ずれている峠  〜白沢峠、関場峠を探索する〜

白沢峠・底沢峠(赤岩越え、案下峠)・旧関場峠・新関場峠・明王峠・奈良子峠

◆長ったらしいレポートになってしまったので簡略版を作りました
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『山と高原地図・高尾陣馬』 2006年版 昭文社

「アンタ達、ちょっとズレてんじゃないのぉ〜?」
『山と高原地図』と旧版地形図を見比べていたらそう思った。
高尾山界隈の白沢峠と関場峠のことである。

白沢峠の誤差は許容範囲内としても、関場峠は大ズレである。
これら二つの峠道がどんな状態なのか訪ねてみることにしました。


地形図 『与瀬』
昭和4年測図同24年資料修正昭和24年発行 地理調査所
白沢川を詰めて現行地形図のp673の右肩を越えている


地形図 『与瀬』
昭和4年測図同24年資料修正昭和24年発行 地理調査所
p673を越えてきた道は小下沢源頭部を横断して
三本松山の東方鞍部を越えて西ツチラ沢沿いに下っている
現在、送電鉄塔の立っている鞍部が本来の関場峠だ!

旧版地形図を見ると、これら二つの峠は同じ道筋に位置する一連の峠であることがわかります。
底沢から白沢川沿いに登りつめた道は白沢峠で奥高尾縦走路を越えて、一旦、小下沢へと下り、
次に北高尾山稜を関場峠で乗り越えて、西ツチラ沢に沿って高留(関場)へと繋がっています。

現行版の地形図では、白沢峠、関場峠の峠道や小下沢を横断して峠と峠とを結びつける道は
描かれておらず、峠名の記載もありません。
ただ両峠の傍らを、東京電力の送電線である新多摩線が通っているだけです。

登山用の地図においては、峠名の表記はされていますが、峠道の記載はやはり見られません。
なぜこれら二つの峠の道は抹消されてしまったのでしょうか?
そして登山地図の関場峠においては、なにゆえ大きく西へと移動してしまったのでしょうか? 


『広域市街地図・八王子高尾相模湖』 人文社 1994年
白沢峠はp673の右肩を越えている
関場峠の道も見事に西ツチラ沢へと下っている

古い地形図以外に、二つの峠道を描いた地図はないものかと探してみると、
人文社の『広域市街地図・八王子高尾相模湖』(1994年版)に見事に表記されているのを見つけました。

この相模湖町底沢と上恩方町高留(関場)を繋ぎ、二つの峠を結び付ける一本の道筋は
今でも果たして辿ることができるのでしょうか?
奥高尾縦走路と北高尾山稜を横断してまで、両地域を結びつけていた道に興味を覚えるのです。

 白沢峠の道を探る

【白沢峠】

「堂所山と景信山との間にある峠、高さ650m。
上恩方町高留から相模湖町底沢に通う路がかかっていたが、いまは廃道となった。
西多摩地方の人々が底沢半僧坊に参詣した道という」
                                        (『八王子事典』 p363)

「白沢峠の名は現行の登山用地図などにも記されているが、そこを越える峠道の記載がない。
場所は景信山と堂所山の間で、堂所山の方に寄ったところ。
その南側の斜面から生まれる谷に白沢川とあるから、この谷をつめる道があったのだろう。
(中略)かつての峠と覚しきあたりから谷に下る踏み跡でもないかと注意しても見つからない。
谷の東側を画する尾根に小路がついていたのでそれを下り、白沢川の谷におりた。(後略)」
                                        (『峠と路』 p92)

「(前略)市販の地図には白沢峠と明記されているが、峠を示す道標はない。
尾根道をたどっても、いつの間にか通り過ぎてしまう峠。それだけに忘れられた峠ともいえよう。
(中略)草の生い茂った峠道が白沢へとつけられている。
しかし、今この峠道はヤブが多く、歩く人は少ない。すぐ西にある旧明王峠とも呼ばれる
底沢峠道の整備が白沢峠越えを大きく変えたともいえよう。(後略)」
                                        (『かながわの峠』 p158-p159)

 


相模湖から弁天橋へ


弁天島の石仏

まずは白沢峠を探ります。果たして白沢川沿いに道はつけられているのでしょうか?
そして、奥高尾縦走路を越えて小下沢流域に下る道は今も残っているのでしょうか?
当然、いっぺんに白沢峠と関場峠の二つの峠道探索を行うのが合理的ではあるのですが、
いつもの出足の遅い出発ですから、一つ一つの峠道を日を変えて非合理的に探ることになるのです。

車を相模湖大橋横の県営無料駐車場に停めて、相模川を弁天橋で渡り底沢集落を目指します。
午後から雨が予想されていましたが、歩き始めの天気は上々です。
相模湖までの途中、100円ショップの買出しで、ビニール傘を買い忘れてしまったのが心配でしたが、
嵐山登山道の入口に、運良く新品同様のビニール傘が捨ててあるのを見つけて頂戴することにします。
「弁天島キャンプ場」で今夜キャンプをするらしい楽しそうな女の子の集団を横目に、
弁天橋の袂にかかると、ニコニコとした人の良さそうなお婆ちゃん(キャンプ場の管理人らしい)が、
傘を手にした見知らぬ男に『今朝は雨が降ったのかい?』と問いかけてきます。
『いやぁ〜、これから降るんですよ!』と答えると、春の青い空を見上げてお婆ちゃんは
不思議そうな顔をするのです。

この弁天橋付近の雰囲気がなかなか良かったのは思わぬ収獲です。
ひと昔前の弁天橋は、底板に穴のあいた恐ろしいほど揺れる不安定な吊り橋で、
30〜40円程度の通行料を徴収する有料の橋だったようですが、
現在は無料で、恐ろしい体験をさせられることもなく堅牢な橋で対岸へと渡ることができます。

さて、その対岸の弁天島なのですが(別に独立した島ではない)・・・独特の雰囲気に包まれていて、
まるで「つげ義春ワールド」なのです。
壁の無い東屋が何棟かあり、そこには確かに人の生活があるのですが、人の姿は無く、
流し台や鍋が置かれた調理棟や布団の敷かれた棟があり、野外にはドラム缶風呂などがあるのです。
万年床の上では黒猫が丸くなって日向ぼっこをしており、庭先(果たして庭なのだろうか?)では、
ひとつがいのチャボが交尾をしているのです。

住宅地図を見ると、「弁天茶屋」と記載があるのですが、どうみても茶屋として営業しているようには見えず、
縁側にはネットに入れられた胡桃が二つばかし置かれ、
弱々しい字で「くるみ300円」と書かれた値札をつけて無人販売されていたりするのです。
なんとも独特な雰囲気で、つげ義春が描く旅漫画の一コマを見ているようなのです。
キャンプ場で出会ったお婆ちゃんの住まいなのでしょうか?
日当たりが良く、暗い感じはありませんが、このような場所で、どのような人が、どんな生活をしているのか、
俗世間から解脱しているかの生活に、ある種の羨望にも似た興味が湧き起ってくるのです。


石仏が佇立する弁天島から国道20号への道


甲州街道 小原宿本陣

弁天島は「相模湖八景名勝の地」のひとつで、赤い鳥居の先には弁天社が祀られています。
その社殿は戦後、千木良小学校の奉安殿を移築したもので総檜造りの立派なものです。
本尊の烏(宇)賀神は、お蚕さまの神であるとか、財の神であるとかいわれていて、
石造の人面蛇体がガマの背に乗った姿で、黒塗りの厨子に納められ、善勝寺に安置されているとのこと。
昔は祭りの日に、世話人が弁天様を背負って善勝寺から弁天社に運び、おこもりをしたとのことです。

城山へ向かう東海自然歩道と分かれて、底沢方向へと進みますが、
路傍に石仏が置かれた味のある土道をわずかばかり上れば、国道20号線に飛び出します。
そこはちょうど甲州街道小原宿本陣の前で、覗いてみると入館無料とあるので寄り道します。
美しい庭や収集された民具を拝見してから、国道をしばし歩くと、最近できたらしい
甲州街道資料館「小原の郷」があり、ここも入館無料なのでまた寄り道です。

資料館「小原の郷」は小原宿や甲州街道に関する資料が集められており、
親切な係員さんの説明を伺うことができます。
この係員のおばちゃんがとても話好きで、助郷や片継ぎ、二瀬越の話などをとうとうと解説してくれます。
よせばいいのに、こちらも小仏峠越えや相模川の渡船、半僧坊のことなど色々と質問したりして、
火に油を注いでしまい、おばちゃんの解説は熱を帯び、時間はたちまちに過ぎてゆくのです。
館内でお昼時を迎え、これはもはや峠を二つも越えて上恩方に入り、再びこちらに戻ってくることは
時間的にできなくなったなぁ・・・と、少々先行きが心配になってきます。
おばちゃんの薦める小仏峠越えに予定を変更しようかとも思いましたが、
白沢峠の峠道だけでも探ろうと、資料館「小原の郷」を後にします。

国道の底沢バス停から「美女谷温泉」の看板に従って底沢川に沿った谷筋の道へと入ります。
この先の谷奥に、人の生活があるものだろうかと思いもしますが、中央本線のゲートをくぐると、
点々と民家が現われます。なぜこのような奥まった地に、生活の場を求めたのかわかりませんが、
閉塞感に満ちた地形は「底沢」の名に相応しいとも思います。
現在の底沢は、主要道である国道20号線からは離れていますが、
甲州街道が明治期に大垂水峠で越える道筋に移る以前は、八王子から小仏峠を越え、
現在のJR中央本線小仏トンネルの上を通り底沢の南部を経て小原宿に出ていたのですから、
地形上はともかくも気持の上では閉塞感など感じなかったのでしょう。

その名から過度の期待をしていた「美女谷温泉」は、勝手に想像していた佇まいとは違っていて、
普通の民家のように見え、そしてなにより期待していた美女の姿もなく、心持をそがれた感があります。
美女谷は往昔ここから美女が世に出たのでそれが地名になったといいます。
その美女とは小栗判官満重伝説で有名な照手姫のことで、
姫はこの地に生まれ、底沢川渓谷の「七つ淵」で豊かな黒髪を梳き、絶世の美女になったといいます。
また、名妓の高尾太夫もこの地の出生だといわれています。
こういう所が美女の産地なのか・・・、美女は日陰を好むのかしらと思ったりします。


臨済宗建長寺派底沢山桂林寺
本堂裏手に半僧坊の堂宇があるという


第二白沢林道ゲート
第一林道と第二林道の間の尾根にも道はつけられている

小仏峠へ向かう道と美女谷温泉を過ぎれば、西入沢と白沢川の分岐となります。
「西入り」に対して白沢を「東入り」と呼ぶこともあり、この辺りの底沢川を「玉すだれ川」と呼ぶともいいます。
水の流れは確かに清く美しく、植林地ばかりの山が水源にしては清冽です。
「東入り」へ入るため右に折れると、民家の脇を通って「陣馬山・明王峠」へと向かう尾根道の入口があり、
そこには公的な登山標識も立っています。
下山にはこの尾根道を利用しようと思いながら、さらに進めば半僧坊の堂宇のある桂林寺です。

桂林寺は「ケイリン」という名前から競輪選手の参詣もあるようですが、人の姿はなくひっそりとしています。
本堂の裏手には半僧坊の堂宇があるとのことですが、
勝手に入って見物していいものだろうかと迷い、本堂だけを見て後にします。
この一見、静かで平凡な寺を参詣するために、昔は白沢峠や底沢峠を越える人の流れがあったのかと、
当時の民衆が抱いていた信仰の強さをあらためて感じます。

「半僧坊」とは、静岡県引佐町奥山の臨済宗方廣寺の鎮守である半僧坊大権現のことで、
方廣寺の開山である無文元選禅師が、中国から帰朝する際に海難に遭い、
それを助けたのが半僧坊(半ば僧にして僧にあらず)であったことに始まります。
禅宗系の寺院を中心に、明治20年頃から各地に広まったとされ、
神奈川県内では底沢の半僧坊とともに、愛川町田代、鎌倉建長寺の半僧坊が広い信仰圏を
持つことで知られています。また、八王子市内では南大沢、小津町、川口町で祀られています。

僧衣をまとい、自在杖を斜めに持ち、鋭い眼光、高い鼻、長い足の爪で、山の神や天狗といった姿、
半ば僧に似て、僧にあらず、一歩で何里も飛ぶといわれ、畏れられていたといいます。
かつては子どもが散髪の途中で、髪を刈らせないと(虎刈りになると)、
「半僧坊主」になってしまうと言われたものです。

明治中期から末期にかけて、底沢の半僧坊には多くの参詣者があり賑わいを見せていたといいます。
半僧坊の裏山から湧き出る清水が目薬として評判になり、
眼や身体の悪い所に塗ると良くなるといわれていました。
「小原の郷」の係員さんの話によると、この水で習字をすると字が上手くなったともいいます。
近郷の家々では、この御利益にあやかろうと、毎月十七日の縁日には早朝から多くの参詣者があり、
門前には露天商や茶店、見世物小屋、芝居小屋などが軒を並べるほどの盛況振りだったといいます。
近隣はもとより、遠く愛川町半原や厚木方面からも信者の参詣で賑わったようです。
そして、西多摩郡方面からは白沢峠越えの道が底沢半僧坊への参詣路となっていました。

霊水信仰の他に、火防、養蚕守護、徴兵逃れや戦地での弾除け、商売繁盛、家内安全など、
御利益も様々だったようで、これはもう適当に祈願理由を見つけては、それにかこつけて、
半僧坊に訪れるという行為自体が目的になっていたのではないかとも想像できます。
つまり、実は神仏に対する参詣などは二の次で、日常の生活から解き放たれ、ちょっとした遠出を楽しむ、
旅気分で訪れていた人々が多かったのではないでしょうか。
ことに白沢峠や底沢峠を越えてやって来る人にとっては、
「峠」が日常(「褻(ケ)」)と非日常(「晴れ(ハレ)」)との分界点になっていたのかもしれません。


林道を離れここから旧峠道を探る


沢に沿って桟道のような道が続く

桂林寺からさらに白沢川に沿って進むと、右手にゲートが閉ざされている林道を見ます。
これが第一白沢林道なのでしょうか?景信山方向へと続いているようです。
この第一林道と、直進して白沢川を詰める第二白沢林道とに挟まれた尾根には、
地形図には道の記載はありませんが、新多摩線の送電鉄塔が建ち、送電線巡視路を兼ねた
歩きやすい山道がつけられているようです。
(『駅から登る山歩き』(実業之日本社・2003年)では、景信山の登山コースとして紹介されています。
また、『バリエーションルートを楽しむ』(松浦隆康著・新ハイキング社・平成19年)では、
「白沢川左岸尾根」の名で紹介されています。)

一般車両通行止めの第二白沢林道のゲートをすり抜けてさらに奥へと進みます。
周囲は植林ばかりでパッとしませんが、奇麗な水の流れは変わりません。
さて、どこから白沢峠へと取り付くのか悩ましいところです。
旧版地形図から察すると、現行版地形図p673の南方小尾根の東側に峠道がつけられているはずです。
視界の閉ざされた谷あいでは、地形は読みづらいのですが、注意していれば取り付きは可能でしょう。

さらに奥へと伸びる林道と訣別し、違うかなと思いつつも小谷に入っていく桟道のような道を進みます。
不安を抱えながらもしばらく行くと、神奈川県の設置した「水源の森林づくり契約地水源分収林」の
看板があり、現在地を「小原字ヌタノ久保」だと教えてくれます。
そんな字名がわかったところで、果たして本当に峠道を拾えているのかという不安は解消されません。
林道からの離脱が早すぎて、送電鉄塔尾根の小沢に迷い込んでいるのではと不安がよぎりますが、
コンパスを取り出し確認すると、ちゃんと北へと進んでいるので、流れの消えた小沢を詰め続けます。
水流が消えると道は右手尾根に、二、三度大きくジグザグをして高度を稼ぎはじめます。

高度が上がると、周囲の地形もよく分かり、現在自分のいる位置も判別し易くなるというものです。
p673南方小尾根の東側の谷に取り付いたことは無事確認できましたが、道は峠道らしくなく、
造林事業に使われている単なる仕事道を進んでいることがわかります。
旧版地形図から読み取れる本来の峠道は、谷の対岸にあるべきはずなのに、
それらしき道を見出すことはできません。
まぁ、それでもこの仕事道を利用してp673南方小尾根の東側の谷筋を詰め続けることにします。


林班杭やら見出標やらが点々と続く


谷筋を直登 ヤブは無いが道も無い

旧版地形図によると白沢峠の道はp673南方小尾根の東側谷筋を忠実に詰めているように見えますが、
それらしき峠道の痕跡は依然として見当たらず、谷筋には点々と林班杭やら見出標やらが
埋設されているのを見るばかりです。
歩きやすい明瞭な仕事道は右手の送電鉄塔尾根(白沢川左岸尾根)の方向へと逃げていきますが、
ここは古い地形図の破線道が、かつてあったであろう谷筋斜面を忠実に詰め上げてみます。
踏み跡はありませんが、見上げると埋設杭の目印につけられたリボンやテープが確認できます。
手入れされた明るい植林斜面には、ヤブもなく、急勾配にさえ我慢すれば、どこでも歩ける状態です。
拾ったビニール傘を杖代わりにして、滑り台の角度のような急斜面を登ります。

急登を爪先で踏ん張り登りつめ、そろそろ奥高尾縦走路に飛び出してもいいだろうと感じる頃、
頭上を鼻歌混じりの中年ハイカーが、苦闘しているこちらの存在に気付かずに横切ってゆくのです。
あそこが一般コースかと、もうひとふんばりし、ひょいと飛び出した所はp673の巻き道の途中で、
あまりにも良く踏まれ、固く締まった奥高尾縦走路の路面にちょっと違和感さえ覚えるのです。
巻き道を数メートル西側へ行けば、公的な登山標識があり、
そこには黒マジックで書き込まれている消えかけた「白沢峠」の文字が見られるのです。


巻き道口の公的標識


このマジックの文字がほぼ正解

奥高尾縦走路を特に意識なく歩いていては、きっと白沢峠は見落してしまうことでしょう。
意識していたとしても連続する小さな起伏の中で、どこが正しき峠なのか見分けるのは難しいことでしょう。
そんな意味では、この標識に「白沢峠」と書き込んだ人は的確な判断を下されたと思います。
(公共物に書き込みをする行為の良し悪しは抜きにして)

以前に白沢峠を訪れたときにも、この書き込みは確認していますが、半信半疑でした。
今回、実際に白沢川を詰め上げた地点であったことが実証され、
ここが正しき峠であると確認することができました。
この標識位置が『山と高原地図』の「白沢峠」でもあるようですが、
さらに精度を高めるならば、古い地形図の破線道がp673の右肩を越えていることから、
若干東方にズラすのが精確といえるのかもしれません。
しかし、この程度のズレならば許容範囲の内なのでしょう。


p673から送電鉄塔ピークに向かう途中の分岐道


分岐には「白沢峠」と書かれた杭があるが・・・

峠から南側の白沢川へと下降する場合は、明瞭な道形が見出せず、
単なる植林斜面を下降することになるわけですから、最初の一歩を踏み出すには勇気がいることでしょう。

一方、白沢峠から北側の小下沢へと下る明瞭な道も見当たりません。
ヤブの掻き分け作業を伴いそうな行為は後回しにして、ひとまず送電鉄塔のある小ピークに向かいます。

鉄塔ピークへ向かう途中、右手から派生する道があり、
その入口のプラ杭には「白沢峠」と書かれているのを見ますが、はたしてこれはどうなんでしょうか?
ここが白沢峠?いや、そうだとしても、ここは後世の白沢峠なのでしょう。
古い地形図の破線道の道筋とは尾根道との合流点が明らかに異なります。

最前、p673南方小尾根の東側谷筋を馬鹿正直に詰め上げていた時に、
明瞭な仕事道のジグザグが送電鉄塔尾根(白沢川左岸尾根)方向に逃げてゆくのを見ましたが、
きっとそれに接続している道なのでしょう。

ここは送電鉄塔尾根の入口でもあり、白沢川へ下降することのできる道の入口でもあるのでしょう。
「この先登山道ではありません」の簡易標識がありますが、道の状態は良さそうに見えます。


送電鉄塔新多摩線72号


p673 桜が生えている

鉄塔ピークに立つ送電鉄塔は新多摩線72号。
ここからは北高尾山稜の様子や八王子市街を眺めることができます。
小下沢方向にはもう一本の送電鉄塔(73号)を経てから、北高尾山稜上の送電鉄塔(74号)と結ばれています。

73号鉄塔へと下る道があるので、このまま北に派出した支尾根を下れば、
小下沢林道に降りることも可能なように思われますが、それでは白沢峠と関場峠とを結ぶ道の
探索を放棄してしまうことになります。
これは送電線巡視路であり、目的の峠道ではないんだと弱気な自分に言い聞かせ、
安易な逃げ道を選択せぬうちにp673へと引き返します。

p673には一本の桜の木が生えていて、林野庁設置の境界見出標「30支18」が埋設されています。
周囲を見渡してみても、峠道の痕跡は見つかりません。
太い倒木を乗り越えて、北面のヤブ気味の尾根筋を下ってみることにします。


道の痕跡部に落ちていた湯飲み

わずかな笹ヤブを通過した後は、顔を叩く潅木ブッシュをビニール傘で払い除けながら前進しますが、
確たる踏み跡や峠道であったことを感じさせる道跡は認められません。
ヤブ尾根マニアが歩いた痕跡もありませんし、ケモノ道すらも無いように見受けられます。
これは早めに右手沢筋の植林地内に下降した方が良いのかもしれないと思いますが、
一度降りると、間違っていた場合の登り返しが面倒なので、尾根筋の下降をそのまま続けます。

「これはダメだ、道なんか無いんだ」と諦め始める頃、前方を横切る山腹水平道に出くわすのです。
確かな道が山腹につけられ、なぜかそこには高級そうな湯飲みが一つ転がっているのです。
テープなどの目印はありませんから、人間臭(しゅう)といえばこれだけです。
この道が果たして白沢峠と関場峠とを繋いでいた道の一部なのでしょうか?
まずは右手へ、しかし植林地内で消滅、次に左手へ、しかし次第に細くなり崖場で消滅・・・・
「ダメだ・・・山腹道は使えない」、さらに尾根筋を下降してみますが次第に傾斜は増してゆきます。
小下沢に降りる場所が切り立った崖だったらヤバイので、探索を終了してp673へ登り返すことにします。


ニセ白沢峠


ニセ峠の名は消されている

残念ながら、白沢峠と関場峠とを結んでいた確たる道を発見することはできませんでした。
長い年月の間に、ヤブに埋もれてしまったのでしょうか?
それとも植林地内に紛れ、吸収されてしまったのでしょうか?
イヤイヤ、単に探査能力が欠けていただけなのかもしれません。

まぁ、今回は白沢峠の南側の様子は探ることができたのでよしとしましょう。
北側とて、強引に斜面を下降すれば、どこからでも小下沢へ降りることができるに違いありませんが、
あえて危険を冒してまでする価値ある行為には思えません。

天候が崩れる気配も見られるので深入りはせずに奥高尾縦走路を底沢峠へ向けて西進します。
途中、境界見出標「33支4」のある小さな起伏を越えればニセ白沢峠です。
かつて、ここの登山標識には「白沢峠」の文字が書き込まれていましたが、今では塗り潰されています。


底沢峠 底沢分岐


底沢峠 案下分岐

p721の緩やかな登りを過ぎれば底沢峠で、底沢へ下る道と、案下に下る道が、
少し離れた位置にある変則十字路を成しています。
「底沢峠」はp721の赤岩山を越えることから、『峠と路』では「赤岩越え」という名前で紹介されています。
その他にも「案下峠」、「旧明王峠」との呼び名があります。
現在の明王峠に安置されている不動明王の石碑は、ここ底沢峠から移されたもので、
明王峠は観光のために富士山を眺めることのできる現在の高見に新造された峠なのです。

底沢分岐に設置された「底沢2.8km 相模湖駅5.8km」の標識に従い、
登って間もない奥高尾縦走路から早くも離脱を開始します。
峠から底沢への道は植林地内のジグザグを繰り返した後、明瞭な尾根に乗っかり、
その後は底沢まで一貫して尾根上を歩く単調な道です。
そのほとんどが平凡な植林地内を歩くので面白味に欠け、後半部においては中央道を走る
車の音が尾根上にまで届くので興醒めの感が否めません。
本来、尾根を行く道は、谷筋の道に比べれば安全で、大雨や土砂崩れによる崩壊も少ないでしょうし、
見晴らしが良く、気分的にも、道迷いを防ぐ観点からも峠道としては有効でしょう。
しかし、この道は古くからの峠道であるという感じがなぜかしません。


底沢への道は面白味に欠ける


底沢側の峠道入口

道自体は登山標識も設置され、よく踏まれているので歩きやすく、迷うこともないのですが、
標界杭や林班杭などが多く、林務作業用の目印も矢鱈と沢山見られるので興がそがれます。
p489から南下した所で、鋭角的に左折し、竹林を抜ければ「西入り」と「東入り」とを分かつ場所に建つ
民家の脇へと飛び出して、山道はあっけなく終了となります。

往路も歩いた閉塞感漂う山峡の道をとぼとぼと歩き、中央道、中央本線とくぐり抜け、
国道20号線に出たところで雨がポツポツと落ち始めます。
歩き始め早々に拾い上げ、今まで握りしめていたビニール傘の出番だと開きましたが、
あるときは杖代わりに、あるときはヤブを払い除ける道具として酷使した傘のビニール生地は
ボロボロになっており、見るも無惨な有様となっていたのでした。
そのボロボロになった傘をさし、車を置いた相模湖畔の駐車場に向かって初回の探索は終わりとなるのです。


明治21年測量同25年製版 二万図 『上埜原村』 大日本帝國陸地測量部

今回の峠行の調査対象外ではありますが、底沢峠の峠道が気になり、
帰宅後に、陸地測量部時代の旧版地形図を見てみたら、峠と底沢とを結ぶ峠道は、
現在の尾根上を行く道とは異なり、峠からその直下の谷筋へと下降していることがわかりました。
尾根上を行く現在の道は、後世、造林事業を行った際につけられた道ではないかとの疑念をいだきます。
果たしてこの古い地形図に記されている底沢峠の旧道(?)は現存しているのでしょうか? 

 関場峠を探る

 

【関場峠】

「上恩方町高留付近から裏高尾町小下沢の源流部へ越える峠。
新・旧二つのルートがある。高さはいずれも540m。
旧道は高留より西ツチラ沢をさかのぼった位置にあたり、そこから小下沢に下り白沢峠へ通じていた。
新道は高留の西の川井野から便楼沢をさかのぼり稜線に出る。小下沢林道の終点の直下にあたる。
西へ登れば堂所山に達し、東は北高尾山稜を伝って八王子城山方面に出る。
峠の名は高留を関場とも呼んだことによる。」
                                             (『八王子事典』 p404-p405)

【ツチラ沢】

「北高尾山稜から発し、上恩方町高留で北浅川に注ぐ沢。
三本松山の東北面から流れ出す西ツチラ沢と、大嵐山を水源とする東ツチラ沢とがあり、
北浅川へ注ぐ直前で合流している。
東京都の表示では、西ツチラ沢を北土代沢、東ツチラ沢を南土代沢としてあるが、
北・南の区別は適切ではない。
西ツチラ沢には北土代沢林道が開かれ、北高尾山稜直下まで通じている。
かつてはこの沢の頭に関場峠があった。

東ツチラ沢には南土代沢林道があり、これも谷奥まで開かれている。」
                                             (『八王子事典』 p519)

 


北土代沢林道入口


林道終点部の奥に踏み跡が続くが…

前回は、相模湖町底沢と上恩方町高留とを二つの峠越えを介して繋ぐルートのうち、
白沢峠南方の白沢川を詰め上げて旧道の有無を検証したので、
今回は、高留から西ツチラ沢を詰めて関場峠の旧道を探索します。
あわよくば小下沢を横断して関場峠と白沢峠とを結ぶ道も発見したいのですがどうなるでしょう?

以前に北高尾山稜を歩き、そのいやらしいアップダウンと植林主体の貧相な樹相から、
「二度と北高尾山稜は歩かないと心に固く誓った」のですが、峠道の謎解きのために
再訪することになってしまいました。
観光施設「夕やけ小やけふれあいの里」に車を停めて、(駐車場の閉門時間に要注意)
テクテクと西ツチラ沢に沿った林道で谷奥まで入り、峠道の有無を確認するつもりです。

ところが、その林道の入口で少々混乱をきたします。
てっきり西ツチラ沢に沿った林道の名前は西ツチラ沢林道だとばかり思っていたのですが、
そのような林道の入口は見当たらず、「北土代沢林道」の看板しか見当たらないのです。
読図からして、ここしか入口は考えられず、足を進めてみると、すぐに分岐を迎え、
派生して伸びる林道名を「南土代沢林道」としていて、さらに頭が混乱します。
『山と高原地図』では「西ツチラ沢」と「東ツチラ沢」という西と東のツチラ沢の名は記されていますが、
北と南のツチラ沢なんぞは記されていないからです。
どういう経緯で東西関係が南北関係になってしまったかは知りませんが、
はじめて現地を訪れる人は戸惑うことでしょう。

つまり、「西ツチラ沢」に沿う林道が「北土代沢林道」で、
「東ツチラ沢」に沿う林道が「南土代沢林道」という頭を悩ます名前付けがされているのです。
ちなみに、2006年版のゼンリン住宅地図を見ると、沢名までが南・北の表記になっています。
『八王子事典』によると、「土代(ツチヨ・ツチラ)」は、上恩方町の旧小字で、
高留のうち北浅川南岸のツチラ沢流域を呼ぶとのこと。
また、同書にはツチラ沢を南北に区別するのは不適切だとあります。


送電線巡視路を使って尾根へ


割と新しい工作か?

完全舗装されている北土代沢林道を西ツチラ沢の流れに沿って進みます。
地形図に表記されたS字カーブで高度を上げ、「御成婚記念土代沢造林地」の看板を見ると、
転回場を兼ねた小広い林道終点部となります。
終点部から先も涸れた小沢に沿って、か細い踏み跡程度の道が続いていますが、
どうも頼りなく、ヤブかかっているので進入する気が起きません。

旧版地形図を見ると、峠道を示す破線道は、最後まで谷筋を詰めて、
最後に幾度かのジグザグを経て北高尾山稜に達しているように見えます。
旧峠道を探索するという意味では、このヤブ気味の踏み跡に足を進めなければならないことは
重々承知しているのですが、極めて歩きやすそうな送電線巡視路が「こっちへおいでよ」と、
誘いかけてくるのですから、意志の弱い愚か者はコロリとその甘い誘いに乗ってしまうのです。

新多摩線送電鉄塔75へと導いてくれる巡視路は、
最近整備されたばかりなのか、まだ新しい感じがします。
それにしても送電線巡視路のプラスチック製階段は滑りにくく、歩幅もバッチリで、
ジグザグ具合も適度で、なんとも上手い工作です。
一般登山道に設置された歩幅の合わない階段などに比べると、なんとも合理的な構造といえます。
きっと登山道の整備費に比べたら工費も安い優れものなのでしょう。
各電力会社には、こういった巡視路建設の専門部隊があるのでしょうか?
それとも各地の土建屋さんなり、森林組合に建設を丸投げしているのでしょうか?


新多摩線75号鉄塔


北高尾山稜一般コースに合流する

関場峠旧道の探索から逃避して登りついた新多摩線鉄塔75から振り返る見晴らしは良好で、
懐かしの要倉山や峰見通りを望むことができます。
旧関場峠に位置する鉄塔74も樹間を透かして間近に望まれ、ほぼ目の高さになってきます。
旧関場峠に向けて強引にトラバースを試みようかとも思いましたが、無駄な抵抗はやめて、
鉄塔下をくぐり抜けて素直に尾根を登り詰めることにします。

送電鉄塔から先、プラ製階段は消えて、腐りかけた木製階段へと変わり、
樹相も植林帯を抜けて、自然林へと変わってゆくと、北高尾山稜の一般コースへと飛び出します。
そこから目指す送電鉄塔74の立つ旧関場峠へは、急な斜面をひと下りで到着です。


本来の関場峠 (旧関場峠ということになる)


旧関場峠から奥高尾縦走路上の72号鉄塔を望む

本来の関場峠であった鞍部に、尾根を越える道は見当たらず、踏み跡すら見られません。
もちろんここが峠であることを示す、公的登山標識や私製目印はなく、旧峠の名残はありません。
現在では、関場峠は完全にp611の西方鞍部へと移行してしまっているのです。

北側斜面を覗き込んでみても、明確な踏み跡は見られず、
西ツチラ沢に沿った林道終点部から厳密に沢筋を登りつめたところで、
この旧関場峠の鞍部まで辿り着くことなどできはしなかったのではと思われます。
南側の小下沢へと下るべき道も植林とヤブで確たる踏み跡を見つけることはできません。
関場峠と白沢峠の二つの峠で、北高尾山稜と奥高尾縦走路を越え、上恩方と底沢とを結んでいた
かつての半僧坊参詣の道はとっくの昔に消滅してしまったのでしょうか?


こんなマークのある小尾根を下れば旧道にぶつかる


旧版地形図にある関場峠旧道

旧関場峠から新関場峠へ向かおうと、さきほど下った急斜面を登り返しにかかりますが、
やはり旧道の存在が気になり、境界見出標「43-支4」辺りから伐木の手の入った小尾根を使い
小下沢方向へと下ってみます。

少々ヤブっぽく、高尾界隈では珍しくダニも軍手に取り付くのですが、
気にせずに下降を続けると、旧版地形図に見られる道筋と合致する旧峠道を発見するのです。
旧関場峠の小下沢側の道は、鉄塔の建つ鞍部地点ではヤブに隠されていましたが、
確かに現存していたのです。


腐った丸太橋の先は鉄塔へ向かっている


小下沢林道へ向けて植林斜面を下降する

植林地内に残る旧道を拾って鞍部方向に戻ってみると、腐った丸太橋の向こうに
送電鉄塔へと続く道が確認されます。
逆方向の小下沢林道への降下地点に向けて進んでみると、乱雑に伐採された
植林や灌木に妨害されはするものの、旧峠道を辿ることができます。

かといって調子に乗って深入りしてはなりません。
適当な場所で小下沢林道へ下降しないと、崖を下ることを余儀なくされるのですから。
地形図の表記通り、小下沢林道の山側は削られた崖になっているのですから、
その一点の切れ目から林道へと降下することが肝心であり、古い地図でも丁度その辺りに
小下沢側へ下降する道が描かれているのです。


林道に降り立った場所


小下沢林道終点部
この崖の上が関場峠の移動先(新関場峠ということになる)

躊躇することなく、小さな谷筋の荒れた植林伐採斜面を降下すれば、
安全に林道上へと降り立つことができます。
なるほど、このようにして北高尾山稜を跨いでいたのかと感慨に浸りたくもなりますが、
ここから白沢峠のある奥高尾縦走尾根へと登らなければならないと思うとまた一苦労です。

林道上から小下沢へと降りる明確な道は見当たりませんが、
ヤブを掻き分ければ数メートル下の沢床へは容易に降りることができそうです。
さてどうしたものかと考えますが、どうせ白沢峠へ這い上がる旧峠道なんて発見できないだろうと
沢に降りることもなく簡単に諦めてしまいます。
ヤブも危険もない歩きやすい林道の味を知ってしまったのですから、
あえて自虐の道を選択することなどないのです。

白沢峠へ向かうならば、コンクリ堰堤に到達する前に、斜面に取り付かなければ
ならないでしょうが、足はどんどんと逃げるように進み、小下沢林道の終点部を迎えます。


新関場峠


堂所山への道 以前より笹が後退した

『多摩郡村誌』では「小下沢」、『新編武蔵国風土記稿』では「木下沢」との表記らしく、
八王子市や国の営林署では「小下沢」を、東京都公園管理事務所では「木下沢」の表記を
採用しているらしく、実にややこしいことです。

また、「コゲ沢」を「クゲ沢(公家沢)」と解して、京の桜町中納言景信なる公家が
この地に配流されたことによる地名だとの説を唱える人もあるといいます。
しかし、『八王子地名考』によると、景信山の「カゲ」や小下沢・木下沢の「コゲ」は同じ言葉で、
柳田國男氏の言うところの「山間の高原で、これに草が生えて、木の無いもの」を表わす
地形語であるとあります。芝生や草原を意味する方言の「コーゲ」と同じであるとのことです。

林道終点の崖上が現在の関場峠で、公的な登山標識もここを「関場峠」と認定しています。
登山の各種ガイドブックや登山用地図でも、この林道終点部を関場峠としており、
最前の送電線が越えるp611の東方鞍部を関場峠としているものはありません。
もう完全に、現在の峠位置が、「関場峠」として広く認知されているのですから、
いまさら旧峠位置に標識を移すことはできないでしょう。
いくらズレていると訴えたところで、「アンタの考え方がズレている」と一笑に付されることでしょう。

新関場峠の公的標識は新調されていて、「小下沢風景林」の看板も真新しくなっています。
新峠から北へは、ビンロウ沢(便楼沢・ビロウ沢・ビロー沢)へと道がつけられているようですが、
登山用地図にも地形図にもその表記はありません。(ゼンリンの住宅地図には道の記載あり)
ちなみに、ビンロウ沢の「ビロー」は「ヒラ(平)」の訛であり、「ナラ」と同意で、
傾斜の緩やかな沢を意味すると『八王子地名考』には解説されています。


堂所山 (長者屋敷)


山頂から陣馬山を望む

「二度と北高尾山稜は歩かないと心に固く誓った」くせに、
小下沢から白沢峠への道の探索を放棄してしまったがために、誓いはもろくも破られて、
つまらぬ道を歩かされる羽目になるのです。
といっても、新関場峠から堂所山にかけては、自然林もあり、眺望も得られるので、
我慢できる範囲内ですし、明るい春の陽光も気分を高揚させてくれます。

堂所山手前の道は、以前訪れたときより笹が後退してしまい(刈り払われてしまい)、
山の深みがなくなりましたが、新緑を控えた樹林の向こうに奥高尾縦走路から陣馬山へと続く
山並みが一望され、山歩きの心地好さに快感を覚えるのです。


『山小屋3号』 「武相國境(ニ)-陣場山・景信山-」(岩科小一郎著) 朋文堂
「長者ヤシキ」、「赤岩山」、「案下峠」の名が見られる

堂所山は、底沢領分では「長者屋敷」との呼称もあるようですが、
誰が、いつ頃、何のために住んでいたのかは全然伝えられていないようです。
「堂」というから「御堂」でもあったのかと思いましたが、「長者屋敷」だったとは・・・・。
また、一説には戦国時代に敵の動静を知らせる「鐘撞堂」があったとも言われているようです。

「堂所」は、「ドウドコロ」、「ドウドコ」と読むようですが、
同じような音を持つ地名は上恩方にはいくつかあり、そのいずれもが頂きが平らな峰を
指していることから、いわゆる「デンデエロ(天平)」系の地形語ではないかと考えられています。
「デンデエロ」⇒「デンデコ」⇒「ドウドコ」⇒「ドウドコロ山」・・・・(クッ、苦しい)


底沢峠手前から峰見通り方面を望む


底沢峠 底沢分岐


底沢峠 案下分岐

カバンから本日唯一の食糧である「つぶづぶイチゴジャムパン」を取り出し、
お行儀悪く食べ歩きをしながら数日前に訪れたばかりの底沢峠へと向かいます。
その底沢峠の手前のちょっとした起伏は「赤岩山」と呼ばれているようですが、
目立った赤い岩などは無く、植林の中のさえないでっぱりにすぎません。
この赤岩山を越えることから、『峠と路』の中では「底沢峠」を「赤岩越え」としています。

前回、底沢峠の底沢側の道を下ったので、今回は案下への道を下ろうと思っていましたが、
「夕やけ小やけふれあいの里」駐車場の閉門時間までには、まだ間があるので、
もう少し足をのばしてみようなどと欲が出ます。

そういえば現行版地形図には奈良子峠の案下側の道の記載がないことが気になっていました。
手持ちの『山と高原地図』でも、案下側に下る底沢峠の道は記載があるものの、
奈良子峠から案下へ下る道の記載はありません。
(最新2009年版の『山と高原地図』では、破線表記ではあるがコースとして記載されている)
気になりはじめたら気になり続けるという悪病を治すためには歩くほかありません。


南 底沢、千木良、小原方面
西 与瀬、吉野、上野原方面


向左 八王子方面
大正11年 恩方村青年団案下支部

底沢峠は「案下峠」とも「旧明王峠」とも呼ばれています。
案下分岐には大正11年恩方青年団案下支部によって埋設された石の標柱があり、
「向左 八王子方面」、「西 与瀬 吉野 上野原」、「南 底沢 千木良 小原」と刻まれています。
きっと往昔には人の頻繁なる通行があったのでしょう。
案下へと下る峠道が気にはなりますが、このまま奥高尾縦走路を西進して奈良子峠を目指します。

恩方村の設置した「皇紀二千六百年記念造林」の石碑を横目に、
幅広の緩やかな登り勾配の道を進めば、すぐに茶屋の建つ明王峠となります。


明王峠の「不動明王尊」碑


峠の茶屋

現在、明王峠に安置されている不動明王尊の石碑は底沢峠から移設されたものだといいます。
茶屋の建つ明王峠は、観光のためにと、富士山を眺められる高見に移動された峠なのです。
それが底沢峠のことを「旧明王峠」と呼ぶ所以でもあるのです。

観光のために明王峠は移動した・・・。
それでは関場峠は小下沢林道開削のために移動したのでしょうか?
歩かれなくなった峠道がヤブに埋まり、立派な林道が付近まで延伸されてしまえば、
峠はその道の経路に靡いて移動する?
峠というものは、そんな安易に移動することを許してもいいものなのでしょうか?

茶屋は閉じられ主人の姿は無く、富士の姿は霞んで、峠の桜はまだ固い蕾のまま。
それでもベンチには何組かのハイカーが憩っています。


奈良子峠


峠道の林務作業休憩舎

奈良子峠は奥高尾縦走路を奇麗に横断する十字路を呈しています。
栃谷側には、新しい道標も設置されていて、「陣馬の湯」へとハイカーを導こうとする宣伝が
少々やかましい嫌いもあります。

現行版地形図には案下側の峠道の記載がありませんが、
「陣馬高原下バス停」を指し示す公的な登山標識も立ち、明瞭な道が案下側へものびています。
旧版地形図には記載されていた峠道が、なぜ消去されてしまったのでしょうか?
お隣りの底沢峠道に通行人を奪われてしまったためなのか、
それとも土地所者の要望なのか、あるいは自然災害による道の荒廃によるものなのか
余所者には知り得ないことです。

案下へと下る道の上部は、植林地内のジグザグの連続です。
峠北面の道は、平成10年の降雪で植林倒木の被害に見舞われたといいますが、
整然とした植林が峠道の下部まで広がっています。
ハイキングコースとして歩くには、変化も、眺望もなく、楽しい道とは思えず、
どちらかと言えば歩く価値の無いつまらぬ単調な道に思えます。


一貫して植林地内を行く面白味に欠ける峠道


恐ろしいほどの大規模伐採斜面

伐木が無造作に転がっていたり、沢筋が荒れていたり、
極めつけは「萩ノ丸」北方尾根の大規模伐採斜面を見せつけられたりして、
峠道の情趣を味わう配慮などは全くもってないのですから、
地形図から道が消えてしまったことは止むなしとも思われます。

『峠と路』には、明治、大正期にかけて栃谷集落の人が馬に木炭を三俵ずつ両背に負わせ、
自らも二俵背負って峠を越えて八王子に行き、帰りに米などを買って峠道を通っていたとあり、
峠まで来ると、馬を休ませるためにナラの木に馬を繋いだことから、奈良子峠の名が付いたと、
昔の峠の様子が記されています。
しかし、今ではそんな通行もなければ、木炭を運んだ駄馬の行き来を想像させる情趣も
峠道からは消えてしまっています。


峠口の不動明王を祀る木祠


(左)底沢峠と(右)奈良子峠の分岐

単なる林道と化した峠道を沢に沿って下ると、底沢峠道と奈良子峠道との分岐を迎えます。
両峠道を分かつ尾根の末端部には「不動明王」と書かれた木製の祠が祀られています。
山に登る手間を省くために明王峠に祀られた不動明王尊を分祀したものなのか、
それとも、こちらが本家で峰上の石碑が分祀されたものなのかはわかりませんが、
祠の前に供えられたワンカップの数を見ると、今でも土地の人々の厚い信仰を
受けていることがわかります。
それにしても不動明王は酒豪なのでしょうか?ワンカップの数があまりに多過ぎます。

峠の不動明王から分祀されたものだとすると、底沢峠から明王峠へ、明王峠の頂きから山麓へと、
「不動」という割には、あちこちと動き回る不動様ということになります。
「陣馬高原キャンプ場」の前を通り、清流であるオキナツルシ沢(明王川)に沿った道を下ります。
「オキナツルシ」とは何か意味ありげなネーミングで、ちょっと恐ろしさも感じますが、
まさか「翁を吊るし上げて殺した」という恐ろしい出来事に因んだわけではないでしょうね。

オキナツルシ沢の流れは清く澄んでいて、泳ぐ魚の姿もチラホラと見かけます。
「明王渓谷」との呼び名もあるようですが、「渓谷」と公言するのはいささか大袈裟かもしれません。
魚の泳ぐささやかな渓流沿いの心地好い道を下れば、春の野花咲く案下の集落へと出て
高尾界隈の峠を巡った今回の山旅は終わりを迎えるのです。

意志薄弱の軟弱者ですから、白沢峠と小下沢の間の道、西ツチラ沢源頭から関場峠の道が、
探索対象から外れてしまい、満足のゆく探索結果を得られていませんが、
相模湖町底沢と上恩方町高留間を歩いた場合の大凡の時間や疲労度を体感することができました。
二つの峠越えをしてまで参詣していた半僧坊の魅力とは、そんなに大きかったのでしょうか?
自分だったら、山中賭博の開帳や美女谷での美女との楽しい出会いがなければ、
そう安々と山越えをしてまで訪れようなどとは思わないでしょう。

現行版地形図から抹消されてしまった峠道を、昔の地形図に記されている道筋を頼りに、
あるのか、ないのか、確証を持てぬままに、山中を彷徨い歩きましたが、
桜咲く麗しい季節に、花見酒も飲まず、こんな意味のないことに熱中してしまう感覚の方が
峠の位置がどうのこうのよりも、大きくズレているのかもしれません。


浄福寺の枝垂れ桜


寺の縁側から這い出した冬眠開けのヒキガエル

【参考文献】

『峠と路』 馬場善信著 かたくら書店 1987年
『八王子事典』 八王子事典の会 かたくら書店 1992年
『かながわ峠』 植木知司著 かもめ文庫 1999年
『相模湖町史・民俗編』 相模湖町史編纂委員会 相模原市 平成19年
『山小屋3号』 「武相國境(ニ)-陣場山・景信山-」(岩科小一郎著) 朋文堂
『八王子地名考』 鈴木樹造著 かたくら書店
『東京近郊の山と渓』 「小下沢」(菅沼達太郎著) 大村書店 
『山を行く』 「高尾山より三頭山まで」 高畑棟材著 朋文堂

『山と高原地図・高尾陣馬』 昭文社
『広域市街地図・八王子高尾相模湖』 人文社 1994年
地形図『与瀬』昭和4年測図同24年資料修正 昭和24年発行 地理調査所
地形図『与瀬』昭和63年修正測量 平成元年発行 国土地理院
地形図『上野原村』明治21年測量同25年製版 大日本帝國陸地測量部

リンクしています良太郎さんのHP『自転車で街道をゆく』の中でも関場峠探索行があります。
「峠路を越えて」の中の「関場峠パートT」、「関場峠パートU」レポートと、
「一里塚2001.09.29」の「関場峠の考察」レポート。