「佐野峠は明治時代に移動していた」------
佐野峠を検証した論文である『消えゆく峠を探る』には、そのように結論づけられています。
かつてアシ沢右岸の尾根にあった峠道は、時を経て左岸の尾根へと移動したと。 【*1】地形図には右岸尾根を登りつめた所に「佐野峠」の名前が今でも記されていますが、
現在、一般に歩かれているのは左岸尾根の道であります。
この左岸尾根を登りつめた所を当レポートでは「西原峠」と呼ぶこととしますが、
そんな呼称は地元では用いられていないとの説もあります。
移動してきた後も、そのまま「佐野峠」と呼び続けられていたり、
あるいは「小佐野峠」と呼ばれたりしています。
また、現地標識から察するところ、なぜか移動先であるこの場所を
「旧佐野峠」と呼ぶこともあるようで一層の混乱を招きます。
国土地理院発行の地形図での呼称、登山地図での呼称、登山者間での呼称、地元での呼称、
それぞれで峠名とその位置については相違があるので頭を悩ますことになります。
地元での呼称という点では、瀬戸側、西原側、小菅側など、峠を越えて何処から何処へ
行くかという目的地の違いによっても、その呼び名が異なるということを留意する必要もあるでしょう。
(地名の混乱については「佐野峠の資料室」をご覧下さい)
呼称の問題はひとまず忘れて、経路の変遷について考えます。
『消えゆく峠を探る』ではアシ沢右岸尾根から左岸尾根への佐野峠道の移動の主たる原因として、
柳沢峠越えの塩山への青梅街道の開通(明治11年)や中央線の開設(上野原駅開設明治34年)
などの交通環境の激変と明治14年から強行された山林原野の官有化が挙げられています。
特に旧国鉄中央線開業に伴う小菅村への物資搬入ルートの変更は峠道の盛衰に多大な影響を
及ぼしたであろうと推察されています。
佐野峠道は専ら小菅の人々が里に出るための最短経路として利用され、生活必需品を得るための
重要な道でありましたが、鉄道開通後は西原村を経由地として上野原との間での物資流通が盛んになり、
それまでの七保、猿橋方面との交流にとって代わったといいます。
その頃より峠道の衰退及び変転が始まっていったと推測されています。
また、山林原野の官有化は、古くから小菅、西原両村の山稼ぎの場であった小金沢流域、土室沢流域の
入会山への自由な立入りと伐採の権利を次第に奪っていくこととなり、
結果、尾根を越えて山道を通行する山仕事人の減少を招いていったと考えられています。
通行が減れば山道が荒れるのは当然の道理です。
生活物資流通のための人の流れや荷駄の往来、山仕事のための日々の通行が途絶えてしまっては、
たまに通行する富士講の人々や行商人だけの交通では峠道が荒廃せずに維持されていくことは
難しかったに違いありません。
上野原への交通環境が整備されるにつれて、
小菅の人々にとっては、わざわざ標高の高い分水山脈である佐野峠道を越えてまでして、
猿橋、大月へ向かうことに利点を見出せなくなっていったのも事実でありましょう。
距離はあるものの鶴峠、大羽根峠などの比較的容易に越すことの出来る先にある
活況呈する上野原の街へと自然と目が向いていったことでしょう。
通常、上野原との交流は西原村を経由地として売買、取引を行っていましたが、
上野原には一日と六日のつく日の月六回、市がたち物資が多く集まったので
この日ばかりは直接、上野原まで赴いたともいいます。
山間地、小菅、長作に暮らす人々の上野原に対する熱い眼差しを感じます。
もともとは小菅の人々の利用が多かった佐野峠道ですから、七保、瀬戸側の人々の関心は薄く、
小菅住民の利用が減ればアシ沢右岸の道はヤブに埋まります。
七保、瀬戸の人々にとっては上野原への経由地である西原への道さえ存続すれば問題はなく、
アシ沢左岸の道、つまり現在の西原峠道は良い状態で残り続けたと推測することもできます。
「峠は移動した」というより、元々あった二本の経路のうち利用頻度の低下したアシ沢右岸尾根の道が
自然と廃れていったというのが本当のところではないでしょうか。(?)
人が生活の為につくりあげた峠道は、人の暮らしぶりが変わればそれに応じて変化します。
当たり前といえば当たり前のことですが、そんなところに
人の暮らしと密接に結びついた峠の魅力というものがあるのかもしれません。
中央線が開通し、上野原の街が活況を呈する頃、
小菅村から西原を経由して笹尾根を越える藤尾峠越えや、風張峠越えを経由する五日市方面との
交易は終焉を迎えたといいます。
人々の志向、視線、求めるものが変化すれば、
それに応じて峠道も消長の憂き目を見るということになるようです。
佐野峠道でもこれと同様な出来事が起きたと言えるでしょう。
利用頻度が減り不要になった峠道は、ヤブに埋まり、人々の記憶からも次第に忘れられていくのです。
峠の呼称や経路の変遷など難しい話はさて置いて、峠道を歩きましょう。
|

標識に従い葛野川対岸の一軒家へ向かう
|

「車両通行止」の看板を横目に葛野川を渡る
|
峠行前夜は雨、山梨県下は雪かと思われましたが暖冬のせいでしょうか降雪はなかったようです。
むしろ雨が雪を溶かし、春の訪れを一歩また近づけたようです。今回は、地形図を見ると厳しい直登コースのように思える瀬戸から西原峠への道を登り、
佐野峠からアシ沢右岸尾根を下降し再び瀬戸へと戻ってくる周回ルートを歩きます。
小寺バス停近くに車を停めて、「佐野峠入口」の標識に従い、葛野川対岸の一軒家へ向かいます。
(通称、瀬戸の一軒家。地元では柿ノ木平と呼ぶ)
葛野川を渡る橋には大月市の設置した「車両通行止」の看板がありますが歩行者なので無視します。
この道を無謀にも車両で通行しようと試みた者が過去にいたということなのでしょうか?
それとも、この「車両」とは山岳サイクリストを締め出すための警告の意味が含まれているのでしょうか?
一軒家庭先の畑には鎖に繋がれた番犬がいます。
どんな作り笑顔で近付いても必ず「ワン、ワン、ワォ〜、ワォ〜!」と吠えられます。
しかし、ここで怯んではいけません。
一軒家の裏手に回り込まなければ、お目当ての
佐野峠道と西原峠道とを分かつ石道標を目にすることはできないのですから。
番犬が吠えるのは、畑を荒らす熊や猪を追い払うためと、
山村で素朴な暮らしをしている方々を悪徳訪問セールスから守るためであるとあきらめましょう。
|

一軒家の裏手にある「是より 右 さひはら 左 ちちぶ 小すげ」の道標
西原村の人が建てたという
|
峠道を分かつ石道標の前にはいくつもの御札が奉納されていました。
道祖神的役割、あるいは辻神様の役割が石道標にはあるのでしょうか?石道標には「是より 右ハ さひはら 左ハ ちちぶ 小すげ」と刻まれています。
刻名を素直に受け取って右の道を西原峠、左の道を小菅峠と了解すればいいのですが、
石道標のすぐ裏手に「佐野峠→」と、右手の道を指し示す木製標識があるものだからややこしい。
こうなってくると、どこか限定的な場所を「佐野峠」とすることは無意味であるような気がしてきます。
尾根を越える行為自体を「佐野峠を越える」と言っていたとすれば、スッキリするのですが。
「佐野峠という名前は、この付近の村や川には何ら関係なく、このあたりの山、
つまり葛野川と鶴川を分つ分水山脈一帯を、佐野山と言ったことから名づけられた名前だときいた。」
(『遠い山、近い山』 「すたれゆく峠」 望月達夫著 昭和43年)
どこから登って、どこへ降りようとも、分水山脈を越えれば、
それは「佐野峠を越えた」ということで通じ、特段支障が無かったのかも知れません。
「佐野峠」とは峠道上の一つの限定的ポイントを指す地名ではなく、総体としての呼称として広く通じ、
扱われていたとするのが自然な受け取りかたのように思えます。
|

地形図の佐野峠とは逆方向指す「佐野峠」の文字
|

歩き出しは植林地内の大きなジグザグ
|
帰路に利用することになる石道標左手の道(「左ハ ちちぶ 小すげの道」)を覗いて見ると、
すぐ先で道は滑り落ち、アシ沢を渡る小さな橋も腐りかけ傾いている状態です。
また、その斜面上部は崩壊しており落石の危険もあるので、
左手の道から地形図の佐野峠(小菅峠)を目指す場合は、石道標分岐からではなく、
犬に吠えられるより手前(下流)の手すり付きの橋を渡る必要があります。(文末参照)石道標より右の道(「右、さひはらの道」)を選択し、
西原峠(木製標識の示す佐野峠、地元呼称でも佐野峠)へ向けて進むことにします。
畑の縁辺を通過し、植林地の中へ入ると、「佐野」の文字が消え「峠」とだけ書かれた木製標識があり、
これを最後に峠に出るまで登山標識の類はありません。
しかし、道は極めて明瞭、迷うことの方が難しい立派な道が続くので何ら心配はいりません。
|

山道の脇にバイクが放置されていた
|

尾根に乗るとアカマツ主体の雑木林
|
植林地のジグザグが終わる辺り、山道のすぐ脇にトライアルバイクらしきオートバイが
一台乗り捨てられ放置されているのを見ます。
葛野川を渡る橋の袂に掲げられていた「車両通行止」の看板と何か関係があるのでしょうか?
確かにこの道には倒木も、ゴロ石もなく、安定した路面と道幅が峠に至るまで確保されており、
この手のバイクなら走行は可能ではあります。
過去に事故でも発生して「車両通行止」の看板が設置されるに至ったのかもしれませんね。
(あるいは、この道は大月市が管理している市道に指定されているのかも?)最初の「休猟区」の看板を目にすると、主尾根上の道となり、
これからはアカマツを主体とした雑木林の心地好い道となります。
道は尾根を絡むようにつけられ小刻みにジグザグを切っているので苦しいことはありません。
実に歩き易い、上手く設計された道であります。
かつての道跡なのか、それともせっかちな人向けの道なのか、尾根を直線的に踏んだ道筋も
残っているので、この尾根を下降路に用いる際は一気に直滑降するのもアリなのでしょう。
|

尾根上を直線的に踏んだ跡もあるがジグザグを行く
|

霧が濃くなって幻想的な雰囲気
|
標高が上がるにつれ、霧が濃くなっていきます。
前夜の雨が蒸発して、雲になろうとしているのでしょうか?
天候の変わり目に山を歩くのは久し振りです、晴天の日ばかりではなく、
雨上がりの不安定な中、山を歩くのも良いものです。
濃い霧はそれがなければ単調な山道でも幻想的な姿に変えてくれるのですから。
霧で思い出す好きな詩があります。 不思議だ、霧の中を歩くのは!
どの茂みも石も孤独だ。
どの木にも他の木は見えない。
みんなひとりぽっちだ。
私の生活がまだ明るかったころ、
私にとって世界は友だちに溢れていた。
いま、霧が降りると、
だれももう見えない。
ほんとうに、自分をすべてのものから
逆らいようもなく、そっとへだてる
暗さを知らないものは、
賢くはないのだ。
不思議だ、霧の中を歩くのは!
人生とは孤独であることだ。
だれも他の人を知らない。
みんなひとりぽっちだ。
(『ヘッセ詩集』 「霧の中」 ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳 新潮文庫)
こうして、ひとり霧の中を歩くとき、この詩の一節が去来します。
|

西原峠の撓みが霧の向こうに見えてきた
|

峠で一時的に霧は晴れた
|
松葉が積もる尾根道、落ち葉に埋まるジグザク道、再びの植林地内の道、雪が残る道、笹の被る道、
山鳥の羽ばたきに驚かされる道、道々のわずかばかりの表情の変化を愉しみながら進むと、
前方、霧の向こうに明るい尾根の撓みが見えてきました。もう終わりかと、峠に立つまでの一歩一歩をじっくり味わいます。
峠に出るとパッと霧が晴れ、幻想の世界から現実の世界に引き戻されるのです。
あーあー、いまいましい林道が目の前に・・・・
林道建設によって半殺しにされた西原峠へ再びやって来ました。
ここでひと休み、口の中にドーナツを放り込み、ムシャムシャしながら
前回確認できなかった西原側の阿寺沢へ下る道をもう一度探してみます。
いくら探せどやはりそれらしきハッキリとした道形や踏み跡は確認できません。
しかしながら反対斜面の僅かばかりのブッシュ帯を突破すれば、直下は植林地となっていますから、
そこまで降りられれば作業道を拾うことはできそうです。
フムフム、これで腰掛から尾名手峠道を拾い尾名手峠へ出て、西原峠を阿寺沢側へと下るという
次なる計画を実現させることも可能に思えてきました。
ただし、ブッシュ帯通過には皮手袋が必要そうです。
手強そうなトゲトゲ植物がいたるところに生えているのですから。
|

西原峠 全景
|

小佐野峠へは左手の崩壊斜面を登る
|
最近入手した資料、『西原の山、川、地名、旧跡』(西原中学校・2006年)では、
「西原峠」という名はなく、この場所を「佐野峠」としています。 【*2】
(ただし、位置を特定している図では「西原峠」を「佐野峠」としているのですが、
紹介写真では「小佐野峠」を撮影した写真に「佐野峠」のキャプションを付けています。ウーン混乱するゾ!)その「佐野峠」の説明文としては、「大月市七保町瀬戸方面と上野原市西原地区の境にある峠。
昔は、大月方面から西原の飯尾を通って小菅村の長作観音へお参りする人々で、
ものすごく賑やかだった。」とあります。
「ものすごく賑やかだった」なんて、現在の状況からは俄かには信じ難いものがあります。
また同資料によると、
「阿寺沢沖で、大月市との境界付近の高い尾根一帯」を「風花(カザハナ)」というとあります。
「この付近は降り積もった雪が風に舞うカザハナがよく見られた」そうです。
なんとも風流な地名ですが、他に交通手段がなかった時代、雪の積もった峠越えは
さぞかし命懸けであったことでしょう。
強風が雪を舞い上げる様は麓からは美しく眺められても、渦中に峠越えをするのは危険そのものです。
『葛野川物語』(鈴木美良著・自費出版)には、
大正10年、雪の佐野峠で命を落とした小菅村旧家の若い兄弟の悲話が紹介されています。
小菅の旧家の相続人として家を継ぎ守っていた兄は、体調を崩した父を助けようと、
東京で医師を志し勉学に励んでいた弟を呼び寄せるために東京へと向かう。
その帰路、猿橋駅に昼過ぎに到着、柿ノ木平(一軒家)から小雪の舞う佐野峠を登り始めるも、
小菅を目前にして猛吹雪に遭い、進退窮まり峠の露と消えた・・・悲しい話です。
同本には、二人を悼むため峠に一体の地蔵尊が祀られ峠越えの人々の安全を見守っているとあり、
それが誰いうともなく「杖つき地蔵」と名付けられ、峠を登って来た人が杖を奉納する習わしがある
とも書かれています。
前レポート「実地峠行編PartT」の中で、飯尾から小佐野峠へ向かう途中でお会いした石地蔵が
この「杖つき地蔵」様でありました。 【*3】
|

再びの小佐野峠
|

前回に比べ雪は大分消えてしまった
|
西原峠から佐野峠へ林道を歩いて移動するのは勿体ないので、
前回訪れて気にいってしまった小佐野峠を経由して尾根伝いに佐野峠へ向かうことにします。小佐野峠は『西原の山、川、地名、旧跡』の中では「佐野峠」として写真紹介されています。
もうこうなれば、どこが正真正銘の「佐野峠」なのかということはどうでもよくなってくるのです。
どうでもよいというより頭が混乱して思考停止となるのです。
そもそもどこかに断定する必要もないでしょうし、
村人によってその位置するところが違うようなのですから・・・。
|

『小菅村長作今昔物語』付図 より
|

『小菅郷土村誌』付図 より
|
左上図では「佐野峠」の名と「小佐野峠」の名前があり、「杖地蔵」の記載も見られます。
右上図は地形図とは異なり、上野原市と小菅村との行政区境に「佐野峠」の名が見られ、
標高についても「1180」mと記載されています。
『甲斐の山山』(小林経雄著)や『山梨の峠』(小林栄二著)では峠の標高は「1220」mです。
この40mの違いって何?『三省堂日本山名事典』によると、
「佐野峠、標高1220m、牛ノ寝通り尾根にある。
かつて峠に杖地蔵が安置されここを通行する旅人が杖を捧げて旅の安全を祈った」・・・
標高はいいとして、杖地蔵があるなら小佐野峠?
混乱極まる峠名とその位置、標高、言い伝え、変遷、etc.
もうやめよう、深入りするのはもうやめよう。
|

西原峠を「旧佐野峠」としている標識
「旧佐野峠」は現地形図の佐野峠の方では?
|

尾根伝いに佐野峠へ向かうが
ひと山越えると松姫鉱泉の標識があり林道に合流
|
小佐野峠から尾根道を拾って地形図の佐野峠方向へ向かいます。
尾根は小笹の道に雑木林、雰囲気は良いのですが、選択は失敗でした。
尾根を忠実に歩こうとしたばかりに、雨に濡れた小笹の通過で下半身はびしょ濡れです。
おまけに野薔薇の棘でズボンに穴が・・・トホホ。
松林を抜けるとあっけなく尾根道は終了、松姫鉱泉の商魂タクマシイ標識を見て林道上に飛び出します。霧に煙る林道歩きも悪くはありません。
葛野川の深い谷はすべて牛乳のような白一色。
時折、流れ去る霧の合間から姿を現す周囲の峰々、墨で描かれた一幅の山水画を眺めているようです。
谷から溢れ出ようとする霧は、尾根を越えようと試みますがまた戻されます。
越すに越せぬ分水山脈、霧も行く手を阻まれ谷に滞留することを余儀なくされています。
その様子はグラスに注いだビールの泡のようで溢れ出しそうで溢れない。
|

アシ沢の谷にはガスが充満
尾根を越えることができず林道まで溢れ漂う
|

p1234.7を巻く林道は積雪残る冬の世界
鶴川側もガスに隠され視界ゼロ
|
今回は三角点峰p1234.7は踏まずに林道で回り込んで佐野峠へ。
回り込んだ北東斜面側は真冬の世界、踝を埋める積雪が残されていました。
この辺りは雨ではなく、やっぱり雪が降ったのでしょうか。
鶴川側の谷も白一色の世界、今日は威風堂々とした三頭山の姿も望めません。雪上に刻まれた轍の上を歩き、裾口から靴内への雪の侵入を最小限に防ぎます。
雪面に残る単独行者の真新しい足跡、同日、先行する登山者がいたようです。
尾根の西面に付けられた林道は春間近の趣、東面に付けられた林道は厳冬の世界。
尾根を挟んだ西面と東面で表情が違うのはおもしろい。
|

現行地形図上の佐野峠
|

ヒノキ幼木林の間に踏み跡が続く
|
初訪問から数週間、再びの佐野峠訪問です。
今回は中風呂への道を下降します。先ほど登って来た西原峠道に比べるとこちらの方が分水山脈越えの本道ということになるのでしょうか?
「佐野峠は明治時代に移動した」説が正しければ、この道が佐野峠道の旧主要道ということになります。
佐野峠が複雑なところはこの旧道以前の「古道」があったとする資料もあるところです。
|

『奥多摩』の挿入図 より
奈良倉山の西に「旧サノ峠」の名が見られる
|

明治43年測図昭和4年要部修正測図「丹波」より
|
『奥多摩』(田島勝太郎著・昭和10年)の挿入図では奈良倉山の西に「旧サノ峠」の名を見ます。
「奈良倉山の南を搦んで釜入から竹ノ向へ出るのを佐野峠と呼んだこともある」と記されています。
また、『山と渓谷110号』「鶴川水源の山々を探る」(田中新平著・昭和23年)にも
「奈良倉山西方の鞍部から七保村釜入に下る地点を旧佐野峠と云う」ともあります。古い地形図にはこの経路が記されていますが現行版の地形図には記載がありません。
アシ沢右岸尾根の道がメインルートとなる以前は、現在の松姫峠に近い場所に佐野峠の
メインルートがあったのでしょうか?
「釜入-竹ノ向ルート」⇒「アシ沢右岸尾根ルート」⇒「アシ沢左岸尾根ルート」と
佐野峠のメインルートに変遷があったことになるのでしょうか。
必要によって生まれた峠道は、不要となり利用価値がなくなれば容易く放棄されてしまいます。
峠口の集落の盛衰や峠道の自然災害などによる破壊等も大きく関わっていたことでしょう。
今後の課題として、この捨てられた「古峠道」(?)も歩いてみたいものです。
さらに、少し前までの地形図に記載のあった奈良倉山の西、p1321からp1092を経て深城へと
下降する尾根筋の道も気になるので合わせて歩いてみようと思います。
|

p1234.7から下降してくる踏み跡と交差する地点
|

判読不能のプレートが目印 ここを右折
前方へ良い状態の道が続いてるので見落さないように
|
「佐野峠」という消えかけた文字が書かれた標識前から小笹の茂る踏み跡を辿ります。
これといったヤブはありませんが、ヒノキ幼木の間を抜ける単なる植林用作業道のような趣です。
今はまだ背の低い幼木で視界も確保できますが数年後は薄暗い道となることに間違いないでしょう。甲州と武州、秩父とを結ぶ歴史ある峠道だという貫禄はまったくもって感じられません。
これが富士講の人々で賑わいをみせた富士街道だとは到底思えない有様です。
江戸幕府の時代、役人が小菅村へ行くときには駕籠で佐野峠を越えたといい、
七保と小菅の伝馬人足の交代場所であった「伝馬渡」と呼ばれる地名も付近にはあるといいますが
いったいそれはどこなのでしょうか? (p1238付近の行政区境のことかな?)
こんな道を駕籠で越えた?イメージするのは難しいことです。
そんな往時のメインルートであったという面影はなく、人の通行も稀な仕事道の如き道がしばらく続きます。
p1234.7からの踏み跡が交わるクロスポイントには判読不能な標識が立木に括りつけられています。
それ以外の目印は無いのでうっかりしていると前方へと伸びるハッキリした道へ引き込まれてしまいます。
ここは地形をよく見て(といっても周囲は霧で真っ白だったのですが)、自分の判断を信じ右折します。
|

予想外にも状態の良い峠道が残っている
|

p1008 とくに何もない
西尾根はカラマツとブッシュだけど下れそうだ
|
p1008を目指してクロスポイントを折れると、しばらくは右手ヒノキ幼林、左手自然林の境を直線的に
下る道となりますが、直滑降は長くは続きません。
俄然、道の状態が良くなり、赤松の混じる雑木林の中を明瞭なジグザグが始まり、
これこそ峠道の道型であると感心するのです。しかし、それもすぐに終わりを告げ、前方に顕著な大木を見る頃には、ヒノキ幼林の中をゆく
少しヤブ気味なジグザグ道へと姿を変えてしまうのです。
冬場だからよいものの夏場であればここら辺りのヤブはもっと厄介なのかもしれません。
それでも佐野峠から瀬戸へ下る道全体を見渡した場合、難場といえるのはこの辺くらいで、
殆んどの行程で道形は明瞭だといえるでしょう。
ヒノキ幼林のジグザグを終えると、再び自然林の中の小刻みなジグザグ道となり、
もう前方にはp1008のシルエットが迫ってくるのです。
p1008の手前の小鞍部には炭焼き釜の痕跡らしきものも残っています。
古くは多くの村人が山稼ぎに入っていたのではないかということが窺がえます。
明瞭な巻き道を捨ててp1008へ続く踏み跡を拾って山頂へと辿り着きましたが、
山名標識もなければテープの目印の類もありませんでした。
わざわざ踏む価値もなかった頂でしたが、地形図を見るとその西尾根が歩けそうに思えたので
立ち寄っただけです。 西尾根はカラマツ林+潅木ブッシュで特にそそられる雰囲気もありませんでした。
|

伐採地から望む上和田集落
|
p1008から先は、松林の中を進みます。
この辺りから空缶や弁当の食べカスなどゴミが目につくので、里からの人の出入りがあるようです。
途中、松の古木のある林の切れ間から登路に使用したアシ沢左岸尾根道(西原峠道)を
一望できる好展望台があるので必見です。さらに下降を続けると伐採地となり一気に葛野の谷の展望が開けます。
平将門の子孫が土着したとの伝説が残る上和田集落とその背後にどっしり構える大峰の根張りのある
山裾が目に飛び込んできます。
あの集落にどんな言い伝えが残り、そこに暮らす人々は日々どんな生活を送っているのだろうかと
山峡の平地に肩を寄せ合う集落を俯瞰しながら想像するのも楽しいことです。
大峰からミズナシ山、オゴシ山へと続く尾根の上部はガスに隠され峻険さを醸し出しています。
いつの日かあの尾根道も歩いてみよう。
|

明るく気持ち良い松林を下る でも、ちょっと急!
|

石が祀られている? 神聖な場所らしい
|
峠道下部は明るい雰囲気に包まれています。
実際、間伐の手が進み日の光が入って明るいということもあるのですが、里の家々が見えて
気持の上でホッと一息つくことができる安心感から生まれる明るさの方が大きいような気がします。昔の峠越えの旅人も里に近付くにつれ安心感と気持の明るさとを獲得していったことでしょう。
とくに秩父から奥多摩を越え、小菅の山間集落を抜け、はるばるやって来た富士講の道者たちは
富士のある甲州へ入ったということでその疲れきった足に力が甦るのを感じたに違いありません。
|

一軒家裏の石道標へ向かう橋は危険
|

一つ下流の手すり付きの安全な橋を渡る
|
松林からヒノキ林に変わり、分岐を正確な読図でクリアすると畑の縁に出ます。
ちょうど松姫鉱泉の背後を移動してスタート地点の一軒家へ向けての下降となります。
最後のヒノキ林のジグザグを終えると、アシ沢を渡る橋へと出ますが、最初に見た通り、
石道標に接続する橋は腐って傾いているので避けた方がよいでしょう。
ちょっと下流へ進めば手すり付きの安全な橋があるのでそれにてアシ沢を渡ります。
この橋を利用する方が犬に再び吠えられることもないのですからオススメです。これで新旧の佐野峠道をグルッと一周してきたことになります。
新しい旧いの違いが、実際あったかどうかは不確かですが、過去の一時期より
アシ沢右岸の道の利用が減少したことは確かです。
「佐野峠は移動した」-----
実際に、移動したかどうかはさらなる調査が必要ですが、「佐野峠は廃れた」ことに違いありません。
しかし、それでも現状は思っていたほどヤブや荒廃もなく、道形を拾うことができました。
ひょっとして廃れたのは峠道ではなく、人々の峠道への関心なのではないでしょうか。
|

一軒家下の葛野川本流では工事に伴う仮設橋を建設中
|

昔はこれで対岸に渡っていたのだろうか?
|
| 『遠い山、近い山』(望月達夫著)の「すたれゆく峠」という紀行文には次の一文があります。 「峠はもともと村と村とを結ぶもので、人間生活の必要さから開かれたものだ。
だから、人間の足よりも早い交通機関が発達すれば、誰も好んで歩いて峠越えをする者がなくなるのは、
自然の理であろう。
この佐野峠のように、いつとはなく見捨てられた峠のあるのも決して不思議ではない。・・・・
・・・・すたれゆく峠に古を振り返り、路傍の野仏に一瞥を与え、荒れはてた峠路をさがしながら辿るのも、
山歩きの楽しみのひとつと言えぬことはない。
そういう物好きが、こうした峠の余命をせめても長びかせているのではなかろうか。
しかし、それでもいつかは全く人も通えぬ廃路と化してしまうのであろう。
時の流れと、わたしたちの生活の変化とから、これはもうどうすることもできぬことなのであろう。」
著者が感じ取った「すたれゆく峠」の有様、
これは現在、林道延長工事という新たな破壊行為によって、さらに加速度的に進んでゆくのかもしれない。
峠道は存亡の危機を迎え、その価値まで葬られようとしている。
残された峠道の延命を図るためにも、峠マニアはガン細胞の増殖の如き林道延長や
呼称混乱の戸惑いに臆することなく、頻繁に足を運ばなくてはならない。
これからも、物好きであろうと思う。
|