「三国峠みち」の万六尾根を歩く

〜 大桂から大杉へ 巨樹を訪ねる道 〜

井戸−軍刀利神社−三国峠−連行峰−湯場ノ頭−万六ノ頭−柏木野−矢沢林道−茅丸−井戸

登山地図に「三国峠みち」と記載されている万六尾根を歩いてきました。
上野原の軍刀利神社奥宮では桂の巨木と、檜原村の万六尾根末端では大杉との対面がありました。

古くは甲州からの御嶽講の信者も歩いたという万六尾根を歩き、
復路は南郷から矢沢林道の終点まで歩いて茅丸北尾根へと登り返します。
夏草の繁茂に辟易することもありましたが、巨樹との対面は日々の生活で乱れた心のバランスを
正常に戻してくれる気がします。
汚れてしまった心の内を清浄にしてくれる作用が巨樹にはあるのかもしれません。


井戸 軍刀利神社入口


軍刀利神社

シルバーウィークの最終日、惰眠を貪ってばかりもいられないと足は山へと向かいます。
たまには遠方まで足をのばし、2000メートル級の峠にでも行けばよいものの、
近場の1000メートル前後の峠を登っては下り、再び登り返してまた下るという二度踏みで御茶を濁します。
訪問先である三国峠の峠道は、南面の上岩、下岩への道をほぼ踏査することができたので、
今回は北面の檜原村領分の「三国峠みち」と登山地図にはある尾根道を歩いてみることにします。

井戸バス停附近の路肩に車を乗り捨て、小さな集落を抜けて軍刀利神社へと向かいます。
一つ目の鳥居の脇には「井戸のサイカチ」という、記念物指定をされている雄体のサイカチの木があり
参詣者と三国、熊倉、生藤山の登山者を迎えます。
その説明看板には、「樹高18メートル、井戸川の清水に養われている」とありますが、
見た感じでは衰えが目立っているようです。

鳥居をくぐり抜け、舗装された参道のダラダラとした登りをペースを乱さぬようにゆっくり進んで行くと、
戸を閉ざし静まり返った社務所が左手に現われます。
玄関脇に「平成21年の厄年」というポスターが貼られているので、何気なく眺めてみると、
今年自分が「前厄」だということがわかり不安に駆られます。
厄払いをしなければならないのだろうかと不安になりますが、前厄、本厄、後厄と、
三度もお金を出して厄払いをする経済的余裕なんてありません。
どこぞの新興宗教団体が、先祖の悪霊が憑いていると不安を煽り、
壷や水晶や印鑑を買わせるのと、どこが違うのだろうかという気さえしてきます。

社叢の杉林は静謐とし、厳かな雰囲気に満ちています。
長い石段を登ると本殿で、刀を模した奉納物や数多くの絵馬が脇の奉納庫に納められています。
軍刀利神社は軍神として広く信仰を集め、特に武門の崇敬は篤かったといいます。
現在では厄除け招福、縁結びの神として信仰を集めているようです。
戦時中は徴兵逃れ、招集逃れ、戦地での弾除けを祈る参詣者で賑わい、
三国峠を越えて檜原村からの参詣者もあったといいます。
絵馬に書かれた雑多な願い事をチラ見し、神殿の精緻な彫刻を見物して先へと進みます。


奥宮参道 大きなカツラの木が見えてきた

本殿から奥宮へ向かう鳥居を抜けて山道を進んでいくと、前方には天を突く巨樹の姿が見えてきます。
奥宮の鳥居をくぐると、そこはまさに聖域といった感じで、異様なカツラの巨木が聳え、
その脇には井戸川の清流が流れ下っています。
きっと霊力の宿る巨樹の存在が、この場所に奥宮を建立させたのでしょう。

樹齢は500年といわれ、昔はこの根本より冷たく澄んだ水が湧き出していたといわれています。
集落の人々はこの水を飲んで渇きをしのいだという話が残っていて、村人は「水の木」と呼び、
村の守り木として大切にしてきたといいます。
高さ33メートル、目通り9.2メートル、根回り14メートルの堂々たる巨木です。
図体は大きくはありますが繊細な優しさが感じられ、惜しみなく愛情を注ぐ母親のようにも見えます。
生命力に満ち溢れ、崇高さをも感じます。


軍刀利神社奥宮の大カツラ


「大桂」の石碑が建っている

カツラの巨木は県指定の天然記念物で、その根本には「大桂」と刻まれた石碑が建てられています。
見るものを圧倒する姿ですが、恐れや威圧を感じることは無く、寛容と包容力を感じます。
といっても、これは個人的感慨で、見る人によって、対面した時の精神状態によって全く異なるでしょう。

奥宮背後から本格的な山道となりますが、道はよく踏まれていてなんの心配もいりません。
「←三国山80分」の標識がありますが、これは大袈裟で、半分程度の時間で登ることができます。
奥宮背後の沢筋でチョロチョロとした流れを横断し、植林地内へと吸い込まれていきます。


登り始めは植林地内のジグザグ道


「←女坂・軍刀利神社元社」分岐

前半は植林地内のジグザグ道を登ります。
快調に飛ばすこともできますが、今回は一度檜原村側の柏木野に下った後、再び国境尾根を
登り返さなくてはなりませんから、体力を温存するためにもゆっくりとしたペースを維持します。
植林の合間からは下降路として考えている熊倉山南西尾根を望むことができるので、
汗をフキフキするごとに、対面の尾根の様子を観察しながら登ります。

植林主体の道から自然林主体の道へと切り替わる辺りが中間地点でしょうか、
「←女坂・軍刀利神社元社25分 / 三国山45分→」の標識がある分岐を迎えます。
ラクであるに違いない「女坂」の名に釣られそうにもなりますが、「三国山→」の標示に従います。
ここから先は今までの小刻みなジグザグは消え、南方へトラバース気味に緩やかに斜上していきます。


「山」ではなく「峠」と表示された「(←)三国峠」の標識

生藤山南尾根に合流を果たすと、
そこには「山」ではなく「峠」と表示された「←三国峠」の標識があります。
三国山には「三国山」と表示された標識しかないので、「三国峠」と表示された標識は、
ある意味、貴重な存在です。

生藤山南尾根との合流部から三国山頂までは、ほんのわずかな距離しかなく、
よく踏まれた幅広の歩きやすい平坦な道をルンルン気分で進めばほどなく到着です。


ここらが「三国峠」の「峠」だろうか


昔はここに「三国峠」の標識があったという

三国峠の「峠」は、本来は峰を意味する「ドッケ」系なのかもしれませんが、
強いて「峠」の場所を特定するとすれば、山頂を巻く道の分岐辺りが「峠」といえるのかもしれません。
昔は三国山と生藤山の鞍部に、「三国峠」と表示された登山標識があったそうですが、
現在はそのような峠標識は見当たりません。

『新編相模国風土記稿』には、「三国峠、正保元禄ノ改メニ三国嶽ト書ス、今ハ峠ト書ス。
三国往来ノ間道アリ。武甲相三国接壌ノ峻嶺ナリ」とあります。
現在の地形図に「三国峠」の名は残っているものの、現地標識の大半は「三国山」となっていますから、
「嶽」でも「峠」でもなく、「今ハ山ト書ス」ということになるのでしょう。


三国山頂下の石祠
台座と屋根だけになっている

前回訪れた時、誰の仕業か山頂直下の石祠の屋根が数メートル吹っ飛んでいましたが、
今回はそれが定位置に戻されていました。
しかし、石祠は台座と屋根だけで、前回同様に本体が見当たりません。
いったい何処へ行ってしまったのでしょうか?

三国山頂はシルバーウィークのシルバーハイカーたちがテーブルを占拠中なので先を急ぎます。
生藤山、茅丸とすべて巻き道でかわして連行峰へと向かいます。
自然林に包まれた武相国境尾根を歩いていると、頭にドングリの空襲を度々受けます。
空襲とは物騒な物言いですが、これは平和の落し物です。
ドングリを飛行機に満載して、ゴルフ場や荒廃地にドングリの雨を降らせることができたらと、
つまらぬ空想をしてしまいます。

「三国峠みち」である万六尾根を歩く


万六尾根を行く

武相国境の尾根道を快走するトレイルランナーとすれ違い、連行峰に辿り着きます。
ここのベンチは大きなザックを降ろしている若者ハイカーに占拠されていて、
昼飯はまたお預けだと、休むことなく初訪の万六尾根に踏み込みます。

三国山から檜原村領分に下る「三国峠みち」について、『奥多摩』(宮内敏雄著)には
次のように書かれています。

  「峠みちはその傍らから生藤山二等三角点の瘤起の北を、次の茅丸では南を、
  次の連行では北と要領よく水平に縫ってから柏木野へと北に降る。
  左に矢沢、右にコザカシ沢を瞰下しつつコウタイ坂を降り、独標八九八米の万六ノ頭から
  つきとばされるような急坂で秋川滸に飛び出す。」
                                (復刻版『奥多摩』 宮内敏雄著 百水社)

連行峰で武相国境尾根から離脱し、北へと下降する坂を「コウタイ坂」と呼ぶとあり、
万六ノ頭を過ぎた後は「突き飛ばされるような急坂」で南秋川の河畔に飛び出るとあります。
登山地図にも柏木野へ下る道に「急坂」の表記が見られますから案外厳しい道なのかもしれません。
しかし、万六尾根は古くは交易路、生活路として頻繁に利用されていたようです。

  「藤野町の上岩、下岩地区と檜原村の南郷あたりとの重要な生活道路であり交易路であった。
  20〜30年前まではかなり使われていたと地元の古老に聞いたことがある。」
                               (『多摩の低山』 守屋龍男著 けやき出版)


背丈ほどのスズタケ帯の通過もある


湯場ノ頭手前の鞍部

これまでの武相国境尾根の高速道路のような明瞭でしっかりと踏み固められた道に比べると、
万六尾根の尾根道は交通量の少ない地方道のような頼りなさを呈していますが、
それでも古くは交易路だったというだけあって道を見失うことはありません。

『奥多摩』によると、連行峰から湯場ノ頭手前の鞍部に至る辺りを「コウタイ坂」と呼ぶとあります。
「コウタイ」とは「交替」、「交代」の意味なのでしょうか?
上野原と檜原との間を行き来する駄馬が荷継ぎをした場所なのでしょうか?
それとも、「コウタイ」は「後退」で、登っても滑って後に戻ってしまう急坂の意味なのでしょうか?
多分、どちらも違っていて、きっと他に地名語源の正解があるのでしょう。

途中、短い区間ですが、体が没するほどのスズタケ帯の通過がありますが、
それを過ぎれば道は安定し、不安要素は皆無となります。
要所に登山標識が設置され、「(財)南郷共益会所有地」の白い標識も道に沿って設置されています。


湯場ノ頭


先代の標識が朽ち落ちていた

右手に林道を見る鞍部を過ぎ、ひと登りしたところのp927が湯場ノ頭と呼ばれる場所で、
植林地の中、尾根筋は踝を隠す程度の小笹に覆われています。
先代の標識が朽ち果てた姿で地面に落ちていたので持参した手製標識を括りつけます。

「湯場」というからには、この附近の沢で湯が湧出していたのでしょう。
沢登りの遡行図を見ると「鉱泉跡」の表記もありますから、昔は山仕事の疲れを癒す鉱泉が
あったのでしょう。今も建物跡であるコンクリートの土台が残っていると聞きます。
あるいはそこは山神様や物の怪(もののけ)たちが湯を浸かりに来た場所で、
ひょっとすると湯婆(ゆばーばぁ)もいたのかもしれないなどと、またつまらぬ空想をしてしまいます。


快適な尾根道を行く


興味ある分岐道もあるが「通行止」とある

湯場ノ頭から万六ノ頭にかけての尾根道は小笹が美しく、しっとりとした落ち着いた雰囲気で、
思索に耽るにはもってこいの「哲学の小径」といった印象です。
「峠みち」としては左右の展望もそこそこあり、谷道に比べ危険もないので上等な部類といえます。
しかし、油断はならないもので、昭和59年春の降雪では、
道を見失った中高年ハイカーの遭難が発生し、死者を出しているとのこと。

「作業道通行止」と標示のある場所が「湯場ノ尾根」への分岐点でしょう。
気持ち良さそうな小笹の茂る支尾根に踏み込みたくもなりますが、
「通行止」とあるので自重が求められるでしょう。
バリエーションルートである「湯場ノ尾根」や「万六ノ頭北東尾根」については、
『静かなる尾根歩き』(松浦隆康著・新ハイキング社)で、コース紹介がなされています。


万六ノ頭


手製標識を取り付ける

思索に耽っていたり、余計な妄想を膨らませていたりすると、登山道は万六ノ頭を巻いてしまうので、
それらしき隆起を見たら公的登山標識裏手の踏み跡を見落とさないようにしなければなりません。
万六ノ頭は雑木の小ピークで、さしたる展望は無く、登頂意欲を掻き立てるものはありません。
昼食としてカレーパンを立ち食いしただけですみやかに立ち去ることにします。

ところで「万六」とは人の名前なのでしょうか?
古い山の本では「番六」と表記されていることもあるので、発音は「バンロク」なのでしょう。
「番六」だとすると林班番号の類を意味するものでしょうか?
もしそうだとすると「番五」や「番七」もなければなりませんが。

万六ノ頭から北側へと下る踏み跡はやや不明瞭ですが、最前に分れた巻き道と合流すべく、
感覚を研ぎ澄まして急斜面を下ってゆけば、明瞭な登山道に無事復帰することができます。
そしてついに万六尾根の主(ぬし)とも言うべき大杉と対面を果たすことになるのです。


圧倒的な存在感

先に万六尾根には小笹の中をゆく「哲学の小径」といった雰囲気が漂う場所があり、
思索に耽るには良いかもしれないと書きましたが、
いくら思索に耽ったところで、この大杉には思慮の浅はかさを見透かされてしまうことでしょう。
見せ掛けや装飾、嘘や幼稚な理論武装など何も通じない、そして動じない、そんな巨人なのです。

この圧倒的な存在感は見るものに畏怖の念を抱かせます。
軍刀利神社奥宮の大桂が優しさと包容力のある母親のようであったのに対して、
この威風堂々とし、寡黙な大杉は威厳ある父親のような存在です。


万六尾根末端の巨大な杉と木製祠


奉納大祗命守護の御札が納められている

大杉の一本一本の枝は、そこらに生えている植林された杉の幹の太さに等しく、
根回りは四、五人の大人がやっと手をつなげるかどうかという太さをしています。

根本に置かれた木製の小社は山の神を祀っているようで、
中には「奉納大祗命守護」などと書かれた御札とペットボトルの賽銭入れが納められています。
この巨体を見せられては神様を祀りたくなってしまう心境は十分理解できます。
きっと古来より信仰の対象になっていたのでしょう。
村史などの文献を漁れば何か大杉にまつわる伝説も見つかるかもしれません。


整然とした植林内のジグザグ急坂を下る


南秋川を小さな鉄橋で渡る

大杉で右に折れた道は、登山地図に「急坂」との表記があるように、
植林地内の急斜面をジグザグを切って下っていきます。
整然と並んでいる植林は、万六尾根の王である大杉を護衛している衛兵のようです。
道を隠している夏草を払い除けながら下降しますが、種の取り付きはどうすることもできません。
「雑草たちよ、そこまでしてオマエらは生存域を拡大し、子孫を残したいのか」と、
夏草の種の猛襲で全身種だらけになった姿を見て愚痴もこぼれます。

一旦平坦地に出た後、再びの急勾配のジグザグ道をウンザリするほど下れば、
柏木野の民家が見えてきて、まさに「突き飛ばされるよう」に南秋川の河畔に飛び出ます。
小さな赤い鉄橋で南秋川を渡ると、「三国峠みち」である万六尾根の踏査は終了となります。


「三国峠」の文字が残る標識

「三国峠みち」の柏木野側入口に設置された公的登山標識にも「峠」の文字が見られます。
「峠」を指し示す標識はあるものの、肝心の「峠」に「山」の標識しかないというのはどういうことでしょう。
国土地理院発行の地形図に「三国峠」の名が記されているのだから、
三国山の標識もせめて「三国山(峠)」とでも改めてくれればよいのにと思うところです。

矢沢林道から茅丸北尾根へ


「←矢沢林道・生藤山」の標識がある
昔は生藤山への一般的なルートだったのだろう

ツーリングバイクが引っ切りなしに走る檜原街道をトボトボ歩いて、
矢沢林道の起点である南郷へと向かいます。
「←矢沢林道・生藤山」の古びた登山標識が街道分岐点にあるところを見ると、
以前は生藤山への一般的な登山コースとして人気があったのかもしれません。
しかし、長い林道歩きが敬遠されているのか、現在の登山地図ではコース紹介がなされていません。
古びた標識に括り付けられた「ハセツネ」の告知看板が妙に浮いているようで違和感を覚えます。

南郷集落内の雑貨店、といっても店内はがらんどうで、商品棚はスカスカなのですが、
その店の前の自販機でキンキンに冷えたファンタグレープを買ってベンチで一休みです。
ビール用にと持参していた「柿ピー」の小袋を取り出して腹に収めます。


「←矢沢林道・熊倉林道→」分岐の落合橋


窓と扉の無い小屋を過ぎる

南郷小学校跡地前で南秋川を渡り、
清冽な矢沢の流れに沿ってマイナスイオンに満ち満ちた矢沢林道を進みます。
熊倉林道との分岐である落合橋から先は車両の通行が禁止されているようで、
形だけのバリケードが設置されています。

ダートと簡易舗装の入り混じる長い林道ですが、
矢沢の清流と美しい小滝を眺めていれば飽くことは無く、快調に足が前へと進みます。
山の神橋を渡り、右手の植林地内に山神の石祠を見ると、扉も窓も無い小屋が現われます。
この辺りが、かつて青年宿泊所があったという場所でしょうか?
古い石積みや平地が散見されます。

この辺りの平地を里人は「長者屋敷」と称しているようで、「昔、矢沢弥五郎なる長者が此処に居を構え、
里に降っては農作物を荒らすので遂に俚人に打殺された」(『奥多摩』)との言い伝えが残っています。

  「矢沢弥九郎はどこかの落人で、矢沢の東京都有林管理小屋の近くの、石洗久保に住んでいた。
  屋敷跡という処もある。それが野荒しをしたというので土民に打殺され、その妻なる人は
  それを悲しんで、茶臼を抱いて近くの矢沢の渕に身を投げたという。
  それでその渕を茶臼渕という。」
              (『檜原・ふるさとの覚書』 小泉輝三朗著 武蔵野郷土史刊行会 昭和55年)


柱と屋根だけの東屋を過ぎる


夏草に埋まる林道終点の奥矢沢橋

矢沢林道は奥に行くに連れ荒れ始め、屋根と柱だけの東屋を過ぎると、
夏草の猛威に道は完全に飲み込まれてしまいます。
それでもここまで来ては引き返すことも容易ではないので突進を決め込みます。
シャツもズボンも夏草の種だらけで、種の運び屋としてタダ働きを課せられる羽目になります。
肌を刺すトゲトゲ植物も現われ、もうテンションは下がる一方ですが、
草叢からイノシシや熊が飛び出して来てはかなわないから、無理にでもテンションを上げ、
赤面するようなアホらしい奇声を発して前進します。

林道終点の奥矢沢橋も半ば夏草に埋まりかけています。
橋を渡って山道に入れば明瞭な登山道があるだろうと勝手に思い込んでいただけに、
衰えを見せるどころか勢力を増すばかりの夏草の猛威に虚脱感を招きます。


進路も道自体も頼りない有様


夏草に完全に埋没した道(?)を進む

ギブアップできるものならそうしたいのですが、井戸集落に停めた車に戻るためには、
なんとしても武相国境尾根を乗り越えなければならないのです。
この夏草のジャングルの先に、茅丸北尾根に乗り上げる道があることを知らなければ、
足を踏み入れることを躊躇うでしょうが、今はただ意を決して体を没する夏草の中に突進するだけです。

「最初は下草をかき分けて進む。右に小さな沢が流れている。この沢を渡り、右に別の沢を迎える。
左手に「水源涵養保安林」のプレートを見て、木橋を渡る。沢を渡り返す。」という、
『新ハイキング537号』の簡潔な記事を頼りに進路を選択していきます。
夏草のジャングルが邪魔をしなければ、たいして難儀することはないのでしょうが、
土石流をくらったかのような足場の悪さも加わり歩行意欲が殺がれます。


沢沿いには階段状の石積など道の痕跡が見られる


放棄された炭焼き窯の残骸で右手の山腹道へ入る

それでも序盤の夏草ジャングル帯を突破し、沢沿いの明瞭な踏み跡を進むようになると、
精神も進むべき方向も安定し、冷静さを取り戻すことができます。
夏草ジャングルにダニや蜘蛛の巣が附随していたならば、きっと錯乱状態になっていたことでしょう。

やっとまともになった沢に沿う道には階段状の人工的な石組みも見られ、
このルートが、かつては生藤山への一般的なメジャー登山ルートであったことが窺がえます。
現在は地形図にも、登山地図にもルートの記載がありませんから、一般的とまでは言えないでしょう。
それに檜原街道の分岐点で「←生藤山」の登山標識を見たきりで、それ以後は登山標識の類は
完備されていないのですから、今や見捨てられたルートと言えるでしょう。

しかしその沢筋の道もすぐに荒れ始め、まさに土石流後の被災地を進むかのようになります。
放棄された炭焼き窯の残骸を見る地点で、沢筋を詰め登る踏み跡は完全に途絶えます。
さてどうしようかと首を左右に振ると、炭焼き窯の残骸前を通り右手の山腹へと逃げる踏み跡が
確認でき、立木には正規ルートであることを示しているのかビニールヒモのマーキングも見られます。

右手山腹道は植林地の中の道で安定しています。
進むに連れ次第に沢筋からは遠ざかり、尾根上方へと向かって行くので一安心です。
しかし、山腹道に張り出した灌木や夏草の猛威が、通行者を谷側へ押し出そうとし、
新たな闘いが開始されるのです。
強引に突破しようと抗うと、あらゆるトゲトゲ植物の容赦ない攻撃を受けるので油断なりません。
イラクサ、ノバラ、サンショウ、アザミ、それに名前の知らぬトゲトゲ植物まで総動員して
歩行者をいたぶるのですからこの道は完全にドSです。
そしてトゲトゲを半ベソで掻き分けながらも前進するのですから、こちらはドMなのでしょう。


尾根に乗ると東屋がある


踏み跡明瞭な緩やかな植林尾根を登る

しかしそんな御戯れも短い区間で終了です。
尾根に乗ってしまえば、苦痛に快感の入り混じったいたぶりからは解放されます。
一日の初めに、軍神である軍刀利神社にお参りした御陰でしょうか、夏草との戦いには
勝利できましたが、肌はトゲトゲによる複数の刺し傷を負ってしまいました。
帰宅後の風呂場で恥かしい悲鳴を上げてしまうかもしれません。

尾根上には青いトタンを巻いた東屋があり、「御成婚記念造林」の案内板が設置されています。
案内板には現在地を「南郷5974番地1外2筆」と表記されています。
ここから先は緩やかな登りで植林尾根の南下が始まります。
踏み跡は極めて明瞭で、藪も不安もありません。
南に向かっていた進路は次第に南西へと変動し、尾根を乗り換えようとします。


マーキングのある茅丸北尾根の本筋に合流


茅丸には登らず巻き道から一般コースへ帰還

乗り換えた次の尾根との合流点にはテープやビニールヒモ等のマーキングがたくさん見られます。
この乗り換えた尾根が茅丸北尾根の本道ということになります。
周囲からはピィー、ピィーと変な声が聞こえてくるので、鹿でも現われたかと様子を窺がうと、
前方を猿の群が移動していて、監視役らしき一匹の猿が警報を発しているところでした。

茅丸山頂へ直上する尾根には乗らず、
右手に踏まれた水平な巻き道を利用して武相国境尾根との合流を目指します。
往路通過時に予見していた通り、「←醍醐丸3.1km和田峠4.7km / 生藤山0.3km三国山0.5km→」という
関東ふれあいの道の公的登山標識の建つ場所に出て茅丸北尾根の踏査は終了します。

あとは日暮れとの競争で、足早に三国山へと向かいます。
当初は井戸への下降路として熊倉山南西尾根の踏査を予定していましたが、途中で日が暮れそうな
ことを考えると、未知のルートに踏み込むのはマズイので、往路同様に軍刀利神社奥宮への道を
辿ることにします。それでも少しは変化をつけようと、三国山から北へ、軍刀利神社元社方向へと下り、
女坂を経ることにします。標識には「女坂」とありますが、さして優しい道ではありません。
激しいアップダウンこそないものの、肩幅ほどの軟弱な路肩のトラバース道を歩かされます。
「女坂」だからと言って、そのすべてが足に配慮された優しい道ばかりではないようです。
世間には優しくない女性も大勢いるのだから当然といえば当然なのですが。

軍刀利神社奥宮で再びカツラの巨樹と対面しますが、夕間暮れに見るその表情は、
明るい陽の下で見た温厚なその姿とは異なり、冷厳な様子を見せています。
母のような温かな愛情に満ちていたものが、
迫りつつある闇夜の支配者である魔王へと変わりつつあるように見えるのです。
季節や時間、光線の強弱によって、また見る側の精神状態、内面の変化によって、
木々から受ける印象とは変わるものです。
人間が多面的であるように、木々も様々な表情を見せるのでしょう。

人間の寿命よりもはるかに長い間生き続けてきたカツラや杉の巨木は、
三国峠を行き来した多くの旅人を見続けてきたことでしょう。
その様子や峠の歴史について木々は寡黙を貫き何も語りはしませんが、
きっと年輪のひとつひとつに、思い出が刻まれていることでしょう。

夏草との闘いに勝利したとばかり思っていましたが、実は敗北していたようです。
帰宅後一週間経っても、強敵イラクサから受けた肌のダメージは治癒しません。
むず痒さに耐えきれず肌を掻き毟る度に思い起こすのは、峠道のことではなく夏草の脅威ばかりです。
夏草の脅威が柔い人肌に刻まれたようです。

(峠行2009.09.23)

【参考文献】

『多摩の低山』 守屋龍男著 けやき出版 1988年
『新ハイキング537号』 「矢沢から茅丸」 松浦隆康著 新ハイキング社 2000年7月号
『復刻版・奥多摩』 宮内敏雄著 百水社 1992年