続・ちょっと昔の峠を探して

田中峠(七曲)・突坂峠(御観音)・鈴ヶ音峠(小沢峠・鈴懸峠)・馬場峠?


『日本山岳案内1丹沢山塊・道志山塊』 挿入図より
(鉄道省山岳部編・博文館・昭和15年)
猿橋と田中とを結ぶ峠として「七曲峠」の名がある


『アルパインガイド37丹沢・道志山塊・三ッ峠』
(羽賀正太郎・山と渓谷社・昭和55年)
「田中峠」と「菖蒲神社」の名がある

以前探索して、大規模な宅地造成により消滅したのではと絶望視した田中峠でしたが、
最新の地図情報を閲覧できる国土地理院の「ウオッ地図」を見たところ、
ニュータウンの外縁に沿って峠道の破線が残されていることが判り、探索熱が再燃しました。
山を切り崩す大規模宅地造成の餌食となり、
新造ニュータウン「ビュウ桂台」の下に、てっきり埋没したと思っていましたが、
もしかしたら峠は消滅を免れているかもとの淡い期待を抱いて、三回目の探索です。

JR猿橋駅から田中峠の峠道を拾って田中集落に至るのが今回訪問の第一の課題。
田中峠の存在の有無と、峠道の現状を確認します。

第二の課題は幡野から突坂峠ヘの峠道を探ること。
突坂峠に至る峠道は現行版の地形図には破線道が描かれていませんし、
近時、ここを辿ったという記録も見たことはありませんから大変気になるところです。


『武相国境と道志の山に』(小野幸・山と渓谷社・昭和27年) 挿入図より
他の文献では見られない「
馬場峠」の名がある。△鈴ヶ尾とはどこのことだろう?

第三の課題は古いガイド本に名のある「馬場峠」の存在有無を確認すること。
九鬼山東尾根を越えて朝日小沢と馬場集落を結ぶ峠道が本当にあるのか?
果たしてそれが「馬場峠」と呼ばれているのか?

以上、三つの極めて個人的な、一般にはどうでもよい課題を抱いて、
新緑一歩手前の中央沿線の山へ赴きました。


『秘められたる山旅』 挿入図より
(エーデルワイスクラブ編・スキージャーナル刊・昭和46年)

猿橋と田中をつなぐ峠として「七曲峠」の名が見られます。
峠には松の大木と菖蒲天神社があったといいます。
峠附近にある大松山、神楽山、御前山の位置関係が文献によって異なることがあり、
多少の混乱が見られます。


『武相国境と道志の山に』 挿入図より
(小野幸・山と渓谷社・昭和27年)

猿橋と田中をつなぐ峠として「七曲り」の名が見られます。
昭文社の『山と高原地図』では「田中峠」とされていましたが、
猿橋側の坂道が屈曲していたのか「七曲り」とも呼ばれていたようです。
古い文献資料では「七曲峠」の方が一般的です。

現在は大規模な宅地造成によって削られ消滅したと思われる「大栗山」は、
『日本山岳案内』でいうところの「金比羅山」と同一でしょうか?判然としません。

「馬場峠」の東の「△鈴ヶ尾」とはどこのことでしょう?「高指」のことでしょうか。
また、西の「△880皆山」とはどこのことでしょう?
これは「ミカゲ山」のことでしょうか、それとも「突畝」のことでしょうか。
九鬼山東尾根の小さな起伏の連なりは、
それぞれの峰の呼称が文献によって異なり戸惑うことが多いのです。


『山と渓谷』 挿入図より
(「晩秋の峠歩き-突坂峠と大秋日-」田中新平)

猿橋と田中をつなぐ峠として「七曲り」の名が見られます。
幡野から突坂峠への道もしっかりと描かれています。
幡野から峠への道は、手持ちの昭和7年発行の陸測図には
破線道の記載が見られますが、現行版の地形図からは消されています。

上図中、「小沢峠(鈴ヶ音峠・鈴懸峠)」に「オカンノ」を付しているのは誤りでしょう。
「オカンノ」は「トツサカ峠(突坂峠)」の別称のようです。
△860の西に、アゼバタケ沢と馬場とをつなぐかのように鞍部マークが表記されている
のが気になります。やはり「馬場峠」なる峠は存在していたのでしょうか?

【第一課題】 田中峠の存在確認と峠道の現状を探る


猿橋駅南口と山上ニュータウンをつなぐモノレール
残念ながら運休中でした


現在の一般的な九鬼山登山口
ビュウ桂台アクセス道路の途中にある

加藤泰三著『霧の山稜』の「かかる登山もありけり」という紀行文にも見られるように
どうも昔から猿橋から九鬼山に至る山道は迷い易かったようで、
以前に田中峠を探し歩いた時も現在地を見失うなど戸惑うことがありました。
結局は確定的な田中峠の位置は判らず終いで、山を切り崩すニュータウンの造成工事により
峠はすでに抹殺されたかと半ばあきらめもしました。
今回は峠の位置はたとえ判らなくとも、田中集落までの破線道を拾ってみようとの心積もりです。

なぜこんな一地方の小さな峠に、二度も三度も足を運ぶのか自分でも理解に苦しみますが、
気がつけば中央線に乗り、猿橋駅で降車し、改札口を通過しているのです。
さて、ラクして山上のニュータウンへ行こうと、専用モノレール乗場に行きますが運休の張り紙です。
臨時の乗合自動車便はあるものの部外者が乗車するには気が引けて、
仕方なくトボトボと固いアスファルトのニュータウンへのアクセス道路を歩きます。

途中に大月市設置の九鬼山登山口の標識がありますが今回はここを登りません。
地形図の破線道が通る谷筋の様子を窺がうためです。
「リスの空中歩道」(宅地造成会社が設置した環境への配慮をアピールする代物?)を過ぎ、
「ニチガス」というガス会社の施設がある辺りが、地形図の破線道が通る谷筋と思われます。
その施設背後の斜面をジグザグを切って峠道が登っていたと推定され、
その屈曲の様子から「七曲り」との地名もあったと想像するのですが、
地形が変ってしまった今となっては確かなことは判りません。

兎にも角にも猿橋側の峠道下部は、
ニュータウンのアクセス道路によって完全に分断されているのです。


ビュウ桂台南端の見晴台
松の木と東屋があり扇山・百蔵山の展望良好


見晴台にある石祠
菖蒲神社と関係あるのだろうか?

ニュータウン「ビュウ桂台」の南端(ちょうどニチガスの背後の斜面を登った場所)の高みに、
松の生えた見晴台があります。
扇山、百蔵山の眺望に優れる見晴台には東屋も設置されていますが
訪れる人はいないようで草か蔓延っています。

この現在、見晴台の場所が田中峠ではなかろうかと初回に訪れたときに推定しましたが、
今回もやはりここが峠ではないかと思えてなりません。(?)

田中峠(七曲り)に関する文献資料は乏しく(ネット検索ではニ、三件、宅地造成工事前に訪れた方の
レポートがありますが峠の写真が掲載されていないので正確な峠位置が断定できません)
峠の位置を同定する手掛かりは少ないのですが、古い紀行文等には以下の記述が見られます。

「猿橋駅から甲州街道に出ると三嶋明神が在り、左折して殿上橋を渡り、南へ七曲りと云う
坂路を登り菖蒲神社の在る峠を越して直接田中の部落にも出られる・・・・」
(『山と渓谷』 「晩秋の峠歩き-突坂峠と大秋日-」 田中新平)

「猿橋駅前に出たら、甲州街道を西に大月方面に向かうと、道は線路にかかる橋を渡り、
線路を右下にして進んでいく。間もなく左に入る細道があり、ここに神楽山への指導標が建てられている。
これは厄王山(御前岩)へのコースであるが、ここでは鉄路にかかる橋を渡ったら、
すぐ左に入っていく道をとろう。この道はすぐ右上に畑地のきわを登り、左下には小沢が現われる。
少し進むと左下の小沢を渡り、小沢の左側(右岸)について登りはじめる。
やがて雑木林の中を登るようになり、左から田中方面から登ってくる道を小さな尾根上で合し、
右へ登っていく。この尾根上に出るところを七曲りといい、出たところは峠になって、
木の根もとに菖蒲神社が祀られている
かつてはこのあたりから栗林があったが、戦争中に伐られてしまい、開墾地になったので、
いまでは栗拾いをかねてのハイキングが楽しめなくなってしまった。
道はやがて山肌を横切っていくようになる。左に分岐する道を見送って、ほとんど平らに行くと、
やがて山肌を登るようになり、左に尾根を登りつめると、神楽山より西によった鞍部に出る。」
(『中央沿線の山旅』アルパインガイド18 羽賀正太郎著 山と渓谷社 昭和36年 )

「殿上橋バス停のところで国道から左に折れ広い道が殿上の部落へ伸びているが、
七曲峠(道を尋ねる時は田中へ越す道という方が解りやすい)へはすぐ右手の小道を登る。
山腹をまくようにつけられた道は、しばらくして左手の沢に向かって下ってゆく道を分けたが、
あるいはこれが峠道だったのかも知れない。
私たちはこの道には入らず、墓地の裏側を抜けたが山腹がガレているあたりから怪しくなってしまった。
この日は積雪が足首位まであったがハンターのらしい踏跡を辿りU字形にまわり込んで枝尾根に出た。
ところが沢を隔てた向かい側に、七曲峠へのジグザグ道と、峠の松と祠が見える。
完全に道を間違えてしまったのだ。
仕方がないのでこの尾根を藪漕ぎして、三角点のある峰と、次のピークとの鞍部へ出た。」
(『秘められたる山旅』 エーデルワイスクラブ編 スキージャーナル刊 昭和46年)

「線路を跨ぐ殿上橋を渡り、街道と分かれて左に入る。すぐ右に畠の中へ細い道がある。
これが地図に点線で記入されている七曲峠への道である。
少し登ると左の沢へ下る道を見る。この踏跡を拾って沢沿いに進むと、左側の木に赤いビニールが
巻かれ、その下にはっきりとした峠への道が落葉に埋まっている。
沢から離れヤブを分け、ジグザグに登り詰めると七曲峠である。
大きい檜の根元に菖蒲神社の祠がある。峠から雑木林と赤松やカラマツの間をゆく。
なお登ってゆけば稜線に出る。右へわずかで標高673メートルの三角点標のある神楽山である。」
(『関東ぶらり山歩き』 岳人編集部編 東京新聞出版局 昭和58年)

「殿上橋と名付けられた跨線橋で鉄路を渡った先の二股に、「九鬼山・神楽山」の道標があり、
ここから山道に入る。かつては、二股から左へ数10メートルの地点に、
沢沿い・尾根通しニ様のルートが設けられていたのだが、
上部で進行中の林道工事を避けるため、急遽、つけかえられたらしい。
工事の成り行き次第でどうなるかわからないので、旧道についてもひととおり触れておきたい。
小沢の左岸にはじまる旧道は、尾根コースを右に分かち、荒れた沢辺におり立つ。
遡行数分にして右岸へ移ると、みちはまもなく山の腹に取りついて高度をかせぐ。
多少のやぶ漕ぎは避けがたい。沢のツメを脚下に引き離し、なお蛇行を重ねて稜上の田中峠に出る。
老杉の根方に祭られている菖蒲神社のほこらは、朽ち果てて原形をとどめない。
(『中央線の山を歩く』 藤井寿夫 新ハイキング社 平成10年)

「猿橋駅西側の跨線橋を渡り、左に折れると神楽山への道標がある。この道に入る。
畑の縁を歩く道は4分で神楽山分岐、左へ沢を渡る。
すぐ左から小沢がそそぎ、ここに向きが変りやすい道標が立っている。
左の小沢沿いの方が目立つが、これに入ると途中で不明になり、
強引に尾根にはい上がるか、引き返すかになってしまう。
小沢を渡り、木につかまって間の尾根に取りつく。すぐ上の小平地に、カタクリ自生地の標示板がある。
やがて、沢の縁を高巻く道となる。冬凍っている時には嫌な道だ。
電光形に道が変わると、田中峠の鞍部に登りつく。西側の高みに、道標が2本打ちつけてある。
北側の枝を分ける道に入る。7分ぐらいで林道に出てしまうが、この間、冬枯れの時以外は
道がわかりにくい。地図には田中集落への峠道が記入されているが、
3回歩いて探したが見つからなかった。

(『新ハイキング470号』 「大秋田山-大桑山」 山口ゆき子 1994年12月号)

どうやら、「峠には菖蒲神社がある(あった)」、これだけが手掛かりといえるようです。
ニュータウン南端の見晴台には、新しい小さな石祠が祀られていますが、
「菖蒲神社」との関係は不明です。
石祠の背には「平成10年東大月ニュータウン造成工事完成記念」と書かれたプレートがあるので
全く関係ないものかもしれませんし、朽ち果てた祠を新調したものなのかもしれません。(?)


見晴台脇の貯水槽裏手の階段を上ると凹とした道跡がある


市の設置したらしき「御前山〜九鬼山→」の標識がある

見晴台の横には大きな貯水槽があり、その脇の階段を登ると凹とした明瞭な道跡が
山中に続いているのが確認できます。
これが田中峠の峠道の痕跡だと思うのですが、これもまた確証はありません。
「御前山〜九鬼山→」と書かれた標識もあり、かつては登山道として歩かれていたことが窺がえます。
この標識の裏面には「大月市」の文字が見られるので、市が設置した代物でしょうか?
造成工事中の迂回路として利用されていたことも考えられます。

この標識に従いやや荒れた凹状の道を進むと、植林台地の中で潰れた小屋跡らしき
赤いトタン屋根の残骸を目にします。これがあるいは朽ちた菖蒲神社なのでしょうか?
次に標識とは反対方向、田中集落へ向けて、のっぺりした植林台地をトラバース気味に進むと、
道跡らしきものと出合います。
これを拾いながら進むと、しぜんと地形図にある破線道に乗ることができます。
次第に道跡は明瞭になり、踏み固めもしっかりとしてきます。


田中に向かう破線道はヤブとの格闘


ヤブ道から宅地造成地の円形公園を見下ろす

しかし、道はすぐに歩行困難なヤブ道へと変化します。
道形はよくわかるのですが、倒木とヤブによる妨害が尋常ではありません。
ケモノの通った跡を頼りにして、倒木を乗り越え、時には潜り抜け、
つる植物に手足を取られ、トゲトゲ植物に肌を傷付けられる。そんな苦行が始まります。
埃まみれになり、落ち葉に足をすくわれ、ヤブと格闘しながら峠道を拾いますが突破は困難を極めます。
休日を楽しむ優雅な趣味は他にも数多くあろうに、何故こんなことに没頭してしまうのか
自分でも理解に苦しみます。

ヤブの合間からは、まだ販売されていないニュータウンの区画が見下ろせ、
円形状の公園などが望まれます。
谷筋を巻き込むところでいよいよ前進不可能となり、その先には道の痕跡も見出せなくなります。
止むを得ず枯れた沢筋を下降して、一旦、ニュータウンの外周道路に降り立ちます。
どこから山へ戻ろうかと、しばし外周道路を進むと、ガードレールの切れ間があり、
そこから植林地斜面の中へと踏み跡があったのでそれを辿って峠道への復帰を目指します。


破線道が神楽山の西方尾根を越える所
「特定猟具使用禁止区域」と「狩猟禁止区域」の看板あり


道は明瞭となるが倒木が多い
地図の桑畑はなく、植林地を抜ける

峠道の痕跡は植林地斜面の中には見出せず、それよりさらに上部の自然林帯の中にありました。
神楽山の西方尾根を越える場所には「特定猟具使用禁止区域」と「狩猟禁止区域」の赤い看板があり、
その辺りからまた峠道が明瞭になってきます。

マツクイムシにやられ倒れたらしい松の枯木数本を乗り越えて、一応、峠道は地形図の通り
田中集落へと向けて直線的な下降を始めます。
地形図と異なる点といえば、桑畑はなく、植林地の中を進むという点でしょうか。


この無線機械(?)を見れば峠道に乗っている


植林地を抜けゲートを通過するとコンクリ舗装農道となる

踏み跡を隠すほどではありませんが、スズタケがうるさいのが難点で、
雑草の勢いが増す夏場は歩きたいとは思いません。

猿橋と田中を結ぶという峠道本来の役割は終えていることは確かで、地元の方が植林の手入れに
たまに山に入るために使用する程度の道に過ぎないのでしょう。
暗い植林地を抜け前方が明るくなるとケモノ除け柵のゲートがあり、鍵を開閉して通過すれば
コンクリ舗装された農道に導かれ田中バス停の脇へと放り出されます。


残存する田中峠道

田中峠を一目見るために二度も三度も足を運びましたが、結局、峠位置の確定はなりませんでした。
時すでに遅しなのか、やはり宅地造成工事の着手前に訪れる必要があったようです。
いたく執着した割には峠道はヤブが繁茂し、通行はとうの昔に途絶えた状態だと知り落胆は隠せません。
ちょっと前まで登山地図に名前のあった田中峠ですが、地図から峠名を消すことなど
人間の破壊欲にかかればなんともたやすいことなのでしょう。

もはや峠道は廃道であり、峠も消滅したと捉えるのが適当なのかもしれません。
人間の求めによりつくり出された峠道は、役割を終え、放棄されればたやすく廃れてゆきます。
そればかりか人間は自然がつくり出した山をも簡単に削り去るという暴挙まで行い、
自らがつくり出した道を葬りもするのです。

【第二課題】 幡野から突坂峠道を辿る


田中集落の背後に幡野山、大秋日山を望む


幡野集落の奥からこのゲートを通過するが・・・(失敗)

田中峠道の探索を終え、突坂峠道の始点である幡野集落へと向かいます。
田中集落と幡野集落を結ぶ田幡橋で小沢川を渡り、道は平和な山村の佇まいの中を進みます。
奇麗な水の流れる用水路には水神が祀られ、民家の庭先には春の花々が咲き乱れています。
火の見櫓を過ぎ、鶯の鳴き声に足取りも軽く歩み続けると、前方には水車小屋が見えてきます。
水車小屋の中を覗いてみると、大きな歯車と臼が放置されていました。
小屋の入口には木材の搬出に使用される木橇も立てかけられています。
水車や馬橇は今も生活の中で活かされているのでしょうか。

最終民家と思しき建物の脇から、沢に沿った小道が山中にのびています。
ここが峠道の入口かと、地形図をろくに確認もせずにゲートを通過したのが失敗で、
突坂峠道があるはずの谷筋とは違う、一本手前の谷筋へと進入していってしまうのです。

少し進んだ所で、道が細いじゃないか、堰堤が無いじゃないか、谷筋が狭過ぎやしないか、等々
おかしな点に次々と気付き始めるのですが、
いつものことで退却は億劫と感じて前進を続けてしまうのです。
間違いと判っても引き返さないこの習性は、
いつか取り返しのつかない大きな過ちを招くことは確実です。
それは山歩きに関したことばかりではなく、日々の暮らしでも同じことでしょう。


ミスコースの割には沢沿いに明瞭な道が続く


沢の源流部には「湧泉の林」の石碑がある

ミスコースにしては明瞭な道が沢沿いに植林地の奥へ奥へと続きます。
沢の流れが枯れ、傾斜が急になる辺りで、
「水源林をつくる公団造林」の黄色の看板が転がっているのを目にします。
その看板には「後屋」との現地名らしき名称も書かれていますが、
この辿ってきた沢が何という名前の沢なのか今も知り得ません。

そして黄色の看板の横には、
「昭和58年植樹記念 湧泉の林 猿橋財産区 森林開発公団」と刻まれた石碑が建てられています。
誰も訪れないこんな山奥に立派な石碑を建てる必要があるのか、甚だ疑問ではありますが、
人の臭いにホッとしたのも事実です。
「湧泉の林」の石碑背後から、植林急斜面に付けられたジグザグが始まります。
頼りない踏み跡の仕事道ではありますが、確実に尾根上部へと導く底力を感じるので
このジグザグ道に前途を託します。

ひとしきりジグザグを登ると、次第に踏み跡は薄れ、
左手(東側)の雑木斜面に救いを求めなければならなくなります。
植林帯と雑木林との境目辺りを根気よく登りつめれば、大秋日山北西の小ピークへと向かう
支尾根に無事乗ることとなるのです。
支尾根からは本来歩くべきはずだった峠道の眠るであろう谷筋と突坂峠の凹みが望まれ、
コースミスという失態に肩を落とすのです。
まあ、ここはひとつ、大秋日山へのバリエーションルートを開拓したと楽観的に捉え、
突坂峠道の探索は次の機会に持ち越しだと前向きに考えるほかありません。
結局、本日の第二課題は未履修ということになってしまいました。


「鈴ヶ尾山」=「大秋日山」=「御観音山」=「麦的山」

公的機関の発行物等には
「鈴懸尾山」、「大秋田山」ともあるが・・・
これはどうなの!

「鈴ヶ尾山」、「大秋日山」、「御観音山」、「麦的山」などと、呼び名の複数ある三角点p833は、
のっぺりした山頂で、落ち葉を褥に昼寝をするのに適したピークです。
公的機関の発行した資料等には「大秋田山」、「鈴懸尾山」の名前も見られますが、
そんな呼び名もあるのでしょうか?
いくつもの名を持つピークから尾根を辿って突坂峠へと向かいます。

今回、幡野から突坂峠への峠道を拾うことはできませんでしたが、
古い時代の文献資料に峠道の様子を記したものがあるので以下に紹介します。

「田幡橋を渡って南東へ15分程も登ると幡野部落である。
右手に幡野沢を見ながらその沢から引き込んだ水路に沿って部落の軒並みを縫って行くと、
やがて最後の人家に着き、此処で沢を右へ渡る。
傍らに「右山道、左突坂峠ヲ経テ大平ニ至ル」と書いた道標を見る。
此処から道は俄かに細くなり、四辺はようやく山らしくなってくる。
径は稍々急になって幡野沢の流れは次第にその水量を弱めてゆく。
暫くして沢を右岸(左)へ渡る頃は幡野部落から絶えず続いていた左手の木橇道も何時しか見えなくなる。
間もなく峠と大桑山の分岐点に着く。
此処で再び沢を右(左岸)へ渡る。この所一寸杉の植林が続く。
ジグザグの登りをひとしきりすると、やがて突坂峠(740米)の頂である。
この峠は突坂峠と云うよりも御観音峠と云った方が通りがよい。
発音は「オカンノ」と云い、この下に殊更に「トーゲ」と付けると却って通りが悪くなる。
峠上は狭く、展望は北側は雑木のために殆んどゼロ。
そのかわり南側の眺めは素晴らしく、眼下には大平部落が望まれ、
そのわきに山沢峠の曲がりくねった径が見える。」
(『山と高原55号』 「突坂峠より雛鶴峠へ」 田中新平 昭和18年)

「幡野部落の最奥にかかる霧窪橋を渡れば、すぐに人家は無くなって静かな山道となる。
以前この辺に「突坂峠を経て盛里村へ」と書いた古い道標は今は無い。
小さな幡野川の流れに沿って行くと、やがて峠も間近に迫ってくる。
この辺炭焼きが殆んど樹木を伐り払ってしまったので、山はすっかり坊主になり、
おまけにその伐った木を谷間にずり落すために道がすっかり荒らされている。
峠にあと15分位と云う地点で、炭焼用の道と分れて右手の小径を登る。(此処に炭焼小屋あり)
この径はかなり急峻で、おまけに峠間近に一寸した土崩れのため、
峠より少しく右手の尾根筋に出て、其処から改めて峠へ下り着く。
この峠は猿橋町から盛里村大平に抜ける小さな峠で、南側は草つきの明るい気持の良い所だ。
傍らに小さな石の観音像があり、以前は村人も相当往来したらしいが、
現在ではあまり利用されていないようである。
(『山と渓谷』 「晩秋の峠歩き-突坂峠と大秋日-」 田中新平)


突坂峠(御観音峠)

峠には松の大木と享保年間と読める馬頭観音が祀られています。
北側は大規模にガレていて、あと数年もすれば石仏のある場所も崩落し、
ガレ場に吸い込まれてしまうのではと心配されます。
ガレ場を避けるようにして、峠より少し高い場所より幡野側へと下る道が確認できたので、
機会があれば歩いてみたいものです。

先述の文献資料には、「この峠は突坂峠と云うよりも御観音峠と云った方が通りがよい」とあり、
「発音はオカンノと云い、この下に殊更にトーゲと付けると却って通りが悪くなる」とあります。
地元の方やベテランハイカーは、この峠を「オカンノ」と呼んでいたようです。
ちなみに峠近くの「大桑山」は単に「オーガー」と云われ、
殊更に「オーガーヤマ」とは云わないとも同文献には書かれています。
登山者で賑わう休日の中央線の車内で、「今日はオカンノからオーガーを歩こうか」などと
会話していると、多少は玄人っぽく聞こえるかも知れません。
「それって、どこ?」ということもありえますが・・・。


峠の観音様 享保期のものか?


カマボコ板標識を取り付けてみた

「以前は村人も相当往来したらしいが、現在ではあまり利用されていないようである」と、
既に古い時代の文献にも見られるように、峠の交通は絶えて久しいようです。
西隣りの鈴ヶ音峠に立派な林道が貫通している現在、敢えて山道を越える苦労を
誰も選びはしないことでしょう。

観音様から南へ、自然薯掘りの穴が目立つ斜面をわずかに下れば、
大桑山の直下にある無線中継施設へと続く林道へと飛び出します。
この林道を歩いて鈴ヶ音峠を経て次なる目的地である「馬場峠」を目指します。

【第三課題】 馬場峠の確認へ向かう


カマボコ板標識を取り付けてみた


鈴ヶ音峠の明治期の馬頭観音の板碑

文化三年の村内絵図には「スズガオト」とある鈴ヶ音峠は、
完全舗装された林道鈴懸峠線が横断する切り通し状を呈しています。
地元では「スズガートーゲ」「ススガアートトウゲ」などと発音するようですが、
林道が開通してからはなぜか「鈴懸」の字が宛られ、一般には「鈴懸峠」と表示することが多いようです。
林道が横切る峠は情趣に欠け味気ないものですが、
土手を登ると明治期の馬頭観音の板碑がポツンと落ち葉に埋もれているのを見ることができます。
 

「朝日小沢の諏訪神社の脇を通って、小沢川の源流沿いに登れば何の苦もなく40分で峠上に達する。
その頂きは狭いながらも気持ちの良い草つきで、春秋のひと時寝そべるには格好の所である。
峠上に馬頭観音の石碑が唯一個淋しく立っている。
此処から南方奥道志の展望は素晴らしく良い。
北側は木立のためにあまり良い眺めとは云えない。
峠から東北秋日山(833.9m)の稜線へは判然とした径がついている。
一寸感じが突坂峠とよく似ている。大平部落へは長閑な下りである。」
(『山と高原56号』 昭和18年12月号 「道志の峠路を行く(ニ)隠れたる峠を尋ねて」 田中新平)

「人々にまったく忘れられた小さな峠であるが、
その昔、長さ三十三尋、七つの鈴と七つの鏡のついた大幡が飛びきてこの地へ落ちた・・・
という伝説をもつ、その名もゆかしい峠だ。
美しい草原をなす峠に寝ころんで秋の高い青い空に流れる一ひら二ひらの白い雲をながめると
山にあるよろこびがしみじみと身に迫るようである。
馬頭観音の碑が一つ淋しくおかれた峠に別れて
大平の部落を目指して十五分も一気に下ると大平の部落につく。」
(『山と高原』 昭和32年10月号 「秋の道志の旅」 甲斐路郎)

「朝日小沢の部落を過ぎれば、しだいに山肌はせまってきて、
社の先からゆるゆるとした登りの道が、そして急なジグザグを切るようになれば、
背後に滝子山や百蔵山・扇山などの山々がしだいに大きくなって、
ほどなく鈴ガ音峠の明るいカヤトの鞍部である。
鈴ガ音峠とは、朝日小沢と朝日川の大平を結ぶ720m圏の小さな峠で、
そのむかし長さ三十三尋、七つの鈴と七つの鏡のついた大幡が
飛んできてこの峠へ落下したという伝説が残されている。
馬頭観音が一基片隅におしやられていて、静寂さがひしひしと身にしみる峠である。
ここから左へ尾根を登ると三角点833.9mの大秋日山である。
ここからの展望はなかなかよく、甲武相国境や大菩薩・御坂などの山々が大きく望まれる。
三角点のあるところはやや左へ突き出した尾根上である。
尾根を東へひと下りすると突坂峠で、幡野と大平を結ぶこの峠は石地蔵が置かれていて、
一名を御観音峠ともいっている。」
(『峠をめぐる山旅』 田沢武夫編 朋文堂ケルン新書23 昭和39年)

上記の古い文献資料にある様に、以前の峠は明るいカヤトの原だったようです。
「長さ三十三尋、七つの鈴と七つの鏡のついた大幡が飛んできた」という伝説もあるようです。
「鈴ヶ音」という峠の名前から、何か素敵な物語でも生まれそうな感じがします。
昔はシャカシャカと鈴を付けた馬橇が峠を越えていたのかもしれませんし、
腰元にリンリンと鈴をぶら下げた富士講の巡礼者が峠を越えていたのかもしれません。
イメージの膨らむ峠名を大切にして欲しいものです。


「木」なのか「水」なのか地名混乱がある山頂


「馬場ボッチ」の名の標識を取り付けてみた

峠からは西方へ、一般には「九鬼山東尾根」と呼ばれる山稜に足を踏み入れます。
よく歩かれているようで道は明瞭に付けられていて、目立ったヤブなどもありません。
最初の顕著なピークが「桐木差山・クヌギザス山」で、大月市の設置した現地の登山標識も
「桐木差山」の名を採用しています。
『山と高原地図』や『中央線の山を歩く』では、「木」を「水」とする「桐水差山」は誤りだとしていますが、
公的機関発行のガイドマップ等では「桐水差山」の表記が多数見受けられます。
また現地にある某ハイキングクラブ設置の白杭標識も「桐水差山」を採用しています。

「桐木差山」に続く次のピークが「高指」のようで、
現地には大月市によって山頂標識が設置されています。
『日本山岳案内』には「馬場ボッチ」の名前も見られますので手製標識を取り付けてみましたが
果たしてどうなんでしょうか?
「差」にしても「指」にしても、「サス、ザス」は焼畑を表す地名だと記憶しています。
スギやヒノキが植栽される以前は、焼畑がこの辺で行われていたのでしょうか?


古いガイド本でいう「馬場峠」なのか?


p871北尾根の「五五八」境界見出標石

さて本日の第三の課題の「馬場峠」ですが、なんともハッキリしません。
「高指」を下った鞍部がそうだとすると左上写真の場所が馬場峠ということになりますが、
尾根を越えて馬場と朝日小沢を繋ぐ明確な道の痕跡などは見当たりません。
無論、「馬場峠」の名を記した標識などは無く、「休猟区」の看板があるだけです。

ここに道がないとすれば、次の鞍部がそうであろうかと、
ズンズンと「九鬼山東尾根」を辿る羽目になってしまうのです。
どこからか下山をしなければならないのですが、下山路として期待していた馬場峠は
いったいどこにあるやら皆目見当がつきません。

仕方なくp871(突畝?)から北側へ派生する尾根を脱出路として見出し、
地形図の朝日小沢から沢に沿ってのびる破線路へ向けて下降を開始します。
北尾根は伐採の手が入り、しばらくは明瞭なのですが、「五五八」境界見出標石のある場所で
左右どちらのヤブ尾根を下降するかの選択を強いられることになります。
右手に派出する尾根の方が緩やかにも思えましたが、左手尾根に標石が続くのを確認して
「下れ下れ大作戦」が開始されます。

しかし、傾斜角は突如急になり、先行きに不安を覚え、早くも左手沢筋の植林地帯へと
逃げ込まなければならない窮地に追い込まれるのです。
ケモノ道を頼りに下降を続けますが、滝が行く手を阻むので、
それを大回りに迂回して本流の沢底へと着地を試みます。


九鬼山東尾根のp871から北へ派生する尾根を下降する

こんな道無きグズグスの急斜面や人の入らぬヤブ尾根の中を這いずり回っていると、
自分の前世はイノシシやタヌキであったのではないかとさえ思えてきます。
せめて孤高のカモシカであって欲しいと思うのは、
どこかでケモノ達をランク付けしているからなのでしょうか。

降り立った本流の沢底は暗く、倒木やゴロ石によって埋め尽くされています。
ここはどこ?無事に下山できるの?と不安もよぎりますが、
斜面を登り返す気力はありませんから沢に沿って下流へと向かうしか手立てがありません。
しばらく行くと沢に流水が現れ、大きな木の根元に石碑が見られます。


「ヲソ沢恩賜林」の石碑


林道朝日小沢線からヲソ沢径路への登山口

石碑には「ヲソ沢恩賜林」と刻まれ、この沢が「ヲソ沢」という名であることを教えてくれます。
碑文には盛里村生まれの清水忠次郎翁なる人物を顕彰する内容が書かれています。
ここからは明瞭な仕事道が麓へと導いてくれます。
美しい流れのヲソ沢に沿った深閑とした道は、二、三の徒渉を繰り返し、
さきほどまで不安しきりだった土地に不慣れな旅人に安堵をもたらします。
九鬼山の東方から流下する深桂沢の流れを合わせ、
しばらく進むと林道朝日小沢線へと無事に飛び出すことができます。

入山口には「九鬼山→」の手製標識も設置され、
沢沿いに九鬼山へ登るコースもあるのかと少なからず興味も覚えます。
林道上の「深桂橋」を渡り、朝日小沢のバス停へ向けテクテクと歩きますが、
貧弱なバス路線ですから都合の良いバス便などはなく、結局は猿橋駅まで田舎道を歩かされるのです。

本日の第一の課題である田中峠は消化不良、
第二の課題である突坂峠はコースミスで次回持ち越し、
第三の課題である馬場峠は出題ミス、
一日を費やした峠行の成果たるや散々なものでした。

地名の混乱 ちらほらと


猿橋駅構内にある大月市設置の観光案内図

少し前の『山と高原地図』にも「桐水差」は誤りとあった。
『中央線の山を歩く』にも「桐水差」は誤りとある。

公的機関では「鈴ヶ音峠」ではなく、
「鈴懸峠」と呼ぶのが一般化しているようだ。
「鈴懸峠」の名は林道が開通してから定着した
新しい呼称だという。

「鈴懸尾山」というのはなんじゃ?
「鈴ヶ尾山」からの変化形なのか。


都留市観光協会発行の都留市トレッキングマップ(平成17)

「突板峠」とはなんじゃ?
「板」じゃなくて「坂」じゃないのかぁ〜

都留市では「桐木差」じゃなくて
「桐水指」を採用しているのかぁ〜


都留市観光協会発行の都留市観光ガイドマップ

「大秋日」じゃなくて「大秋田」とも言うのかい?
「大秋田」の表記は文献でもちょくちょく見ますが・・・
どうなんだろうか?
両方正解なのだろうか?

「木」がやっぱり「水」になっている。
現地大月市設置の山頂標識は「桐木差山」で、
某ハイキングクラブ設置の白杭標識は「桐水差山」に
なっている。


大月市商工観光課発行の大月観光ガイドマップ(2003年版)

これも「大秋田」になっているぞ。

ここでは「鈴ヶ音峠」となっているが
改訂版(下図)では「鈴懸峠」になっている。


大月市産業観光課発行の大月観光ガイドマップ(2007年版)

上図の「桐水指山」が「高指」に化けてしまったぞ!

『山と高原地図』では
・854を「桐木差山」、・860を「高指」としている。

「鈴ヶ音峠」が「鈴懸峠」に変り、
峠と朝日小沢との間のコースタイムが微妙に
変化しているぞ。

発行元が商工観光課から産業観光課に変ると、
地名も変るのかい?

九鬼山東尾根には、高指山、ミカゲ山、皆山、ススガイリ、オオビラ山、大平、突畝などの地名があるようですが・・・・、
どこがとこだかもうさっぱりわかりません。