でんでえろの峠

サオラ峠(サヲウラ峠・竿裏峠・棹浦峠)・今川峠・越ダワ(越ザワ?)

越ダワ・・丹波・・サオラ峠・・丹波天平1342m・・保之瀬天平・・廃村後山・・廃村高畑・・水平歩道・・落滝・・押垣外・・越ダワ


ストックが秋を拾いました
秋の定番メニュー・紅葉の串刺し

飛龍山(大洞山)から南下するミサカ尾根は
サオラ峠で天平尾根と名前を変えて
その端を丹波川の流れに落としている。

「天平」と書いて「デンデエロ」「デンデロ」又は「デンデーロ」と
地元では呼んでいる。

丹波の集落からサオラ峠に登り、
起伏緩やかな、まさに「天上の平」を歩いてきました。

自然が創造した不思議な空間「デンデエロ」、
静かな落葉松林の道を歩いているといろんな想像が浮かびます。

● 丹波からサオラ峠へ ●


今川峠
丹波山村の南の玄関口


今川峠の途中から丹波山村を見下ろす
本日の目的地「丹波天平」は本当に平だ

トヅラ峠、牧馬峠、田和峠、鶴峠、今川峠と幾つもの峠を越えて、
ひたすら走り続けて丹波山村に入ったものだから、
辿り着いたときには自分の車の運転に酔ってしまい少々ノックアウト気味でした。

かつては「秋山・道志・丹波・小菅」と僻村、寒村の代名詞のように
呼ばれていた丹波山村ですが道路網が発達した現在そのような暗い印象はありません。
むしろ都会生活で疲れた人を癒してくれる武陵桃源のようにさえ思えます。
山梨県内で住んでみたい所を挙げろといわれたら丹波山村は候補の一つになることでしょう。

村には今から約4500〜4200年前の縄文人が定住した敷石住居跡の遺跡も見つかっています。
昔から人が住むには適した場所だったのでしょう。
中部高地甲信文化圏と南関東文化圏との交流のムラであったと、
教育委員会発行の遺跡を紹介したパンフレットには記されています。
当時の人々はどんな道を辿って交流をしていたのでしょうか。
荒れやすい川筋の道ではなく、見晴らしの利く尾根道を専ら交流路として利用していたのかもしれません。
実に興味あるところです。

小菅村今川と丹波山村高尾を結ぶ今川峠は丹波山村の南の玄関口になっています。
今川峠を下り、さらに越ダワという小さな峠も通過しますから、
南の玄関は二重ドアになっているわけです。
自動車が通行できる今川峠が開かれる以前は、
ひと山東に位置する大丹波峠(大田和峠)を村人は足で越えていました。

今川峠の途中からは本日の目的地「でんでえろ尾根」が良く望めます。
熊倉山、前飛竜、飛龍山(大洞山)のスカイラインも威厳有りげです。
丹波の人々はサオラ峠からミサカ尾根を登り飛竜権現に参拝していたといいます。【*1】
「ミサカ」とは信仰の道、「御坂」、「神坂」の意味であるのでしょう。


サオラ峠道へはここから入る。


傾斜地の畑から村を見下ろす
中央に見える鞍部は大丹波峠

越ダワ近くにある村営無料駐車場に車を置いて歩き始めます。
国道411号線(青梅街道)は朝からツーリングバイクやサイクリストで賑わっています。
柳沢峠を越えて塩山方面へ遊びに行くのでしょうか。

丹波バス停のトイレで用を足し、バス車庫内の周辺地図を見てみるとサオラ峠までは1時間30分とあります。
持参の古い昭文社の「山と高原地図・大菩薩」では2時間30分の表示ですから少し得をした気分です。
                                              (昭文社最新版では1時間30分)
地図の版によって「サオラ峠」と「竿裏峠」を併記したりしなかったりと、まちまちであるのはなぜでしょうか。

ガソリンスタンド手前の小さな分岐を右手に折れ峠道に向かいます。
傾斜地に開かれた畑の中のジグザク道で少しずつ高度を上げていくのです。
朝も早くからお年寄が畑仕事に精を出していらっしゃいます。
「おはようございます」の挨拶に快く返答してくれます。
昔から青梅街道を旅する人の休息地であった丹波宿に暮らす人々は
伝統的に旅人を優しく迎えてくれるのかもしれません。

振り向くと集落の屋根が朝日に照らされ輝いています。
鹿倉山とウズモ山の鞍部である大丹波峠もその位置が認められます。
周囲を山に囲まれてはいるけれど、空は広く、日当り良好の明るい村が丹波山村なのです。


第二ゲート
山道に入るには三つの獣除けゲートを通過する


植林地を抜けて一息つく定番の休憩ポイント

「開けたら必ず閉めてください」と書かれた獣除けのゲートを
ひとつ、ふたつ、みっつと通過して山道に入ります。
なんだか税関か関所でも通過して異界に入り込むようでおもしろいです。
審査官や関守はいないけど不浄な心を抱いた旅人はこの先の通行まかりならんと言われているようです。

峠道の前半部は植林地の中を進みます。
道はよく踏まれていて何ら問題はありません。
ただ体の方が約1ヶ月ぶりの山歩きに順応できていないようです。
車酔いの名残でしょうか酸っぱい物が込み上げてきます。
ひと月も、山歩きから遠ざかると体に毒素が溜まってしまうのか、吹き出物ができたり、
体の内部がなんとなく臭くなってきます。そしてなによりも精神衛生上もヨロシクナイのです。
「自然は大きなホスピタル」なんていうCMの言葉が浮かんできます。

一頻り植林地の中の登りを終えると小尾根の肩に乗り上げます。
地形図の・894mの右斜め上の地点です。サオラ峠を訪れる人はここらで一服する方が多いようです。
標識があり、峠へはここを右手に折れて行くのです。
小尾根を乗り越して直進方向の道には「山道」の表示がされています。
熊倉沢の方向へ繋がっている道なのかもしれません。

丹波山村の設置した登山者向けの標識は、「サオラ峠」ではなく「サヲウラ峠」で統一しています。
「オ」ではなく「ヲ」である点がまた気になるところです。


二基の祠が祀られる


峠道を行く

標識前にザックを降ろしかけましたが、
左手を見るとなにやら明るい感じの小ピークに続く踏み跡があります。
どうせ休むなら景色の良い所でとそちらにむけて進んでみます。

小ピークには山ノ神でしょうか、それとも飛竜権現の末社でしょうか、
二基の祠が集落を見下ろすようにお祀りされていました。
ちょうどその横には「腰掛けていきなさい」と言わんばかりの切り株があるのです。
断るのは無礼と切り株に腰を降ろし、しばし休憩。
朝からの山歩きは気持良いですし、
周囲の山々の眺めと丹波川のキラキラが体をリフレッシュしてくれます。

休憩を終えて、勾配が少し増してきた峠道を快調に進みます。
樹相も植林帯から自然林へと変わり、歩みも、心も弾みます。
二箇所ほど崩れた場所の通過がありますが概ね歩き良い道が続きます。
人の通行が多い為なのか、蜘蛛の巣がないのがウレシイことで、
順調に歩みを進めることができるのです。

無理なく山肌につけられた峠道は、飛竜権現参拝の道としての役割の他には、
猟師や樵、炭焼きの山入りの道として、あるいは水源林巡視路として、
あるいは三條の湯への湯治道として使われてきたのでしょうか。


サオラ峠に到着

落葉松が姿を現し、笹が見え出したら峠はもう近いのです。
落葉松林の樹間からは芦沢山、砥沢山、サカリ山、中指山などの魅力的なヤブ山の一群が望めます。
これらの山々を訪れるのならば冬枯れの時季が適しているのに違いありません。
しかし、その時期は路面凍結で丹波山村へのアクセスが難しくなることでしょう。

丹波山村を自然豊かな桃源郷のように書きましたが、
それは気候の温暖な時季にしか訪れない旅人の勝手な感慨なのかもしれません。
土地に永住するとなると厳しい自然とも向き合わなければなりません。
そんなことを考えつつ待望のサオラ峠にひょいと飛び出したのです。

● サオラ峠・竿裏峠・サヲウラ峠・棹浦峠 ●


落葉松に囲まれたサオラ峠
三條の湯へ向け良い道が続いています


峠の中川神社
奥多摩水源林の造林に尽力された中川翁を祭る

サオラ峠は小広い場所です。
冷たい風が吹き抜けて峠道でかいた汗を一気に冷やします。
ここで、ミサカ尾根、天平尾根へと分れます。
尾根を越して直進する道は雲取山の前線基地三條の湯へと続きます。

峠には奥多摩の造林事業に尽力され、「奥多摩の主」と呼ばれた中川翁をお祭りする
中川神社の祠が安置されています。
最近、石造りのものに建替えたらしく、
近くの笹ヤブの中に祭神の引っ越しを終えた木製の旧祠が放置されてありました。

峠からは富士の頭が遠望できます。
どこに行っても富士の姿を無意識にも探してしまうというのは、やっぱり日本人ということなのでしょうか。


峠から富士の頭が見えた


「竿裏峠」と書かれた標柱は倒れ朽ちかけていた。

「竿裏峠」と書かれた年代物の標柱は地に倒れ、朽ち果てようとしています。
丹波山村の設置した新しい標識には「サヲウラ峠」とあり、地形図には「サオラ峠」とあります。
また古い山の本では「棹浦峠」と表記したものもあります。

いずれにしても「サオラ」、「サヲウラ」には一体どんな意味があるのでしょうか?
先人はいろいろな考えを巡らしています。

◎『奥多摩』(田島勝太郎・山と渓谷社)
「サヲウラの名の由来は不明であるが、丹波から登って来ると如何にも竹棹を立ててその末を
眺めるようなあんばいに頂上の尾根を仰ぎ見て登るので、相当にエライ坂である。
これが名の由来ではあるまいか。」

◎『多摩の低山』(守屋竜男・けやき出版)
「この峠は国内では珍しく、地形図にもカタカナで記載されている。
何かそれなりの意味があるのかと思い調べてみたが、何のことはない竿裏峠がなまって
サオラになっただけのことである。竿裏は土地の言葉で高い先の方という意味である。」

◎『奥秩父回帰』(原全教・河出書房新社)
「この名は、立てた竿の裏をよじるような急な登りを形容したものだという。」

◎『山名の不思議』(谷有二・平凡社ライブラリー)
「サオラ峠(1446m)は、棹先のごとき高い峠。実際に峠に立って丹波集落を見下ろせば、
“なるほど!”と実感が湧こうというものだ。」

どうやら棹の先のように高い所にある峠を意味するという考え方が定説になっているようであります。
『山名の不思議』には前段があって、
「ウラはものの末端で、例えば木の梢を木末(こぬれ)というのは、木(こ)の末端(うら)である。
川や沢の末端・先端もウラになる。」として、
日向沢ノ峰(ヒナタザワノウラ)、真名井沢ノ峰(マナイサワノウラ)、雁掛ノ峰(カリカケノウラ)、
菜畑山(ナバタケウラ)などを例示しています。
それぞれの名の沢を詰めた場所に位置していることを指摘しています。

◎『山と集落-奥多摩と奥秩父-』(舞田一夫・集団形星)
「サオラ峠は栃沢のウラの峠(ウラは川や沢の詰まりの意)という意味で付けられた地名であろう」

総合すると、沢を詰めた場所に位置し、棹の先のように高い所にある峠ということになるようです。

ただ珍説として、『日本山岳ルーツ大辞典』(池田末則監修・竹書房)には、
「サオラ=サオリのこと。この峠の麓では田植え始めのお祝いをやったという峠名」
という説を唱えているものもあります。

「サオリ」とは「田植え始めに田の神を迎える祭。田植え終わりのサノボリに対するもの。
“サ”は田の神を意味する語。」 (『日本民俗事典』大塚民俗会・弘文堂) とのことですが、
さてどうでしょうか?
山間の村、丹波山村には田んぼの姿は見当たりません。(ワサビ田ならあるのですが)
田植えの神様が山から降りてきたかどうかはともかく、飛竜権現の神様がミサカ(神坂)尾根を
伝いサオラ峠から村に降りてきたということなら考えられるのかもしれません。

● でんでえろ尾根を行く ●


天平へ向かう落葉松林

天平尾根は山岳サイクリングのメジャーコースでもあります。
サオラ峠まで登ってしまえば、あとは緩やかな下り勾配の道。
MTBで快走するにはもってこいでしょう。

でも、その峠まで自転車を運び上げるのは辛そうだな。
やっぱり「山サイ」は厳しい世界だなぁ・・・。

天平尾根は人影も少なく、フカフカした道が歩きやすいところ。

  からまつの林をいでて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。 ・・・・・・・

そんな北原白秋の歌が思い出される落葉松の美林が続きます。

 


丹波天平のフキ群落は枯れていた

「天平」とは、まさにその名の通り頂稜部が平らな尾根でした。
丹波山村には「丹波天平」と「保之瀬天平」、そして越ダワの西に「高尾天平」があります。

「でんでえろ」とは『世界山岳百科辞典』(山と渓谷社)によると、
  「奥多摩から甲州にかけて尾根筋の平らなことをいう。天平、殿平と字を当てる。
  平らな長尾根を天平尾根。テンは山頂の意味もある。」(岩科小一郎著) とあります。

また、『奥多摩風土記』(大館勇吉・武蔵野郷土刊行会)にも、
  「でんでえろの“てえろ”とは“たいら”の方言で奥多摩の各地にこれと同様の地名が多いのです。
  “でん”は“段”の転化と思われます。でんでえろは山上にありますが、段丘形の平地です。」
との説明があります。

どうやら「でんでえろ」とは素直に頂上が平らな山をいう地方語と考えていいようです。

しかし、興味ある文献もあるのです。
『新ハイキング』(1989年10月408号・新ハイキング社)の中の「乾徳山山宮考(下)」(吉村迪著)では、
以下のように考究しているのです。

  「デンデエロは「天平」と表記されるため、その地名の意を、
  天辺に近い平坦地と解される方もおられよう。
  もちろんそれも正しいが、デンデエロは「蓮台野(れんだいの)」であると考えたい。
  「蓮台野」はまず京都の蓮台野があるが、この地名は全国に分布する。
  ところがこれは発音がたいへん曖昧で、地方へ行くに従い、
  レンデエノ、デンデラノ、デンデロ、とどんどん転化していく。
  丹波山のデンデエロも蓮台野の訛ったものとして間違いない。」 と。

その「蓮台野」とは葬地を意味する語で、霊魂の集まる場所、あるいは霊場を意味するとのことです。

実際に丹波天平、保之瀬天平、そして高尾天平に亡骸を埋葬したかは知り得ませんが、
亡くなった方の霊魂が山に上っていくという信仰は各地に見られます。
それぞれの集落ごとに、その裏山に亡き人の霊が上り、いつまでも村や子孫の繁栄を
見守り続けるという信仰が、ここ丹波山村でもあるいはかつてあったのかもしれません。(想像です)

『山と集落-奥多摩と奥秩父-』の中でも、
「天平は共同的な葬所という意味で、これについては加藤秀夫氏の詳細な研究「大谷ヶ丸以南」が
「あしなか」にある。」としています。(*民俗誌「あしなか」を見ましたが特に記述はありませんでした)

愛知県碧海郡の方言で火葬場のことを「でんで」というそうです。(『地名用語語源辞典』東京堂出版)
また岩手県の遠野にはデンデラ野と呼ばれる場所があります。
そこは昔、60歳になった老人を捨てた場所で、村ごとにデンデラ野があったといいます。
いわゆる姨捨山の類なのでしょうか。
この「デンデラ野」と「でんでえろ」という言葉の響きはどこか似ています。

山間の集落を歩いていると、日当りの良い南斜面の一等地にお墓が建っているのをよく見かけます。
自分達が住まう母屋よりも良い場所に、先祖の霊を祀り大事にするということは
当然のように行われています。
山の上の広大な平地で、眺めも良く、日当りも良い場所なら葬送地として適していたのかもしれません。
しかし、1300mを超す高地まで亡骸を運び上げたとは思えません。
信仰上の聖地として考えられていたのかもしれません。
天平の「たいらっぷり」を見たら、死後に訪れるもう一つの世界(天国)にも思えてきたりしました。
天に昇った御先祖様が楽しく暮らす世界として想像するには、
天平の「たいらっぷり」は適地かもしれません。【*2】


本当に“平”なのです


うっかりしてると見落してしまう三角点と
手作りの素敵な標識

丹波天平は山上とは思えない広い平地が続きます。
樹木が生えていなければ、野球やサッカーができそうな感じです。
1300mを超す高地にこれだけの平地があるのは実に不思議です。

村の郷土民俗資料館で見た展示資料には、尾根上にも縄文期の遺跡があるのではないかと、
その可能性を示唆している記述がありました。
これだけの広さがあれば、かつて高地性集落が存在したなどと考えられるのかもしれません。
信州方面から国境稜線を伝い古代の人々が往来したと考えれば
まったく有りえないことでもないのでしょう。
インカの遺跡、空中都市マチュピチュのように。(大袈裟か)
ボクのような誇大妄想家は、でんでえろはUFOの発着基地であり、
デンデエロ星人が飛来したなどと馬鹿げたことも考えてしまいます。

25000図『丹波』を広げると、丹波天平はそのほぼ中央に位置し存在を強く主張しています。
「オレに登る為の専用の地図なんだヨ」と言わんばかりです。
そんな丹波天平の自己主張ばかりが目立つ地図ですが、
眺めているといろんな想像(妄想)が浮かんでは消え、おもしろいものです。

丹波天平の三角点はうっかりしていると見落してしまいます。
平地の中のコンモリとした部分を見逃してはいけません。
そこには誰が取り付けたか素敵な手作りの標識が待っているのです。
三角点に腰掛けて、お昼御飯に定番の3個99円の稲荷寿司を頬張ります。 
眺望も無く、山頂らしからぬ山頂ですが、こんな山頂もたまにはアリなのです。


丹波へ下る分岐路
白樺が高原の雰囲気をかもし出す


保之瀬天平
広大なヌタ場と化している

これだけ平らだと林務作業も楽に行うことができるでしょう。
落葉松を植える前は自然林が広がっていたのでしょうか?
木を切り、炭を焼くには作業しやすい場所に思えます。
実は、「炭俵」のことを「デンダワラ」というと聞いたことがあります。
記憶が正しければ山梨県郡内地方の言葉だったと思います。
「でんでえろ」と「デンダワラ」が似ていると考えるのは強引でしょうか。

『奥多摩』(田島勝太郎著)の中で、
サヲウラ峠付近に通称「ハイヤキ」という場所があったことを窺わせる記述があります。
「ハイヤキ」は「灰焼き」でしょうか?
天平で切られた木はサオラ峠付近に集積され、そこで焼かれて炭にされ、
里に降ろされていったのではないでしょうか?
峠の北側の小広い平地はそのようなことにもってこいの場所のように思えます。
集落ごとにそれぞれ薪炭を得る山(炭俵山)があった、
それが丹波の丹波でんでえろであり、保之瀬の保之瀬でんでえろ、高尾の高尾でんでえろであったと。
しかし、これも何の証拠も無い空想に過ぎません。
「ハイヤキ」は「炭焼き」ではなく、「焼畑」を、あるいは「火葬」を意味したのかもしれませんし。

白樺の生えた丹波への分岐路を見送って直進を続けます。
その先の赤松林では間伐の作業中でありました。
そこを過ぎるとまたも広がる不思議な空間でんでえろ、保之瀬天平です。
遠目にはゴルフ場のように見えましたが、
どうやら獣達の楽園、広大なヌタ場と化しているようです。
きっと夜な夜な獣達の乱痴気騒ぎが繰り広げられていることでしょう。

この先、廃村後山に向けては多少踏み跡が薄くなる部分もあります。
積雪時、先人の足跡がなければ、地形的にも迷い易い所だと思われます。

すれ違う人も無く、静寂に包まれています。
ウエストベルトに付けた熊よけの鈴をしばらく鳴らないようにすると、
ドングリの落ちる音、落葉の舞い落ちる音さえ耳に伝わるのです。

● 廃村後山・廃村高畑を行く ●


廃村後山集落に残る石垣


錆び付いた御釜が転がっていました

主尾根を外れ、雑木林を抜け、植林地を下ると、住む人が消えて久しい廃村後山に到着します。
村といっても建物はすでに無く、石垣だけが残る寂しさです。
錆びた釜や石臼の破片がかつて此処に人の生活があったことを示しています。
どんな理由でこのような山奥に生活の場を求めたのでしょうか?
そしてここの住人はどこに消えてしまったのでしょうか?


廃村高畑集落の廃屋


生活の痕跡があちこちに転がってる

民家に接続していた道とは思えない心許ない山道をさらに下降すると廃屋の残る廃村高畑に到着です。
後山よりもあとに廃村となったため、三軒ほどの廃屋が残っています。
生活の痕跡である欠けた徳利や茶碗が無造作に転がっています。
なんでも鑑定団に出品したら「ウーンいい仕事していますね、〇〇焼きの逸品です、500万円です!」
なんてことになったりしないでしょうかね。
(廃屋の立ち入りも、遺物の持ち去りも法律に触れると思うのでなさらぬように)


住人の消えた集落に残された祠


この廃屋の先に親川バス停分岐がある

このような山奥の集落でどんな生活が営まれていたのでしょうか?とても気になるところです。
視界に入るものといえば七ツ石山から南下する尾根と、大寺山や三頭山らの山ばかり。
大寺山の仏舎利塔の頭がちょこっと見えています。
いくら山好きでもここに定住しろと言われたら考えてしまうことでしょう。
コンビニまで何時間かかるのでしょうか?
民営化される郵便局はここまで果たして手紙を届けてくれるのでしょうか?

親川バス停を指し示す標識の裏手に道は続きます。
この道が地形図に残る高畑から押垣外へ続く破線道です。
国道を歩いて丹波に戻るのはイヤなので、この国道とほぼ並行する謎の水平歩道を辿ることにします。

● 高畑から押垣外へ続く道を行く ●

高畑から押垣外へ続く破線道の状態は思いの外良く、二、三の崩壊箇所はあるものの
登山地図に紹介されていないのが不思議なくらいの良い道です。
植林の中でうす暗い部分もありますが、同じくらい明るい自然林の中を歩く部分もあります。

植林地の中には丹念に積み重ねられた石積みがあり驚かされます。
単なる山仕事道にしてはあまりに立派です。これはもしかしたら旧青梅街道なのでしょうか?


予想外の良い道が続く
杉林には丹念に積み上げられた石垣がある

『多摩川源流を歩く』(瓜生卓造・東京書籍)の中で気になる一文を見つけました。

 「明治20年に青梅街道が通るまでは、道はもっと高いところについていた。
 丹波宿から現在の役場のあるあたりで右岸に渡り、高尾、押垣外を経て左山を高捲きして、
 保之瀬下の手前に下る。左岸に渡りかえし、落滝に登る。
 ・・・・刀指、トヤクボ(鳥屋窪)、高畑と山上の部落を通り、親川に下る。
 お祭、所畑から登って杉奈久保の東を通り、尾根筋を小袖に抜け、鴨沢に下り、小河内に出た。」

これを見ると、往昔は川筋の断崖を避けて山肌の高いところを通過していたようです。
この謎の水平歩道がその一部なのかもしれません。


突然あらわれた廃屋の一軒家

炭焼き釜の跡を過ぎると、
突然一軒の大きな廃屋が現れてビックリさせられます。
廃屋に立派なという形容も変ですが、納屋もあり、
山上にあってはとても立派な建物です。
この廃屋の前から国道側へ下る分岐道が付けられています。

謎の水平歩道には茶碗のカケラなどが随所に落ちています。
一体この道はどんな性格の道なのでしょうか。


1:1分岐に落ちていた
「←丹波・奥秋→」の標識、両方向キケンとある

廃屋はこれを最後に見ることはありませんでしたが、
何か建物があったであろう平地や石積みが散見されます。

谷筋の喰い込みを頼りない丸太橋で渡ってしばらく行くと、
水道施設があり、その先に1:1の分岐があります。
落ちていた標識から察するに、右手の上り勾配の道は
高度を上げて奥秋に向かうようです。
左手の下り勾配の道は丹波とあります。
水道施設から延ばされた配管が左手に向かっていたので
ここは左の道を選択しました。


水平歩道の出口で迎えてくれた石仏

標識に書かれたキケンの文字の通り、
荒れた沢筋の食い込みを慎重に下ったり攀じ登ったり、
落石防止ネットの張りめぐらされたガレ場を通過したりと、
いくつかの危険箇所はあるものの
なんとか国道脇に飛び出ることが出来ました。

この道があまり宣伝されていないのは歩行者が引き起こす
落石を警戒してのことかもしれません。
すぐ崖下を国道が走っていますから落石は大惨事につながります。

国道に出た所は丁度、押垣外バス停の脇でありました。
出口には三体の石仏が祀られていて、
うち二体は下半身が土砂に埋まりかわいそうな状態です。

石仏が祀られているところをみると、やはりこの道は由緒ある古くからの道なのでしょう。

国道を横断して反対車線のバス停の裏に押垣外集落に降りる畑の中のジグザグ道があります。
これを利用して押垣外、高尾を経て車を置いた越ダワ近くの村営無料駐車場に戻ることが出来ました。

駐車場近くには丹波山村の一大観光スポット「ローラーすべり台」があるのですが、
いい歳したオヤジが一人で楽しむにはかなりの勇気がいるので今回はヤメておきました。

● おまけ/越ダワ ●


越ダワは丹波の南の玄関口
石垣の上に念仏供養塔と祠が祀られる


手前の石が念仏供養塔
右手奥に大山祗命を祀る祠がある

越ダワは丹波山村の南の玄関口。
切り通しの急坂を下れば村の中心部、役場前に出る。

切り通しの土手上に大山祗命を祀る祠と念仏供養塔と刻まれた自然石がある。
『多摩-風土と歴史-』(武蔵書房)によると、この自然石には「右だいぼさつ 左こすげみち」
と刻まれているらしいが残念ながらその刻字を見落してしまった。
多分裏面に彫られていたのであろう。
越ダワは小菅へ向かう大丹波峠と、はるか大菩薩峠へ続く道の分岐点になっていたようです。


現地案内板は「ダワ」ではなく「ザワ」


こちらも「ダワ」ではなく「ザワ」

現地にある案内板はなぜか「越ざわ」になっている。
村が発行しているガイドマップや観光パンフレット、それに登山関係の資料はすべてが「越ダワ」なのに。
「ダワ」は「タワ」で、峠の一種と考えて間違いないだろうと思う。 【*3】

【*1】 『奥秩父回帰』(原全教・河出書房新社)によると、「明治初めまで、年一度の祭りには丹波と小菅は総出で参拝し、
     その通路は、社前から丹波へ下るデンデイロ尾根だった」とあります。

【*2】 実際に、丹波山村ではどんな信仰があるのか、あったのか、などは不勉強で調べておりません。
     上記は空想の域を出ないことをお断りしておきます。
     尚、丹波山村を知る良書として『多摩川源流を歩く』(瓜生卓造・東京書籍)、『丹波山村誌』があります。
     『丹波山村誌』は役場にて1500円で販売していました。 (高くて買えなかったけど・・・)

【*3】 『山と渓谷89号奥多摩特集』の「多摩水源を繞る峠」(正井暉雄著)を見ると、「越ダワ」は「小田和(コイダワ)峠」と
     表記されています。 現在の「大丹波峠」は「大田和峠」が正しく、それに呼応するかたちで「小田和峠」の名が
     生まれたのでしょうか?それがいつしか「越ダワ」に変化していったのかもしれません。
     (逆かも?越ダワが先で小田和峠が後かも)


これは食べれたのかな?

保之瀬 天平近くに生えていたキノコです。
ヌメリスギタケ?食べれたのかなぁ?
収獲してキノコ汁にすればよかったかな。

ドングリを拾い集め、
山胡桃をいっぱい拾ってきました。

紅葉はまだまだ上の方だけでしたけど、
落葉松の落ち葉(?)が雪のように舞っていました。

植物だけでなく人間の頭の毛も紅葉すれば
オモシロイのに。

 

【追記】

◎『玉川源泝日記』(山田早苗・慶友社)に以下のような記述があります。

 「橋を渡りて、親川山の九十九折をのぼりて、親川の一ツ屋という茅屋あり。かかる山中にあはれにおぼゆ。
 立寄りけるに、家夫人が太布を織れりみゆ。ここは朴の瀬に属すといへり。又、よぢのぼるほどに、左は谷川屈曲して、
 ほそく見おろし、岸はさがしくそびえたり。半道ばかりのぼりて、峠に至る。そこまでの坂に所々に畑つくりたるを
 見渡さるれば、問いけるに、この山陰の高畑といふに家ありと云。
ここを黒尾峠と云
 木の根に尻打ちかけて憩ひて、それよりくだりゆく、左の谷川の向ひの思ひかけぬ谷の岸の上に、桃源もかくやらんと
 一世界見渡さるるを朴の瀬と云。」

 黒尾峠とはどこのことでしょうか?親川と朴の瀬(保之瀬)の間に位置するようですが、詳細不明です。

◎『新ハイキング』(03.6.572号・「サオラ峠-天平」山口ゆき子)の中でサオラ峠の名の由来について、
 三條の湯の小屋番から聞いた話として以下のような記述があります。

 「飛竜山からミサカ尾根-峠-天平尾根と竿のような尾根が、峠で、ねじれくびれて裏を見せている。だから竿裏峠なんだ。」

 竿を横置きで見ている点が、これまでの説とは若干ニュアンスが異なっているようです。
 旗竿のように立てた状態の「竿」をイメージしているのではなく、
 尾根を物干し竿、竿竹のように横に寝かした状態の描写として捉えているようです。

◎『新ハイキング』(97.12.506号に「丹波天平と後山川右岸の山腹道」Wフォレスト)の中に
 親川から押垣外の水平歩道に関する記述がありました。 それによると途中にある廃屋の一軒屋前の分岐を国道側に
 下ると保之瀬集落に出るとあります。 また、サオラ峠から東へ5分ほど行った所にある後山川側へ向かう
 分岐の行末についても記されています。