ずれている峠 〜白沢峠、関場峠を探索する〜
白沢峠・底沢峠(赤岩越え、案下峠)・旧関場峠・新関場峠・明王峠・奈良子峠
◆長ったらしいレポートになってしまったので簡略版を作りました
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| 「アンタ達、ちょっとズレてんじゃないのぉ〜?」 『山と高原地図』と旧版地形図を見比べていたらそう思った。 高尾山界隈の白沢峠と関場峠のことである。 白沢峠の誤差は許容範囲内としても、関場峠は大ズレである。 |
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| 旧版地形図を見ると、これら二つの峠は同じ道筋に位置する一連の峠であることがわかります。 底沢から白沢川沿いに登りつめた道は白沢峠で奥高尾縦走路を越えて、一旦、小下沢へと下り、 次に北高尾山稜を関場峠で乗り越えて、西ツチラ沢に沿って高留(関場)へと繋がっています。 現行版の地形図では、白沢峠、関場峠の峠道や小下沢を横断して峠と峠とを結びつける道は 登山用の地図においては、峠名の表記はされていますが、峠道の記載はやはり見られません。 |
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| 古い地形図以外に、二つの峠道を描いた地図はないものかと探してみると、 人文社の『広域市街地図・八王子高尾相模湖』(1994年版)に見事に表記されているのを見つけました。 この相模湖町底沢と上恩方町高留(関場)を繋ぎ、二つの峠を結び付ける一本の道筋は |
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白沢峠の道を探る
【白沢峠】 「堂所山と景信山との間にある峠、高さ650m。 「白沢峠の名は現行の登山用地図などにも記されているが、そこを越える峠道の記載がない。 「(前略)市販の地図には白沢峠と明記されているが、峠を示す道標はない。 |
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| まずは白沢峠を探ります。果たして白沢川沿いに道はつけられているのでしょうか? そして、奥高尾縦走路を越えて小下沢流域に下る道は今も残っているのでしょうか? 当然、いっぺんに白沢峠と関場峠の二つの峠道探索を行うのが合理的ではあるのですが、 いつもの出足の遅い出発ですから、一つ一つの峠道を日を変えて非合理的に探ることになるのです。 車を相模湖大橋横の県営無料駐車場に停めて、相模川を弁天橋で渡り底沢集落を目指します。 この弁天橋付近の雰囲気がなかなか良かったのは思わぬ収獲です。 さて、その対岸の弁天島なのですが(別に独立した島ではない)・・・独特の雰囲気に包まれていて、 住宅地図を見ると、「弁天茶屋」と記載があるのですが、どうみても茶屋として営業しているようには見えず、 |
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| 弁天島は「相模湖八景名勝の地」のひとつで、赤い鳥居の先には弁天社が祀られています。 その社殿は戦後、千木良小学校の奉安殿を移築したもので総檜造りの立派なものです。 本尊の烏(宇)賀神は、お蚕さまの神であるとか、財の神であるとかいわれていて、 石造の人面蛇体がガマの背に乗った姿で、黒塗りの厨子に納められ、善勝寺に安置されているとのこと。 昔は祭りの日に、世話人が弁天様を背負って善勝寺から弁天社に運び、おこもりをしたとのことです。 城山へ向かう東海自然歩道と分かれて、底沢方向へと進みますが、 資料館「小原の郷」は小原宿や甲州街道に関する資料が集められており、 国道の底沢バス停から「美女谷温泉」の看板に従って底沢川に沿った谷筋の道へと入ります。 その名から過度の期待をしていた「美女谷温泉」は、勝手に想像していた佇まいとは違っていて、 |
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| 小仏峠へ向かう道と美女谷温泉を過ぎれば、西入沢と白沢川の分岐となります。 「西入り」に対して白沢を「東入り」と呼ぶこともあり、この辺りの底沢川を「玉すだれ川」と呼ぶともいいます。 水の流れは確かに清く美しく、植林地ばかりの山が水源にしては清冽です。 「東入り」へ入るため右に折れると、民家の脇を通って「陣馬山・明王峠」へと向かう尾根道の入口があり、 そこには公的な登山標識も立っています。 下山にはこの尾根道を利用しようと思いながら、さらに進めば半僧坊の堂宇のある桂林寺です。 桂林寺は「ケイリン」という名前から競輪選手の参詣もあるようですが、人の姿はなくひっそりとしています。 「半僧坊」とは、静岡県引佐町奥山の臨済宗方廣寺の鎮守である半僧坊大権現のことで、 僧衣をまとい、自在杖を斜めに持ち、鋭い眼光、高い鼻、長い足の爪で、山の神や天狗といった姿、 明治中期から末期にかけて、底沢の半僧坊には多くの参詣者があり賑わいを見せていたといいます。 霊水信仰の他に、火防、養蚕守護、徴兵逃れや戦地での弾除け、商売繁盛、家内安全など、 |
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| 桂林寺からさらに白沢川に沿って進むと、右手にゲートが閉ざされている林道を見ます。 これが第一白沢林道なのでしょうか?景信山方向へと続いているようです。 この第一林道と、直進して白沢川を詰める第二白沢林道とに挟まれた尾根には、 地形図には道の記載はありませんが、新多摩線の送電鉄塔が建ち、送電線巡視路を兼ねた 歩きやすい山道がつけられているようです。 (『駅から登る山歩き』(実業之日本社・2003年)では、景信山の登山コースとして紹介されています。 また、『バリエーションルートを楽しむ』(松浦隆康著・新ハイキング社・平成19年)では、 「白沢川左岸尾根」の名で紹介されています。) 一般車両通行止めの第二白沢林道のゲートをすり抜けてさらに奥へと進みます。 さらに奥へと伸びる林道と訣別し、違うかなと思いつつも小谷に入っていく桟道のような道を進みます。 高度が上がると、周囲の地形もよく分かり、現在自分のいる位置も判別し易くなるというものです。 |
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| 旧版地形図によると白沢峠の道はp673南方小尾根の東側谷筋を忠実に詰めているように見えますが、 それらしき峠道の痕跡は依然として見当たらず、谷筋には点々と林班杭やら見出標やらが 埋設されているのを見るばかりです。 歩きやすい明瞭な仕事道は右手の送電鉄塔尾根(白沢川左岸尾根)の方向へと逃げていきますが、 ここは古い地形図の破線道が、かつてあったであろう谷筋斜面を忠実に詰め上げてみます。 踏み跡はありませんが、見上げると埋設杭の目印につけられたリボンやテープが確認できます。 手入れされた明るい植林斜面には、ヤブもなく、急勾配にさえ我慢すれば、どこでも歩ける状態です。 拾ったビニール傘を杖代わりにして、滑り台の角度のような急斜面を登ります。 急登を爪先で踏ん張り登りつめ、そろそろ奥高尾縦走路に飛び出してもいいだろうと感じる頃、 |
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| 奥高尾縦走路を特に意識なく歩いていては、きっと白沢峠は見落してしまうことでしょう。 意識していたとしても連続する小さな起伏の中で、どこが正しき峠なのか見分けるのは難しいことでしょう。 そんな意味では、この標識に「白沢峠」と書き込んだ人は的確な判断を下されたと思います。 (公共物に書き込みをする行為の良し悪しは抜きにして) 以前に白沢峠を訪れたときにも、この書き込みは確認していますが、半信半疑でした。 |
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| 峠から南側の白沢川へと下降する場合は、明瞭な道形が見出せず、 単なる植林斜面を下降することになるわけですから、最初の一歩を踏み出すには勇気がいることでしょう。 一方、白沢峠から北側の小下沢へと下る明瞭な道も見当たりません。 ヤブの掻き分け作業を伴いそうな行為は後回しにして、ひとまず送電鉄塔のある小ピークに向かいます。 鉄塔ピークへ向かう途中、右手から派生する道があり、 最前、p673南方小尾根の東側谷筋を馬鹿正直に詰め上げていた時に、 |
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| 鉄塔ピークに立つ送電鉄塔は新多摩線72号。 ここからは北高尾山稜の様子や八王子市街を眺めることができます。 小下沢方向にはもう一本の送電鉄塔(73号)を経てから、北高尾山稜上の送電鉄塔(74号)と結ばれています。 73号鉄塔へと下る道があるので、このまま北に派出した支尾根を下れば、 p673には一本の桜の木が生えていて、林野庁設置の境界見出標「30支18」が埋設されています。 |
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| わずかな笹ヤブを通過した後は、顔を叩く潅木ブッシュをビニール傘で払い除けながら前進しますが、 確たる踏み跡や峠道であったことを感じさせる道跡は認められません。 ヤブ尾根マニアが歩いた痕跡もありませんし、ケモノ道すらも無いように見受けられます。 これは早めに右手沢筋の植林地内に下降した方が良いのかもしれないと思いますが、 一度降りると、間違っていた場合の登り返しが面倒なので、尾根筋の下降をそのまま続けます。 「これはダメだ、道なんか無いんだ」と諦め始める頃、前方を横切る山腹水平道に出くわすのです。 |
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| 残念ながら、白沢峠と関場峠とを結んでいた確たる道を発見することはできませんでした。 長い年月の間に、ヤブに埋もれてしまったのでしょうか? それとも植林地内に紛れ、吸収されてしまったのでしょうか? イヤイヤ、単に探査能力が欠けていただけなのかもしれません。 まぁ、今回は白沢峠の南側の様子は探ることができたのでよしとしましょう。 天候が崩れる気配も見られるので深入りはせずに奥高尾縦走路を底沢峠へ向けて西進します。 |
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| p721の緩やかな登りを過ぎれば底沢峠で、底沢へ下る道と、案下に下る道が、 少し離れた位置にある変則十字路を成しています。 「底沢峠」はp721の赤岩山を越えることから、『峠と路』では「赤岩越え」という名前で紹介されています。 その他にも「案下峠」、「旧明王峠」との呼び名があります。 現在の明王峠に安置されている不動明王の石碑は、ここ底沢峠から移されたもので、 明王峠は観光のために富士山を眺めることのできる現在の高見に新造された峠なのです。 底沢分岐に設置された「底沢2.8km 相模湖駅5.8km」の標識に従い、 |
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| 道自体は登山標識も設置され、よく踏まれているので歩きやすく、迷うこともないのですが、 標界杭や林班杭などが多く、林務作業用の目印も矢鱈と沢山見られるので興がそがれます。 p489から南下した所で、鋭角的に左折し、竹林を抜ければ「西入り」と「東入り」とを分かつ場所に建つ 民家の脇へと飛び出して、山道はあっけなく終了となります。 往路も歩いた閉塞感漂う山峡の道をとぼとぼと歩き、中央道、中央本線とくぐり抜け、 |
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| 今回の峠行の調査対象外ではありますが、底沢峠の峠道が気になり、 帰宅後に、陸地測量部時代の旧版地形図を見てみたら、峠と底沢とを結ぶ峠道は、 現在の尾根上を行く道とは異なり、峠からその直下の谷筋へと下降していることがわかりました。 尾根上を行く現在の道は、後世、造林事業を行った際につけられた道ではないかとの疑念をいだきます。 果たしてこの古い地形図に記されている底沢峠の旧道(?)は現存しているのでしょうか? |
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関場峠を探る
【関場峠】 「上恩方町高留付近から裏高尾町小下沢の源流部へ越える峠。 【ツチラ沢】 「北高尾山稜から発し、上恩方町高留で北浅川に注ぐ沢。 |
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| 前回は、相模湖町底沢と上恩方町高留とを二つの峠越えを介して繋ぐルートのうち、 白沢峠南方の白沢川を詰め上げて旧道の有無を検証したので、 今回は、高留から西ツチラ沢を詰めて関場峠の旧道を探索します。 あわよくば小下沢を横断して関場峠と白沢峠とを結ぶ道も発見したいのですがどうなるでしょう? 以前に北高尾山稜を歩き、そのいやらしいアップダウンと植林主体の貧相な樹相から、 ところが、その林道の入口で少々混乱をきたします。 つまり、「西ツチラ沢」に沿う林道が「北土代沢林道」で、 |
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| 完全舗装されている北土代沢林道を西ツチラ沢の流れに沿って進みます。 地形図に表記されたS字カーブで高度を上げ、「御成婚記念土代沢造林地」の看板を見ると、 転回場を兼ねた小広い林道終点部となります。 終点部から先も涸れた小沢に沿って、か細い踏み跡程度の道が続いていますが、 どうも頼りなく、ヤブかかっているので進入する気が起きません。 旧版地形図を見ると、峠道を示す破線道は、最後まで谷筋を詰めて、 新多摩線送電鉄塔75へと導いてくれる巡視路は、 |
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| 関場峠旧道の探索から逃避して登りついた新多摩線鉄塔75から振り返る見晴らしは良好で、 懐かしの要倉山や峰見通りを望むことができます。 旧関場峠に位置する鉄塔74も樹間を透かして間近に望まれ、ほぼ目の高さになってきます。 旧関場峠に向けて強引にトラバースを試みようかとも思いましたが、無駄な抵抗はやめて、 鉄塔下をくぐり抜けて素直に尾根を登り詰めることにします。 送電鉄塔から先、プラ製階段は消えて、腐りかけた木製階段へと変わり、 |
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| 本来の関場峠であった鞍部に、尾根を越える道は見当たらず、踏み跡すら見られません。 もちろんここが峠であることを示す、公的登山標識や私製目印はなく、旧峠の名残はありません。 現在では、関場峠は完全にp611の西方鞍部へと移行してしまっているのです。 北側斜面を覗き込んでみても、明確な踏み跡は見られず、 |
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| 旧関場峠から新関場峠へ向かおうと、さきほど下った急斜面を登り返しにかかりますが、 やはり旧道の存在が気になり、境界見出標「43-支4」辺りから伐木の手の入った小尾根を使い 小下沢方向へと下ってみます。 少々ヤブっぽく、高尾界隈では珍しくダニも軍手に取り付くのですが、 |
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| 植林地内に残る旧道を拾って鞍部方向に戻ってみると、腐った丸太橋の向こうに 送電鉄塔へと続く道が確認されます。 逆方向の小下沢林道への降下地点に向けて進んでみると、乱雑に伐採された 植林や灌木に妨害されはするものの、旧峠道を辿ることができます。 かといって調子に乗って深入りしてはなりません。 |
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| 躊躇することなく、小さな谷筋の荒れた植林伐採斜面を降下すれば、 安全に林道上へと降り立つことができます。 なるほど、このようにして北高尾山稜を跨いでいたのかと感慨に浸りたくもなりますが、 ここから白沢峠のある奥高尾縦走尾根へと登らなければならないと思うとまた一苦労です。 林道上から小下沢へと降りる明確な道は見当たりませんが、 白沢峠へ向かうならば、コンクリ堰堤に到達する前に、斜面に取り付かなければ |
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| 『多摩郡村誌』では「小下沢」、『新編武蔵国風土記稿』では「木下沢」との表記らしく、 八王子市や国の営林署では「小下沢」を、東京都公園管理事務所では「木下沢」の表記を 採用しているらしく、実にややこしいことです。 また、「コゲ沢」を「クゲ沢(公家沢)」と解して、京の桜町中納言景信なる公家が 林道終点の崖上が現在の関場峠で、公的な登山標識もここを「関場峠」と認定しています。 新関場峠の公的標識は新調されていて、「小下沢風景林」の看板も真新しくなっています。 |
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| 「二度と北高尾山稜は歩かないと心に固く誓った」くせに、 小下沢から白沢峠への道の探索を放棄してしまったがために、誓いはもろくも破られて、 つまらぬ道を歩かされる羽目になるのです。 といっても、新関場峠から堂所山にかけては、自然林もあり、眺望も得られるので、 我慢できる範囲内ですし、明るい春の陽光も気分を高揚させてくれます。 堂所山手前の道は、以前訪れたときより笹が後退してしまい(刈り払われてしまい)、 |
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| 堂所山は、底沢領分では「長者屋敷」との呼称もあるようですが、 誰が、いつ頃、何のために住んでいたのかは全然伝えられていないようです。 「堂」というから「御堂」でもあったのかと思いましたが、「長者屋敷」だったとは・・・・。 また、一説には戦国時代に敵の動静を知らせる「鐘撞堂」があったとも言われているようです。 「堂所」は、「ドウドコロ」、「ドウドコ」と読むようですが、 |
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| カバンから本日唯一の食糧である「つぶづぶイチゴジャムパン」を取り出し、 お行儀悪く食べ歩きをしながら数日前に訪れたばかりの底沢峠へと向かいます。 その底沢峠の手前のちょっとした起伏は「赤岩山」と呼ばれているようですが、 目立った赤い岩などは無く、植林の中のさえないでっぱりにすぎません。 この赤岩山を越えることから、『峠と路』の中では「底沢峠」を「赤岩越え」としています。 前回、底沢峠の底沢側の道を下ったので、今回は案下への道を下ろうと思っていましたが、 そういえば現行版地形図には奈良子峠の案下側の道の記載がないことが気になっていました。 |
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| 底沢峠は「案下峠」とも「旧明王峠」とも呼ばれています。 案下分岐には大正11年恩方青年団案下支部によって埋設された石の標柱があり、 「向左 八王子方面」、「西 与瀬 吉野 上野原」、「南 底沢 千木良 小原」と刻まれています。 きっと往昔には人の頻繁なる通行があったのでしょう。 案下へと下る峠道が気にはなりますが、このまま奥高尾縦走路を西進して奈良子峠を目指します。 恩方村の設置した「皇紀二千六百年記念造林」の石碑を横目に、 |
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| 現在、明王峠に安置されている不動明王尊の石碑は底沢峠から移設されたものだといいます。 茶屋の建つ明王峠は、観光のためにと、富士山を眺められる高見に移動された峠なのです。 それが底沢峠のことを「旧明王峠」と呼ぶ所以でもあるのです。 観光のために明王峠は移動した・・・。 茶屋は閉じられ主人の姿は無く、富士の姿は霞んで、峠の桜はまだ固い蕾のまま。 |
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| 奈良子峠は奥高尾縦走路を奇麗に横断する十字路を呈しています。 栃谷側には、新しい道標も設置されていて、「陣馬の湯」へとハイカーを導こうとする宣伝が 少々やかましい嫌いもあります。 現行版地形図には案下側の峠道の記載がありませんが、 案下へと下る道の上部は、植林地内のジグザグの連続です。 |
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| 伐木が無造作に転がっていたり、沢筋が荒れていたり、 極めつけは「萩ノ丸」北方尾根の大規模伐採斜面を見せつけられたりして、 峠道の情趣を味わう配慮などは全くもってないのですから、 地形図から道が消えてしまったことは止むなしとも思われます。 『峠と路』には、明治、大正期にかけて栃谷集落の人が馬に木炭を三俵ずつ両背に負わせ、 |
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| 単なる林道と化した峠道を沢に沿って下ると、底沢峠道と奈良子峠道との分岐を迎えます。 両峠道を分かつ尾根の末端部には「不動明王」と書かれた木製の祠が祀られています。 山に登る手間を省くために明王峠に祀られた不動明王尊を分祀したものなのか、 それとも、こちらが本家で峰上の石碑が分祀されたものなのかはわかりませんが、 祠の前に供えられたワンカップの数を見ると、今でも土地の人々の厚い信仰を 受けていることがわかります。 それにしても不動明王は酒豪なのでしょうか?ワンカップの数があまりに多過ぎます。 峠の不動明王から分祀されたものだとすると、底沢峠から明王峠へ、明王峠の頂きから山麓へと、 オキナツルシ沢の流れは清く澄んでいて、泳ぐ魚の姿もチラホラと見かけます。 意志薄弱の軟弱者ですから、白沢峠と小下沢の間の道、西ツチラ沢源頭から関場峠の道が、 現行版地形図から抹消されてしまった峠道を、昔の地形図に記されている道筋を頼りに、 |
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| 【参考文献】 『峠と路』 馬場善信著 かたくら書店 1987年 『山と高原地図・高尾陣馬』 昭文社 |
| リンクしています良太郎さんのHP『自転車で街道をゆく』の中でも関場峠探索行があります。 「峠路を越えて」の中の「関場峠パートT」、「関場峠パートU」レポートと、 「一里塚2001.09.29」の「関場峠の考察」レポート。 |