串刺しの峠
西原峠・田和峠・数馬峠・笛吹峠・小棡峠・日原峠・浅間峠・三国峠
| 峠を越えずに、幾つもの峠を串刺しにするというのは、本来の峠歩きからすると、 邪道なのかもしれないが、そこは目をつぶって峠のつまみ食いである笹尾根縦走の旅に出た。 |
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| 西原峠を歩きたいとはずっと思っていたが、 上野原側の郷原から登るか、檜原村側の数馬から登るか、頭を悩ますところだ。 どちらから行くにしても交通の便も接続もよくないし、交通費も嵩む。 「暗」から「明」へ越える方がいいだろうと思い、後者の数馬側から登ることを選んだ。 汗して峠道を登りつめて、富士が望めるのは気分的にいいだろう。 武蔵五日市駅からのバスは中高年登山者と、 美しい山村は難解な名を持っていた。 |
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| 峠道の入口まで勾配のきつい爪先あがりの舗装路が続く。 たどり着いた山上集落。こんな高地に家を構えているのはなぜだろうか。 高地に太陽を求めたためだろうか、 それとも、山向こうの世界に結び付きを求めたあらわれだろうか。 どん詰まりの民家の裏手に、か細き山路が続く。 目を合わせはしないが民家の犬が吠えている。番犬としての自覚は少なからずあるようだ。 「国定忠治の遠見の木」を過ぎるあたりから、うっすらと雪が路を隠すようになる。 前方に、一匹、あるいは一頭の獣の足跡が現われた。 |
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| 西原峠は明るい峠で、予想通り富士が迎えてくれた。 西原峠は「数馬峠」、あるいは「郡内峠」とも称され、甲州郷原、西原と武州数馬を繋いでいる。 かつては村人達の生活物資運搬の道であった。 峠越えの道は、塩の道であり、炭の道であり、そして嫁取りや冠婚葬祭の道でもあった。 南秋川流域の人々にとっては五日市に出るより、ひと山越して上野原に出る方が近かったことだろう。 さらなる展望を求めて、槇寄山に立ち寄る。 |
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| 西原峠より落葉松の林を抜け、カヤトの明るい雰囲気の中を進む。 うすく積もった雪は、いまだ誰にも踏まれていない。 それだけでも嬉しくなるが、木々の合間から望まれる御前山、大岳山の明るい山並にも心が弾む。 数馬と上平をつなぐ峠あたりは峠名が混乱しているがそんなことはどうでもよい。 ただのびやかに、両手を振って前に歩みを進めるだけ。 |
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| 甲武国境稜線はさらに緩降して笛吹峠に導かれる。 峠にどっかりと座っている「大日」と刻まれた石碑が静かに行人を見守っている。 よく見ると、「みぎ かずま、ひだり さいばら」と刻まれている。 古くからの交流が偲ばれる。 この峠は桧の繁る甲州側藤尾と武州側笛吹を結んでいる。 笛吹峠から先は雪道に多数の足跡が目立つようになった。 丸山辺りには笹が茂っていて笹尾根の名前らしくなってきた。 小棡峠は『東京付近のんびりゆったり山歩き』(新妻喜永著・実業之日本社)という著書の中では、 「笛吹峠をどさ回りの一座が越えてきそうな哀愁峠、 と描写している。とても滋味に富む表現だと思うし、まさにそんな雰囲気が漂う峠である。 |
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| 小棡峠を最後に、笹尾根の、のびのびとした明るさは減ってくるが、 落葉松、杉、桧などの入り混じった土俵岳を越えると、 再び明るさを取り戻し、日原と人里を結ぶ日原峠に辿り着く。 石仏がやさしく出迎えてくれる。ここの石仏はお金持ちで賽銭は山積みになっていた。 |
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| 日原峠からは雑木林の中のアップダウンを繰り返し、浅間峠に転がり出る。 「浅間峠=栗坂峠」だと思うが、熊倉山に向かう途中に「栗坂峠」の標識がしっかりとある。 上川苔と猪丸を結ぶこの峠には東屋やベンチがあり騒がしいが、 |
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| 熊倉山の登り道は体力を消耗したが、 明治期の道祖神や山ノ神などが静かに佇む姿は、乱れた呼吸を落ち着かせてくれた。 熊倉山からの展望は良好で出発点の西原峠はもう遥か彼方である。 |
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| 峠らしくない峠である三国峠の有様にふてくされてベンチで横臥する。 峠は峰頭を意味する「ドッケ」からの転化だろうか。 地誌『新篇相模風土記稿』には、 連行峰、醍醐丸から陣馬山への山並が美しいので、桜の季節にまた来てみたいと思う。 生藤山に寄り道して、登里、鎌沢の集落を目指す。 眼下の藤野へ続く低山の山並も賞讃に値する。 串焼の最後の手元に近い食べにくい肉を残してしまったような気持がして心残りである。 |
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| 【余談】 「笹尾根」は三頭山から浅間峠までの呼名で、浅間峠から熊倉山までを甲州側では「大ツイジ」と呼んだ。 ● 後日の佐野川峠訪問レポートを見る ◆ 笹尾根の峠について知識を深めるには『秋川上流山村の村落構造の研究』(時任則子著)が面白い。 ◆ 笹尾根の西原領分の山地地名については『西原の山・川・地名・旧跡』(西原中学校編集)が詳しい。 |
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