蕾ふくらむ峠 / 桜峠・東峠・弓立峠

春を求めて高尾山周辺をのんびりと歩くつもりでしたが、
花粉が非常に多く飛ぶでしょうとの予報に恐れをなし、急遽予定を変更。
まだ冷たい風の勢力下にあるであろう甲州の谷あいの里を訪れることにしました。

その場所は、山梨県芦川北稜の「桜峠」・・・
以前訪れた時はヤブに苦戦し、その場所を特定できなかった峠へと向かいます。
春に訪れるには、相応しい名前の峠でもあります。


明治21年測図昭和4年第2回修正測図 2万5000図「市川大門」 参謀本部

以前訪れたときは、迦葉坂峠から芦川北稜へ上がり、稜線を西へ西へと歩きましたが、
桜峠付近で行く手を覆い隠す猛烈な草ヤブと女郎蜘蛛の巣に辟易とし、
桜峠の正確な位置を特定できぬままに、峠からひとつ西隣りの鞍部に貫通された
林道を利用して北側山麓の「みたまの湯」へと敗走してしまいました。
後に、地元のタクシーの運転手さんから「南側の峠道は今も歩けるはずだよ」と聞かされ、
敗走するにしても、南側の峠道ではなく、北側の林道を下ってしまったことが悔やまれてなりませんでした。
今回は、この南側の峠道を歩きます。

古い版の地形図を見てみると、桜峠の道は確かな実線で描かれています。
かなりの通行量があった立派な道であったことが窺がえます。
利用する人が多かったと思しき峠道も、現行版の地形図では、頼りない破線道で表記されています。
そして、つい最近の版まで記されていた北側の峠道は最新版では抹消されてしまい、
林道のみが記載されるようになりました。
現在、林道桜峠線の工事は尾根を越えた所でストップしているようですが、
将来的には南側の峠道を取り込んで中山集落まで延伸される可能性があり、
昔の道を愛する懐古主義的峠ファンとしては旧道の破壊を懸念するばかりです。


『日本山岳案内3 中央線に沿ふ山・御坂山塊』 鉄道省山岳部編 博文館 昭和15年 挿入図より
「浅間山」・「櫻峠」・「東峠」・「オイワケ」の名前が見られる

日本山岳案内3』は、この地域を訪問する際の資料として大変役に立つ参考書です。
今回は、「桜峠」を芦川側の中山集落から登り、「浅間山」、「東峠」、「オイワケ」周辺を
ぶらぶらします。そして、『甲斐国志』に記載のある「竜ノ口坂」(峠?)も探索します。

「大峠から更に西には、小峠(△838m)を経て、細長い主稜をオイワケ(659.6m)に至る。
オイワケは芦川では弓立峠とも云っている。
オイワケからは西北に方向を転じて、東峠(560m)を経て、桜峠(550m)に達し、
更に浅間山(△593.9m)に至って、御坂山塊第二主稜は笛吹川と芦川の出合いに
枝尾根を派生して終わりを告げている。」            (『日本山岳案内3』より)


千波滝

当初は高尾山が予定地でしたから、突然の変更で遠隔地である芦川の谷に入ったのはお昼時です。
梯、三帳、高萩と谷沿いに点在する心落ち着く好ましい佇まいの集落を快調に走り抜け、
芦川南稜から落ちる蛇沢の千波滝が見えてくれば桜峠の南側の登り口である中山集落です。

 【千派瀑布(センバガタキ)】
 「畑熊村ニ在リ 南方山上ヨリ落ツ高サ百数丈 飛散シテ霧ヲナス 下流ハ芦川ニ入ル
 水甚ダ多カラズ 長ク旱スレバ涸ルト云フ」 (『甲斐国志』巻之二十六 山川部第七)

千波滝はアイスクライミングの好適地で、その種のガイド本には「国内最大級の氷瀑」などと謳われています。
たしかに下から見上げると、ギアナ高地のエンジェルフォール(大袈裟!)の
ような迫力で見るものを惹きつけます。
前畑の集落より滝を間近に望みながら、大畠山北東尾根を歩くのも一興だと思われます。
芦川沿いには荒々しい岩壁などが随所に見られ、紅葉時季に渓谷沿いを歩くのも愉しいことです。
ちなみに、「高萩」集落の「萩(ハギ)」は、
「ホキ、ホケ、ハケ」と同じく、谷川の両岸の山が迫っている地形を意味しているといいます。
まさにそんな狭い峡谷の圧迫に、耐え忍ぶようにして芦川沿いの集落はあるのです。


1. 桜峠 登り口


2. 桜峠 登り口

桜峠の登り口前の路肩に車を置き、歩行の開始です。
上画像の「1」の登り口からでも、「2」の登り口からでもいいのですが、
ここは市川三珠町教育委員会が設置した「甌穴(おうけつ)」の説明看板を見てから、
「2」の擁壁に刻まれたステップを芦川に合流する曽川の流れがつくる滝を見ながら登るのが良いでしょう。

すぐに、「1」の登り口からのコンクリ舗装の道を合わせ橋を渡ります。
原木シイタケ栽培を横目に、コンクリ舗装道をひとくねりすると、畑への道を分けて、
いよいよ土道の峠道が始まります。


3. なんて素敵な峠道なんでしょう・・・


4. 寛政期の馬頭尊が佇む

土道の峠道は、歩きはじめから期待以上の様態で訪問者を迎えてくれました。
葉を落とした木々に囲まれた明るい峠道、落ち葉フカフカの峠道、
足に優しい緩やかな勾配を保つ峠道、こんな素敵な道が、あのヤブに包囲された峠の南側に
隠れていたなんて思いもしませんでした。

ダンコウバイのほころぶ峠道を歩き始めてすぐの所で嬉しい出会いがありました。
寛政期の馬頭観音で、「仲山村」の銘があります。
春のやわらかな陽射しを受け、その表情は微笑を浮かべているかのようにも見えます。
この峠道は明らかに大八車でも、荷を積んだ馬でも歩くことのできる設計です。
かつては山里の産物である薪炭や椎茸が馬の背を借り峠を越えて盆地側へと運ばれていたことでしょう。
芦川沿いの集落では、稜線を越えた盆地側に、出作り畑があったようですから、
農耕をする際の肥料や農機具、収獲した農産物も馬の背で峠を越えたものと思われます。


5. 古い石積みが残る日当たり良好の明るい道


6. 石積みと畑が現われる

峠道には古い石積みも見られ、よく手入れされた道であったことが窺がえます。
しばらく進むと、今も使われているらしい畑が姿を現わし、集落からひと登りした斜面に生活の匂いを
感じて驚きもしますが、日照時間の短い峡谷の底地に暮らす人々は、
太陽の光を少しでも多く求めて、斜面上部へと畑を切り開いていったのではと、人の生活の逞しさを
看取したりもするのです。
植えたばかりのレモンの苗が一本、冬枯れた畑の中で緑の葉をつけていたのが印象的です。

峠道は地形図に記されている通りに、「オイワケ」(弓立峠)と呼ばれる小峰を回り込むようにして
順調にのばされています。
踏み跡は極めて明瞭で、ヤブが顔を打つこともなければ、蜘蛛の巣が顔に掛かることもありません。
以前、夏の終わりに芦川北稜を歩いた時は、数メートルごとに張られた女郎蜘蛛の巣に
辟易したものですが、この季節はそんな障害物は皆無なのです。


7. 張り出し尾根を回り込むと
上方に林道のガードレールが見えてくる


8. 富士川の流域盆地を挟んで
南アルプス前衛峰の背後に雪の南ア本峰が顔を出す

「オイワケ」(弓立峠)から張り出した尾根を回り込むと、視界が開け、雪を纏った南アルプスの姿が
目に飛び込んで思わずハッっと息を呑むのです。
鰍沢辺りでしょうか、富士川流域の平地を挟んで、南ア前衛峰の背後に白い峰が顔を出しているのです。
往昔、この峠路を越えた人びとも南アルプスの姿に息を呑んだに違いありません。
そして汗を拭いたり、煙草を燻らせたり、自分たちの暮らす土地とは違う平地や山向こうの空間に、
思いを巡らせたりしたに違いありません。

峠方向を見遣ると、まだ目線よりも高い位置に、芦川北稜を越えて建設された林道桜峠線の
ガードレールを認めることができます。
峠に達するまでには、いま少し標高を稼ぐ必要があるようですが、この緩やかな勾配の道で、
どうやって高度を稼ぐのかと疑問にも思いましたが、昔の人の無理のない道づくりは、
クッ、クッ、クッという数度の小さなジグザグで見事に高度を整えていくのでした。


9. 大きな岩の陰に年代不詳の馬頭観音が佇む


10. 道が滑り落ちている場所もある

道端の大きな岩陰に、二体目の馬頭観音が静かに佇んでいるのを見ます。
刻銘は判読できませんが、やはり江戸時代のものでしょうか。
一見すると、歩くに優しい道ですが、荷を一杯に積み、バランスを崩して崖下へと転落して、
命を落とした馬もいたことでしょう。
緩やかな峠道ですが、冬場の積雪や凍結のことを思うと、案外とそんな事故もあったのかもしれません。

オイワケ西直下の谷筋の切れ込みで、この峠道で唯一の難場が待ち構えていました。
数メートルに渡り、完全に道が滑り落ちているのです。
しかし、人の足による通過ならば容易で、落石にさえ注意していればクリアすることはできるでしょう。
この大崩れよりも、連続している小崩れの方が距離も短く、規模も小さいのですが、
滑落の恐怖があるので通過は慎重になってしまいます。 


11. 全般的には幅広で良好な道が今も残っている


12. 滑車残骸分岐

大崩れ、小崩れの通過後、道は再び安定し、良好な状態は峠まで続きます。
植林地とは違い、葉を落とした明るい自然林の中を行く峠道は快適そのものです。
道に少しばかり、はみ出して生えている竹薮を過ぎれば、伐採した木材を搬出するのに用いられた
と思われる滑車(索道?)の残骸を見ます。

ここで道は分岐し、真っ直ぐこのままの道は桜峠へと向かい、右手に折れる道は東峠へと向かっているようです。
「東峠」は、『日本山岳案内3』にある峠名で、その挿入図の中にも描かれています。
『山梨の峠』では、『甲斐国志』の記述から「大峠」の別称として「大鳥居峠」、「東峠」の名を示しています。
『日本山岳案内3』と『山梨の峠』では、「東峠」の位置は異なるということになります。


13. 桜峠鞍部全景 西方に「桜の丘」がある


13. 手製標識を取り付ける

滑車残骸分岐をそのまま直進すれば、念願の桜峠です。
相変わらずヤブが蔓延る峠ではありますが、そこは冬枯れのヤブ、勢いは完全に衰えています。
また、刈り払いの跡も見られ、前回訪れたときとは雲泥の差です。
芦川北稜を訪れるには、そのシーズンが肝心で、前回、夏の終わりに訪れたのは大失敗だったと
つくづく反省させられます。

「夏の終わり」・・・それは、まだ雑草の支配する世界であり、
ありとあらゆる草の種がズボンにびっしり取り付き、野薔薇の棘が肌を傷付け、女郎蜘蛛の巣が顔面を襲い、
背丈を越し視界を遮るヤブにイノシシやマムシを恐怖するのです。
「冬枯れの時季」に訪れること、これが芦川北稜の正しい歩き方のようです。


13. 峠の石祠


13. 冬枯れしたヤブに包囲される峠

冬枯れてはいても、地形図の荒地記号は正しく、やっぱり荒れ放題に違いありません。
刈り払い機や鎌を片手に道普請をしたくもなります。
尾根上は昔、畑地だったらしく、土が肥えているのか植物の生長はとどまることを知らず、
日当たりの良さも相俟って不快極まるヤブの一団が我が物顔で根を下ろしています。

峠の凹地の東側の高みには石祠がポツンと祀られていて、
そこからは大畠山、蛾ヶ岳など芦川南稜の豊かな山並みを望むことができます。
そして西側の小さな丘には、数本の桜と石碑らしきものが峠の凹地からも確認できます。
その「(仮称)桜の丘」に向けて進んでみます。


13. イノシシ天国 
気持ち良さそうな(?)ヌタ場がある


14. (仮称)「桜の丘」
浅間講の石碑や丸太のベンチがある

北側に下る峠道を確認し、「桜の丘」に登ります。
西方のヤブは薄く、確かな踏み跡もあり、なんら進行を妨げるものはありません。
夜は千客万来になるに違いないヌタ場の脇を通って丘に登ると、そこには丸太の展望ベンチと
浅間講先達にまつわる石碑や石祠など合わせて四基の石造物が安置されているのです。

  【桜嶺】
  「弓建嶺ノ西ニ在リ 大塚村ヨリ中山ヘ踰ユル山路ナリ 上下壹里餘 昔時嶺頭ニ桜樹多シ
  花時奇觀トス 因リテ名ヅクト云フ 今枯株ダモ存セズ 唯一小樹ノ淡紅花ヲ発スルアリ
  好事ノ者甞テ芳野ヨリ移植スト云フ 又一大榎樹アリ 其ノ下ニ浅間ノ祠ヲ安ズ」
                                 (『甲斐国志』巻之二十六 山川部第七)

  「昔は嶺の頂に桜樹が多く、花時は美観を呈し、よって桜峠と名づけられた」(『三珠町誌』)

「桜の丘」の桜は、峠の美観を取り戻そうと、近年植えられたものでしょうか?
少なくとも何百年も前からそこに植えられていたものには見えません。
しかし、しっかりと丘に根付き、空に枝をのばし、その蕾は下界の桜よりも膨らんでいるように見えます。
開花のときを今か今かと、はちきれんばかりに待っています。
訪問する日が、あと2週間ほど遅ければ桜峠で花見ができたことでしょう。

三省堂の『日本山名事典』を見ると、全国で「桜峠」という名の峠は20以上もあります。
そのうちどれだけの峠に、実際に桜が植えられているかは知りませんが、
「桜峠」こそ、春に訪れる価値のある峠ではないでしょうか。
春の陽光と舞い散る桜花、一杯の酒・・・・、カラオケも馬鹿騒ぎも不要です。
ここ芦川北稜の桜峠も、そんな情景にマッチする心地好い峠なのです。


14. 石祠には蹄鉄が納められている


14. 江戸時代の古銭だろうか?四角い穴!

福山雅治が『♪桜坂』ではなく、『♪桜峠』という歌を歌っていてくれていれば、
峠の訪問者は飛躍的に増えて、ヤブは踏み殺されていたのかもしれません。

「桜の丘」の石祠前には錆びた蹄鉄が置かれています。(ひとつは叢から拾い上げそこに置きました)
かつて峠越えをしていた荷馬に用いられていたものでしょうか。
峠越えの安全無事を祈願し奉納したのでしょうか?
また、地面には四角い穴の開いた古銭らしきものも落ちていました。(お賽銭?)
鑑定団に持っていけば、古銭マニア間で高値がつくかもと思いましたが、そっと祠の前にお供えしました。
この石祠が浅間社なのでしょうか?


芦川南稜の大畠山、蛾ヶ岳のボリュームある山容が間近に迫る

「桜の丘」のベンチに腰掛け、芦川南稜の大畠山、蛾ヶ岳のボリュームある山容を眼前に望みながら、
ボリュームに欠ける100円の菓子パン1個の昼食を頬張っていると、
「ホ〜ホケキョ、ケキョ、ケキョ・・・♪」と今年初めて鶯の声を耳にし、うつらうつらとしてくるのです。
ぼんやりしていると、峠の伝説に登場する神様の話も本当の出来事のように思えてくるのです。

   「桜峠の頂上に昔は浅間神社があった。
   ある年の春、祭神木花開耶姫の侍女たちが舞いを舞っていると、
   荒々しい大男が来て、一人の侍女の袖をむしって峰の松の木にかけた。
   それ以来その峰をソデンボー(袖ガ峰)と呼んだ。
   木花開耶姫は大男を叱って『何かよいことをしろ』と言った。
   当時、甲府盆地は一面の大湖水であったから、大男は南の山を蹴破り、
   その水を富士川に落としたので、甲府盆地の陸地ができた。
   後にこの大男を神に祭ったのが、上野の蹴裂神社だという。」
                     (『甲州の伝説』 土橋里木・土橋治重著 角川書店 より)

山梨県内各地に同様の伝説がみられますが、ここ桜峠もその舞台として伝えられているようです。


15. 林道の越える鞍部には仮設トイレがある


16. 593m三角点の「浅間山」はヤブが埋め尽くす

「桜の丘」から、一旦峠へと戻り、そこからしばらく西方の尾根を探索してみます。
峠から林道の最先端部までは踏み跡があるのでヤブを漕ぐこともなく降りることができます。
以前にも訪れた林道桜峠線は尾根を越えたところで工事がストップしているようで放置状態です。
仮設トイレも以前のままで、なぜこんな所にと思いますが、これは林道工事関係者用のトイレではなく、
「桜の丘」を訪れる花見客用のトイレだと考えれば合点がいきます。

林道はいずれ、南側の芦川沿いへと延伸され、県道と接続されるのでしょうか?
延伸がその土地で暮らす地元民の悲願とあらば、止むを得ませんが、
旧峠道の美しい道が破壊されはしないかと心配するばかりです。 
東西に抜ける芦川沿いの県道が自然災害等により通行が遮断された場合、尾根を越えて北側に
自動車で通行できる脱出路を確保しておきたいと考えるのは至極当然でもあります。
峠に抱くロマンチシズムよりも、その地の生活者の現実が優先されるのは仕方ありません。

林道を横切り、尾根を西へと進むと草ヤブに埋まる△p593の浅間山です。
この三角点を探すのは至難の業で、枯れたススキのヤブに火をつけて焼き払いでもしなければ、
三角点は発見できないだろうと思われます。
火炎放射器を持参することなどできませんから、
鎌を片手に奇特な方がコツコツと手入れをしてくれることを願うばかりです。

  「櫻峠から浅間山辺りの尾根筋一帯は、最近は麦畑も作られてあり、晩春頃この辺りで、
  黄金色に波打つ麦畑の傍らに腰を降ろして、夕霞の一面に延びて行く盆地を見ていると
  何とも云えない気持に襲われる。」
                                      (『日本山岳案内3』 より)

昔のガイド本には、こんな悠長な事が書かれていますが、「黄金色に波打つ麦畑」など今は無く、
肌を刺すトゲトゲ植物などが草ヤブに紛れていて、訪問者をいたぶるのです。


「浅間山」という名だけあって富士山の頭が芦川南稜の上に覗いている

「浅間山」という名だけあって(地元ではそんな名で呼んでいないという噂もある)、
芦川南稜の上には、ちょこんと富士の頭が出ています。
その右には、栂ノ峠(地蔵峠)の大栂も目視でき、さらにその右には本当に平らな大平山も確認できます。

芦川北稜、南稜の山々は、それほど標高が高くもなく、そしてえらく山深いというわけでもありません。
それなのに、この山域には人を惹きつけてやまない魅力があります。
それは単なる個人的な思い入れに過ぎないのかもしれませんが、今後も足繁く通うことになるでしょう。


富士川の流れと南アルプス


雪を纏った八ヶ岳も良く見える

盆地側の眺望は開豁で、盆地を囲む南アルプスや八ヶ岳など、
山を愛する人は足に絡み付くトゲトゲ植物の存在もしばらく忘れて見入ってしまうことでしょう。
浅間山を過ぎ、西へ進むにつれヤブは薄くなります。
下りの勾配が増すにつれ、昔は仕事道として頻繁に歩かれていたに違いない道形なども現われます。

芦川北稜を紹介した『山と渓谷728号』(1996年3月号)の山村正光氏の文章の中に、
北稜に点在する峠を、東から羅列した箇所があり、そこで「大峠、大鳥居峠、東峠、桜峠」と続いて、
「龍ノ口坂峠」という峠名が登場しています。
この峠が一体どこのことを指しているのか、前々から気になっていて、浅間山の西鞍部ではないかと
狙いをつけていたのです。


17. 浅間山西方鞍部


18. 「←芦川駅・桜峠→」の標識がある

その西鞍部は、平凡な鞍部で峠らしくはありませんが、一応地形図の破線道が変則十字路を成し、
芦川沿いの椚林から北側の上野へと越える道が認められます。

p544へ向かう踏み跡を分ける辺りには手作りの標識も設置されていますが、
「龍ノ口坂峠」の名前などどこにも見当たりません。 【*1】

  【竜ノ口坂(タツノクチサカ)】
  「大塚村ノ西ニアリ 此ノ下ニ 三丁六段歩許リノ池アリ・・・」  (『甲斐国志』)

『甲斐国志』によると、その池には蓮が浮かび、魚が沢山いたとあり、
好事家は「蒼竜口」、「桜花嶺」、「紫燕堂」を風光明媚な三勝として詩歌の材料にしたとあります。
「竜ノ口坂」がどこなのか結局分かりませんでしたが、山上に位置するのではなく、
もっと麓に近い単なる坂道だったのかもしれません。


19. 浅間山の西鞍部から南山腹を行く破線道


20.緩斜面の荒地にぶつかり道を見失う

浅間山の西鞍部から、芦川沿いの椚林に下る破線道を歩いてみようと足を踏み入れてみます。
歩き始めはわかりやすい道跡でしたが、次第に怪しくなり、とうとう道を見失ってしまいます。
右手の植林地内に下降を続ければよかったのかもしれませんが、
高度を下げぬまま前進を決め込むと、完全に踏み跡は消え去り、
前方には切り開かれた緩斜面の荒地が広がるのです。

ここでこの破線道の探索は諦め、切り残された植林に沿って道無き斜面を登り返し、
浅間山へと戻る判断をします。
途中、フキノトウの群落にぶつかりますが、摘むには花が咲き過ぎてしまっていて残念です。
イノシシになった気分でヤブを掻き分け、汗をしこたまかかされ斜面を攀じると再び浅間山に飛び出たのです。


21. 滑車残骸分岐から東峠へ向かう道


22. ここが東峠だろうか?

どうやって下界に戻るか、素直に往路の桜峠道を戻ればよいのですが、
それだけでは味気ないと、東方オイワケの先、p664から中山へとジグザグで下降する破線道に目をつけます。
それがもしダメなら、曽川に沿って大きく逆「く」の字形に下降する破線道もあります。
というわけで、桜峠を経て、「滑車残骸分岐」からの破線道を辿り、尾根を東へと向かいます。

この「滑車残骸分岐」から尾根上に復帰した場所が、『日本山岳案内3』でいうところの「東峠」で、
『山梨の峠』でいうところの「弓建峠(弓張峠)」のようです。
しかし、その場所は桜峠の一角、あるいは荒地の延長の範囲内といった場所で、
桜峠と別種の峠であるとの雰囲気は感じられません。
もう少し荒地を東へ進んだ所で、オイワケへの登りが始まる辺りが
「東峠(あるいは弓建峠)」なのかもしれません。
北側へ下る道は認められませんが、はたして昔は南北を繋ぐ峠道が存在していたのでしょうか。

『日本山岳案内3』の「右左口峠より主稜を櫻峠へ」と題する紹介文には次のように書かれています。
  「オイワケは659.6mを算する突起で、部落に依ってユンダテ峠と呼ぶ人も居るから、
  「甲斐国志」にある弓建嶺がこのオイワケなのであろう。
  オイワケからは左前方に芦川の流れを見下して、やや北寄りに降れば、間もなく東峠に着く。
  東峠では右より上野原及び山宮部落よりの道が登って来ている。」

峠道は時の経過とともに、自然の姿に還ってしまったのでしょうか?
古い版の地形図には北側にも破線道が描かれていますから、あるいは見落しただけなのかもしれません。

『曽根丘陵地帯の豊富村』(豊富村教育委員会編)には、郷土の峠に対する想いが綴られています。

  「用無き峠路は荒れ放題、その所在すら不明になりがちの今日である。
  今や全山が森閑落莫として時に妖気さえ漂うほどに陰惨で
  人間臭は更になく原始の林相をさえ呈している。
  この昨今の峠の面影は時勢とはいえ、まこと今昔の感に堪えないものがある。」


23. 柱が新しくなった元禄期の石祠


24. p659オイワケ(追分)の馬頭観音

鬱陶しいヤブに別れを告げて、オイワケに向けて自然林の中を行く登りが始まります。
明るい斜面に、割と幅広な凹道が残されていて快適な道です。
馬鹿正直に凹道の中を歩く必要はなく、落ち葉の降り積もった斜面を適当に登ればピーク手前に
石祠を見ることになります。

以前訪れたときは注連縄が張られ、弓が奉納されていましたが、
今回は腐った注連縄がその前の地面に落ちているだけです。
石祠の柱は新しいものに替えられてあり、最近リフォームが施されたようです。
建立されたのが元禄時代ですから長きに渡り雨風に耐えてきた祠なのです。
今も信仰は途切れることなく続いているようですが、どちらの村人がどのような信仰に基づいて
弓を奉納するなどの手入れをしているのかはわかりません。

  【弓建嶺】
  「本村ノ西南ニアリ 山南ヲ中山ニテハ弓張ト云フ 亦タ八村入会山ノ界ナリ 
  山頂一層高キ処ニ松林アリ 伝ヘ云フ浅利ノ与市 一日此ニ射猟シテ 北方一町畠ノ田間ニ
  白鷺ノ啄バムヲ臨眺シ 乃チ一発シテ殪ス 行キテ之ヲ検スレバ 白衣ノ老婆跼行シテ
  田螺ヲ拾フナリキ 此ノ間径直凡ソ一里許リナリ 後人石弓ヲ造リテ 此処ニ建テ
  与市ノ石祠ヲ置キテ 以テ表トスト云フ」  (『甲斐国志』)

  【弓建(ゆみたて)】
  「または弓張という。中山と豊富村大鳥居との境に弓建嶺あり、入会山の境で、
  この山頂に或る時、浅利与市(鎌倉時代の弓の名人)が狩猟に来て、北の方一丁畑の田の中に
  白鷺の啄ばむを臨眺して一発で殪(たお)す、行ってこれを見ると白衣の老婆が跼行して
  田螺(たにし)を拾っていたという。
  後人はこの山に石弓を建てて与市を表す。故に弓建嶺という。」  (『三珠町誌』)

どうやらこの石祠は浅利与市を祀ったものと思われ、この辺りが弓建嶺ということになるようです。
『日本山岳案内3』に示されているように、「オイワケ=弓建嶺」ということなのでしょう。


25. p664付近からは甲府盆地が一望できる


26. 林道大鳥居線 芦川側はゲートで封鎖されている

オイワケ山頂には馬頭観音が置かれていますが、山頂自体は小さく、山名板も設置されていません。
ここから林道大鳥居線が越える鞍部までは甲府盆地の見晴らしが良く、
金峰山や甲武信岳など奥秩父の山々を望むことができます。
前回訪れたときは、この辺りも女郎蜘蛛の巣が沢山張られていて景色どころではありませんでしたが、
今回は蜘蛛の巣の障害は皆無で、景色を堪能する余裕があります。

p664を過ぎると林道大鳥居線で、以前は無かったゲートが芦川側に設置されガッチリと施錠されています。
この林道は尾根を越えてどこまで工事が進められたか気になるところです。
曽川に沿って大きく逆「く」の字形に下降する破線道は無事なのでしょうか?
この林道も将来的には芦川沿いの県道にまで達するのでしょうか?
だとすると、林道桜峠線と林道大鳥居線、近接した二本の山越え林道が必要なのかと疑問も生じます。
「道」が必要なのではなく、単に「林道工事」が必要で開削したとしたら実におぞましい自然破壊行為です。


27. 中山へ下る破線道入口は目立たない


28. 立ち木に赤スプレーの目印がある

林道から引き返し、p664から芦川側へと下降する地形図に表記された破線道へと向かいます。
この道は古い版の地形図には描かれていないので実に不安です。
下降路入口は一見すると分かりにくく、ぼんやりしていると見落してしまいます。
倒木の先にあえかな道跡を見つけて足を踏み入れ、小さなジグザグから上部植林地へ向かい
立ち木に付けられた赤スプレーの目印を見つけて初めてホッとします。

目印発見からしばらくの間は自然林に囲まれた谷筋沿いに明瞭なジグザグ道がつけられており、
なんの不安も感じませんが、中盤の植林地を抜けた先で道が突如消滅してしまい、
右往左往してしまう羽目に陥るのです。
あっちのヤブを掻き分け、こっちのヤブをくぐりぬけと、必至に道跡を探しますが、
なかなか続きの、あるべきはずの道を発見できず、気ばかりが焦ります。
闇雲に道無き斜面の強引ともいえる下降も試みますが体力を消耗するばかりか、
あまりに危険なので、迷った地点まで戻り冷静に進路を探します。
すると、立ち木に付けられた今にも消えそうな弱々しい赤スプレーの目印を発見して
進むべき道をやっと見出すことができたのです。
難しいことはありません、迷わない人は迷わないで通過することができるでしょう。
変な思い込みや動転、パニックがちょっとした道迷いを、より深刻なものにしてしまうのです。


29. 中盤で道を見失うが消えかけた赤スプレーに助けられる


30.中山側破線道入口には馬頭尊が祀られている

立ち木の赤スプレー目印に助けられ、少々ヤブ気味の平坦地(昔の畑跡らしい)を過ぎれば、
再び道は明瞭なジグザク道となります。
最前の心細さから解放され、降り積もった落ち葉を勇ましく蹴散らして進めば曽川の流れの音が
だんだんと近付いてきて、現在も使用されている畑脇の道へと飛び出すのです。
登り口の大岩の陰に祀られた馬頭観音に無事の礼を述べるとともに別れを告げると、
スタート地点である桜峠道の土道が始まる場所に出て、今回の桜峠再訪紀行は終わりとなるのです。

蕾の膨らんでいた桜峠。
また訪れる機会があるならば次回は「桜の丘」の桜が満開の時期に訪れてみたいものです。
その時、峠付近のヤブは衰えているのか、それとも勢力を増しているのか、
そのどちらでも構いませんが、林道工事だけは今よりも進められていないことを祈ります。

(峠行2009.03.11)

【*1】 「龍ノ口坂峠」は、『山と渓谷728号(1996年3月号)』「甲府盆地を眼下に、御坂支稜の山並みを歩く」(山村正光著)の中に
     記されている峠名ですが、具体的にどこを指しているのかわかりません。
     桜峠のさらに西、芦川北稜の末端部の破線道が越える鞍部がこの「龍ノ口坂峠」ではないかと推測してみましたが、
     なんの確証も、手掛かりも得ることはできませんでした。

● 桜峠を初めて訪問した時のレポートを見る。

【参考文献】

『日本山岳案内3 中央線に沿ふ山・御坂山塊』 鉄道省山岳部編 博文館 昭和15年
『甲斐の山山』 小林経雄著 新ハイキング社 平成4年
『山梨の峠』 小林栄二著 自費出版 平成10年
『新ハイキング570号』2003.4月号 「右左口峠から大峠・桜峠を行く」 小倉修著 新ハイキング社
『静かなる尾根歩き』 「芦川北側稜線」 松浦隆康著 新ハイキング社
『甲州の伝説』 土橋里木・土橋治重著 角川書店 昭和51年
『三珠町誌』 三珠町誌編纂委員会 1980年
『山と渓谷728号』(1996年3月号・山と渓谷社)
  「甲府盆地を眼下に、ひと気の無い意外な穴場、御坂山塊支稜を歩く」 山村正光著

*『日本山岳案内』と『山梨の峠』では、「弓建峠」、「東峠」の峠位置・峠称呼が異なっています。
 

【桜峠レポのあるホームページ】

HP『ブログ版・山と山の花』 峠を行く 「芦川北稜・浅間山・桜峠(1)(2)」 2005.01.29
HP『自転車で峠越え』 「桜峠と大峠」 2006.12.29
HP『花のひかり』 「芦川北稜末端から日蔭山・日蔭山北尾根」 2004.03.07
HP『青空に雲が光る』 「桜峠〜大峠 芦川北稜」 2008.03.15
HP『晴れたら良いね』 「駆け足で近付く春を抱きしめる!in芦川」
HP『青山白雲』 「浅間山→茶屋平」 1986.06.01