道祖神の微笑む峠

照坂峠・瀬戸坂(峠)?・美咲佐和の神峠?・蛭坂峠

古関・・・照坂峠・・・瀬戸と中河原を結ぶ尾根・・・三沢川右岸径路・・・上小磯・・・蛭坂峠・・・水船・・・芝草・・・照坂峠・・・古関


反木川と三沢川を隔つ尾根の撓みに祀られた道祖神

旧下部町(現身延町)の照坂峠、蛭坂峠を訪れました。
加えて、『下部町誌』の中に見られる「美咲佐和の神峠」を探しつつ、
反木川と三沢川の中間尾根を歩いてきました。
新緑と春の草花に囲まれた山峡の集落は美しく、
路傍の道祖神が微笑を浮かべて遠方からの旅人を迎えてくれました。

【美咲様】

根子から瀬戸へ通ずる山道をいう。
寛永の頃までは谷あいを通ずる悪路で、牛馬の通行は絶対不可能とされていた。
たまたま満福寺鉱山主赤堀重太郎は、根子村への恩返しとして、又鉱石運搬の道として
新道開拓の計画をたて、満福寺対岸から、美咲佐和の神峠を経て瀬戸に至る道筋で、
峻立する岩山を開削して行程一里余の道をつくり、根子村の住人に便宜を与えたと、
此の道の由緒は語っている。

               『下部町誌』 「第一章 交通と運搬」 より
                  (『下部町誌』は身延町のホームページ「身延の歴史」から閲覧することができます)


満福寺(根子集落)

美濃の国の住人、赤堀重太郎という金掘りが根子で銅山開発を始めた。
満福寺の境内が一番坑だったといわれ、元和年間最盛期には人家も100軒を超え、
坑道も反木川を越えて川向こうの中村の部落まで達していたという。
しかし湧水が激しく、そのために多数の村人を道連れに大惨事が起こり鉱山は壊滅した。
多くの人命を失ったこと、当時の技術としては湧水を止めることが不可能であったことから採掘を諦め、
銅山から得た全てを投じて自ら開基者となって、この地に曹洞宗銅根山満福寺を元和七年建立し、
犠牲者の菩提を弔ったという。 (『下部町誌』より)

上記のように『下部町誌』には「美咲佐和の神峠」という峠に関する記述が見られます。
かつて隆盛を極めた根子銅山で採掘された鉱石運搬の道でもあったようですが、
それがどこにあるのか判然としません。

照坂峠、蛭坂峠は地形図にも記載のある峠で、その位置は明確なのですが、
「美咲佐和の神峠」とは一体どこにあるのでしょうか?
同町誌の別項では「沢之上峠」という言葉も見られますが、
これは「佐和の神峠」と同一ではないかとの気もしますがどうなんでしょうか・・・・?

不案内な土地ですから、古い版の地形図まで引っ張り出して、いろいろ詮索してみたところ、
根子と瀬戸の集落間を結ぶ反木川と三沢川に挟まれた尾根が
「美咲様」といわれる山道ではないかと目星を付けてみました。
地形図では反木川沿いの根子中河原集落から三沢川流域へと破線道が越えています。
この道が越える尾根の撓みが「美咲佐和の神峠」ではないかと考え、現地を訪ねてみることにしたのです。

現在のように道の整備が行き届いていない時代、出水の度に被害を受ける川沿いの道よりも
尾根道を歩いた方がはるかに安全であり、距離的にも短縮できたと考えられます。
自動車時代は遠回りであろうと川沿いの平坦な道が求められますが、
人の背や畜力によって荷物の運搬がなされていた時代は、
今考えるよりも尾根道が頻繁かつ有効に用いられていたと思われます。

古関から照坂峠へ上がって、反木川と三沢川に挟まれた中間尾根を北東へと辿り、
両流域を結びつける道が越える尾根の撓みを訪れてみることにします。

エメラルドグリーンに輝く本栖湖を眺め、湖岸の国道300号線(本栖みち)を快走します。
中之倉トンネルを潜り抜けると、視界には南アルプスの雄大な山並みが飛び込んできます。
それと同時に、市販の登山ガイドブックや山岳雑誌ではまったく相手にされることのない
旧下部町(現身延町)の名をも知れない山の数々が魅惑的な奥深さを備えてその姿を現わします。

公共交通機関の便も悪く、好き者ハイカー以外には見向きもされない旧下部町の山々ですが、
遠望される南アルプスの秀峰の数々よりも、なぜか心惹きつけられるものがそこにはあるのです。
市販登山地図の空白地帯であり、自身の登行歴の中でも未踏の地ばかりであるこの山域には、
際立つ鋭鋒も、高峰もなければ、万人に知れ渡ったメジャー峰もありません。
しかし、その山襞の奥深くに居を構える昔ながらの民家や山域全体が醸し出す独特の雰囲気に、
猥雑な都会で暮らす人間は心の癒しを求めずにはいられないのです。

そこには未見の峠道が幾つもあり、山間集落を結ぶ網の目のような径路があり、
美しい花々が咲く麗しい山峡の集落とそこで暮らす慎ましくそして実直な人の営みがあるのです・・・・

中之倉トンネルを抜けた先にある「南アルプス展望台」で、旧下部町の山々をぐるりと眺め、
ジーパンから山歩き用のユニクロズボンに履き替えるべく、パンツ一丁になりながら
ふと、そんな感慨に浸るのです。

そして、展望台の東屋脇から下降する尾根に、踏み跡が付けられているのを見つけては、
この道はどこに続くのだろうかとワクワクしたりもするのです。
一般ハイカーには見向きもされない山域であっても、古道や峠を愛するマニアの興味は尽きません。
国道開通によって歩かれることのなくなったかつての中之倉峠の道、
根子峠や反木峠から根子側へと下る道、釜額から仏峠への道、栃代から御飯峠への道、
天子山塊縦走路が富士川に没するまでに横切る峠道の数々、
峠マニアが興味を抱く峠や峠道は数多くあるのです。


照坂トンネルは封鎖され、新トンネルを建設中だった


道祖神が祀られた農道入口から峠へ向かう

そんな愛着の地、旧下部町ではあるけれど、頻繁に足を運ぶにはあまりに遠い地でもあります。
今回もお昼を大幅に過ぎて古関の村に到着です。

当初は照坂トンネルを潜り抜け、芝草集落に車を停めて歩き始める予定でしたが、
幅員狭隘だったトンネルは封鎖されてしまい、現在は新トンネルが建設中で通行ができません。
駿州街道の難所の一つであった照坂峠の下に、初代のトンネルが穿たれたのは昭和9年のこと。
片側交互通行で不便であったトンネルは役目を終えて、新トンネルの時代を迎えようとしています。
尾根の腹に開鑿される目下工事中の穴は山間集落に新たな風を吹き入れることでしょう。

仕方なく当初の予定を変更し、古関に車を乗り捨て、古関側から照坂峠へ向かうことにします。
地図の破線道よりもやや南、道祖神が祀られた農道入口から高みに建つ送電鉄塔を目指して、
電気柵の張りめぐらされた畑脇のコンクリ舗装路をサクサクと登ります。


農道を登り詰めると鉄塔と水道施設がある


峠道より古関集落を見下ろす

農道を登り詰めると送電鉄塔と水道施設があり、振り返れば古関の集落が眼下に展開されています。
地形図の破線道を忠実に拾うこともできるようですが、ここまでは農道歩きが無難でしょう。

地形図に峠名が記載されてはいる照坂峠ですが、
「照坂峠」という言葉をネット検索しても、峠を訪れた記録をアップしている人は少ないようで、
HP『花のひかり』さんが紹介しているのを見るのみです。
そこには「照坂峠は地形図に載っているぐらいだから、の思いはむなしく、そこは植林下の暗い峠で、
往時を偲ぶような遺構も皆無、ちょっとガッカリして尾根を行く・・・」と書かれており、
あまり期待の持てる峠ではないようです。


山吹の咲く山道から峠へ


峠道には石仏が祀られている

コンクリ舗装の農道からヤマブキ咲く土道へと変ると、いよいよ峠道らしくなってきます。
柔らかい土の感触を足裏に感じて、なんの不安もない明瞭な道を進みます。

竹林から上がってくる本来の麓からの峠道を合わせると、幾度かの小さなジグザグを繰り返し、
大木の根元には石積みに護られた古い石仏の姿を見ることができます。
石仏を守護する石積みは、市川大門周辺に多く見られる石龕(せきがん)の様であり、
風化した石仏の姿からは峠を行く旅人を長年に渡り見守り続けてきたことが察せられます。


数度のジグザグを刻んで峠へ


凹状の照坂峠

植林地内に踏まれた凹状の道を登り詰めたところが峠で、クロスする尾根道も確認できます。
なるほど、峠は「地形図に載っているぐらいだから、の思いはむなしく・・・」の通りで、
ビビビッとくるほどの峠の造形美は感じられません。
峠には名前を示す標識も長き星霜を重ねた石祠や地蔵尊も祀られていません。
ここを駿州街道が通っていたとは俄かには信じ難い雰囲気です。

駿州街道は、甲斐東河内領と駿河との貨物の輸送路としてはもちろん、多くの旅人の通行もあり、
古関に口留の番所を設ける程、軍事的にも生活物資の移出入路としても、
重要な街道であったといいます。
「根原--端足峠--仏峠--長坂往還--関所古関--照坂峠--芝草--車田--三沢--鴨狩」という
経路であったと伝えられています。(『下部町誌』より)

ちょっと尾根道を三角点p524方向へと進んでみますが、
除草剤やら農薬やらの空き袋などが植林地内に散乱しており、探索意欲も失せてしまいます。
地形図では桑畑の記号が見られますが、すでに周囲は植林地へと姿を変えてしまっています。


峠名標識を取り付けた


芝草側へ向かう道

山梨の峠』(小林栄二著・自費出版)に、「標識の無いのがいま一つ淋しい」とあったので、
勝手ながら手製の峠名標識を取り付けてみました。
登山目的でここを訪れるハイカーなど皆無でしょうが、稀少人種の峠マニアがいつ訪れるやも知れませんから。

芝草側へと下る道も確認でき、まずは一安心です。
後ほど旅の終わりに、芝草側から再び峠道を越えることになるのですから。


明治21年測量24年製版出版 2万図 「蛾嶽」 大日本陸地測量部
「照」ではなく塩の古字「鹽」と書かれているように見えるが・・・・?

明治期の陸地測量部発行の古い地形図を見ると、
「照坂」ではなく「鹽坂」と書かれているように見えるのですが、これはなぜなのでしょうか?
駿河から運ばれた「塩」が越えたから「鹽坂」?

『甲斐国誌』には「城坂(ジャウサカ)、古関、芝草ノ間」とあり、
「校者曰ク、城坂今照坂ニ改ム」と書かれています。
「城坂」が「シロサカ」となり、それが「シオサカ」となって、「鹽坂」の表記が生まれたのでしょうか?
それとも「照」という字の古字でも表記されているのでしょうか?

『山梨県の地名』(平凡社・1996年)には、「照坂」に「ショウザカ」のルビが振られています。
「城坂」、「鹽坂」の音が、「照(ショウ)」という字を捻り出したのでしょうか?
『日本山名事典』(三省堂・2004年)では、「照坂」を「テリサカ」としているので、
何がなんだかもうさっぱり分かりません。

古い地形図の峠道は幅広の道で描かれており、この道が当時の幹線道であったことが読み取れます。
芝草と古関とを結ぶ「鹽(?)坂峠」の他に、芝草と瀬戸とを結ぶ山越えの道も確認できます。
この道にも留意しつつ、峠から反木川と三沢川に挟まれた中間尾根を北東へと辿り始めます。


尾根道はしっかり踏まれた雑木の道


芝草と瀬戸を結ぶ峠
「瀬戸坂」・「瀬戸峠」だろうか?

反木川と三沢川に挟まれた尾根上の道は極めて明瞭です。
道迷いの心配はなく、その大部分が新緑を迎えた明るい自然林の中にあり、
不安を抱かせる要素といえば顔面を直撃する蜘蛛の巣ぐらいです。
尾根には赤い頭のプラ杭とシルバーの頭の筆界杭が点々と埋設されています。

古い地形図に描かれた芝草と瀬戸とを結ぶ山越えの道は容易に確認され、
今も両集落を結ぶ道としての役目を果たしているかのようにも窺がえます。
芝草の土地台帳に記された地名には「瀬戸坂」というものがありますし、
瀬戸の土地台帳に記された地名には「峠」がありますから、
この芝草と瀬戸とを結ぶ山越えの道が「瀬戸坂(瀬戸峠)」ではないかと推測するのですが
果たしてどんなもんでしょうか?

両サイドを自然林に挟まれた尾根の木々間からは、左手に上大磯の高地集落が望め、
右手には発電のために本栖湖からの水を反木川へと落とす導水管が望まれます。
降り積もった落ち葉の道の上をカサコソと這いずるトカゲの音に驚くほど尾根道は静かです。
ポカポカ陽気に誘われて、トカゲ君たちはあちらでカサコソ、こちらでカサコソと音をたてドキリとさせます。


三角点p657を北側から巻く道


最初、巻き道はしっかりしていたが・・・

古い地図の精度を見縊ってはいけません。
尾根道から分岐する、か細い山道の数々がこの陸測二万図には正確に描かれているのですから。
この地域の山間部を歩くのであれば、現行版地形図の他に陸測二万図を持参することをお薦めします。
現行版地形図からは抹殺された道の消息を古い地形図は教えてくれます。
明治時代の地図が、現在でも有効に使えるということは、
この山域に自然破壊の波が押し寄せなかったことの表れかも知れません。

三角点p657は地形図の通りその北側に巻き道が付けられています。
三角点峰に山名標識でもぶら下がってはいないかと気になり尾根筋を忠実に進むことも考えましたが、
ここはやはり踏み固められた昔からの道を頼りにして巻き道に入ります。


大規模な山抜けで巻き道は消失してしまう


p657とp652の鞍部 夏作からの道がある

巻き道には、ヒトリシズカ イカリソウといった草花が見られ踏みつけないように気を遣います。
樹間を透かしては峨峨たる天狗岩の懐にへばりつく峰山の山上集落も望まれます。
あんな不便な高地に集落が・・・とも思いますが、山桜の咲く日当りの良い高地斜面での暮らしに、
憧憬を多分に含んだ興味を覚えてなりません。

当初しっかりしていた巻き道は、次第に肩幅程度のケモノ道同然となり、
最終的には大規模な山抜けによって消失してしまいます。
しかし心配することはなく、右手には尾根がすぐそこまで接近してきているので転進すればよいのです。
尾根筋に向けて道無き斜面を登っていると、足元でまたカサコソと・・・
またトカゲ君の仕業かと思ったら、冬眠から目覚めた大きなヘビがニョロニョロと移動中でした。

尾根筋に復帰して三角点p657とp652との鞍部に立つと、
そこには六地蔵などの石仏が祀られ、夏作集落からの道も確認できます。
反木川と三沢川に挟まれたこの中間尾根につけられた道は、やはりただの尾根道ではありません。
集落と集落とを結ぶ基幹道路の役割を持った尾根道だったに違いないと、ひとり興奮するのです。
たいして厳しいアップダウンも無い幅広の安定した尾根道は、
根子銅山で採掘された鉱石を運搬するにも適していたに違いありません。
やはりこの尾根道が「美咲様」といわれる山道であるのではとの思いが強くなるのです。【*1】【補注】参照のこと


推定・美咲佐和の神峠
反木川根子中河原集落と三沢川流域を結ぶ峠
「美咲佐和の神峠」だろうか?それとも「沢之上峠」なのか?

そして反木川と三沢川に挟まれた尾根を越える鞍部の推定「美咲佐和の神峠」に辿り着くのです。
そこは愛想の無かった照坂峠に比べて、峠らしさが存分に漂っています。
果たしてここが「美咲佐和の神峠」と呼ばれる場所なのか確証は得られませんが、
注連縄の張られた道祖神が祀られ、古い石仏と石塔の安置された鞍部の様子は
この場所が土地に暮らす人々にとっては重要な地であったことが容易に想像されます。
【*1】

ここが「美咲佐和の神峠」ではないとしても、
何か別の立派な名前のある峠ではないかと思えてなりません。
ポツンと立っている錆びついた判読不能の標識に何と書いてあったのか大変気になるところです。

そもそも「美咲様」とはなんでしょうか?
「伊東美咲」をすぐに想像してしまいますが、「美咲」とは「御崎様」のことなのでしょうか?

「御崎様」とは宇賀御魂命を祀る農業神。一説には貴人や旅人の道案内をする鳥やサルやキツネだとも、
また非業の死を遂げた凶魂を鎮めるため祀った神であるともいわれている。 (『下部町誌』より)


陸測図には幅広の道で描かれている


鞍部には道祖神が祀られている

ここより道は、根子集落に下る道、三沢川に下る道、
折門へ向かう道、尾根をそのまま進む道と四方向に分岐しています。

根子集落に下って地元の方に話を伺いたい気もあるし、廃村折門へと向かいたい気もします。
また尾根を突き進んで、
折門と御弟子とを結んでいる山神峠まで足をのばしたいとの気もあります。
しかし、いずれにしても時間に余裕が無く、次なる目的地である蛭坂峠へ向かうために
三沢川に下る道を選択し歩みを進めます。


峠から三沢川へ下る道


水量豊富な三沢川の流れ

前日までの大雨で増水した三沢川の瀬音は尾根上の分岐路にいても耳に届きます。
わずか数分の下りで川縁に降り立ち、白く濁った水量豊富な流れが目の前に現われます。

この地点でもかなりの山深さを感じるのですが、
ここよりさらに上流の幽遠の地に、今では全村人が離村してしまった折門の集落があったのです。
川上よりお碗でも流れてこなければ、これより上流に人家があるなどとは気付きもしません。
折門とはどんな集落で、そこで暮らす人々はどんな生活をしていたのか興味あるところです。
「廃村」という言葉に魅惑的な響きを感じ、誘引されかかりもしますが、
今回は時間の都合があるので残念ながら見送って下流へと向かうことにします。


右岸へ渡る木橋は朽ちて崩落している


大磯小磯へは左を選択
右は峰山集落へ向かう道と思われる

下流の大磯小磯に向けては三沢川縁に付けられた道を伝うのですが、
それにはまず増水した三沢川を対岸へと渡らなければなりません。

大きな岩をスパッと割って開いた道から木橋を渡って対岸に渡るのが正規ルートのようですが、
肝心の木橋が朽ち果てていて使い物になりません。
橋のちょっと下流から飛び石伝いに対岸へと渡ることを試みますが大雨で増水したと思われる
渦を巻く激しい流れは簡単に徒渉をさせてはくれません。
長くて頑丈そうな木の枝を拾い上げ、濁流に差し込み、
棒高跳びの要領でやっとのことで対岸へと渡ることができました。


本流に注ぐ支流を数回徒渉する


三沢川右岸水平歩道

暗い植林地内に残る古い石積みを攀じ登ると、
そこには地形図に記された三沢川右岸の水平道があるのです。
この道をしっかりと踏み固めたのは、今や廃村となってしまった折門で暮らしていた人々でしょうか?
峰山集落へ向かうと思しき斜上する道を見送ると、
水平道は秋には見事な紅葉が見られるであろう自然林の中を進むようになります。

本流に注ぎ込む小さな支流を数度徒渉しながら、三沢川右岸径路は里へと続きます。
放置された畑跡や現役の炭焼き釜が現われると快適な道にも終わりが近付きます。


紅葉時期は見事に染まるに違いない


峰山へと続く林道のヘアピンカーブに出る

三沢川右岸径路は峰山の集落へと繋がる林道のヘアピンカーブに飛び出して終了します。
ちょうど駐車スペースがあるので、ここに車を置いて、
右岸径路〜廃村折門〜折門峠〜大平山〜蛾ヶ岳〜天狗岩〜峰山集落と
周遊するのも一興かと思われます。

蛾ヶ岳と言えば、市川本町や四尾連湖から登るのが交通の便も良く一般的ですが、
人気(ひとけ)のない南麓側を、新緑又は紅葉時季に歩くのは魅力あるコースだといえます。


上小磯集落入口の道祖神


上小磯からp641へ向かう破線道に入る橋

旧古関小学校磯分校の跡地や八王子諏訪神社前に整列した石仏、曾我氏の墓などを見ながら
次なる目的地である蛭坂峠の取り付き点とした上小磯の集落へと向かいます。
上小磯から地形図に描かれたp641の西尾根破線道を拾い蛭坂峠を踏み、
峠から水船、芝草へと下降する計画です。

そんな道、本当に残っているのかと心配もしますが、
上小磯集落入口の手厚くお祀りされた道祖神を過ぎると、沢に架かる鉄の橋があり
それを渡ればすんなりと破線道に乗ることができるのです。


p641へ向けて炭焼き釜跡の残る道を行く


峠名の標識を取り付けた

山道がコンクリートで簡易舗装されているのには驚きましたが、それも集落の集合墓地まででした。
最前歩いたばかりの反木川と三沢川に挟まれた尾根を眺め、雪の残る天子山塊を遠望し、
鋭角に進路を変えてp641へとハッキリした道が続きます。

p641頂稜部は植林地内ののっぺりした地形で道は突如として怪しくなります。
踏み跡は極端に薄くなり、視界を遮る植林で方向感覚も失われますが、
三角点693峰(高萩山)のシルエットを頼りに進めば無事、蛭坂峠へと辿り着くことができるのです。


蛭坂峠

ガサッ!と、前方を鹿の白いお尻が飛んでゆき驚かされましたが、峠は至って静寂の中にあります。
芽吹きを迎えたばかりの自然林に包まれた峠には、石祠がポツンと一基置かれています。
峠から富士の姿は望めませんでしたが、石祠には「浅間宮」と刻まれています。
古い紀行文である河田髓の『かひしなの』には、
地元では「浅間峠」と呼ばれていると確か書かれてあったと記憶しています。
蛭坂峠の別称としてそんな呼び名もあったのかもしれません。

古い陸測図には「蛭」の字に「ビリ」のルビが付されています。
『甲斐国誌』には「蛭(ヒル)坂」とありますが、「比留ヲ毘留或ハ毘利ト云ハ此間ノ方言也」ともあります。
どんな由来がある地名なのか知りたいところです。

また、『下部町誌』の芝草集落の説明文の中には、
「北は空峠を隔てて三保へ通じ・・・」とあるので、「空峠」という呼び名もあるのでしょう。
ただ一般には、『山梨の峠』にも書かれてあるように、単に「ひっさか」「びっさか」と呼んでいるようです。
(『日本山名事典』では「ヒルサカ」との読みが示されている)


「浅間宮」と刻まれた石祠


峠から芝草・水船への道

登山者向けの標識など一切無い峠に、お節介とは知りつつも手製標識を取り付け、
芝草側へと下る明瞭な道へ足を踏み入れて峠を後にします。

芝草へと向かう道は、歩き始めは順調だったのですが、
畑が放棄されたと思しき荒れた平坦地に入ると、ヤブが蔓延り進路があやふやになってしまいます。
それでも地形図を信じて、強引に破線の付けられた尾根に到達すると再び道は明瞭となり、
日暮れが迫った山中に取り残される不安は消え去るのです。
この道を登路に使っていたらこの荒地通過でさぞかし困惑していたことでしょう。


明治21年測量24年製版出版 2万図 「蛾嶽」 大日本陸地測量部
「蛭」という字に「ビリ」の振り仮名
峠道は芝草へ下る道と水船へ下る道とがある

古い地図では蛭坂峠の峠道は幅広の幹線道として描かれています。
凹とした箇所に落ち葉が堆積している現況からして、頻繁に歩かれている道とは感じられませんが、
荒地の通過を除けば、道の状態は概ね良好で道筋も地形図通りに付けられています。

峠道は途中、芝草へ下る道と、水船へと下る道に分岐します。
足首を隠す深い落ち葉に埋まった芝草への道を見送り、水船への道を選択して進むと、
年林沢の流れに降り立つことになり、その流れを不安定な橋で渡って峠道は終焉となります。

水船橋を渡り県道に出ると、そこはバス停前で、ちょうどワンボックスタイプのローカルバスがやって来て、
「乗らなくていいのかい」とスピードを落としてくれますが、身延線の駅まで運んでもらう必要はありません。
これより車を乗り捨てた古関へと、再び照坂峠を今度は芝草側から登らなくてはなりませんから。
墓地の脇を通り峠道へと入りますが、古関側とは違ってやや荒れ気味なのが残念です。
倒木を跨いだり潜ったりして進みますが、
幅広の凹とした道の形状はかつての街道の面影を残してもいます。

夕暮れの植林地内の峠道は暗く、化け物でも出はしないかと、心細くなってきます。
昔は照坂峠に、人を化かすキツネが出没したようで、
「きつねと馬方」という話が『下部町誌』に紹介されています。

腹の減ったエネルギー不足の体では標高の低い峠越えでも足取りは重く、
やっと辿り着いた峠で自分の取り付けた峠名標識を見てホッとしたりもします。
峠から古関側へと足早に下り、農道入口に祀られた道祖神に一日の無事を感謝します。
「よく歩いてきたね、またおいでよ」と、
行路の安全を司る神様は夕闇の中でそっと微笑んでくれたかのように思われました。

(峠行2008.04.19)

【*1】 

後日、古関公民館の館長さんにお話を伺ったところ、「美咲様」「美咲佐和の神峠」などは聞き覚えが無いとのこと。(えっー!)
反木川沿いに車の通る道が出来る以前は、集落のある段上に人だけが通う道があったそうで、
それが町誌に書かれた美咲様の山道のことではないかとのこと。(尾根道ではないだろうとのこと)
道祖神が祀られた尾根の撓みについては名前は判らないとのこと。

また、三角点657峰の名前について伺うと、呼び名はあったと思うが忘れてしまったとのこと。
御自身の持ち畑も近くにあるのにと笑っていました・・・(現地の方が地名に無頓着ということは間々あることです)
逆に南側の長大な尾根(中之倉の北側三角点898峰?)は「ツルネ(連根)」と呼んでいるとのこと。
つい先日も里に近い所で熊が出たとのことで、山歩きには鈴を持ったほうがよいとの忠告も受けました。
下部町の熊は凶暴というのは周知の事実で、知人の方も顔をえぐられたとか、先頃も市川大門の方が喰われてしまったとか・・・

ついでに周囲の峠道の様子も伺いました。
・昔、照坂峠の通行は頻繁にあった。
・蛭坂峠は「びっさか」と呼んでいる。
・中之倉峠旧道はもう誰も通らないし、工事で荒れてしまったから通行は無理だろう。
 昔、小学校の遠足で本栖湖まで上がったことはある。昔の道は所々しか残っていないだろう。
・精進湖に上がる根子峠、反木峠もひどい荒れようだと思う。
・精進湖に行くなら三ッ沢から三方分山コースが良かろう。
・仏峠から釜額へ下る尾根道は生きている。
・長塩と岩欠を結ぶ地蔵峠道も生きている。
・町誌に登場する「長坂峠」とは、古関と中之倉を結ぶ峠道だろう。お宮さんの付近の地名を「長坂」という。
・国道300号線北側の長大な尾根には複数の道があった。

等々、いろいろとお話を伺いました m(__)m

【補注】

帰宅後にいろいろと調べてみると、地元の方が仰った通り、
「美咲様」とは今回歩いた尾根道ではなかったことがわかりました。

『山梨県の地名』(平凡社)の「根子村」の項には、「満福鉱山にかかわる美咲様があり、反木川沿いの八坂村から村内を通り
瀬戸村を経て古関村に至る道を美咲様道と称した。北の大磯小磯と南の中倉村へは山越えの道が通じていた。」との記述があり、
同本「瀬戸村」の項には、「反木川に沿って根子村、八坂村への道(美咲様道)があった」との記述が見られることから、
美咲様とは尾根道ではなく、川沿いの道であったことが分かりました。

さらに、『角川日本地名大辞典』(角川書店)の「瀬戸村」「根子村」の項には、「反木川沿いの美咲様道が昭和10年根子林道
として完成、同22年折門の沢集落まで延長され、同51年県道折門古関線となる」と書かれてあり、現在の車道とほぼ変わりない
川沿いの道筋であったことが分かりました。

「美咲佐和の神峠」の「峠」とは一体どこなのかという点は依然として疑問のままですが、
今回歩いた反木川と三沢川に挟まれた尾根は、まったく検討外れの場所であったというお粗末な有様です。
的外れの探索行だったことにガッカリです。 道祖神様の微笑みは、あざけりだったのかもしれませんね。


後日、折八古関林道から見下ろした反木川と三沢川に挟まれた尾根

【参考文献】

『山梨の峠』 小林栄二 自費出版
『下部町誌』 (身延町のホームページから
全文閲覧可能)