★ 消えてしまったのか峠道は / 立野峠から無生野集落への道

 前回、立野峠を訪れた時から気になっている「立野峠から無生野集落へ下る道」を探ってみます。
国土地理院地形図では“見事に”破線で表記されている道ですが、いまや廃道になってしまったといいます。

立野峠に設置された登山標識でも南側に下る道は「無生野」ではなく「浜沢」を指し示しています。
昭文社『山と高原地図』でも、もはや無生野へ下る道は見捨てられ、
浜沢への道が本道として赤線で表記され、コースタイムも付記されています。

浜沢から立野峠へ登り、倉岳山を経て、穴路峠、高畑山、雛鶴峠とめぐる山道は
地元秋山村発行の「秋山王国大冒険ハイキングマップ」でも推奨コースとして紹介されています。
地元行政からも無生野から立野峠へ至る道は歩く価値無しとして見捨てられてしまったようです。

浜沢から立野峠への“浜沢道”(便宜上、浜沢と立野峠を結ぶ道をこう呼ぶことにする)は、
現行地形図にも、昭和初期の古い地形図にも記載がありません。
古くからあった仕事道をハイキングコースに昇格させたものなのでしょうか?
それとも“無生野道”(便宜上、無生野と立野峠を結ぶ道をこう呼ぶ)の荒廃後に新造されたものなのでしょうか?
その辺の事情、経緯は定かではありませんが、
地形図に記載のないところを見ると、“浜沢道”は、わりと新しい道なのかもしれません。

本道(?)の“無生野道”に一体、何があったのでしょうか?
地滑りや崖崩れなど自然災害による不具合が道に生じたのでしょうか?
あるいは何らかの理由で集落にとっては利用価値の無くなった道となってしまったのでしょうか?
山林地主さんと通行者との間でトラブルでもあったのでしょうか?

確かに地形図を見ると沢の源頭部をトラバースする道筋になっていますから、
台風や豪雨の被害を受けて古くからの峠道はすでに流出してしまっているのかもしれません。


昭和56年修正測量 国土地理院


昭和4年測図 地理調査所

 立野峠道の“無生野ルート”の現況に興味、関心を抱くようになったのは、
HP『良太郎の自転車で街道をゆく』さんを拝見してからです。

その中のレポート「穴路峠・立野峠・大地峠」では、地形図に残る破線道、無生野〜立野峠間を
藪を突きつつも強行に探索された際の記録が報告されています。(それも自転車を担いで・・・・)

レポートによると、地図に残る道を完全にはトレースすることはできなかったようですが、
山中で道普請をされていた地元のお爺さんとの思いがけない出会いがあり、
そのお爺さんからの聞き取りで、“無生野道”存在の確かな手応えを得たようであります。

かつて人に歩かれた道ならば道形なり、痕跡なりが残っているだろうし、お爺さんの証言も心強いものです。
先人の探索レポを参考にしつつ現地を探索してみることにしました。
このお爺さんによる道普請が現在どこまで進んでいるのかという点も大変興味がありましたし・・・。

さて、立野峠と無生野を結んでいた峠道、“無生野道”は現在どのような状況なのでしょうか。


浜沢バス停から立野峠へ


浜沢の大ケヤキ

浜沢のバス停脇の小広い空地に車を置いて、登りに“浜沢道”を使い、
下りに“無生野道”を探しながら辿ることにし、ぐるっと新旧の峠道を周ることにします。

秋山村の推奨ハイキングコースだけあって登山口には案内板、道々には標識が完備されています。
“浜沢道”に踏み出す前に、秋山村指定天然記念物の「浜沢の大ケヤキ」を見物です。
根回り9.5m、樹高19.5mと案内板にはあり、老大木には集落の鎮守様といった風格が漂っています。
この村を見守る長老に一礼し、山道の登り口に向かいます。

浜沢小学校の裏手から立野峠に向けて、しっかりと踏み固められた“浜沢道”がのびています。
沢に沿った歩きやすい道で、傍らには古い石積みなどもあり道普請が行き届いている感があります。
なぜこの道が地形図に記載されていないのかと国土地理院の調査能力に懐疑的になったりもしますが、
よくよく考えれば地形図に記載されていない山道の方がずっと多いのが地図の常識ではあります。


浜沢小学校の裏手から山道になる


小沢の清流に沿った道が続く

この歩くに優しい快適な“浜沢道”は、いつ頃から存在しているものなのでしょうか?
浜沢集落の裏山に続く道ですから、炭焼きや山菜採りの山仕事、あるいは狩猟のためにと
古くから集落で暮らす人々に使われてきた道であることには違いありません。
ここでいう存在とは、ハイキングコースとしていつ頃から認知されたかということです。

かつては浜沢に暮らす人々だって山を越えて桂川沿いの他村へと所用に出掛けたことでしょうから、
立野峠を越える峠道としての役割も充分に担っていたとも考えられます。
“浜沢道”はハイキングコースとしては新しいのかもしれませんが、
地元住民の利用する道としてはそれなりの歴史が刻まれていることでしょう。

立野峠は立野と無生野とを結ぶものであると限定的、固定的に考えてしまいがちですが、
そもそも峠道は「立野から無生野」と「立野から浜沢」と二筋あったのかもしれません。
ただ、もしそうだとしても、こちらの“浜沢道”が地図から抜け落ちてしまっているのはなぜなのかという
疑問が残ることに変わりはありませんが。


下部は手入れされた植林内の道


ヒノキ林の小刻みジグザグを過ぎれば自然林

しばらく沢沿いを進んだ後、沢音に別れを告げて、ヒノキ幼林の中の小刻みなジグザグ道となり、
それもいつしか自然林へと姿を変えてゆきます。
沢沿いを詰め、ジグザグで高度を稼ぐという実に典型的な峠道の造りをしています。

“無生野道”の分岐はどこだろうかと注意深く観察していましたがそれらしき明確な場所は見当たりません。
かつて人に歩かれていた道で、地形図にもまだ記載されている道ならば、道形なり、痕跡なりが、
多少なりとも残っているだろうと安易に考えていましたが、
古道を隠してしまう自然の復元力はたくましいものがあります。
一度見捨てられてしまった道は、発見するのは容易ではないということなのでしょうか?

“無生野道”分岐を発見できぬまま、あたふたしているうちに立野峠がだんだんと近付いてきます。
自然林の明るい回廊を適度な勾配で登り詰めると、数週間前にも訪れたばかりの立野峠に到着です。

この峠には、石仏も、石祠もなく、目をひく大木もありません。
歴史上の有名人物が越えたとか、特異な伝説が残っているといった話を耳にしたこともありません。
峠そのもの自体は特徴なき尾根の乗っ越し点といった有様で、峠としての情緒には欠けるかもしれません。
しかし、峠に至るまでの峠道の状態は北面、南面の両サイドとも良好であります。
特に梁川側の峠道は春夏秋冬いつ訪れても峠道としての味わいを堪能できるのではないでしょうか。
もちろん浜沢側の道も合格点には達しています。

立野峠をはじめ、「前道志」と呼ばれる山地を跨ぐ、穴路峠、寺下峠、大地峠等の小さな峠たちは、
いずれも中央線沿線を歩く峠ファンにはお馴染みであり、高い評価を受けているように思います。
都市近郊にありながらも昔ながらの峠としての趣を今にとどめているのです。
ただし近頃、前道志山地の北面も南面も林道開発で騒がしくなってきているようですが・・・。


自然林の明るいトンネル 峠はすぐそこ


また来ちゃいました 立野峠

結局、“無生野道”への分岐がどこだか判らぬままに峠に到着してしまいました。
秋晴れ土曜日の午後の峠、一人の青年が峠の岩に腰掛けて地図を眺めています。
倉岳山の方角からは山頂を目指す中高年ハイカーの和気藹々の声が聞こえてきます。
ここで額にうっすらとかいた汗を拭い、峠を渡る風を受けるのです。

さて地形図を見ると、立野峠は尾根の最低鞍部よりもやや西側を越えているようであります。
実際の最低鞍部に棄てられた旧道の痕跡でもないものかと行ってみます。
前回、梁川側の峠道を歩いたときに峠手前の道筋が地形図記載とは異なっていると思ったからです。
立野峠道は南側だけではなく、北側も地形図記載と実際とは異なっているのです。
境界標「三四〇」付近が最低鞍部らしいのですが梁川側は単なる植林地で旧道らしきものは不明でした。

ところで、昭和4年測図の地形図を見ると、
立野峠の東西両隣りに位置している寺下峠、穴路峠はその峠道が実線で表記されているのですが、
なぜか立野峠の峠道だけは破線表記となっています。
現在のそれぞれの峠道の道巾などを比べてみてもさほどの違いはないにもかかわらず、
なぜ立野峠だけが当時の地図では破線表記だったのでしょうか?
昔は、お隣りの両峠に比べると極端に利用頻度が少なかったのでしょうか?

上野原から鳥沢間の桂川沿いの国道20号線が開通したのが明治24年とのこと。
それ以前の主たる街道は鳥沢から北上し、犬目、野田尻を通過していたので、
立野峠を越えて、街道外れの寒村であった立野に向かう人の流れはたいしてなかったのかもしれません。
秋山村から旧甲州街道筋の宿であった村々に向かう為には立野峠道は不便だったことでしょう。

国道開通で前道志山地を越える人の流れは多少増加したかもしれませんが、
桂川沿いの通称“川通り”と呼ばれていた間道に目が向けられるようになったのは、
明治35年の中央線開通以後のことだったと思われます。
しかし、それでも当初は駅の設置がなく人の流れに大きな変化はなかったことでしょう。

明治34年には中央線上野原駅が開業し、明治43年には四方津駅が開業しています。
同43年には秋山村の東の玄関口であり難所でもあった天神峠の下にトンネルが開鑿され、
村で生産される炭の上野原への搬出口として賑わいをみせることになります。
立野峠のお隣りに位置する穴路峠は古くから鳥沢宿への炭の運び出し口としての通行があり
人の往来も立野峠に比べて頻繁にあったことが想像できます。

また、中央線に乗りたければ大地峠を越えて四方津駅へ向かえばいいのであって、
立野峠の重要性はさほどなく、それが破線表記にされてしまった由縁なのかもしれません。
(ただ、寺下峠も立野峠と同じような境遇なのに破線表記ではなく実線表記なのはなぜなのでしょう?)

ちなみに梁川駅の開設は遅れること昭和の24年です。
駅が出来れば人の往来が盛んになり峠道も立派になると思いきや、
都会とを結ぶ鉄路は村から人の流出を招くことにもなったようです。

村に残った人の中にも会社勤めの人が増え、農業の兼業化で次第に山の手入れをする人も減ってゆき、
峠道は次第に荒廃の一途を辿ることになるのです。
自動車が普及し各地にトンネルが穿たれ村道が整備され始めると峠道の荒廃は一層加速し、
苦労して山を越えることに、もはや何の意味も存在しなくなるのです。

楽で、便利で、安全で、快適な交易の道なり、通勤の道が出来れば、
先人が苦労して開いた山越えの道であろうと、過去に恩恵を受けた道であろうと、
人は安易にそれらを棄てて、新しき道を選ぶことになるということは、いたって自然な成り行きといえます。


秋山村の展望すこぶる良好!細野山
先客が居ましたので写真をとって引き返す


立野峠から再び80メートルほど浜沢側へ戻り
ここから一般道を外れ尾根を跨ぐことにする

せっかく尾根まで登ったのだからと、立野峠の東に位置する細野山へ。
山頂からの眺望は南面が伐採され、すこぶる良好!山に囲まれた秋山村の山中谷が一望でき、
対面には秋山二十六夜山がデンと構えています。
ここらで休憩しようと思っていましたが、先客がポツネンと腰掛けていたのでご遠慮し、
立野峠に引き返して“無生野道”の探索に取り掛かります。

峠から80メートルほど浜沢側へ戻って、一般道を外れて植林地に入り小尾根を跨いでみることにします。
最初の小谷は植林地内の肩幅ほどの踏み跡をトラバースです。
小尾根を越して次のステージは自然林、そこで早くも踏み跡は消滅。
道普請お爺さんの「峠まで径は続いている」との言を信じ、地図情報と照らし合わせて、
少ない脳ミソで解析すると谷の下方に進路を取るべきとも思えますが、
安易に谷側に踏み込むのは危険だと、ついつい臆病風に吹かれ自然林の斜面を這い上がることになります。
するとそこに獣道らしきトラバース跡が姿を現わすのです。
獣だって安全な道を辿るはず、そう、少ない脳ミソで選択した進路は獣の思考と同一ということ。

これはもはや本来の“無生野道”からは外れているとウスウス感じつつも、
二つ目の小谷を獣道を拝借してトラバース。
頭の上の方からはハイカーの話し声、見上げると立野峠と倉岳山を結ぶ尾根道はすぐ近く、
10メートルと離れてはいない。
これは仕方が無い、p736へ向かう支尾根に出て“無生野道”との合流点を探すしかないようです。


極めてうすい踏跡
たぶん獣道だろうけどこれを使ってトラバース


二つ支尾根を跨ぎ越え
p736へと続く尾根に出る

p736へ向かう支尾根には薄い踏み跡があり、それを拾って南下します。
(この支尾根を逆方向から自転車を担いで登るとは“山岳サイクリング”の世界とはなんと過酷なのでしょう)

地図情報では左手から本来の“無生野道”が合わさるはずですが、
それらしき道はあるようで、ないようで、はっきりとしません。
どうやらお爺さんの道普請は挫折してしまったようです。

p736近くには、これは道普請の跡だなと思わせる箇所があるのですが、
普請当時の掘り返された黒土はすでに乾燥し、道跡すら自然と同化しつつあり判別が困難な状況です。
旧峠道復活の淡い期待をもって訪れたのですが、お爺さん一人の仕事量では
自然に飲み込まれるスピードには勝てなかったようです。


平凡な凸 p736
ここから踏跡不明瞭


アカマツ林で視界が開ける

p736までは拾うことのできた踏み跡もここでプツリと途絶えてしまいます。
地図の読み取りでは、やや西側に進路を変えるようですが、これだという顕著な痕跡がありません。
それでも地図の破線を信じて気持、西気味に強引に下降を続けるとアカマツ林に行き当たり、
その向こうに集落が見えてきます。

藪がひどくなってきたので破線道を拾うことを諦め、
歩き易そうなp736から直に南下する尾根を拾うことにしてアカマツ林をトラバースです。
マムシでも出てきそうな雰囲気ですから、キョロキョロして警戒を怠らないようにしますが、
実際はマツタケでも生えていないかと五感レーダーをフル稼働させていたのです。

尾根に出ると再び踏み跡を拾うことができ、これが次第に明瞭な仕事道へと姿を変え、
植林地内を通過して民家裏へと導いてくれました。
飛び出した民家の裏手には古い板碑があるのですが風化していて判読することはできませんでした。
民家の脇道を通り、表通りに出ると、そこがちょうど無生野バス停前でありました。

辿った道は正規の“無生野道”ではありません。
古い文献によると「フジノタ沢に降る」とあるから、やはりp736から西側へ強引にも下降する必要が
あったようです。

「立野峠からは、右手の方に尾根を捲いて降りになり、小さな沢を横切ると、倉岳山より派生する
巾廣い尾根を横切る様になり、その尾根の西側を降ると、急に降りがひどくなり、ジグザグを刻んで、
尾根の東側に抜ける。それからは雑木林の中を、再び右手へと越え、フジノタ沢に降って間もなく
道に行き当たる。無生野の部落である。」

                         『日本山岳案内1丹沢山塊・道志山塊』 昭和15年 鉄道省 より


民家の裏手 二つの板碑前に飛び出した


無生野バス停前のこちらの民家裏手に道は続いていた

結局のところ、忠実に“無生野道”(地形図の破線道)をトレースすることはできませんでした。
すでにその大半が消えてしまったのか、それとも探し方が悪かったのか今以って不明です。

なぜ“無生野道”がハイキングコースとしての役割を放棄してしまったのかも判りませんでした。
どんな役割を担っていた道で、何が原因で荒廃していったかも判然としないままです。
こういうことは村人に聞くのが一番ですが、村はなにやら騒がしい様子です。
p736付近にいた頃から聞こえていた救急車のサイレンは、村人の搬送を目的に急行していたようです。
村に急病人が出た慌ただしい最中に、こんなどうでもよい峠の昔話など尋ねる余地はないようです。

峠マニアは峠道に特別の感慨を抱きますが、実地に生活している人々にとって
救急車の越えることの出来ない山道の峠など障害以外の何ものでもないのかとふと思ったりするのでした。


今回は足袋姿です

前回の峠歩き(穴路峠下降中)にハイキングシューズの靴底が
剥がれてしまうというアクシデントがありました。
おNEWの靴が買えない貧乏人は、今回、地下足袋姿で参上です。

こんな姿で山道を歩いていると
なんだか玄人っぽく見えるかもしれないけど、
若い人たちから見れば超ダサイスタイルなのかもしれないね。

地下足袋は足裏(ソール)が薄い為、小石の上を歩くのは痛いし、
竹薮の刈り払い後の道などは切り株が貫通するので歩けたものじゃない。
でも、柔らかい土道を歩くにはとても気持がいいのだ!
標高の低い峠越えには最適なアイテムかもしれないぞ。

ただし、マムシに噛まれたら生地が薄いから皮膚までキバが
食い込むこと間違いないだろうし、乾燥したザレ場ではよく滑る。
水に濡れるとすぐに染み込むという欠点もあるけれどね。
でも防水性能は皆無だけど冷たくなければこれもまた気持いいものだ。

長所は細かい足場のホールドでも爪先でよくグリップすること。
あたりまえながら靴ヒモの解き結びがないからゆるむこともない。
クマに遭遇した時、足元が軽いので逃げ足も速くなるというものだ。
積雪期は使えないけど低山歩きには今後も活躍が期待できそうだ。