蜘蛛の巣だらけの峠道

〜 芦川北稜尾根の峠を拾う 〜

迦葉坂峠(柏尾坂峠)・七覚峠?・関原峠(野坂)・大峠・大鳥居峠・小峠・弓建峠・東峠?・桜峠?

【位置概念図】

<JR甲斐上野駅>     <大鳥居>                                   <関原>              <右左口>

▲浅間山--桜峠--東峠--弓建峠(大鳥居峠)--▲三俣尾山(小峠)--大鳥居峠(大峠)--大峠--▲茶屋平--関原峠--七覚峠--迦葉坂峠

                                        <高萩>          <三帳>                <下芦川>

*峠の名称、峠の位置は文献によって若干異なります。
*地形図に名前のある峠は「関原峠」、「大峠」、「桜峠」のみです。

 

芦川北稜尾根とも呼ばれるヤブ尾根に点在する峠を拾って来ました。
登山の対象となる機会が少ない尾根なので参考記録の類は多くはありません。 (【参考文献】は文末参照)
この山域の貴重な文献の一つ『日本山岳案内3』には以下のように、この尾根についての説明があります。
「右左口峠より主稜を西に辿れば、粕尾坂峠(853米)があり、次にウチアガリ山(948米)を経て、
関原峠(840米)に至っている。 ウチアガリ山から南方には関原峠山(835.7米)の突起がある。
関原峠から更に西には、広やかな山頂を持つ茶屋平(△931.8米)があり、この山は芦川では字水上と云っている。
茶屋平からは峯沢山(910.7米)に続き、降って大峠(760米)に至る。
この峯沢山より西南には矢中山(900.2米)がある。
大峠から更に西には、小峠(△838米)を経て、細長い主稜をオイワケ(659.6米)に至る。
オイワケは芦川では弓立峠とも云っている。
オイワケからは西北に方向を転じて、東峠(560米)を経て、桜峠(550米)に達し、更に浅間山(△593.9米)に
至って御坂山塊第二主稜は笛吹川と芦川の出合いに枝尾根を派生して終わりを告げる。」

--『日本山岳案内・3』/「中央線に沿う山・御坂山塊」(博文館・鉄道省山岳部編・昭和15年)--より

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*柏尾坂峠(迦葉坂峠)の「柏」という字は「粕」と表記されています。
*標高数字は原文のママです。
*この文献では大峠の位置は地形図とは異なり、・912標高点と△838.0の鞍部を大峠としています。
 最近の他文献では、この位置は大鳥居峠とすることが多いようです。
*『山梨の峠』では「大峠=大鳥居峠=東峠」としている

《下芦川の地蔵堂付近に車を乗り捨て、地形図に表記される「迦葉坂」を辿り尾根に出る。
そして、そこから芦川北稜尾根の末端まで歩き続けて、JR身延線の芦川駅から
18:10分発の三珠町営バスでスタート地点に戻る》 という完璧な計画を立てた。
しかし、計画はあくまで計画。 計画通りにいかないのが現実の厳しさで・・・トホホなのです。


迦葉坂入口


しっかりした凹型道が残る

「右左口峠」と「迦葉坂峠」は全く別物の峠なのか?という疑問はあるけれども、
大抵の文献で両者は分別されているのでそれに従うことにします。
地形図の「右左口峠」のすぐ左、点峰888mの西の鞍部が「迦葉坂峠」ということで、
一般には定着しているようです。

しかし、両峠とも中道往還の峠道として、
その性格と果たしてきた役割は同様のものがあったのではないでしょうか。
右左口峠の旧道は現在の地形図には記されていないので、はっきりしたことは判りませんが、
その峠道の下部では「迦葉坂」を併用していたと推測できます。
また、右左口峠の古い呼称は「迦葉坂」であり、「迦葉坂の険」と呼ばれていたともいいます。
そうすると、あながち全くの別物でもないような気がします。

駿河と甲斐を最短で結ぶ中道往還は、鮮魚や塩の移入路として、かつては賑わいを見せていました。
徳川家康も入府の折に、中道往還の峠を越えたといいます。
そんな歴史ある峠道の入口にしては、あまりに平凡、民家脇の小道が峠道の入口でした。
県や町やあるいは教育委員会等が設置した看板や標識でもあるだろうと思っていましたが、
そのようなものは皆無でありました。

迦葉坂の西隣り上出村沢は、砂防堰堤の工事中であり、
当初はその工事用の作業道に引き込まれてしまいました。
「コイツは何をしに来たのか?」という工事現場で働く人たちの怪訝そうな視線を背に受けながら、
道無き斜面を這い上がると、立派な凹とした道型が残る峠道になんとか飛び出ることができました。


最初にお会いした峠道の石仏


峠道は女郎蜘蛛の巣だらけ!

峠道は、さすがに古くからの幹線道だけあって、しっかりとした造りになっています。
緩やかな勾配、適度なジグザグ、古い石積み、馬も通れるほどの幅広の道。
道行きの安全を見守る石仏の姿もありました。

こんな良い道が、忘れられ、消えてゆくとしたら実に惜しいことであります。
迦葉坂峠にしても、右左口峠にしても、
尾根を越えた北側の峠道が現行版の地形図には全く記されていないのがちょっと気掛かりです。
現状は果たしてどうなっているのでしょうか?

それにしても、「なんだ!この蜘蛛の巣だらけの峠道は!」と、思わず声高に叫んでしまいました。
よっぽど歩く人がいないのか峠道は蜘蛛の巣だらけです。 きっと獣ですら歩いてはいないのでしょう。

夏の終わりという訪問した時季も悪かったのだろうけれど、
数メートルごとに大型の女郎蜘蛛の巣が入山を阻止するかのように張り巡らされています。
峠の入口から峠頂上まで少なく見積もっても100個の巣は破壊したでしょう。
時にはフェンシングのようにストックをブンブン振り回し、また時には「木の枝投げつけ作戦」で破壊して。
そんなことだから歩みはちっとも進みません。

ストックの中ほどから先端部は蜘蛛の巣の粘着性の糸で
ネバネバ、ベトベトのトリモチ状態、ワタアメ状態になってしまいました。
この季節に訪れる人は足腰に自信があっても、蜘蛛の巣排除用にストックは必携です。
また、なぜかこの蜘蛛の巣が、身長に合わせたかのように
顔面に直撃する高さにばかり位置しているのが不思議です!
せっかく張った巣を壊される方はたまらないだろうけれど、女郎蜘蛛さん、どうか許してくれんなまし。


二体目の石仏 首無し地蔵


迦葉坂峠の石祠

峠道は幾度かのジグザグを繰り返し、松混じりの平坦な尾根に出ます。
そのまま進むと小さな分岐があり植林地に出ます。
植林地の中には、かなり大きな古い石積みが見られます。
かつて屋敷でもあったのでしょうか?それとも猪垣でしょうか?

植林地の先から、下り勾配で左手に流されていくのを感じます。
地形図を取り出し確認してみると、
どうやら地蔵堂から上ってきている破線路へと向かってしまっているようです。
ここは軌道修正して小沢の詰めから尾根に上がると、
見事、峠の数メートル手前の正規の峠道に復帰することができました。

到着した迦葉坂峠は繁る木々の葉で薄暗いですが、凹とした姿が残る峠らしい峠です。
峠のど真ん中に毒々しいキノコが一本、ニョキッと生えていました。
峠は小広く、馬や荷を背負った人々が休むには十分なスペースがあります。
北側の右左口集落に下る道跡も残っていますが、果たしてどの程度まで残されているのでしょうか?

昭和初期の文献である『日本山岳案内3』には、すでに当時から、
「今ではあまり歩かれていない峠であって、それ故に静かな姿をもっている」と書かれていますから、
人の通行など現在では皆無なのでしょう。


迦葉坂峠


峠から西へ尾根を進む

釈迦の高弟で右腕といわれた「阿難」、左腕といわれた「迦葉」。
ここ芦川には阿難坂(女坂峠)があり、迦葉坂峠(柏尾坂峠)があります。
そして釈迦ヶ岳があり、両峠道を見下ろしています。

誰がいつの時代に名付けたものなのでしょうか?
おそらく中道往還の二大難所であった二つの峠越えでの無事と安全を祈り、
釈迦、阿難、迦葉にその加護を求めたのでしょう。

何か視線を感じたので目をやると石祠がポツンと祀られていました。
長い年月、雨風に耐えて峠を行く人々を見守ってきたのでしょう。
少々草臥れているかのようにお見受けしましたが、久し振りの峠の訪問客を喜んでくれたのでしょうか?
それとも眠りを邪魔したとお怒りなのでしょうか?
静かに手を合わせ、西に向けての尾根歩きが始まります。


尾根道に棄てられた自転車
なぜ、ここに・・・?


七覚山(ウチアガリ山)
七覚峠はコースミスで見落した!

尾根道(といっても踏み跡程度)に出ると、蜘蛛の巣はいくらか減少するものの今度は蝿が喧しくなります。
かといって、油断していると女郎蜘蛛が待ち構えているので気が抜けません。
尾根はイノシシの楽園のようでヌタ場や足跡が多数見られます。

夏草や小潅木に覆われた尾根は風もなく蒸し暑いものです。
9月も下旬ですが甲府は最高気温32度の予報でした。
低山の、それもヤブ山に訪れるにはまだ時季が早いと分かっていても、
秋が深まると日は短くなるし、冬枯れの時期は路面凍結でアクセスが難しくなります。
だから、蜘蛛の巣があろうとも、夏草の種がズボンにウンザリするほどこびりつこうとも、
この時期に歩き回るしかないのです。

オヤ!?なぜかこんな山中に一台の自転車が転がっていました。(上左写真)
行商人が峠を越えたときに乗り捨てたものでしょうか? ウ〜ン、実に不思議です。

緩やかに尾根を登ると点峰946mの「ウチアガリ山」です。
最近では「七覚山」の名が定着しているようです。
山頂手前に北側に向けて巻道がありましたが、とりあえず山頂へと向かいます。
山頂は標識も無ければ展望も無く、さしたる感動も無ければ喜びもありません。
ただ尾根上の起伏の一つに過ぎない感じです。

山頂からは鋭角に北側へ曲らなければなりませんが、それらしき踏み跡が見つかりません。 
先の巻道まで戻るのも億劫ですから、なんとなく違うような気がしつつも、
前方、境界見出標沿いにつけられた明瞭な道をそのまま進んでしまうのです。

これがとんでもない失敗で、946m峰の西南にのびる小尾根にまんまと引き込まれてしまいました。
なんだかおかしいと気付き、コンパスを取り出したときは、
すでに大分下ってしまったあとで、いまさら引き返すのも悔しいという状況です。
ここはこのまま下ってしまえば、いずれ関原峠道にぶつかるだろうと突進を決め込みます。


関原峠 (野坂)


峠の標識

予想通り飛び出した関原峠の峠道は案外と良い道で、しっかりと踏み固められています。
さすがに地形図に名前が載っている峠道だけのことはあります。

辿り着いた関原峠は、その凹とした形状もはっきりしていますが、
凹部に空缶や食べ物のカスなどのゴミが散乱しているのがイタダケません。
それでも人が訪れている証拠だと思うと、なぜかホッとしたりもします。

『日本山岳案内3』には関原峠について以下の記述があります。
 「関原峠は明るい峠であって、第二主稜を標高840米地点で横切り、
 甲斐国誌に、本村(関原村)より下芦川へ越える所なり、下芦川にて野坂と称す。
 この道に木戸口と伝う地名あり古、関門を建てし所と言い伝うとあり。
 芦川と笛吹川との往来に往古から利用された峠である。」

この時期、明るさには欠けますが、まあまあの雰囲気を持った峠です。
手作りの標識もあり心落ち着く所です。
関原側の道は草に隠されていますが少し下った所に石仏もあるようです。

946m峰ウチアガリ山でコースミスをしてしまった為に
七覚峠を見落す結果となってしまったのが至極残念です。
わずかな距離だから尾根を東に戻って登り返してもいいのですが、
たいした峠ではなかろうと、引き返すことなく尾根をこのまま西に進むことにします。
(芦川駅発のバスに乗り遅れるわけにはいかないので急げ急げと・・・)

雑木に囲まれた踏み跡の薄い尾根道を進むと、点峰859mの手前で右手より明瞭な道が合流します。
関原側の峠道から分岐派生した道でしょうか?
明るい感じの場所だし、ちょうど麓から正午を知らせるチャイムが聞こえてきたので昼食とします。
99円の稲荷寿司3個パックと煎餅2枚の食事は5分で終了しました。
暑さと、蜘蛛の巣と、不明瞭な道でペースが一向に上がらないので、
ゆっくりと休憩を取ることができません。なにせ、ローカルなバス便に間に合うことが至上命令なのです。


茶屋平と大峠の鞍部
(実際の峠は地形図912m標高点の文字の南)


大峠北側の標識
「←山の神 ↑大峠 →桜峠」
方向感覚を失う場所だけにありがたい

859m峰から△932m茶屋平に向けて南に進路を取ります。
ガサゴソとヤブを掻き分ける音が聞こえて、下方から何やら「ベイ、ベイ」という鳴き声が聞こえてきます。
熊かもしれないと、しばし前進を躊躇しましたが、鈴をけたたましく鳴らし、
笛を吹きまくり、奇声を発して、様子を見守ります。
こっちに接近してくる気配もありましたが、しばらくして鳴き声は消えました。
果たして熊だったのか、イノシシだったのか?

地形図にある茶屋平の北側を巻く道がハッキリしていたので、これを辿ることにして山頂は割愛です。
茶屋平と次なる標高点912mの鞍部は小広いタルミとなっています。
ここがあるいは大峠ではないのかと思わせますがどうやら違うようです。
大峠へは正面に見えるジグザグを登り返さねばなりません。

『日本山岳案内3』では、912m峰を峯沢山とし、
そこから更に西に下った三ッ俣尾山との鞍部を「大峠」としていますが、
この鞍部は最近の文献では「大鳥居峠」としているものが多いので、
《地形図の大峠》と《『日本山岳案内3』の大峠》は別物だと思われます。

地図に記された「大峠」の文字の付近は平尾根の地形であり、ハッキリした峠の場所がわかりません。
この峠は、あるいは峰全体の突起を表わす「トッケ系」を意味しているのでしょうか?

『富士の見える山』には、
 「大峠といっても何も標識があるわけではないので、昔からの大峠がどこなのか定かではない。
 とにかく、豊富村から芦川沿いの高萩へ越える峠道に出合ったあたりは、
 落ち葉が厚く積もった雑木の疎林で、のどかな感じだ。
 ここにザックを置いて高萩への峠道を10分ほどたどってみた。
 ・・・・恩賜林の石標と林班界標を見て石仏の前に来ると下り始める。
 したがって五万図の大峠は林班界標のある地点である。」と書かれています。

また、『新ハイキング570号』の「右左峠から大峠・桜峠を行く」と題した紀行文には、
大峠について次のような記述があります。
 「地図上の大峠は文字の記載位置が悪いので誤認しがちだが、
 912m峰の東側を巻くようにして三珠町の高萩に下る峠状の所が本来の峠だ。
 高萩側に少し行った所に石仏が建ち、昔の峠道をしのばせる。」とあります。

どうやら本来の大峠は石仏がある地点を指すようです。
しかし結局、その石仏も、ここが大峠だという明確な場所も、今回は発見することができませんでした。

尾根道を北に向けて点峰795mの鳥居マーク(山ノ神)に向けて進むと休猟区の看板があり、
そこから左手に折れて若干下ると、この山域で初めて見る標識がありました。(上右写真)
ちょうど現在位置の把握に確信が持てなくなっていた頃だったので非常に助けられます。 
(同種の標識はこの先のオイワケ付近にもありました)
ここで標識の示す桜峠方向に従って進路を修正します。


大鳥居峠
(大峠とする文献もある)


大鳥居峠のヌタ場
イノシシのケハイが濃厚に漂う

辿り着いた地形図の点峰912mと三角点838mの鞍部は
「大鳥居峠」の名称で呼ばれていることが多い場所です。
現地には何の標識もありませんが、一応、尾根を乗り越す踏み跡がありました。

『日本山岳案内3』では、この地点を「大峠」と解して以下のように記述しています。
 「大峠は760米を算する峠であって、展望はあまり樹木のために良くない。
 峠上は第二主稜伝いの径が通っており、四叉路をなしている。」
これはどうやら、ここ「大鳥居峠」のことを指している記述のようです。

大鳥居峠にはヌタ場があり、イノシシの気配が非常に濃厚です。
いたるところに足跡が残り、木には体を擦りつけた跡が残っています。
潅木の陰に隠れ、息を殺して、こちらの様子を窺っているイノシシが、
不意に突進してくるのではないかという恐怖が募ります。

ここから次なる三角点838m峰までは踏み跡も途絶えがちになります。
きっと辿っている踏み跡もイノシシが作ったものでしょう。
右手に植林地が現れると三角点も近いです。
植林地と雑木林の間の踏み跡はヤブは少なく歩きやすいのですが、
女郎蜘蛛が大きな巣を張って待ち構えています。
どこまで行っても蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛です。


三俣尾山の標識
(小峠との呼称もあるらしい)


三俣尾山の三角点

三ッ俣尾山には関原峠にあった標識と同じ作り手による標識が設置されていました。
別名の「三ッ間頭」という名も書き込まれていました。

『日本山岳案内3』では、ここを「小峠」と称しています。
小さい突起の峰だからでしょうか?(そう考えると、やはり大峠も峰の突起の意味か?)
また同書には、「集落によってこの小峠を大峠と云い、大峠を小峠と云っている様であるが、
峠路の方を大峠、三角点のある突起を小峠と云うのが正しい」ともあります。

三角点は山頂標識から数メートル離れた場所にありました。
しばらくは植林と松混じりの雑木林の間を進みますが、相変わらず蜘蛛の巣が道を占領しています。

迦葉坂峠の峠道も蜘蛛の巣はひどかったですが、
峠から今まで歩んで来た尾根道も辟易するほどに蜘蛛の巣が多く、
破壊の手を休める暇はありませんでした。
数をこなせばだんだんと慣れてはくるもので、ただ闇雲に破壊するのではなく、
大黒柱ならぬ大黒糸(太い横糸)を分断すれば、容易に破壊できることがわかってきました。
この方がストックに取り付くネバネバ糸の量も少ないし、
蜘蛛にとっても巣の再建が易しそうなので、負担が少ないと思われます。


松林の尾根をゆるやかに下る


林道大鳥居線工事現場の最前線に飛び出た

三角点ちょい先の北尾根分岐を見送り、北西に進路を取ります。
アカヤマドリらしき巨大なキノコが生えています。
松の疎林が続くのでマツタケは生えていないかと注意していましたが発見には至りませんでした。

芦川北稜尾根はキノコが豊富ですが、
どうも毒々しいものばかりで素人が安易に手を出すことはできません。
ドクツルタケやシロオニタケが随所に見られました。
きっと食用キノコの多くはイノシシに喰われてしまっているのでしょう。

地形図を深読みし過ぎて、またまた尾根を外してしまいました。
次の鞍部、点峰664m付近を大きく外し、飛び出た所が林道大鳥居線の工事現場の最先端部分でした。
途中でヤブがひどくなったからおかしいとは感じていましたが、ミスコースを強引に下ってしまったのです。

ズボンにいっぱい草の種をくっつけて、蜘蛛の巣まみれで突然に姿を現わした登山者を見て、
林道工事現場で働いていた人たちは、すわ遭難者かと思ったに違いありません。


芦川を挟んだ大畠山と畑熊の山上集落


林道上の弓建峠?
(あるいは大鳥居峠?あるいは追分?)

工事作業中の傍らを伏し目がちに通過して本来の鞍部へと向かいます。
この林道が尾根を乗り越す部分が「弓建峠」でしょうか?
あるいは林道大鳥居線と名乗るぐらいだから、ここも「大鳥居峠」ということになるのでしょうか?

この林道からは芦川を挟んだ南側に大畠山、蛾ヶ岳の姿がよく見えます。
畑熊集落らしき山上の集落も見え、あんな高所に人の生活があるなんてちょっと驚きでもあります。

林道の分断にもめげず、さらに尾根を拾うことにします。
地形図点峰664mの次のコブが、『日本山岳案内3』で「オイワケ」と称する所のようです。
 「オイワケは659.6米を算する突起で、集落によってユンダテ峠と呼ぶ人も居るから
 甲斐国誌にある弓建嶺がこのオイワケなのであろう」としています。

「オイワケ=弓建嶺」(?)だとすると、ここも「トッケ系」の峠なのかもしれません。


東峠近くの石祠


祠には弓が奉納されていた!
そうするとここが弓建峠か?

オイワケまでは北面の伐採地から甲府盆地を見下ろすことができます。
笛吹川の流れも、南アルプス・八ヶ岳もなかなかの眺めです。
ただし油断していると顔面に蜘蛛の巣が引っ掛かります。

660m圏オイワケの北側を巻いて通過し、少し下ると注連縄の張られた石祠が祀られています。
祠の脇の大木には弓が立てかけられ奉納されていました。
地図的には「東峠」に近い場所ですが、弓があるだけにここが「弓建峠」でしょうか?

『三珠町史』には、「弓建」という地名について以下の説明があります。
 「弓建または弓張という。中山と豊富村大鳥居との境に弓建嶺あり、入会山の境で、
 この山頂に或る時浅利与市(鎌倉時代の弓の名人)が狩猟に来て、
 北の方一丁畑の田の中に白鷺の啄ばむを臨眺して一発で殪(たお)す、
 行ってこれを見ると白衣の老婆が跼行して田螺を拾っていたという。
 後人はこの山に石弓を建てて与市を表す。故に弓建嶺という」

要するに、この嶺から弓を放ち、白鷺と見間違えた白衣姿の田螺を拾っていた老婆を
射殺してしまったという話のようです。
その真偽はともかく、山頂で弓を放ち雨乞いをするなどの風習は各地にありますから、
それに尾鰭をつけて脚色したものなのかもしれません。
ちなみに北の山麓、大鳥居には浅利与市の墓があります。
また、オイワケの頂には石仏が祀られています。


地形図の荒地記号は正しく猛烈な草ヤブ
東峠付近?


草ヤブから逃げて北側の植林地に逃げる
林道の擁壁をクズの蔓で懸垂下降

石祠から緩やかに下ると平坦部に出ます。
訪れる前から地形図の荒地記号を見ていて心配していた場所です。
ここが芦川北稜尾根縦走の最大の難関になるだろうと予測はしていましたが、
想像以上の猛烈な草ヤブです。
進退窮まるとはまさにこのことか・・・

あらゆる草が大地の栄養を吸い取り成長し、猛威を振るっています。
トゲトゲ植物もあるし、クズの蔓も行く手を阻みます。
もはやイノシシの踏み跡も消滅。(イノシシも通行突破できないと見える)
そして依然として張りめぐらされた蜘蛛の巣もあります。

もう限界だと、北側の植林地内に逃げ込みますが、
こちらも容赦の無い蜘蛛の巣、蜘蛛の巣の連続です!

荒地と植林地との隙間にかろうじてイノシシの通り道を見つけて、それを拝借しますが、
荒地内に埋没していると思われる東峠、桜峠の確認は、もはや不可能と判断し、
林道桜峠線に退避することにしました。
しかし、林道着地まであとわずかというところで、切り立った擁壁があることに唖然とします。
どうやって数メートル下の林道上に降下しようか?

人間は考える動物です、それもバカな事を。
藤蔓とクズの蔓を束ねて、いちかばちかの懸垂下降でなんとかクリアすることができました。
果たしてこんなことに命を懸けていいものだろうか?

桜峠付近の荒地は冬枯れの季節なら歩けるのだろうか?
いくつかある紀行文では完踏記録も見られるので、あらためて冬季に訪れてリベンジしてみようと思います。
桜峠にあるという石祠を見ないでは峠に訪問したとはいえません。

『三珠町史』に書かれた桜峠の説明によると、
 「弓建嶺の西にあり、大塚村より中山へ通じる山路である。
 上下一里余で、昔は嶺の頂に桜樹が多く、花時は美観を呈し、よって桜峠と名付けられた」とあります。

草ヤブの海に埋没し、桜の樹は確認できませんでしたが、
胡桃の木がたくさんあり実をつけていました。 昔は、この荒地は山上に開墾された畑だったのでしょう。

『日本山岳案内3』には
 「この桜峠から浅間山辺りの尾根筋一帯は、麦畑も作られており、
 晩春頃この辺りで、黄金色に波打つ麦畑の傍らに腰を降ろして、
 夕霞の一面に延びて行く盆地を見ていると、何とも云えない気持に襲われる」とあります。
いまや「黄金色に波打つ麦畑」が、「一面に蔓延る草ヤブ」に変貌してしまって
情緒のカケラも無いのが残念です。


林道上の暫定・桜峠
本来の峠は激ヤブに埋まる


芦川駅にゴールしてビールで蘇生する
ほろ酔い気分でバス停に向かうが・・・

とりあえず林道上の桜峠まで行きましたが、
工事現場用の簡易トイレが放置されているだけで何の標識もありません。
トイレの裏手に台地に登る道がありますが、
草に埋まる有様を見て、本来の桜峠を探索する気持も萎えてしまいました。

「ああ、この簡易トイレの扉がドコデモドアだったら・・・」
疲れ果てて、足元を見ると、無数の草の種がズボンに取り付いていました。
これは、まさに「激戦」の証しです。 

「秋の晴れ渡る空の下で、俺は何でこんな草ヤブをウロウロしているのか?
それも遠く山梨県まで足を運んで・・・。行楽の秋、富士五湖で遊ぶとか、
お洒落なレストランで食事をするとか、なんでそんなことができないのだろう・・・」と、
ちょっと憂鬱になりつつ、さてこれからどうするかと思案します。

もはやこのまま尾根を西に辿り続け、浅間山を経て芦川北尾根縦走を完遂する気力はありません。
桜峠から南へ向かう峠道は林道工事が放棄されて久しいのか雑草に埋まっています。
果たして地形図の峠道は残っているのか?それも不安です。
南に下ればバス路線のある芦川沿いの道は近いのですが、もう草ヤブとの格闘は懲り懲りです。

北側に目を転じると、観光温泉施設「三珠の湯」が見えて、なんだか楽しそうな感じです。
それに北側のしっかりとした林道を下れば間違いなく里に降りることができるのです。
バス時間には余裕があるし、急がば回れで、北側に下ることにしました。

辿り着いた「三珠の湯」は綺麗な観光温泉施設で、
とても薄汚れた登山者を受け入れてくれる雰囲気ではありません。
それでも飲料自販機だけは利用させてもらいましたが。
(入湯料750円、年中無休、平日なら100円でJR駅までバスが運行・・・らしい)

農道をテクテク歩いて山旅の終点JR身延線芦川駅に到着。
バスの時間にはまだ早いので、旅の余韻に浸りつつ、缶ビールで無事の到着を祝します。
ビールで良い気分になり、バス停に向かうと、
あるべき所にバス停が無い!アレレ?イヤな予感。

地元の方に訪ねると、芦川駅にバス停なんか無いという。
上九一色行きのバス路線は、昔はあったが今は無いという。
アリャー!ほろ酔い気分も一気に覚めます。なんて厳しい現実の仕置き!

車を置いたスタート地点の下芦川に戻るにはタクシーしかないとのこと。
仕方なく駅前のSタクシーのお世話になりました。
3200円の痛い出費だ! 財布は軽くなり気持は重くなった。
(こんな高額を支払うに値する満喫できた尾根歩きだったとは到底思えないのだが・・・)

タクシーの運転手さんにいろいろ聞くと、
バスはあるにはあるが土日祝日は走っていないとのこと。
三珠町は将来的に市町村合併があるらしく町営バスは今後廃止になるだろうとのこと。

芦川を挟んで北の尾根はイノシシが多く、南の尾根(蛾ヶ岳など)は熊が多いという話も聞く。
毎年、熊による死傷者が出ているそうだ。

桜峠について聞くと、昔は人の往来が盛んであったらしい。
峠道は今でも残っていて、歩くことが出来るはずだという。(南側の峠道入口を教わる)
でも、もし峠から南の芦川沿いに下っていたなら、
来ないバスを永遠に待つ羽目になっていたことになる。

芦川山中には「マツタケも生えているよ!」という嬉しい情報以上に印象に残った話がある。
それは芦川山中の平坦地に、戦時中、疎開分校があったという話。
先頃、当時の先生だった方が久し振りに訪れ、
思い出の地に向かったがそのまま行方不明になってしまったという。
いまだに手掛かりも、遺体も発見されていないらしい。 とても哀しい話である。

芦川北稜は標高は低いが、獣道が錯綜し、迷い易い山です。
休猟区のためイノシシがのびのびと暮らしているので、出合い頭の衝突には用心をしなければなりません。
足を運ばれる方は細心の注意が必要です。
万一の遭難時、助けを待つにも滅多にハイカーなど訪れないエリアですから。

帰宅後、顔に蜘蛛の巣がまとわりついている感覚が残り、なかなか寝付くことができませんでした。
寝付けない理由はそれだけではなく、山中を今も彷徨っている疎開分校の先生の姿を想像してしまうから。
自分は無事にヤブ山から帰還できたけど、
いつか山で命を落とすとしたら、標高の高い険しい岩山や雪山ではなく、
きっとなんてことのない低山で最期を迎えるのではないかなどと、ふと思ったりするのです。

蜘蛛の巣に搦め捕られ、倒木に足をすくわれ、崖下に転落し、落ち葉の海に埋もれる。
ダニやヒルにとりつかれ、野犬に手足を喰い千切られ、
鼻の穴や口からはハリガネムシやウジムシがニョロニョロと。
そしていつしか骨だけになり、そして土に還る。

富士の青木ヶ原樹海ならテレビ局が亡骸を見つけてくれることもあるでしょうが、
マイナーなヤブ山じゃ永遠に誰の目にもふれることは無いでしょう。
さびしく、ひっそりと野に晒され消えていく。
なんだか最近、そんな光景が妙にイメージされるのです。

【参考文献・HP】

『新ハイキング』(新ハイキング社)2003年4月570号に「右左峠から大峠・桜峠を行く」(小倉修著)という紀行文あり。
『富士の見える山』(新ハイキング社・小林経雄)に「滝戸山から大峠」という紀行文あり。
『中央線の山を歩く』(新ハイキング社・藤井寿夫)に「滝戸山・日蔭山・関原峠」という紀行文あり。
『山梨の峠』(小林栄二)
『日本山岳案内・3』(博文館・鉄道省山岳部編・昭和15年)
『三珠町史』、『甲斐国誌』
HP『花のひかり』様の「山歩きの記録倉庫」に「芦川北稜末端から日蔭山・日陰山北尾根」という山行記録があります。
HP『山梨の林道事典』様に「大鳥居林道」と「桜峠林道」のツーリングレポートがあります。

【注意】

この山域はコンパス・地形図・蜘蛛の巣よけストック必携です。
標高が低い割に、錯綜する獣道やら、古い仕事道などもあり注意が必要です。
またテープなどの目印も少なく、あってもそれは判り難い所にはありません。
熊,イノシシ除けの笛や鈴も必携です。スズメバチも飛んでいます。
どうみても冬枯れ季節向きの山です。

● 桜峠を再訪して、その正確な位置と峠の石祠を確認した時のレポートを見る。
● 後日、迦葉坂の右左口側の峠道と七覚峠、関原峠の関原側の峠道を歩いた時の
レポートを見る。

(峠行2005.09.19)