道が続いているのが確認できたので、
なんとかクリアして進むも、この後も断続的に道は滑り落ちていました。

しかし、道筋はハッキリしているので進行方向を見失うことはなく、
緩やかな下り勾配で法行沢出合に導かれました。


法行沢を溯ると赤い水が
湧き出ている場所がありました

法行沢出合は、テントが何張りか張れそうな小広い場所で、
キャンプサイトとしては、なかなか快適な場所であり、
沢から一段、二段と高くなった台地状を呈しています。

昔、木地師が小屋掛けでもしていた場所なのかもしれません。
流水を利用して轆轤を回し、仕事をした場所なのかもしれません。

法行沢には昔、行者が草庵を建て住みついていたというから、
あるいはこんな所で瞑想に耽っていたのかもしれませね。
ふと、都会の喧噪から離れて、こんな場所に庵を結び、
ぽつねんと暮らすのも悪くはないと思ったりもしてしまいます。

テープのマーキングが、そこらじゅうにあるのですが、
肝心の富士見峠へ続く古道跡が見つかりません。
このマーキングは、沢登りの溯行終了点を示すものなのだろうか?


林道に這い出した地点にある
謎の「メリット5」の標識

結局、古道の痕跡を見失い、止むを得ず法行沢を溯ることに。
溯行途中に、赤い錆色の水が湧き出る不思議な場所がありました。
何か鉱物を含んでいるようです。 
銅だろうか?それとも金鉱床だろうか?

(よくよく考えれば、すぐに対岸へ渡渉して、下流を探るという手もあった。
803m峰の南側に古道が付いている可能性もあったのだから…。
勝手に803m峰の北側と林道との間の鞍部に古道があると思い込んでいた。)

途中支流を二本左に見送り、右へ右へと進み803m峰の北側に
這い上がり、林道のヘアピンカーブの地点に飛び出しました。
飛び出した地点に「メリット5」の意味不明な看板あり。


朽ちた標識が転がる富士見峠

林道に出た所で、ホッとして大休止。
ダニの心配がない林道は、なんて素晴らしいのだろうと涙する。

さっきまで悪戦苦闘していた椿丸〜織戸峠間を遥か向うに眺めて、
林道をトボトボ歩いて富士見峠へ。

他のHPで確認した時、立っていた峠の道標は、
いくら立って待っていても訪れる人のいないことに疲れてしまったのか、
役目を放棄して横臥していました。
なんだか哀愁漂う峠です。


一応、凹としているが
そのすぐ向うは林道が走る
峠の西側はV字状の沢筋で崖!
古道はどこに消えたのか?

地蔵平への古道は、一見すると歩けそうに思えるのですが、
事前情報では崩壊しているとのこと。

先述した『山と渓谷98号』の「世附川流域の峠」という記事の
富士見峠のコメントには次のように記されています。

 「郵便配達夫も毎日通っている位であるから
                     何ら危険なことはない」 と。

この先どうするか迷いましたが、ダニのいない林道歩きの
誘惑に負けて、長い長い歩行距離を覚悟の上で、
地蔵平、大又へ下ることにしました。
(林道歩きなら日が暮れても歩けますから良い判断でした。)

●地蔵平・大又へ●

 長い林道歩きは辛いですが、未知の道を歩くのは実に楽しい。
丹沢の奥深さをあらためて知ることができました。
しかし、林道は人を安易に山懐に導く道でもあります。
善からぬ事をする輩も往々にして招き入れることになります。


不法投棄らしき古タイヤの山


散弾銃の薬莢


キリンビール水源の森

一般車両通行止の林道に
誰が捨てたのだろうか?
林道建設工事会社?
それとも森林組合か?
林道上に無造作に落ちていた猟銃の薬莢。
踏んづけて暴発したりしないのだろうか?
ハンターのマナーが問われる。
鉛汚染の問題は対処されているのだろうか?
興醒めするネーミングの森だ。
なんてね、ただ咽喉が渇いていて、
恨めしい名前に思えただけです。
沢の水がビールだったらと・・・・


地蔵平 
遠くに大界木山が見える

長い林道を歩いて辿り着いた地蔵平。
大又沢流域の戸数は一時は200戸を越えていたというが、
現在は寂寥としている。

富山県や、隣接する山梨県、静岡県から多くの出稼ぎ者が入り、
林業や治山、炭焼き、電源開発の仕事に従事していたという。
分教場もあり、ささやかながらも人の営み、生活があった土地。

かつて人煙が昇っていたという地も、
今はただ甲相国境稜線から冷たい風が蕭蕭と吹き降りてくるだけ。


地蔵堂が残る
ちゃんちゃんこを重ね着した子育地蔵様
今も信仰は厚い

震災後の山津波で亡くなった
犠牲者の供養の地蔵だと思って
いましたが違うようです

地蔵平のお地蔵様は、もとから現在の位置にあったわけではなく、
セギノ沢(マルサンダイラ)に祀られていた。
昔、ある人の夢枕に立ちセギノ沢に寝ている石が地蔵なので、
掘り起こして祀ってくれといわれたという。

地蔵は子育て地蔵で、祀った以後はお産で亡くなる人は
いなくなったという。 
また、後産がおりないときは、夜中でも提灯を持って
お地蔵さんの腹をさすりに行くと、帰ってくるまでに不思議と
ノチがおりたという。 <*1>

山に囲繞された地であり、医者もなく、
地蔵に縋るしかなかった厳しい現実がそこから窺える。

急患の時は駿河小山から峠を越えて医者が上がってきた
こともあるというし、つわりがひどかったために、亭主と姑に
おぶってもらって峠を越えて平野(山中湖村)の診療所へ
運ばれた女性もいるという。 <*1>

大島亮吉氏の「十文字峠」の情景を髣髴とさせる。
熱を出した幼な児を背におぶり、川端下から十文字峠を越え
大宮(秩父)を目指していた親子の姿を。


今に見る森林軌道の名残
レールを再利用した道路ゲート

昭和9年(1934)に浅瀬から地蔵平まで、
延長7234mの森林軌道が敷かれ、
林道開設工事が始まる昭和35年(1960)に廃止されるまで、
木炭、木材、生活物資などの搬出入に活躍していた。

その名残であろう森林軌道のレールが林道のゲートとして
使用されています。
(この件はs-okさんのレポで知りました)


大又の山神社

誰も住む人の居なくなった大又沢沿いに
今もひっそりと山神社が祀られています。

大山津見命を祀るとされ、
山神が集落の人々の氏神的存在として祀られていたといいます。

大又、法行、水ノ木には山の神があり、
大又の山の神が大元であったそうです。 <*2>

祭日には小山町生土から神主がお祓いに来ていたといいます。
きっと、神主さんも峠を越えてやって来たことでしょう。


●山々に囲繞された集落〜行商人が越えた峠〜●


「千鳥橋〜二本杉峠間極めて危険、初心者不向き」の看板

かつて分教場の子供たちが本校へ通うときに越えた二本杉峠は荒廃しているようだ

山々に囲繞された地蔵平の暮らしは過酷であったが、
明治時代末から行われた発電所取水口工事の経緯から大又沢には早くから電気が引かれていたことや、
行商も頻繁に回って来たことで生活は十分に維持することができたといいます。

山峡集落の暮らしを支え、生活に潤いを与えた行商人は、
集落の東西南北に点在する峠を越えてやって来たのです。

小山からは世附峠や峰坂峠を越えて、魚屋がやって来ました。
乾物や佃煮のほか、納豆なども持ってきたそうです。
魚屋さんに釜や鍋、瀬戸物などを頼むと、仕入れて持ってきてくれました。
御用聞きも兼ねていたようで重宝がられていたといいます。

平野(山中湖村)からは三国峠、明神峠を越えてフナ(鮒)を売りに来ました。
フナは湿らした新聞紙に包んでおくと、生きたまま持ってくることが出来たといいます。
平野(山中湖村)へは、水ノ木を経て明神峠、三国峠を越えるのが一般的で、
大棚沢から切通峠を越える道は、距離的には近いが、道が険しい為あまり使われなかったようです。

道志村からは城ヶ尾峠を越えて、機械を背負ったスットン屋という菓子屋が来ました。
米と砂糖を持ち寄ると、その場で菓子を作ってくれたそうです。
道志村でとれたトウモロコシの粉で煎餅を焼きながら売りに来たこともあったといいます。
富山の薬売りも、きっと城ヶ尾峠を越えてやって来たことでしょう。

山北からは月に一度、衣料品を売りに金子屋がやって来ました。
三保ダムのできる前ですから、松ヶ山峠や三神峠を越えてやって来たのでしょう。
飯場などでは作業服や子供服がよく売れたそうです。

山の神や、お地蔵さんのお祭りの日には、二本杉峠を越えて中川の大仏地区の人が、
お菓子や花火を売りに来ることもあったそうです。

大正12年(1923)に開校した三保小学校の分校の在籍児童は、最も多い時で40名ほどいたといいます。
運動会や健康診断などの行事には中川の大仏地区にあった本校へ通うため、
列を組んで二本杉峠を越えたといいます。
また、この分校には大滝沢からも7,8人の子どもが通っていました。
その子たちは、朝まだ暗いうちから大滝峠を越えて通学して来たことでしょう。

一見すると外部から隔絶された地に見える地蔵平・大又の集落ですが、
集落の暮らしを四通八達した峠道の数々が支えていたといえるでしょう。                 <*1>


切通峠


世附峠


二本杉峠


城ヶ尾峠


大滝峠


松ヶ山峠付近

<*1> 『山北町史』 より

<*2> 『山の神の民俗と信仰』(佐藤芝明著)には、大又沢の山の神の氏子一族は木地師集団であるとしている。
     また、大井川水系の人々とのネットワークを臭わせる記述もあり大変興味深い。

●日没、そして山旅の終わり●

 林道を法行橋付近に来た所で、辺りは闇に包まれました。
冬のこの時季は日が暮れるのが早いです。 (大栂・大ダルミまで足をのばしていたら遭難していたかも)
しかし、ダニの被害を最小限に抑えるためには、この季節の峠行しか考えられません。

暗い夜道の一人歩き。ヘッドランプの頼りない光では、林道を歩いているとはいえ心細いです。
法行沢に残る「測量技師惨殺と愛犬の話」など思い出すと、ちょっと不気味です。 <*1>
ブルブルッとしたのは、日没後の気温低下のせいばかりではないようです。
うしろから誰かがついてくるような錯覚さえ起こします。
「送り狼」だったら、振り向くと食べられてしまいます。 <*2>

昔の旅人や行商人は、暗い夜道や、まだ星の残る明け方からも、
月明かりや、頼りない提灯の明りを灯して山道を歩いたことでしょう。
それに比べればビクビクすることはありません。

浅瀬橋に近づくと、猟犬が戻ってこないのか、それとも仕留めた獲物の搬出に手古摺っているのか、
数組のハンターが暗闇の中に待機していました。
狼や物の怪(もののけ)の恐怖よりも、ハンターの誤射がなによりも恐ろしく感じられました。


三保ダムのクリスマスイルミネーション

沢山のアベックたちがイチャイチャと戯れたであろうクリスマスの翌日に、
西丹沢の奥深くで無数のダニたちと戯れてきました。

ひとけの無い静まり返った丹沢湖畔のクリスマスイルミネーションが
とても淋しく目に映りました。

先程まで山中にいて狼や物の怪の幻影にブルブルとしていたのに、
なぜか下界の方が淋しさを強く感じます・・・

あのダニたちとの戦いでさえ懐かしく思えます。

西丹沢の奥深き峠は、地理的に奥深いだけではなく、
歴史も深いし、謎も深いし、ヤブも深いです。
そしてなにより心に深く残る峠行となります。

多くのダニが棲息しているということは、
それだけ自然も深いということかもしれません。

都会で人の流れを掻き分けて進むより、
山でヤブを掻き分けて進む方がいかに愉しいことか。
スズタケや笹ヤブの「はねかえり」は痛くて手足や顔を傷付けるけれど、
人の流れの「はねかえり」のように、心に突き刺さることはないし、
深い傷を付けられることもないのだから。

<*1> 「測量技師惨殺と愛犬の話」・・・電源開発で懐が豊かになった測量技師が法行沢で暴漢に襲われ殺害される。
                       その遺体は法行沢から中川本流、酒匂川と流れ小田原の河口に流れ着いた。
                       その傍らに、川岸から流れを追って河口まで走りつづけた飼い犬が寄り添っていた。

<*2> 「送り狼」・・・玄倉に残る話。 奥山に行くと家まで狼が送ってくれた。 ただし、途中で振り向くと食べられてしまう。
            送ってくれた狼は敷居を跨ぐことはなく、ご苦労様と声をかけ、礼として外に塩を一升ほど撒いておくと、
            翌朝にはきれいに無くなっていたという。 
                            (注・・・酔った一人暮らしの女の子を下心を持って送り届けることではない)

●峠名プレート●
美観を損ねる!余計なお世話!と思いつつも、
今回それぞれの峠に即席の峠名プレートを取り付けてきました。
これらの峠が、このまま人々から忘れ去られるのがあまりにも惜しいので設置してきました。
目障りだと思われる方は、お手数ですが撤去して下さい。
●ダニ決算●

 山神峠までは何匹付着するかを数えていましたが、あまりの多さに辟易してしまい、
正確な数値はありません。 以下に目安を提示いたしますので参考に。

浅瀬・・・山神峠・・・境界見出標61峰・・・椿丸・・・織戸峠・・・法行沢・・・林道・・・富士見峠・・・地蔵平
   25匹    5匹           20匹  80匹    10匹    5匹   0匹      0匹

●炭酸カルシウム温泉さくらの湯●

 ダニを自宅に持ち帰らないためにも下山後の入浴をお薦めします。
裕福な方はどうぞ中川温泉へ。私のように貧しい方は山北駅南口の健康福祉センター内にある
炭酸カルシウム温泉さくらの湯がお薦めです。 駅から徒歩30秒です。

いわゆる老人センターのような雰囲気はありません。 新しくきれいで立派な観光温泉のイメージです。
北海道長万部の名湯二股温泉の石灰華原石100%を使用した温泉です。

利用料金・・・400円!(2時間まで)
利用時間・・・午前11時〜午後9時
定休日・・・木曜日
サウナ、露天風呂、うたせ湯、完備 ボディシャンプー、ドライヤー、扇風機、無料ロッカー、休憩室あり

●参考HP・参考文献●

 今回、念願の難関峠行をするにあたり、少ない現地情報の中から
リンクさせて頂いておりますs-okさんの
HP『ようこそ!山へ!』の「西丹沢の峠を巡る」のレポートを参考にさせて頂きました。
また、出発前にはコース上のご教示を頂きました。 この場を借りて御礼申し上げます。

●参考になるHP・文献

HP『丹沢写真館』様の「大栂(椿丸・富士見峠)登山記録」
HP『天狗の麦飯・Ryouのコースガイド』様の「椿丸・大栂・菰釣山」

『続・丹沢夜話』 「丹沢の西の果て」 ハンス・シュトルテ著 有隣堂
『新ハイキング 535号』 「椿丸から菰釣山へ」 竹内和義著 新ハイキング社
『丹沢だより 390』2002.10.20
『丹沢今昔』 奥野幸道著 有隣堂
『丹沢・桂秋山域の山の神々』 佐藤芝明著 丸ノ内出版
『山の神の民俗と信仰』 佐藤芝明著 丸ノ内出版
『山北町史』 山北町教育委員会
『足柄の文化 12号』 山北町地方史研究会 (26号〜32号なら丹沢湖記念館で販売中¥2100)
『山と渓谷 98号』 「世附川流域の峠」 鈴木経一 山と渓谷社 

◆後記◆

* s-okさんの「西丹沢の峠を巡る」では、
  その後「地蔵平-富士見峠-織戸峠-馬印」のレポが発表されています。

* 『日本山岳案内』(鉄道省山岳部編)に「山神峠」の記述がありました。
  「山神峠には菊花御紋章の附した古碑があるので有名な所で、長慶天皇に関連せる伝説を持つ峠である」

* 『丹沢の谷歩き』(坂本光雄著・体育評論社)に「富士見峠からオリト沢」という項目があり、
  径路について紹介がされている。また、同書では織戸峠の別名として「ブナ丸峠」という名を挙げている。

* s-okさんも愛用されている『山渓アルパインガイド丹沢・道志山塊・三ッ峠』(羽賀正太郎著・1975年版)
  の「菰釣山から地蔵平」という項目にも織戸峠-富士見峠-地蔵平に関する参考記述があります。

* 『丹沢だより』 No.415 2005.1.20 に「富士見峠-織戸峠」調査報告書があります。
  法行沢付近の状況について以下のような記述があります。
  「旧ルートは803mピークのすぐ北側の峠状の地点から法行沢に降りて、
  二箇所の二俣の間で沢を横断することになっているが、
  峠状の地点付近で植林の中を見回してもそれらしい踏み跡を発見できなかった。」

* 『丹沢だより』 No.420 2005.6.20 に「富士見峠越え・三国山稜」という報告文があります。
  織戸峠、富士見峠付近の様子について詳しく記されています。
  地蔵平から富士見峠への旧道探索の参考になる。

* 『現代に活きる山の神伝承』(佐藤芝明著・丸ノ内出版)
  「西丹沢の山の神と菊花紋伝説」では、山神峠の16花紋について以下の三点から推測している。
   1・南朝後醍醐天皇の「みささぎ」実在を示す菊花紋であるという説。
   2・南朝方(河村氏一族、新田氏一族)の財宝埋蔵に関係する菊花紋であるという説。
   3・木地師系(五十五代文徳天皇の第一皇子惟喬親王を開祖とする菊花紋)の菊花紋であるという説。

* 山北の萩原地区の身代わり地蔵尊に、やはり16菊花紋が刻まれていると知り、
  後日見に行きましたが石に刻まれたものを目にすることはできませんでした。
  しかし、地蔵尊の社の壁には16菊花弁の紋がありました。

* 『山と渓谷 64号』の「丹沢・菰釣山附近」(清水長輝)の中で、
  山神峠の御神体のスケッチと山神様の社の写真が掲載されています。
  写真には社前に木製の鳥居が見られます。かつては鳥居が設けられていたようであります。

  「一坪ばかりのトタン屋根の祠があり前に木の鳥居が二基立っている。
  祠の中には高さ二尺位の花崗岩の自然石があり前を四角く彫りとって将棋形の木片が入っている。
  その下に方二尺厚さ四寸許りの敷石があり正面に問題の十六枚菊花紋章と、
  その両側に三つ連なった唐草紋様が彫られてある。
  又左側には新山小奉行、白澤五右衛門、木門文八、乗原梅右衛門、鈴木多門、右側に松尾市衛門の
  名が列記せられ、裏面には宝暦二壬申年三月吉日と記されている。・・・・
  いろいろと話題を産むのはこの紋章であるが、種々の点から見てまず皇室とは無関係だと云ってよいであろう。
  新山小奉行と云う人は何物か分からないが、この地方が小田原の管轄であったとき、
  何れ山中の伐採でもやったので、山神の祠を寄進し偶然にもこの紋章を彫り付けたものだと思われる。」 と記されている。
  

* 『山と渓谷 33号』の「水ノ木澤から菰釣シ山」(加藤秀夫)の中で、

   「山神沢の源頭、山神峠には菊花紋章附古碑があることで有名で、・・・・古く甲相国境をここに置かれたと云われ
   この不自然な境界は累々両国の争の的となり問題の山相模の分属に就て、日本後記にその裁定の事が出ているが、
   主権は時々変わったらしく論争の終結は弘化四年の事で、以来境界は現在の如く確定した。」とある。
   山神峠が国境線争いの舞台になったことを指摘している。

* 『丹沢とその山麓-伝説と民話を訪ねて-』(斉藤馨・蒼海出版)の「沈んだ村世附」の中で、

   「悪沢という処には菊の紋章入りの墓があり御陵とされていた頃もあったが、これも、この地方は木地屋が多く入り込んだ
   ところであって、木地屋は文徳帝の惟喬親王がロクロを発明して、それを伝承しているという伝統から、墓に紋を用いたり
   するのであって、木地屋のものとみた方がいいようである。」 と“木地屋説”を採用している。

   また、同文にはサンカに関する記述もあり興味を引く。
   「世附川のほとりには大正期まで、ウナギを取りにサンカがセブリに来ていたという。世附峠は駿河への出入口でもあるし、
   この国造神の直系であるサンカにとって自在の処であろう。」

* 広報誌『やまきた』昭和47年7月1日号に「西丹沢と吉野朝」のコラムがあり山神峠の菊紋章に触れている。

  同広報誌には「大道神峠」(昭和36.3.15)、「西丹沢の鉱山」(昭和48.3.1)、「西丹沢の人たちの起源を尋ねて」(昭和48.11.1)
  などのコラムも掲載されている。

* 『昭和12年3月記 吉野と足柄』(和田久治著・自費出版・昭和14年)は興味ある一冊である。
  悪沢周辺に伝わる財宝埋蔵伝説についてその謎を追い、実際に掘削した記録もある。
  悪沢流域のどこかに「黄金千盃、漆千盃、朱千盃」の宝が隠されているという。
  (茅ヶ崎市図書館所蔵)

* 地蔵平、大又沢のかつての暮らしの様子や謎の菊花紋の山神祠については
  次の文献でも詳しく紹介されている。
  『かながわ風土記』(丸井図書出版)
    1981年8月49号 「まぼろしの村、地蔵平(上)」、1981年9月50号 「まぼろしの村、地蔵平(下)」
    1982年2月55号 「松田河村氏西丹沢を舞台に大いに戦う」
    1982年3月56号 「謎の都夫良野伝説」、1982年5月58号 「丹沢山に信玄伝説を追う」

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