奥高尾の峠

小仏峠・白沢峠・底沢峠・明王峠・奈良子峠・赤岩越え?・南郷峠?・奈良本峠


冬の小仏峠

初詣に高尾山に行って以来、この付近の山域が気に入ってしまい、
冬から春にかけて幾度となく歩く機会を得ました。

奥高尾尾根も数回歩いていますが、『峠と路』(馬場喜信著・かたくら書店)という
八王子周辺の峠路を集録した本を見ていて
「赤岩越え」・「南郷峠」なるものの存在を知り、
再び訪れてみることにしました。

また、主稜線から外れている「奈良本峠」も前々から気になる存在であったので、
この機会に併せて訪れてみることにしました。
尚、このエリアを「奥高尾」と呼ぶか、「裏高尾」と呼ぶか、はっきりしませんが、
「裏」のイメージが悪いので、「奥」と呼ぶことにしました。


登山口の馬頭観音


石投げ地蔵


明王峠

たまには違うコースから尾根に上がろうと、奈良本峠の南、奈良本集落の外れに車を停めて歩き始めます。
まず奈良本峠へ向かおうと思い、浄光寺脇の登山口を目指しますが、
大きな馬頭観音前の「国体コース」なる標識が目に留まり、しぜんとそちらに吸い込まれてしまいます。

MTBも走行できるような歩き易い山道を、ピンク色のツツジなど愛でながら歩いて行くうちに、
どんどんと高度を稼ぎ未舗装の林道に飛び出ました。
さらに進むと、林道から再び山道に変わり、三叉路の分岐があったので、ここが奈良本峠へ向かう道かと、
真ん中の道に分け入りましたが、ヤマツツジの朱に取り囲まれて道は消滅していました。
知らぬうちに、かなり奈良本峠へ向かう道から外れて、矢ノ音付近に流されていたようです。

やむを得ず奈良本峠は後回しにして、明王峠に向かうことにします。
舗装された立派な林道を横断して急斜を登ると、「石投げ地蔵」なるものが出現します。
天明の昔、常陸国から母を訪ねて甲斐国へ向かう旅をしていたお姫様がここで病に倒れ力尽き、
行き倒れとなった。それを哀れに思った村人が地蔵を建てたと説明板には書かれています。
はて?そのお地蔵様はこの石積みの下に埋まっているのでしょうか・・・

昼御飯を抜いて歩き出してしまった為、空腹感に襲われます。
軽い山歩きと高を括って非常食を持ち合わせていないことを後悔します。
ポケットに偶然入っていたチョコ玉をしゃぶりつつ奥高尾縦走路に飛び出します。

明王峠の小屋でも営業していないかと期待しましたが、GW後の平日ということで戸は固く閉ざされていました。
食事にはありつけませんでしたが小屋前のベンチに腰掛け乱れた息を整えます。
空腹も最初の波を越えると、またしばらくの間は我慢できるものです。

本来の明王峠は、もっと東方にあったようで、これから向かう底沢峠が旧明王峠であったらしいです。
現在の明王峠は観光目的で、峠名の由来となった不動明王石塔と共に、
富士の見える現在の地点に移動してきたとのこと。 
ドッケ地形の場所に本当に峠がやってきたことになります。


底沢峠 (案下峠・旧明王峠)


白沢峠


ニセ白沢峠

明王峠と堂所山の中間鞍部が底沢峠で、底沢と上案下を結ぶことから案下峠とも呼ばれています。

底沢の「そこ」、「そく」は「塞」の転化だといい、「ふさぐ・とざす」、「国境・要害の地」を表わすとのこと。
地図を見ると、まさに底沢の集落はそのような地形です。
峠には「恩方村青年団案下支部」の古い角石柱があり、かつては重要な交通路であったことが窺えます。
南の底沢側は手入れの行き届いた杉の植林帯で整然としています。
一方、北の案下側は新緑が美しく、思わずひきこまれそうになりました。

『峠と路』に掲載されている「赤岩越えとはこの辺りでしょうか?
村松昭氏の『高尾・陣馬絵図』には「
赤岩南郷」の地名が記されていますが、
現場に行くと、どこだかハッキリしないのは単に読図力がないためでしょうか・・・・

さらに東に進むと、峠らしくない峠の白沢峠です。うっかりすると通り過ぎてしまう峠です。
冬に訪れた時には、右上写真地点の標柱に白沢峠の名がマジックで書かれていましたが、
今回訪れると、上真ん中写真標柱の四箇所にマジックで白沢峠の名が殴り書きされていました。 
以前に白沢峠の名が書かれていた標柱は塗りつぶされていて、ニセ白沢峠になってしまったようです。

白沢峠は西多摩の人々が底沢の半僧坊に通った道だといいますが、
峠を乗越す道らしきものは見当たりません。
長い年月の流れの中で、ヤブに埋もれてしまったのでしょうか。
あるいは、お隣りの底沢峠に人の流れを奪われてしまったようです。

白沢峠で反転して、今来た道を戻り陣馬山に向かいます。
平日ということで、ハイカーも少なく新緑の尾根歩きが堪能できます。
そんな中、けたたましいエンジン音と共にオフロードバイクが傍らを通り抜けました。
確かにバイクも走れるほどの幅広い道ですが感心できる行為ではありません。


奈良子峠 (大ダルミ)


南郷峠付近か?


陣馬山から生藤山を望む

明王峠を再び通過して、奈良子峠に辿り着きます。
峠を南に下ると、栃谷の集落で、鄙びた鉱泉宿があります。
明治・大正期に栃谷の人々は馬に木炭を3俵ずつ両背に負わせ、さらに自分も2俵を背負って峠を越え、
八王子まで行き、帰りには米などを買って再びこの峠を越えたといいます。
この峠までくると、馬を楢の木に繋いで休ませ、一服したとのこと。
ちなみに、「ナラ」とは平坦状ないし緩傾斜地を表わす地形語でもあります。

さて、『峠と路』に記載された「南郷峠」とはどこだろうかと、
地形図を片手に現地を探索しましたが、やっぱりハッキリとはしませんでした。
峠らしい分岐といえば、上真ん中写真の陣馬高原の家を示す標柱がある地点ぐらいです。
『峠と路』には、「陣馬山の東の肩を、案下の谷から栃谷川に越える」と記述されているのみです。
あるいは、栃谷尾根の分岐を指すのかもしれません。


山頂の不快なオブジェ

陣馬山の山頂を踏むのは3回目。
今日のように展望に恵まれたのは初めてのことで嬉しい限りです。
360度全方向クリアで、新芽の緑と空の青、雲の白が鮮明で美しい!麗しき五月の山歩きとなりました。

幸いGWの後片付けで、山頂の小屋が開いていたので腹拵えに向かいます。
山菜ソバを注文しますが、今日は片付けだけで料理は出来ないとのこと。
お湯を入れるだけのカップ麺ならできるというが、
カップ麺ごときに300円の大枚を叩くのは惜しいので400円のビールを買ってしまった。
ビールで下山するぐらいのエネルギー補給は出来るだろうし、
酔えば空腹も忘れるだろうと、喉ごしスッキリの誘惑に負けてしまった。

ビールで心地好くなり、動くのがイヤになったのは計算外だったが、
ベンチに寝転がり、白馬像のお尻と流れる雲を眺めるひと時は、この上なく良い時間であった。

白馬像の製作者は岡本太郎だと吹き込んだ奴がいたが本当だろうか。
台座には京王電鉄の銘が刻まれたプレートがあるが・・・

赤岩越え」も「南郷峠」もハッキリしなくて悔いが残ったが、
ここにきて「陣山」なのか「陣山」なのかもハッキリしないこととなって山頂を辞すことにした。
山頂からは栃谷尾根を下り、栃谷の集落を目指す。
途中、姫谷鉱泉近道の分岐があったので、そちらに進んでみる。
確かに近道ではあったが、えらく急勾配の下降であった。


奈良本峠

栃谷の集落から奈良本峠へ向かう道を探す。
ハイカーに忘れられたかのようにポツンと立つ道標を見落さなければ入口を見つけることが出来る。
民家の間の狭い道だ。茶畑の横を通り、栃谷川を小さな鉄橋で渡れば荒れた杉林の峠道となる。
不思議なことに、この付近には無数のゴルフボールが散乱している。
どうやらここはカラスの塒(ねぐら)で、近隣のゴルフ場よりカラスがゴルフボールを銜えてくるようだ。

奈良本峠への道は、ヤブが被り荒廃が進んでいる。
ビールが汗となって吹き出すが、酔った勢いに任せヤブを掻き分け邁進する。
到着した奈良本峠は薄暗く、通る人も稀な忘れられた峠であった。

栃谷側の道に較べれば、奈良本側の道は歩き易かったが、
かつて栃谷の人々が藤野や与瀬に向けて越えた生活路であったのだろうと思うと、その衰退ぶりが痛ましい。
荒廃の進む峠越えで、ビールのほろ酔いもすっかり醒めてしまった。

◇ 『山小屋3号』「武相国境(ニ)」(岩科小一郎著)によると、底沢峠の越えるp721を「赤岩山」としている。
  また、『八王子事典』(八王子事典の会・かたくら書店・1992年)でもp721を「赤岩山」としている。

◇ 「南郷峠」の名は、『山を行く』「高尾山より三頭山まで」(高畑棟材著・朋文堂)にも登場している。
  陣馬山の東、p789は「南郷頂」と呼ばれている。人文社の広域市街地図にはその名前が記載されている。
  『八王子事典』にも「南郷頂」は載録されている。

● 後日、白沢峠を探索し、明王峠、奈良子峠を再訪した時のレポートを見る。

● 後日、奈良子峠、南郷峠、明王峠、奈良本峠を再訪した時のレポートを見る。