佐野峠を読む 机上峠考編

峠マニア泣かせの峠がある。
一つは将監峠、もう一つは佐野峠。
今回は佐野峠を考える。

厳格な峠マニア諸氏は、どこにその位置を求めるか迷うに違いない。
このページは実地峠行に向けた予習段階である机上峠考編とする。

国土地理院発行の地形図には歴然と佐野峠の名を見ることが出来るが、
その呼び名、位置には諸説あるようだ。
佐野峠、小菅峠、小佐野峠、西原峠などが入り乱れ、
それぞれがどこに当てはまるべきものなのか混迷極まるばかりである。
昔この付近を越えたという説もある松姫様の一行も、もしかしたら戸惑ったことかもしれない。

各種文献から佐野峠の位置を類推し、これまで訪れることを躊躇していた峠への足掛かりとしたい。
ただし、精緻な考察は出来ないので、資料室的なページとなることだろう。

なんてね、堅苦しい書き出しですが単なる資料の羅列です。


佐野峠は大菩薩峠から牛ノ寝通りを経て、松姫峠、奈良倉山、麻生山と続く一連の尾根上に位置している。
行政区分上は大月市と上野原市の境界尾根の峠ということになり、地勢的には葛野川流域と鶴川流域とを
隔てる屏風のような尾根上の峠といえる。
(一部文献から察するに、大月市と小菅村の境界尾根の峠であるといえないこともない。)

現行地形図に記された佐野峠の位置は大月市と上野原市の境界尾根上にあり、
その他の西原峠、小佐野峠、小菅峠といった名称は現在及び過去においても地形図上では見られていない。

山梨県の山岳地誌に詳しい『甲斐の山山』には以下のような記述がある。

『甲斐の山山』  小林経雄  新ハイキング社  平成4年
【西原峠(佐野峠・小佐野峠)】1045m
この峠は七保側では西原峠、西原・長作などでは佐野峠と呼ばれる。
元来、西原方面から甲州街道の大月宿へ出るための重要な峠で、飯尾あたりの男衆は、
この峠を越えて日帰りで大月まで用足しに出掛けたという。
地図には東側阿寺沢への破線が記されているが、アカマツの植林地のため、踏跡不明である。

【佐野峠(小菅峠)】1220m
西原峠から市町界尾根を北西へ辿ると、北側伐採跡、南側アカマツ林の平頂(▲1,234.7)を越えて
佐野峠に出る。富士の眺めがよい峠であるが、最近はカラマツが伸びて眺望が悪くなった。
小菅村から甲州街道の大月宿に出るには、佐野峠を越えるのが最も近く、重要な峠であった。
小菅・丹波、さらに秩父の富士講の人々も、この峠道をたどったのは当然で、鶴峠の北西、
白沢川沿いの県道上野原丹波山線から奈良倉沢に入る林道の入口に、今でも「嶽仙元塔」と
刻まれた大きな石碑が建っている。

峠道のコースは、奈良倉沢の途中から奈良倉沢右岸の尾根に登り、奈良倉山の東尾根を
十文字峠で横切り、市町界稜線の東面をほとんど水平に巻いて佐野峠に出、三角点峰(▲1,234.7)
から南へ派生する、アシ沢右岸の尾根を下って中風呂に出た。
これが本来の佐野峠道であるが、アシ沢右岸の道が急峻のため、いつの頃からか佐野峠から
更に稜線をたどり、前述の西原峠に出てアシ沢左岸の尾根を下るのが、メインルートになったらしい。
そのため、西原峠を小佐野峠と呼んだのである。

中風呂の県道から葛野川の渓谷を渡ると、民家が一軒あり、その左側に
「左ちちぶこすげ道、右さいはら道」と刻まれた道しるべがあり、
二つの佐野峠への分岐点を示している。
どちらも地図に破線が記されているが、左のこすげ道(アシ沢右岸の尾根道)の上部は
篤志家も音をあげる猛烈なバラヤブである。

一軒家の脇にある「左ちちぶこすげ道、右さいはら道」と刻まれた道しるべ

地形図の中風呂から尾根を目指す2本の破線の内、
アシ沢左岸の尾根を登り境界尾根に出て、アテラ沢へ下る破線道が西原峠(佐野峠・小佐野峠)であり、
中風呂から真北にアシ沢右岸の尾根を登り境界尾根に出た所が佐野峠(小菅峠)であるとしている。
この考え方が一般的であり、昨今ではほぼ定着しているといえる。

そして西原峠の別呼称として佐野峠・小佐野峠を、佐野峠の別称として小菅峠を当てている。
山梨の峠を紹介した本である『山梨の峠』(小林栄二・自費出版・平成10年)においても、
峠の位置・峠の呼称は『甲斐の山山』を踏襲している。

峠の名前は、その峠を越えて行く先々の名、目的の地の名を冠することがあるので、
尾根を挟んだ峠のこちら側とあちら側とでは呼称が異なることがあるのは不思議なことではない。
必然一つの峠に複数の名があってもなんらおかしいことではないのである。

しかし、「西原」、「小菅」の名はその集落名であることがわかるが、
そもそも「佐野」という地名は附近にあるのだろうか?
また、「佐野」からの変化形と思われる「小佐野」とはいかにして付けられた名前なのだろうか?

『大菩薩連嶺』(岩科小一郎著)には、
「葛野谷で佐野峠を小菅峠というのは名詮自称小菅に至る道だが、
しからば佐野峠は小菅称かというに、奈良倉山の東面を佐野山というからだとの説もあるが断定できない。」
という一文がある。
「佐野峠」の「佐野」とは「佐野山」からとった名前であるらしい。

また、『遠い山近い山』(望月達夫・昭和43年)の「すたれゆく峠」という文章の中には、
「佐野峠という名前は、この付近の村や川になんら関係はなく、このあたりの山、つまり葛野川と鶴川とを
分つ分水山脈一帯を佐野山と言ったことから名付けられた名前だと聞いた。」とある。
同様の記述は『山岳第15年第1号』(「多摩川相模川の分水山脈」・武田久吉・大正9年8月)にも見られる。
この辺の山を佐野山と概称することから起ったもので、村名によったものではない。

佐野山がどこか特定の峰なのか、それとも付近一帯の名前なのかは定かではないが、
境界尾根全体を総称して呼んだ可能性が少なからずあるようだ。

「サノ」とは一般に地形語では「狭野(サノ)」を意味するという。
実際、葛野の谷にしろ、鶴川の谷にしろ、あるいは小菅側の谷にしろ山峡の深い谷間であり、
「狭い野」というイメージを想起させる。
そのような地を見下ろす山が(又は山々が)、狭い野の奥に聳える山が(又は山々が)、
佐野山と称されることになったととるのはしぜんなことである。

あるいは、葛野の谷と鶴川の谷とを分け隔てる山脈、「野を引き裂く」という意味で
「裂野(サクノ)」が「サノ」になったとは考え過ぎだろうか?

ちなみに奈良倉山東面の「長作」集落の「作(サク)」の語源は「サコ(狭処)」であるらしい。
狭く細く行き詰まった谷を「サコ」とも呼ぶという。
サコの頭の山だからサコ山、サコの地を越えるからサコ峠、それぞれ転化してサノ山、サノ峠になったとも
考えられはしないだろうか?

『甲斐の山山』と同じ著者の作に『富士の見える山』があり、以下の一文がある。

『富士の見える山』 「西原峠から奈良倉山」 小林経雄 新ハイキング社 昭和58年
橋を渡ると民家が一軒あり、その左側に石の道しるべがあった。
「左ちちぶこすげ道、右さいはら道」と刻まれている。
左は佐野峠への道だが、4年前のやはり3月、この道を峠から下ってきて、
猛烈なバラヤブに悩まされたことが思い出される。

民家の上の畑で仕事をしていた老人に、西原峠のことを聞いてみた。
「西原峠とはいわない。佐野峠だ。 昔は左の道を登った所が佐野峠だったが、
今は右の道を登った峠を佐野峠という」
との返事だった。
いうなれば、新佐野峠とでもいうべきところか。

西原峠について、現地の方の声が載せられており、「西原峠」との呼称はないとしている。
中風呂から尾根を目指す2本の破線はアシ沢右岸をとっても、左岸をとっても、
到るところはともに「佐野峠」という呼称であるという。

さらに昔は右岸の道を登った所が佐野峠であったが(現行地形図の佐野峠)、
今は左岸の道を登った所を佐野峠というともしている。
葛野の谷では、西原に越える道であっても「西原峠」との呼称はなく、
「佐野峠」と呼ぶことが一般的であるとの指摘は興味深い。

『富士の見える山』 「西原峠から小寺山・大寺山」 小林経雄 新ハイキング社 昭和58年
・・・西原峠のことを長作あたりで何と呼んでいるのか尋ねてみた。
はじめ佐野峠だというので、地図を見せ、地図の佐野峠の東の方の峠だと念を押すと、
名前はないとのことだった。・・・

西原峠という名は七保側の呼称である。長作あるいは西原では何と呼んでいるか、
なお調査する必要がある。小佐野峠と書かれた記事に二、三接したが、
現地ではまだ確認していない。・・・

西原側の村人からの聞き取りでも「西原峠」との呼称はないとの記述である。
また、「小佐野峠」という呼称も現地ではまだ採取できていないとの記述が文末に述べられている。

ここまでの基本的な確認事項として、
ひとつの峠に複数の名がある場合もあるということ、
葛野の谷から峠を越えることで、小菅村白沢への道、小菅村長作への道、あるいは西原村飯尾への道があり、
単にAとBとを結ぶという単純構造の峠ではないということ、
さらに時代の経過とともに佐野峠のメインルートに変遷があったということは押えておきたい。

この“佐野峠の移動”については、雑誌『あしなか第208号』(山村民俗の会)
「消え行く峠を探る -甲州郡内領、佐野峠考-」(杉崎満寿雄著)に詳細な考究がなされている。

それによると、「佐野峠は明治時代に移動」していたとある。
その背景には交通網の発達があり、小菅村の人々が日用品等の生活物資を手に入れるルートに
変更があったことが考えられている。

明治11年に完成した丹波山村より柳沢峠越えの塩山への青梅街道の開通、
明治34年の中央線上野原駅開設(36年には甲府まで)、この二点が山間奥地の集落に与えた影響は大きく、
特に上野原駅開設により、小菅村への物流は一変したとしている。

青梅街道は遠いうえに悪路で、あまり利用されなかったが、
鉄道開通は線路から遠い山村にまで大きな影響を及ぼしていた。
以来、小菅村への物資はほとんど西原村を中継地として上野原との間に流通するようになり、
佐野峠を越えてまで猿橋、大月方面を相手に交易流通を求めるということはなくなった。

「小菅村から上野原までの道は遠いが、途中の鶴峠、大羽根峠は低く、佐野峠を往来する労苦に
比べればはるかに楽であった。」
物流ルートの変更で、生活物資が越えなくなり、峠の往来が急激に減少することになった
佐野峠(小菅峠、現地形図の佐野峠)は廃れていったと考えられている。

かつて佐野峠は小菅の人々が里に出るための最短路であったが、たとえ遠回りであっても
楽で安全な道の出現は、これまでの村の生命線的役割を担った佐野峠を見捨てる結果を招いた。

佐野峠は大量の生活物資こそ越えることが絶えてしまったが、行商や公務で町を往復する人々や
たまに通る富士講の人々の往来はあった。彼らの峠越えには大きな荷物はなかった。
瀬戸から西原へ抜ける近道として開かれた「西原峠」の峠道を、
しだいに西原の人も、小菅の人も利用するようになり、いつの間にか彼らは新しい峠に今まで利用してきた
「佐野峠」の名を付けて言い伝えるようになったと推察されている。

佐野峠(小菅峠、現地形図の佐野峠)のように草に埋もれた峠がある一方で、
西原峠は葛野川流域と西原村を結ぶ近道としての役割を担い、佐野峠の衰退後も利用が続いた。

以下、山岳文献等に見られる佐野峠の記述を年代を追って見てみたい。

「天保8年郡内領絵図」 (『大月市史』より)

付近の江戸期の絵図を見ると、瀬戸と小菅を結ぶ山越えの道に「サノ坂」の名前が確認できる。
この「サノ坂」が現行地形図の「佐野峠」と同一のものかは定かではないが、
古くから自然が拵えた険しい障壁である尾根を越えて、
小菅方面と大月方面との交流があったことを窺い知ることが出来る。

「サノ坂」と現行地形図「佐野峠」の位置がまったくの同一であったという可能性は高くはないが、
「サノ坂」が持っていたであろう機能・役割は「佐野峠」と同一であった可能性はある。

江戸期に編纂された甲斐の国の地誌には、佐野峠について以下の記述がある。

『甲斐国志』(松平定能・文化11年完成) 巻之三十六 山之部第十六ノ中
「大菩薩峠ヨリ西原村ニ下ル道アリ、佐野峠ニテ小菅道ニ逢ヒ又分レテ東ニ下リ西原ニ出ヅ
佐野峠ヨリ村落ニ至る迄三里此ノ峰ツヅキ山神ヨリ佐野峠マデ未申ノ谷々ヲ惣ベテ土室ト云フ・・・」

「佐野山 瀬戸村ヨリ小菅ニ行ク坂ナリ昇降四里小菅ノ支村白沢ニ出ヅ
此ノ道甚ダ急ニシテ攀ヂガタシ
峠ヨリ辰(東南東)ニ分カルル峯アリ険阻ニテ通行スル者ナシ此レヨリ亥ノ方(北北西)ニ出ヅル峯アリ
之レヲ小菅・西原ニ村ノ界トス 此ニ丑ノ方(北北東)ニ向ヒ西原ニ下ル道アリ一里半余
又峯ヨリ申ノ方(西南西)ヘ下ル道アリ瀬戸ノ枝村和田ニ出ヅ是レ亦タ一里半許リ・・・」

「佐野峠ヨリ丑ニ出ヅル峯アリ鶴峠ニ下リ丑寅ノ峰ニウツル鶴峠ハ小菅本村ヨリ支村長作ヘ
越ユル坂路ナリ・・・」

具体的にどの地点をピンポイントで佐野峠としているかはわからないが、
古くより地誌に載るほどの重要径路であったことはわかる。
瀬戸(和田)と小菅ばかりではなく、西原とも結ぶ峠道が存在していたことが読み取れる。

『文化3年 瀬戸村絵図』 (都留市所蔵)

見にくいですが、川を渡って左側の道には「小菅道」とあり、「字大さの」の名前も見られます。
右の道は「西原道」とあり、「字さの」の名前が見られます。
「西原道」を登った所に「小さの山」と書かれています。

 

『文化3年 西原村絵図』 (都留市所蔵)

大変見にくいですが、左の方に「さの坂峠」の名前が見られます。

 

『山岳第15年第1号』  「多摩川相模川の分水山脈」 武田久吉  大正9年8月
(お坊山の)峯頭から東に小菅の支村長作に下る路があって、
それが佐野峠の道と十字路をなす所に、石像一基と、其の側に古い小道標石があって、
その北面には「此方小すげ」、東面には「此方長さく」、南面には「此方甲州」と刻んである。・・・

御坊山から先は、主脈は初め東南に向かうが、直に殆ど正南に向かう様になり、
佐野峠の所で再び東南に曲屈する。佐野峠の道は、略1,200米の等高線に沿うて、
鈴ヶ尾山の東面を走り、やがて1,235米の三角点のある峯の少し手前で此の尾根を越えると、
急に西方の眺望が開け、葛野川の谷を隔てて雁ヶ腹摺山や黒岳山を初めとして、
北へ大菩薩の連嶺が一望の中にある様になる。
此処から道はだらだら下りとなって、東へまわり乍ら略半円を描き、高距1,000米を僅かに超える鞍部から、
西南に向かってアシ沢と小寺沢との間の山坡を急に葛野川迄500米許を下ることになる。
此処で右岸に移り、和田の部落から猿橋に通ずる道に合するのである。

佐野峠道の南端高距約1,000米の地点から西南に葛野川に下らずに、東北に山背を辿ると
西原村の飯尾に通ずるし、東に阿寺沢の谷を下れば、同村阿寺沢に出るのである。
かくの如く佐野峠は七保村から西原村に通ずるものであるから、一に西原峠の名を所有する。
そして飯尾に出づる路には小佐野峠の名が文献に見えて居る。

此峠道は小菅村にも通ずる所からして、時には小菅峠とも呼ばるるが、元来は小菅からの道は
1,235米の測点のある峰から直にアシ沢の右岸の山坡を葛野川に下ったもので、
アシ沢の左岸の山坡を通行するものを西原峠と呼んだものである。

然し現今では小菅峠の道を山背上で西原峠に合せしめて、アシ沢の右岸の山坡を通行する道は廃道と
してしまったから、西原へ越すも、小菅へ越すも皆佐野峠の名で通って居る。
そして此の名は此の辺の山を佐野山と概称することから起ったもので、
村名に因ったものではないと考える。

この『山岳第15年第1号』の記述が、後の山岳関係書物の基本を成す資料となったようである。
佐野峠・小佐野峠・西原峠・小菅峠の関係がよくわかる。
またここでも本来の道はアシ沢右岸の尾根を利用したものであったとしている。
この書が出版された大正期にはすでに佐野峠のメインルートの変遷は済んでいたことになる。

『霧の旅』 「佐野峠から権現山」 松井幹雄  大正10年紀行
・・・小寺沢は佐野峠路の右沢、アシ沢は左沢の名である。
和田へ出る道を右折して二段になった橋を乗越すとこれが佐野峠道なので、
少し登ると右側に一軒の農家がある。・・・・
初めのうちは右や左の峠路だが、まもなく明るい所に出た。
尾根の上をまっすぐに走る近道を行く。・・・
栂の大木に猿の腰掛けを見つけたりするころから、・・・
・・・まばらな木の間を馬の通う立派な道について登る。
やがて千メートル圏内に入った時、道の左に茅屋を見た。・・・
鞍部に到着した。十字路になっている。・・・
左に佐野峠の例の長い長い尾根の一部が根張って見える。

ここでもアシ沢左岸の西原峠が歩かれているようだ。
「馬の通う立派な道」という道の状態も記されている。

『一日二日山の旅』 河田驕@自彊館書店  大正12年
葛野、駒宮、矢坪、オモレ等いう里落を過ぎて独立標高482米突の地点から右に葛野川左岸へ渡る、
此道が左にアシ沢と右に小寺沢とに挟まれた尾根を上る佐野峠道だ。

大正時代には、アシ沢左岸の尾根が佐野峠道として定着していたことが窺える。

『山岳第20年第1号』 「多摩川水源の山脈に就いて」  大正15年7月
・・・小菅から猿橋に越す佐野峠の如く、峠の上の平道が一里近くも続くと、
実際何処を峠といって可いか判らなくなる。

この峠もそれと同一かと思ふ。・・・

これは前段に将監峠の位置を問題視してのコメントである。
「この峠も」というのは将監峠のことで、佐野峠と同様に将監峠の位置についても所論あるところである。
長い尾根全体を越える行為が峠を越える行為として捉えられていた節がある。
つまり、点としての峠ではなく面としての峠であったとの見方である。

『日本南アルプスと甲斐の山旅』 「十月の丹波山村」 平賀文男 大正15年  昭和15年出版
・・・十時四十分、オモレ橋から佐野峠の登路にかかった。 一軒家の背後のアシ沢で水を飲み、
水筒にも用意する。 木影もなく草山の荒れたギザギザに曲折している細径の登りは、
秋の陽光に射られてどうしても汗になってしまう。 余り感じのよい径とは云えないが、
登るに連れ、葛野川の谷を通じて、遥かに谷村の町や、桂川沿線の部落、御正体、
鹿留、三ッ峠の山々、雪冠を着けた富士などが瞭然と眼に入るのは嬉しい。
峠の中程に大きな栂の樹が立っていたので一寸休む。・・・・
十一時五十分、佐野峠の尾根の一角西原峠に登り着いた。 眺望は一層広く恵まれ、南方は、
丹沢山蛭岳大群山、加入道もその峰頭を現し、東に、甲武国境の低い草山が、褐色の山波を盛んに
躍らせているのが面白い。・・・
佐野峠(1235m)三等三角点は十二時廿分に過ぎる。 鶴川の谷に西原の村家、長作の人家が看える。・・・
御坊山(1349m)を東に捲くと、小径が横切っている。 それは西方、大菩薩山嶺から東南に走る支脈、
即ち天狗棚から山ノ神尾根(牛寝通り)を通ずる大菩薩の舊道を、大マテイ(1409m)で岐れ、
山稜をその儘、此処に出て長作に下っている径である。一本松が立って石の地蔵仏が一基在った。
十文字と呼ばれている。其処を北に廻れば、峠道はいよいよ小菅の谷に向かって下っていた。・・・
急な歩き難い降りを楢倉沢から白沢に下り切ると右手から、上野原街道が、鶴峠を越えて合した。
辻に嶽仙元塔と記された石碑が建つ。・・・

「佐野峠の尾根の一角西原峠」という表現が印象的である。
“長い尾根を越える佐野峠越えの内の西原への分岐”という感覚であろうか?
西原峠そのものが佐野峠に含有されている感じを受ける。
尾根越えの道全体を佐野峠と称し、西原峠はその中の一分岐という見方であろうか。

また、「峠の中程に大きな栂の樹」という記述は、
前述の『霧の旅』の「栂の大木に猿の腰掛けを見つけた」で登場した栂と同一であろうか?

『山を行く』 「麻生山・権現山」 高畑棟材  昭和5年 
葛野川を渡り西原峠へ向かって何等趣のない峠路をジグザグに登る。
右に小寺沢、左にアナシ峠を瞰下ろしつつ一頻り登る。
その登り着いた所が即ち西原峠である。
海抜約1,040米、地の利を得ているので大菩薩連嶺の重鎮である大菩薩岳から姥子に及ぶ
長大な尾根が歴々指点出来るのは嬉しい。
西原峠から北して佐野峠へ到る峠路を見送り、東南へ登っていくと1,120米の峯に着く。・・・

ここでもアシ沢左岸尾根が登られている。(アナシ峠は意味不明だがアシ沢の誤植かと思われる)
1120mは西原山で、その後一行は小寺山へと向かっている。
アシ沢左岸を登り着いた所は西原峠であるということは揺るぎがないようである。

『山と渓谷』13号 「権現山とその附近」 岩科小一郎  昭和7年

小佐野峠というのは葛野谷から小寺沢とアシ沢の間の尾根を登ってくる西原峠の道が、
嶺上で佐野峠道と合する地点に、西原村飯尾から登って来る径の変る点のことである。

小佐野峠を飯尾の方へ三,四丁行った所に杖地蔵が祀られてある。
飯尾方面から登って来た旅人はこれから先杖が不要となるので、
自ら杖を捧げて行人の安穏を祈るを例とする、如何にも山の民らしい信仰を有する地蔵である。
小佐野峠から東への分脈は通称阿寺沢の尾根と呼ばれている。・・・

小佐野峠から北へ嶺上を辿ると、▲1234mと行儀の良い数字の大佐野峠三角点を経て
此山脈の首点とも見らるべきお坊山(▲1349m)となる。
お坊山とは葛野谷の名称で、小菅方面では奈良倉山と云って居る。
鶴川谷長作では神ノ前と称して居る。
秋切山という人もあるそうだがこれについては未考である。
お坊山は一に十文字峠とも云うが、これは地図に記されたお坊山東方の辻を云うので、
此山自体の名称ではない。

ここでは小佐野峠と西原峠には若干の違いがあることが述べられている。
西原峠はアシ沢左岸の尾根を登り着いたところで、小佐野峠は飯尾に下る尾根分岐を指すらしいことが判る。
小佐野峠近くには「杖地蔵」が祀られているとあるがこれについては後で触れる。
単純に「西原峠=小佐野峠=佐野峠」ではないことがわかる。

また、三角点を「大佐野峠」としている点も初見である。
「大佐野」に対するものとして「小佐野」という表現が生まれたのだろうか?
(先の『文化3年瀬戸村絵図』には「字大さの」「小さの山」が記されている)

『奥多摩』 田島勝太郎  昭和10年

奈良倉山から高距に於て殆ど1,100米を下らぬ山脈が南走し、場所によっては微東にふれて、
六、七キロで葛野川からの坂路に出合っている。
奈良倉の小屋から此峠の下り口まで大急ぎに急いでも一時間十分位はかかる路で、
此間が俗に云う佐野峠又は佐野山と称せらるるものである。
小菅村に越ゆるので又小菅峠とも云い、一部は西原峠に越ゆる所もあるから西原峠とも称せられる。

奈良倉山の東側で分岐し同山の南を搦んて釜入から竹ノ向へ出るのを佐野峠と呼んだ事もある。

此の殆ど平道に近い峠道は、
蜿蜒と二里弱の間山頂を通過するのであるが、
北は三頭山から武甲国境の山脈、西は大菩薩から黒嶽山方面を見晴らし、
葛野川の深谷を下瞰した気持は誠に結構である。
葛野川からの急坂がこの山脈に上り着いた所は小佐野峠とも西原峠とも
呼ばれる所で、・・・・和田から西原村の飯尾又は阿寺沢に越えるのである。

「釜入から竹ノ向へ出るのを佐野峠と呼んだ事もある」という点が注目である。
挿入図にあるように奈良倉山の西側に「旧サノ峠」と記されている。
アシ沢右岸の佐野峠(地形図表記の佐野峠)よりも古い旧佐野峠が存在していたことを示している。
この旧佐野峠が「天保8年郡内領絵図」や『甲斐国志』の示す佐野峠の位置なのかもしれない。


明治43年測量 大正4年製版
1:50000『丹波』地形図 陸地測量部

釜入から竹ノ向へ出る道は古い地形図には描かれているが
現行版の地形図では消滅している。

葛野ダム建設で周囲の様子は一変しているので、
この古道が残されているかは定かではない。

古地図には釜入という地に桑畑の記号も見られるので
かつては人の生活があったのだろう。
ちなみに現行地形図からは「釜入」の文字も
道の破線表示も消滅したが畑記号は残っている。

 

『奥秩父・正篇』 原全教 朋文堂  昭和10年
・・・地図通り佐野峠の分岐へ入る。七時十五分橋を渡ると一軒家がある。
そこでお茶を貰って食事するのに三十分かかった。
その横から一直線に上り詰め、右手のヌタで渇きを癒し、峠の一角に着いた。
九時三十五分東方には帝都らしい燈火の大群が光り、三頭は直前に黒くそそり立つ。
・・・小径は御坊山を巻いていつしか下りとなり、下り切った所は、以外にも曾遊の記憶ある鶴峠であった。
十一時四十分だらだら北へ行くと、左から始めて佐野峠の本径が合して来る。
自分はここへ来るつもりで踏み迷ったのであった。

一軒家から「一直線に上り詰め」というのは、アシ沢右岸の尾根を登ったのだろうか?
だとすると稀な記録といえるのだが・・・・でも、「地図通り」とあるのでやはりアシ沢左岸尾根だろうか?

『秋川の山々』 東京ガス山岳会 木耳社  昭和11年
鶴川と葛野川を絡ぐ最要地たる峠であって、
距離に於いても最も短いものとされる所に佐野峠がある。
その高度は1,020米であって鈴尾山より小寺山に至る稜線の最低鞍部をなし、
ここに各方面よりの路を一個所に集めて、
峠そのものは狭隘な、貧弱なものにしか過ぎないが、
価値に於いては、可成りのものが与えられねばならない。

佐野峠は1234.7米として明瞭に『丹波』図幅には記載されてあり、
今ここに呼ぶ峠を西原峠とも言う場合があるが、西原峠に當るべきものを知る人は殆どなく、
鶴川でも、葛野川でも一様に佐野峠と呼び慣らしているので、その例に従うことにした。
昔は地図にある佐野峠が、本当のものであったろうが、地名に無関心な土地の人たちが、
いつの間にか人の往来のある方へ、その名を移してしまったものかもしれない。
・・・・

・・・一軒の人家があって、その裏に石の道標がある。
右へ入って、ジグザグの登りを忠実に繰り返しているうちに、狭い峠の上に立つことが出来る。
途中、左にアシ沢の流れの音はかすかに聞こえるが水は得られない。

西原峠についてそのような呼称は存在しないとしている。
これは『富士の見える山』の「西原峠とはいわない」との指摘を裏付けるものであるといえる。
佐野峠は移動してきたもので地名に無関心な土地の人たちがいつの間にか人の往来のある方へ、
その名を移してしまったのではないかとの推測は大変興味深い。
『あしなか208号』の記述を裏付けるものといえる。
小菅村との往来が途絶えた後も、西原村との交流にはアシ沢左岸の道が使われ、
村人たちの往来があり続けたと読み取ることができよう。

『日本山岳案内・3 中央線に沿ふ山・御坂山塊』 鉄道省山岳部編 博文館  昭和15年

西原峠は1,040米を算していて、左手からは葛野川沿岸オモレよりの径が登って来ていて、
右手からはアデラ沢沿いに鶴川沿岸阿寺沢部落よりの径が登って来ている。
山稜を前方(北)にとって進む。登りであって、直に径は左右に分岐する。
この右に山稜から降り気味に行く径は、右手前の枝尾根上の小佐野峠(1,100米)を越えて、
西原村飯尾部落に至る径である。

左の径は山稜伝いの径であって、前方の突起の左側(西)を捲いて行くのであって、
捲き切って、右手から左手へとずっと廻って行くと、明朗な茅戸の地帯を通る様になる。
この茅戸の山腹の右上部の突起は、佐野山であって、1,234.7米を算する三等三角点が置かれてある。
佐野山の南面から西面を捲いて行くと、佐野山から葛野川に降下する
枝尾根を横切って、間もなく佐野峠に着く。

佐野峠は鶴峠と共に古くから名のある峠であって、所謂峠としては峠らしからぬ峠である。
それは山稜の西面から東面に鞍部を越えて、山稜を何れからでも辿るからなのである。

ここでは挿入図を見てもわかるように小佐野峠の位置が明瞭になっている。
『甲斐の山山』、『山梨の峠』とは異なり、小佐野峠は西原峠の別称ではなく完全に独立している。
図としては、この挿入図の完成度が高いのではないだろうか。

佐野峠は「峠としては峠らしからぬ峠である」という表現も気になるところである。
やはりダラダラと続く尾根全体を峠と捉える節があったのかもしれない。

『新しき山の旅』 小林玻璃三  昭和17年  昭和書房
「西原峠より佐野峠・鶴峠」 仁科繁男丸
人家の前で径が二分する。石の道標もあるが、右が西原峠道であり、左はアシ澤に降る。
即ち右に入り、再び分岐を左へ桑畑の中を登って行く。やがて、桑畑も盡き、ジグザグの急登となり、
次に心良い尾根道が続き、それを登りつめると西原峠である。
西原峠は右(南)へ小寺山、大寺山、三ツモリ、麻生山を経て、権現山に至る径があり、
前には阿寺澤径がかすかについている。
左(北)は佐野山が高く見え、佐野峠に至る本コースである。
即ち左(北)へ進み、間もなく、分岐点に立つ。
右は長作に降る径であり、佐野峠へは左に入る。
左に入った径は佐野山からの稜線の西側を捲いて進む。
佐野山三角点の西側を通り、稜線上の鞍部を東側へ越える。
ここが佐野峠であり、急に展望が濶け、甲武相国境の山々を一望に収め、前面に大きく三頭山が
クローズアップされている。
この峠は大きな独立樹が二本、既に枯死せんとする状態に立ちはだかって山の深さを知らせる。

一軒家前の石の道標を右に行くのが西原峠道であるとしている。
西原峠は、佐野峠に到達する為の経由地との印象が強い。
長作への分岐についても記されているが小佐野峠の名前は登場していない。
佐野峠に枯死寸前の二本の樹木があったことがわかる。

『山と人と生活』 高橋文太郎  昭和18年 金星社
独立標高482米突の地点から右に葛野川左岸へ渡る。
此の道が左にアシ澤と右に小寺澤とに挟まれた尾根を上る佐野峠道だ。

これは『一日二日山の旅』(大正12年)と同じ記述である。
アシ沢左岸尾根が佐野峠に至る道であることが定着している。

『奥多摩』 宮内敏雄  昭和19年  復刻版1992年 百水社
佐野峠とは、小菅村白沢滸から七保村葛野川べりまでの長い峠を謂うので、
古来から著名な連絡路だけに迷う処とてなく、
峠路というより山と山との低みを巧みに縫って踏まれたプロムナアドといった気分の優れたものである。

小佐野峠から葛野川へと蹴り出した尾根をジグザグに降ると、
膝のガクガクするころサナハダト橋を渡って坦道に放り出される。

「長い峠」、「峠路というより山と山との低みを巧みに縫う」という言葉の示す通り、
どこか一部分のことを指して佐野峠と考えるのではなく、
尾根を越える行為そのものが佐野峠を越えるということであったのではないかとも十分考えられる。

『山と渓谷』110号 「鶴川水源の山々を探る」 田中新平  昭和23年

小寺山から北東へ雑木を伐採した展望の良い尾根筋を下って行くと、
やがて尾根の東側を巻くようになり、ひょっこりと阿寺沢から葛野川へ越す峠路に着く。
所謂此処が佐野峠の始まりで佐野峠中阿寺沢乗越である。
然し葛野川オモレに下る道は立派だが阿寺沢へ下る径は悪い。

此処から良く踏まれた平坦な立派な道を北へ進めば、
一,二分で佐野峠(1234.7米)へ向かう径が左へ山巓についている。
尚一,二分で西原村飯尾へ越える佐野峠中西原峠(小佐野峠)に着く。
赤土の露出した明るい峠で飯尾への道は良く踏まれている。

此処から直接佐野峠(1234.7米)の尾根筋へ通ずる幽かな径もついている。

(佐野峠と云うのは大体に於いて小佐野峠附近から奈良倉山の東側付近を
通過するまでの約一里余りに亘る長い箇所を指した名称

1234.7米附近を佐野山などとも呼ばれている奈良倉山西方の鞍部から
七保村釜入に下る地点を舊佐野峠と云う。)

ここでは西原峠が「佐野峠中阿寺沢乗越」になり、小佐野峠が「佐野峠中西原峠」という表現になっている。
「佐野峠の始まり」という表現も独特である。
「小佐野峠附近から奈良倉山の東側付近を通過するまでの約一里余りに亘る長い箇所」を総称して
佐野峠とするという表現も見られる。
佐野峠とはポイントではなく、ゾーンなのかもしれないと思わせる。
挿入図に見られる「佐 野 峠」の間延びした書き方からもそのへんの感じが窺がえる。

『遠い山近い山』 「すたれゆく峠」 望月達夫  昭和43年
・・・西原村飯尾からの路が左から登ってきて合わさるところを、小佐野峠と云う。
そこまで来ると路はやっと少し歩きやすくなった。
暫くゆくと、もう一つ左手へ西原村阿寺沢へ下る路が分れていた。
佐野峠はまた西原峠とも言われるが、正確にはここが西原峠というらしく、ペンキの道標がたっていた。
今日の行程で道標らしいものは、これがはじめてであった。
ここから尾根づたいにまっすぐ進めば権現山へ登ってゆき、右へ下れば葛野川の谷へ下れるのである。

小菅側から歩かれたわりと新しい紀行文である。
小佐野峠、西原峠はやはり区分されている。

「上野原市観光ハイキングマップ」 上野原市・上野原市観光協会 2005.9 第二版
上野原市で配布している最新の観光ガイドマップを見ると、
奈良倉山の南に「佐野峠」の表記が二箇所で見られる。
最初見たとき誤植かと思ったが、ある意味正しい表現なのかもしれない。

一箇所は地形図の位置であり、もう一箇所は西原峠の位置である。
「西原峠」との呼称は無いともされるので「佐野峠」は正しいといえる。

あるいは付近一帯を広く佐野峠と捉えて
意識的に表記されたものかもしれない。

ちなみに古い観光ガイドマップや大月市、小菅村発行のものでは
現行地形図の「佐野峠」の位置にその名が記されているだけである。

【補注】
2006年10月発行の第三版では「佐野峠」の名は一箇所に修正され、
地形図と同一の場所のみに記載されている。

 


明治43年測量 大正4年製版
1:50000『丹波』地形図 陸地測量部


昭和48年測量 平成9年修正測量
1:25000『七保』 国土地理院
平成10年発行

明治・大正期には既に廃道となり歩かれていないアシ沢右岸の道(本来の佐野峠道)が
現行地形図に表記され続けているのはなぜだろうか?気になるところである。
土地登記上の赤道(あかみち)なのかもしれない。

ホームページで各種山の紀行文などを拝見すると、アシ沢右岸の尾根道を歩かれている方もいますが、
その尾根道の上部は不明瞭でヤブ気味であると書かれているものがほとんどである。

 


『山と高原地図・大菩薩連嶺』
2002年発行 昭文社


『山と高原地図・大菩薩連嶺』
2006年発行 昭文社

佐野峠道は最新版の『山と高原地図・大菩薩峠』では登山コースとして認知されたようである。
佐野峠ばかりでなく、西原峠、十文字峠の表記が加えられた。
中風呂から西原峠の間が破線表示となっているが『山と高原地図・高尾』版では実線表示とされている。

4年前には描かれていなかった林道の伸長が顕著であり、
小寺山・大寺山付近や阿寺沢源頭部にまで延長されているのが気にかかる。

● 十文字峠の石仏と小佐野峠附近の「杖つき地蔵」について ●

『山岳第15年第1号』  「多摩川相模川の分水山脈」 武田久吉 大正9年8月
(お坊山の)峯頭から東に小菅の支村長作に下る路があって、
それが佐野峠の道と十字路をなす所に、石像一基と、其の側に古い小道標石があって、
その北面には<此方小すげ>、東面には<此方長さく>、南面には<此方甲州>と刻んである。

と大正時代に書かれた十文字峠の石仏はつい先頃まではあったようだ。

『遠い山近い山』 「すたれゆく峠」 望月達夫 昭和43年
目の前の御坊山(1349m)の方へ登っていった。
いいかげん登ると、路は御坊山をまいて南へ曲ってゆくが、
やがて長作から登ってくる路とぶつかるところには、
一本の巨木があって、その根方に小さな石の地蔵さまが一基うずくまっていた。
随分古いものだと思うが、実に柔和な面ざしをした野仏だったと、今でもその記憶が薄れない。
武田久吉博士の「多摩川相模川の分水山脈」にも、この石仏のことが記されている。

現在この十文字峠の石仏は見られないという。
いったいどこへ消えてしまったのだろうか?
峠には朽ちた大木が倒れていると聞くが先人が目にした巨木であろうか。

『山と渓谷』13号 「権現山とその附近」 岩科小一郎 昭和7年
小佐野峠を飯尾の方へ三,四丁行った所に杖地蔵が祀られてある。
飯尾方面から登って来た旅人はこれから先杖が不要となるので、
自ら杖を捧げて行人の安穏を祈るを例とする、如何にも山の民らしい信仰を有する地蔵である。

飯尾への分岐点である小佐野峠付近にも地蔵があるようだ。
杖突地蔵と呼ばれ信仰があったらしい。

『小菅村長作今昔物語』にも両地蔵についての記述がある。

『小菅村長作今昔物語』  守重保作 小菅村
奈良倉山に登る途中、本村の板東より佐野峠への道と交叉したところがあり、
丁度十字になっているので、十文字と称し、ここには石仏が安置してあり、
道標もあって「東、西原道 西、甲州 南、富士吉田 北、秩父」とあったとのことであるが、
今は石仏も道標もなくなっている。

猿橋方面は小佐野峠を登って行った。
急坂の道なので登る人は麓で木を伐ったり、折ったりして杖にしてついて登った。
登り終わると道が平坦になり杖の必要がなくなった。
その処に石地蔵があり、杖地蔵といわれていたのでみなここに杖を納めた。
通行人が多い時は杖が山のように積まれていた。
しかし、今は通る人とてなく石地蔵の首は折れてなくなっている
ここから峠を降り七保の田無瀬、葛野を経て猿橋へ行った。

『葛野川物語』(鈴木美良著)の「佐野峠の悲話」には、
大正10年冬のころ、二人の若い兄弟が佐野峠頂上付近で凍死した話が記されている。
この惨事の後、峠には一体の石像の地蔵尊が祀られ峠越えの人々を見守るようになったとあり、
誰いうともなく「杖つき地蔵」と名付けられ峠を登ってきた人が杖を奉納する習わしがあるとしている。

十文字峠の石仏の行方、小佐野峠近くの杖地蔵の現状は、
今後、佐野峠道を探索するうえで調べてみたいことである。

『小菅村長作今昔物語』によると、
長作の生活では重量のある米、醤油、塩などの物資は馬の背で上野原から入ってくることが多かったが、
その他のものは人の背によって七保の田無瀬、葛野に買いに行くことが多かったとある。
葛野には造り酒屋もあって、一般に品物が安く、上野原よりも道は近かったという。
(『小菅村郷土小誌』には、小菅から上野原の32kmより、小菅から猿橋の28kmが近かったが、
上り下りで8km以上ある佐野峠を越えねばならなかったので、多くは上野原行きを利用したともある。)

古老の話では小佐野峠の頂上の少し下に喉を潤す湧き水があったともいう。
今も泉は涸れずに残っているのだろうか?

長作から上野原までは24km、長作から猿橋までは20km。
道の途中にはどちらも峠があったので特別の場合の外は直接の取引は少なく、
上野原とは西原に、猿橋とは七保の田無瀬、葛野に商店があって、そこを中継地として、
売買・取引を行っていた。
但し、上野原には月の一日と六の日に市が開かれ物資も多く集まったので
この日には足を運ぶことが多かったという。

猿橋の方は、明治の末頃から小佐野峠の道が悪くなり、馬の通行が困難となったので、
人の背に頼るばかりであったが、上野原より近いので依然として利用する人たちは多かったらしい。

『小菅村長作今昔物語』、『小菅村郷土小誌』には、それぞれ簡略的な付図があり、
佐野峠、小佐野峠、杖地蔵の位置が示されている。 (佐野峠は双方比較すると位置が若干異なる)

以上、佐野峠に関する文献資料の提示から、
佐野峠、小菅峠、小佐野峠、西原峠の振り分けとその位置は大体見当をつけることができた。

また、尾根越え道全体の総称としての「佐野峠」呼称が存在する可能性があること、
呼称としては小菅に至る道も、西原に至る道も、そもそも「佐野峠」呼称しか存在しないこと、
明治期の鉄道、交通網の発達に伴い佐野峠のメインルートに変遷があったこと、
釜入、竹ノ向経由の「旧」佐野峠の存在も考えられること、
などを学習することができた。

小佐野峠の杖つき地蔵、十文字峠の野仏の行方、白沢の嶽仙元塔など確認すべきものもある。

かつて生活物資を求めて行き来した人の流れ、薪炭を背にした馬の歩みは、いま峠にはない。
富士講の人々や、秩父の三峰信仰や三十三観音巡礼に向かう人の姿もない。

山間の暮らしを一変させた鉄道開通から100年以上の月日が流れ、
現在では、トラックの走行可能な立派な道が山襞の奥まで四通八達している。
峠を自らの足で越える必要はもはやなく、自家用車がどこの家でも足代わりとなっている。

自動車道路網の発達は山間集落に暮らす人々にとって安心や豊かさや暮らし易さを提供したことだろう。
しかし、その一方で古くからの峠道が廃れゆく様はさびしい限りである。

昔、山地で暮らす人々の間に病人や山仕事で負傷などをした者が出た際は、
猿橋や葛野の病院に入院して療養することもしばしばあり、峠道には入院患者を輸送する行列が
通ることもあったという。 村中の人々が交代で戸板にのせた患者を運んだという。

そのような山地での生活の厳しさを知らない都会に暮らす平地人が、
峠に特別の思い入れを持ち、たかが峠に感傷的になっているといわれればそれまでであるが、
廃れてゆくだけならまだしも、峠が人々の記憶からも忘れられてゆくとしたら惜しい限りである。


位置や呼称の混乱から峠マニア泣かせの佐野峠であるが、
忍び寄る林道延長工事に、今、峠マニアは泣かされている。

● 「佐野峠を行く 実地峠行編」 を見る

PartT 「トイレで夢見た峠」 飯尾〜小佐野峠、西原峠、佐野峠、十文字峠〜長作

PartU 「新旧の峠」 瀬戸中風呂〜西原峠、小佐野峠、佐野峠〜瀬戸中風呂

PartV 「敗走の峠」 阿寺沢水平歩道〜小寺山東方ヤブ尾根〜西原峠、小佐野峠〜飯尾

PartW 「再チャレンジの峠」 阿寺沢右岸道・西原峠・小佐野峠・坪山東尾根