石仏と語る![]()
石仏が本当に言葉を発して語ってくれるわけではないが、
峠道を旅している時に、石仏の微笑みに安らぎを覚えたり、
背後から、鎮座する石仏の熱い視線を感ずることなどはよくあることだ。
この石仏は〇〇観音で、これは〇〇地蔵だなどと
講釈をたれるつもりは無いし、その知識も無い。
ただ一人で歩くことが多い峠行に際して、石仏の存在は、
待ってくれていた友人に会うかのごとき思いにさせてくれるものだ。
人によっては、別れた恋人に・亡き友に感じることもあるだろう。
そっと、供えられた野の草花に心温まる瞬間もあるのだ。
石仏と語ることは、自分の内面と喋ることだったり、
表面化しない意識の底と会話することなのかもしれない。
時に憤怒・穏和・微笑、あるいは無表情だったり、
長い歳月の風雨に削られたりしたその顔から
何を感じ得ることが出来るだろうか。
そして、その時の自分の顔は いかがなものか。
峠道に佇む石仏の中には、随分とお金持ちの方もいらっしゃる。
ミカンやダンゴのお供え物は、カラスが回収するとしても、
浄財は誰が回収して、何に使っているのだろうか。
お地蔵さんが税務署に申告している姿は見たことが無いので、
誰かしらが、回収していることは確かだろう。
あるいは、賽銭を供える人がいれば、盗る人もいるということで、
自然に増減しているのだろうか。
新妻喜永さんの著『峠の四季』の中の「十文字峠」の紀行文で
里程観音のお賽銭白書なるおもしろい文章がある。
里程観音とは、一里毎に置かれた観音様で、その賽銭の収入の増減
について洒落た分析をしている。
日本全国にいったい何体の石仏があるか知らないが、
すべての浄財を掻き集めたら、膨大な金額になりそうだ。
こんな欲の皮の突っぱった妄想ばかりしていたら罰が当たりそうだが。
ただ、山道を歩いていて、ちょっとこのお賽銭を拝借して、
帰りのバス代・電車代に、果ては下山後の一杯に充てたら、
経済状況厳しい折、助かるなぁーなどと邪な考えを
抱いてしまうことも、しばしばあるが・・・。
でもそれは、人の道を踏み外すことであり、
なにより、帰りの登山道を踏み外すことになりかねないので
いまだ失敬したことはない。
どこか人通りの多い山道に、私も勝手に石仏など安置して、
ひと稼ぎをたくらむなんていう悪事も思いついてしまった。
いけない、いけない、これでは石仏と語るではなく、
石仏で騙るになってしまう。
相当心の闇に、穢れたものを持っているようだ。
合掌。