神奈川の「峠」という名の集落

渋沢の「峠」集落・渋沢峠?・篠窪峠・山北町の字「峠」・鎌倉の「峠村」

 峠を愛する者にとって、峠そのものが興味の対象になるのは当り前のことですが、
「峠」と名のつく集落・地名に興味惹かれるのも自然なことでしょう。

『山村滞在』の著者、岩科小一郎氏はその著書の中で「峠」と名のつく人名を電話帳で調べています。
峠に関係する人名としては「峠さん」の他に、越山さん、山越さん、越路さん、坂さん、
田尾さん、田和さんなどが散見されるとしています。
これらの名前の人たちはその先祖が峠の近くに住んでいたのでしょうか?
それとも峠を切り開いた御本人様なのでしょうか?
この方面の研究も面白そうですが、今回は人名ではなく地名・集落名の「峠」です。

地名・集落名としての「峠」は日本各地にありますが、
とりあえず地元神奈川県は秦野市渋沢の峠集落を訪れてみることにしました。
あわせてその西にある篠窪峠、山北町の字「峠」を訪れてみました。

鎌倉の「峠村」というのは朝比奈切通しの上り口の十二所あたりを
かつて「峠村」と呼んでいたらしいです。
古い地図を見ると「峠村」との表記が見られます。

渋沢の峠集落は峠ファンには有名であり、
みんな気になる所なのでしょうか本で紹介されることも多いです。

◆渋沢の峠集落に関する参考文献
   『峠と人生』 直良信夫 NHKブックス
   『かながわ坂のある風景』 小松茂弘 かもめ文庫
   『碓氷峠・足柄峠への道』・『峠路を行く』 蜂谷敬啓 高文堂書店
   『武蔵野歴史散歩関東山ノ辺の道』 蜂谷敬啓 有峰書店新書
   『ビズターリ1995冬』 山と渓谷社
   『秦野市ハイキングマップ』 秦野市商工観光課

 


1/25000地形図 峠集落

 小田急線渋沢駅の南方に渋沢丘陵を貫く「峠隧道」があります。
そのトンネルを抜けると「峠」という名の集落です。
なぜこのような集落名がついたのか、この村の歴史はいかなるものなのか興味湧くところです。
集落は峠地形というよりは、丘陵を下った窪地の中にあり、すり鉢の底といった感じがします。


ここが渋沢峠だろうか?


「峠」というバス停

秦野市発行のハイキングマップを見ると、
峠隧道の上あたりに、「渋沢峠」の名を見ることができますが、
いまひとつどこのことを指しているのか判然としません。
「渋沢の峠」という意味なのか、それとも「渋沢峠」という峠が実在するのかハッキリしません。
栃窪から峠隧道の上を通り、頭高山方面に歩いてみましたが、
「渋沢峠」の名をしるした道標はありませんでした。

峠ファンしか興味を示さないだろう「峠」バス停の近くに真静寺があります。
ここには六地蔵が訪れる旅人を待っています。
その一体は南北朝(文安元年)、あとの五体は室町時代の作であり、
江戸時代以前のお地蔵様として珍しいものだといいます。
これらのうち扇子や太鼓などを持つ地蔵は他に例のない特異な姿で貴重だということです。
盗難防止のためなのでしょうか、お地蔵様たちは窮屈な小屋に納められています。

峠集落から大井町篠窪に通じる道は、この地域の幹線道であり、
江戸時代には矢倉沢往還の脇道として利用されていました。

『相模国風土記稿』の足柄上郡の項に
「四十八瀬水溢の時は、大住郡渋沢村より本郡篠窪村に入り神山にて本道(矢倉沢往還)に合す」とあり、
四十八瀬川の増水で屈掛坂が通行不能の時には峠越えの間道として利用されていたといいます。
その当時より六地蔵は旅人の道中安全を見守っていたことでしょう。

峠集落では地元主婦の手によって「峠漬け」なるものが名産品として売り出されています。
以前はタバコの栽培が盛んであったという村の活気はいまひとつ感じられませんでした。


峠から丘の上の畑を通り篠窪の集落へ
中央の鞍部が篠窪トンネル、上が篠窪峠


篠窪峠横の富士見塚

古くは「窪の庭」と呼ばれた峠集落は、
峠の上から峠下の盆地に水を求めて人々が移動して集落を形成していったのかもしれません。

はるか昔には集落が実際には峠の上にあって、「峠」との集落名が冠されたのかもしれません。
あるいは、どの村からも峠を越えなければ辿り着くことができない村、「峠の向うの村」だったから、
ただしぜんと「峠」と呼ばれ続けて、その名が定着していったものなのかもしれません。
『風土記稿』渋沢村の項には、
「小名(小字名)、峠、土人は峠村と唱えて枝郷の如くせり」とあります。

いろんな思いを巡らしつつ、丘の中腹を縫って篠窪峠に向かいました。
高台の畑からは寄り添うような篠窪の集落と、その背後に大きな富士が姿を見せていました。


篠窪峠

 二階堂政貞の開基という地福寺、樹齢1000年の椎の木が空を隠す三島神社の前を過ぎ、
左手に真新しい篠窪トンネルの道を見送って、細い坂をのぼりつめると篠窪峠に達します。
矢倉沢往還であった峠道は小田原や足柄峠へ、あるいは江戸や大山参詣に向かう人々の往来が
盛んであったといいますが、今は静かな農道となっています。

『風土記稿』篠窪村の項に
「北方より南方に亘りて、小田原道係れり。(幅ニ間、大住郡渋沢村より入り)
村南榎本にて、西方に岐路を分つ、矢倉沢道なり(幅九尺)」 とあります。

この矢倉沢道と小田原道が分岐していた榎本が篠窪峠の頂きになっています。
この付近はかつて榎が多く地名も榎ノ本といいます。

峠からは雄大な富士が望まれ、富士浅間神社の分神として「富士山之神」の碑が祀られています。
往還の一里塚だともいわれている富士見塚は、祟りを恐れてか、崩されずに残っています。
源頼朝がこの地で巻狩りをし、榎の大木に馬を繋ぎ、峠から富士を眺めたと
土地では言い伝えられています。

篠窪は小田原北条氏の時代、篠窪民部丞が支配。
民部丞は北条役帳に記されていて、西郡篠窪などを所領としていました。
祖先は鎌倉の二階堂出羽守政貞。
鎌倉幕府の政所の執事になった家柄で大井庄を中心に支配していました。
『風土記稿』には、「明徳・応永の頃は二階堂出羽守政貞が所領たり、政貞は村内地福寺を開基せり、
鎌倉二階堂村に住す。政貞当所に住しかば、子孫篠窪を持って号とす。
政貞墓、村の東南字前林の山上にあり」 と書かれています。


山北町の字名「峠」

 渋沢の「峠」という名の集落の他に、神奈川県内の地形図を見ていると、
もう一つ気になる「峠」という名を目にします。
1/25000地形図「山北」図幅の谷峨地区の南方、畑沢沿いに「峠」という字(あざ)名があります。
昭文社の『山と高原地図・丹沢』にも印字されているので気にしている人もいると思われます。

旧246号線の大型トラックが駐車しているドライブイン横から沢沿いの道を奥に進みます。
この奥に集落があるのかと疑いたくなりますが、
わずか数軒ですがこの谷筋を生活の場にしている人々がいるのです。
付近に峠を連想させるものは何もありません。
住居表示もなければ、住所すらもはっきりしません。今後、もう少し調査してみようと思います。

ゴルフ場を行き来する車と、道路の突き当たりにある採石場を往復するダンプが
通行するための専用の道といった感じです。
南方の山上には足柄峠があるので、
なんらかの理由で大っぴらに関所を通行することができなかった旅人が
抜け道として利用した土地であったと想像することも出来ます。
「峠」の一文字で想像は尽きません。

【参考文献】

◆『かながわ坂のある風景』小松茂弘著・かもめ文庫
◆『峠と人生』直良信夫・NHKブックス
◆『かながわの峠』植木知司・かもめ文庫

【補足】

◆ 篠窪周辺には、栃窪・獅子窪・稲久保・中ノ窪といった「クボ」地名が多い。
  「クボ(窪・久保)」は字義通りに、土地のくぼんだ所である。
  窪地というと何かジンメリして暗い感じもするが、明るい雰囲気の集落だった。
  ローム層の厚い洪積台地では、飲料水や灌漑水に不便であり、
  そのような地では窪地の存在が重要な意義を持つことになったとみられる。
  地下水が浅く、崖下には諸所に湧き水がある。
  窪地はオアシス的な楽園だったのかもしれない。 (『地名の研究』松尾俊郎著 を参考に)

◆ 「篠窪から二宮へ出るには東南方の海抜308mの山を越えて高尾へ出たという。その山が七国峠と呼ばれていた。」
                                         (『武蔵野歴史散歩関東山ノ辺の道』蜂谷敬啓著)

  という記述を見て、後日その山に行こうとしましたが、辿り着くことができなかった。
  「峠」と呼ばれていたなら是非尋ねてみたいと思っている。

◆ 山北町谷峨の字「峠」の集落は昭和32年と昭和41年の二度にわたる大火で転出したそうです。
  峠の道祖神があるというが確認はしていない。 (『足柄の文化』山北町地方史研究会 より)

◆谷峨の字「峠」は5戸の集落だったが昭和31年に3戸が火災にあって2戸が谷峨に移り、
 36年にも1戸が火災で谷峨に移転した。
 これで「峠」は2戸になったが、この2戸もゴルフ場建設にともなって移転し峠集落は消滅した。 (『山北町史』 より)