★ 一ノ尾尾根から栃谷尾根

 〜 「笠松峠」ってどこだろう? 〜


『山と高原34号』 「栃谷尾根と鶏冠尾根」(神山弘著)より
栃谷尾根から陣馬山に至る過程に
「笠松峠」の名が見られる

古い山雑誌の記事を読んでいると、陣馬山の登降路のひとつである栃谷尾根上に
「中澤ノ頭」、「丸デッコ」、「笠松峠」の地名が見られます。
峰の名前はともかく、「笠松峠」という峠名は峠マニアとして気になる存在です。
しかしながら、これまでその位置が特定できずに困っていました。

ところが、HP『悠遊趣味』さんの山行レポート「552陣馬山11」に掲載されている
オリジナル地図に、「笠松峠」の場所が提示されているのを見つけて
栃谷尾根を久し振りに歩いてみることにしました。
はたして「笠松峠」は見つかるでしょうか?


落合 「←一ノ尾・栃谷→」分岐


一ノ尾尾根に乗っかると紫陽花が迎えてくれた

落合の陣馬登山口バス停近くの路上に車を乗り捨て、一ノ尾尾根から陣馬山に登り、
笠松峠を探しながら栃谷尾根を下降することにします。
藤野町観光協会の設置した登山案内看板によると、一ノ尾尾根の登りは1時間40分、
栃谷尾根下降には50分、栃谷から落合まで30分とあります。
合計3時間あればグルッと周遊できそうです。
梅雨の晴れ間の青空が北西から押し寄せてくる黒い雷雲に覆われようとしていますが、
構わず一ノ尾尾根に取り付くことにします。

落合から浄水施設を回りこみ、しばらく舗装された里道のジグザグで標高を上げて行きます。
途中、「津久井の名木・ケヤキ」を過ぎた先で、県道方向へと土道が分岐する辺りが
「コイジ」と呼ばれている場所でしょうか?
『ふじ乃町の地名』という本には落合と上沢井を結ぶ山腹道に「コイジ」の地名が付されています。
「コイジ」とは多分「越路」のことで、沢井川沿いの県道が整備される以前はこのような道が
集落と集落とを結ぶ道として使われていたと思われます。

こんな山の上にまで、傾斜に耐えてよく家が建っているものだと感心しつつ、南面を振り返ると、
鷹取山から藤野坂峠へと続く小渕丘陵の穏やかな起伏が望まれ、小渕峠、旧小渕峠の
沢井側の峠道を歩いていないことなどを思い出し、夏本番を前にして、低山の峠道歩きに適した
冬枯れの時季が早く来ないものかと待ち遠しくなったりします。


小さな木製の祠が祀られていた


水源分収林の看板には「字一ノ尾」とある

『ふじ乃町の地名』にある「ワッパラ」という平頂部を過ぎると本格的な山道が始まり、
紫陽花の彩りが梅雨の晴れ間の訪問者を迎えてくれるのです。
尾根道の脇に小さな木製の祠が祀られているのを見送ると、水源分収林の看板があり、
そこには現在地が「字一ノ尾」と表示されています。
『ふじ乃町の地名』にも、東側の林道の見え隠れする植林斜面に「一ノ尾」と記されています。

「一ノ尾」を登る尾根だから「一ノ尾尾根」なのでしょうが、登山地図には「一ノ尾根」ともあります。
また、「一ノ尾ノ尾根」と表記することもあるようで、なんだかややこしい尾根の名前です。
左手「ホテークボ」と呼ばれる谷筋と右手「カザクボ」と呼ばれる谷筋に挟まれた
尾根を登り詰めると、地形図p399となりますが顕著なピークではありません。
p399は『ふじ乃町の地名』によると「ヤクシマツ」の名が付されています。


p399付近 「ヤクシマツ」と呼ばれる場所らしい


上沢井からの道が合わさる

一ノ尾尾根は植林が主体ではありますが、随所に自然林が見られ暗い感じはありません。
一旦、尾根に乗ってしまえば長く苦しい登りなどは無く、ほぼ平坦な道で快調に歩みを進める
ことができ、路面も良く踏み固められていて、障害となるヤブやゴロ石などは皆無です。
蒸し暑いこの時期、半袖半ズボン姿でやって来たのはどうやら正解だったようです。

「こん気よく歩けば みえるふじの山」、「あいさつは 心と心のネットワーク」などと書かれた
必ずしも必要とは思えない標識を過ぎると、上沢井から上ってくる道を合わせます。
この道は手持ちの地形図に記載はありませんが、登山地図には記されています。
(最新の平成21年版の地形図には描かれている)
尾根を越える道があるので峠らしくもありますが「〇〇峠」といった名前は無いようです。


峠っぽい場所だが「〇〇峠」という名前は無いのだろうか?

上沢井分岐の登山標識には「上沢井0.9km、落合1.6km、陣馬山3.4km」と表示されています。
分岐から先、ちょっとしたジグザグを登り詰めると「水源の森林づくり」の403の白標杭があり、
そこから上河原へと下降する地形図の破線道の踏み跡が確認できます。
(最新の平成21年版の地形図ではこの破線道は消去されている)
『ふじ乃町の地名』ではこの小さなピークを「オーサカアタマ」としています。
「オーサカアタマ」は「大坂頭」のことなのでしょうか?

そこからまた歩き易い平坦な道となり、右側にベンチを見て進むと、
藤野北小学校前バス停へと下降する分岐を迎えます。


「めおと坂」分岐
藤野北小学校前バス停に降りられるらしい


p507「大沢ノ頭」付近の分岐
「右ぐんなゐ 左さわゐ」の道しるべがある

藤野北小前バス停分岐の標識は、これまでの登山標識とは違い手作り感に満ちています。
この分岐を下る坂道は「めおと坂」と呼ぶようで標識にその名が書かれています。
「←藤野北小前バス停、県道、桐花園、入間坂」と、下降した先も記されています。
青く細長いバケツは杖入れで、数本の木の枝が杖として納められています。

またちょっとした登りをこなすとp507で、ここは「大沢頭(大沢ノ頭)」の名があるようです。
『ふじ乃町の地名』には特に地名は記されていませんが、最前の「オーサカアタマ」と音が
似ていることから「オオサワ」ではなく、「オオサカ」の可能性もあるのかもしれません。
(それとも両者は全くの別物か?)

道端には自然石を用いた道しるべが置かれ、「右ぐんなゐ 左さわゐ」と刻まれています。
「右ぐんなゐ」の道は枝で塞がれていますが、薄い踏み跡がのびています。
ここから橋詰、上河原へと下り、倉子峠や鷹取山の北鞍部である野沢峠(矢沢峠)を越え、
さらに大越路峠を越えて上野原へと向かう古道がかつては歩かれていたのでしょう。

『あしなか第220号』の「陣馬山付近の山越え道」(杉崎満寿雄著)によると、
  「案下方面から来る人が利用したと考えられる。
  ここから郡内方面に降りる道はいまは廃道化している。」 とあります。
とても半袖半ズボンでは歩きたくないので、冬枯れの時季にでも探索してみたいものです。

案下からの人の流れは、和田峠を越えて来ると考えるのが通常ですが、
この石の道しるべの存在について『藤野町史』では、
  「出水や崖くずれなどで和田峠の通行ができなくなった時は人馬ともこの道を利用した」
と解説しています。
雨に弱い谷筋の道が麻痺した場合、尾根道が物資搬入・搬出の道として
利用されていたことを石の道しるべは物語っているといえます。


和田分岐(和田まで1.2km分岐)


平場が続く この辺が「オデーロ」だろうか?

沢井分団の設置した2個の防火用水ドラム缶を過ぎると、
尾根を外れて右手斜面を斜上する道となり、炭焼きの古い石積み跡も見られます。
この辺りを『ふじ乃町の地名』では「コタネイシ」としています。
お蚕さんの信仰に因むものがあったのでしょうか?繭玉の形をした石があるのかもしれません。

斜上する道を登り切ると再び道は平坦となり、前方には陣馬山の姿も現われますが、
雷鳴とともに黒い雲が空を覆い始め、なにやら怪しい雰囲気に包まれます。
いまにも激しい雨が落ちてきそうなのですが、なぜかワクワク気分です。
たまには雨に打たれながら歩くのも悪くはないし、
流れるガスが低山とは思えぬ神秘的な雰囲気を醸し出しつつあります。
しかし、雲の流れは速く、雨を落とすことも忘れ雷鳴とともに遠ざかって行き、
再び木々間からは明るい陽射しが差し込んだりと天気は目まぐるしく変化します。

和田集落まで1.2kmの最初の和田分岐を迎えます。
登山標識には「落合3.4km、上沢井2.7km、陣馬山1.5km」とあります。
この分岐から和田へと下る道は『ふじ乃町の地名』によると「コナラオネ」の名があります。
「コナラオネ」は「小楢(奈良)尾根」とでも書くのでしょうか?
分岐から先、尾根は広がりを見せ、緩斜面の平場が続きます。
『ふじ乃町の地名』には「オデーロ」の名が見られます。
これは「天平(デンデーロ)」系の地名でしょうか?
そうすると「オデーロ」は「御平」や「小平」の字を当てるのかもしれません。
『ふじ乃町の古道』には「小平」の文字が当てられ、和田まで1.8km分岐付近の地名としています。


和田分岐(和田まで1.8km分岐)
「右わだかまさわ 左ぐんなゐ」の道しるべがある


武州の山から雲が湧きあがる

和田集落まで1.8kmの二つ目の和田分岐には自然石の道しるべが置かれています。
登山標識の表示は「落合4.3km、上沢井3.6km、陣馬山0.7km」とあり、
石の道しるべには「右わだかまさわ 左ぐんなゐ」と刻まれています。

この石の道しるべについて『藤野町史』では、
  「甲州裏街道といわれた和田峠の通り以前の道と思われる。
  これから東へ明王峠を経て、小仏、恩方に通ずる」 と解説されています。

『あしなか第220号』の「陣馬山付近の山越え道」では、先の自然石の道しるべ同様
  「これも案下方面の人のために造立されたと思われる」 とあります。

石の置かれた向きから推測すると、
案下・恩方方面からやって来る人々のために据え置かれたことは容易に想像できます。
往時、山越えの道を歩く人にとって、陣馬山の山頂を踏むことは必ずしも必要なことでは
なかったはずで、少しでも楽なルートで、かつ安全であることが重要視されたことでしょう。
地形の弱点をつき、なるべく平坦で、少しでも短い距離を歩くことを望んだはずです。
古い地形図には陣馬山頂に寄らずして、その南面をトラバースする破線道が描かれています。
この道が奈良子峠や底沢峠と接続された一連の山越え道であったことを窺がわせています。

『ふじ乃町の古道』には、石の道しるべから分岐する道について次のように書かれています。
  「ここから道を陣馬山中腹を東に向って横切り、
  栃谷尾根を経て千馬尾根(陣馬高尾縦走路)に出る。
  尾根道を下ると奈良子道の交叉点に出会う。
  ここから左に折れオキナツルシ沢沿に上案下(八王子市恩方町)に至る道である。
  この古道は山の稜線と山腹を利用した道で人手も余りかからず、
  陣馬山の南側を通っているため人道としては都合の良い道であったと思われる。
  しかし、駄馬が多く通るようになってから狭くなり和田峠の新道が開かれたものと推考される。
  道標には何れも年代がなく建立年月は不明である。」  

木製の登山標識が数年で朽ち果ててしまうのに比べて、石の道しるべは
長い間、風雨に耐えていまでも道しるべとしての役割を果しています。
登山標識を設置する公的機関も、このような味のある石の道しるべを設置すればいいのにと
思わずにはいられません。初期費用が木製標識よりかかるかもしれませんが、
長い目で見れば経済的ではないでしょうか。


白馬像の尻尾


栃谷尾根の下り始めは木段と土嚢積みの急下降

陣馬山直下の短区間の木製階段(立石坂)に喘げば、すぐに山頂茶屋の屋根が見えてきます。
この頃には、再び頭上に梅雨の晴れ間の青空が広がっています。
山頂付近は一雨あったのか水溜りが出来てぬかるみ、少し蒸し暑くもありますが、
梅雨とは思えぬ爽やかな風が時折吹き抜けます。
醍醐丸や要倉山、市道山方面では山から盛んにベールのような雲が湧きあがっています。

山頂の白馬像は目障りだと思ったこともありますが、何度も見ていると愛着も湧きます。
もしかしたら白馬像は登山者を落雷から護る避雷針の役を兼ねているのでしょうか?
山頂のベンチに腰掛け、二枚重ねの靴下を脱いで乾かします。
カバンからチョコクロワッサンを取り出してパクつきますが、ねっとりしたチョコレートが
靴裏の泥をなめているような気分にさせもします。
烏龍茶で口を漱ぐと、早々に山頂を辞して、栃谷尾根の下降に取り掛かります。


姫谷温泉分岐(伝通分岐)
ここが「笠松峠」なのだろうか?


p620付近
「中澤ノ頭」や「トチクボ頭」と呼ばれている場所だろうか?

「陣馬登山口バス停5.5km、藤野駅7.4km」の指導標を横目に、
木製階段と土嚢積みの急下降で栃谷尾根歩きが始まります。
登りには使いたくない尾根道ですが、山頂直下の急降下も長くは続きません。
陣馬山南面をトラバースする踏み跡を横断すると、傾斜は緩み、ほぼ平坦な道へと姿を変えます。

栃谷尾根には、「菅立」、「丸デッコ」、「中澤ノ頭」なる小峰が存在するようですが、
現実の小さな突起のうちから、それらを特定することは至難であります。

HP『悠遊趣味』さんの山行レポート「552陣馬山11」に掲載されているオリジナル地図から
察すると、「笠松峠」は「姫谷温泉分岐」を指しているように思われます。
現地には、「姫谷滝見露天風呂、大岩風呂、釜めし」の温泉宣伝看板はありますが、
「笠松峠」の標識などありはしません。
ちなみに、ここで宣伝看板の誘い文句にまんまと乗り、栃谷尾根を外れて左折し、
姫谷温泉へ向かう道は、かなり足元の悪い急斜面の道で、
登山客を温泉へ導くために強引に開削したという感が否めません。


『山小屋』 「武相國境(ニ)-陣馬山・景信山-」(岩科小一郎著) より
「大沢頭」「トチクボ頭」の名が見られる

地形図p620付近が「中澤ノ頭」なのでしょうか?
『ふじ乃町の地名』ではこの付近の南東斜面に「栃久保」の名が付されています。
古い山雑誌『山小屋』の「武相國境(ニ)-陣馬山・景信山-」(岩科小一郎著)の挿入図では、
「トチクボ頭」の山名が見られますから、「中澤ノ頭=トチクボ頭」なのかもしれません。

さらに尾根を南下した先の小ピークを『ふじ乃町の地名』では「栃谷山」としています。
標高は597.3mで、その南東斜面には「奈智久保」の字名が付されています。
「栃谷山」は栃谷集落背後の山という意味で、特定のピークを限定した呼び名では
ないのかもしれませんが、『新編相模国風土記稿』にも「戸千谷山」の名が見られます。
「戸千谷=栃谷」のことなのでしょう。

『青春山歌-新編相模国風土記稿の山を行く-』の「戸千谷山」の項によると、
  「栃谷集落から40分ほどで山頂。昔は炭などを運搬するため馬を引いて陣馬山を越え、
  八王子へ行く道だった。途中で弱って死んだ馬たちのために馬頭観音が
  あちこちに残っている。また、山が険しく多くの修行僧が修行し、山中で飢餓や遭難で
  亡くなった僧を弔った野仏も数多くある。」 との記述が見られます。

栃谷尾根には石の道しるべこそ見られませんが、
一ノ尾尾根同様に古くから交易の道として歩かれていたことが想像されます。


栃谷集落下降分岐


松が生えているからここが「笠松峠」だったりして・・・

藤野町基準点5を通過し、竹柄の浮彫りされた石祠を林の中に見ると、
地形図p531を目前にして、道は尾根を外れ左折し、栃谷の集落へと下降し始めます。
この分岐点には松の木が生え、木製の小社が祀られています。
また、松の根元には丸い自然石の馬頭観音らしきものも置かれています。
この場所は一見すると、峠の雰囲気があり、栃谷集落からの道が尾根を越え、
踏み跡程度ですが西沢川側へと越えています。
松が生えているのだから、ここが探し求めていた「笠松峠」ではないかとも一瞬思いますが、
断定する資料が手元にはありません。

木製の小社には、狐の置物が添えられているのでお稲荷様なのでしょうか?
それともお蚕様を祀る小社なのでしょうか?
小社の扉を開けるのは失礼と思い、中は確認していません。
集落に向けて尾根を外れると、すぐに畑が現われ、民家の屋根も見え始めます。
茶畑の向うには矢ノ音からイタドリ沢ノ頭へと続く尾根や小渕丘陵の起伏を望むことができます。


栃谷集落の上部斜面から小渕丘陵を望む


山道の入口には地蔵などの石造物が祀られている

畑の中の細道はコンクリート舗装されており、ここで土道ともお別れです。
無人野菜売場がいくつかありますが、こんな道を歩くのはハイカーの他にはなく、
客を登山者に限定した珍しい無人野菜売場です。
それもこれから山に登る人が野菜を買って荷を重くすることは考えられないので、
栃谷尾根を下って来た登山者を対象とする限定的商法であるといえます。

山道の入口には毛糸の帽子にお洒落なハート柄のトレーナーを着て、よだれかけを掛けた
可愛らしいお地蔵様が祀られています。
その脇には何が書かれているか判読困難な石造物なども置かれ、
栃谷尾根の交通が古くは盛んであったことを窺がわせています。

結局のところ、栃谷尾根を歩いたところで「笠松峠」がどこであったのか分からず仕舞でしたが、
体にカビの生えそうな梅雨の時季に山を歩けただけで満足を得てしまうのでした。

(峠行2009.06.17)

【参考文献】

『あしなか第220号』 「陣馬山付近の山越え道」 杉崎満寿雄著 山村民俗の会
『山小屋』 「武相國境(ニ)-陣馬山・景信山-」 岩科小一郎著
『山と高原34号』 「栃谷尾根と鶏冠尾根」 神山弘著
『青春山歌-新編相模国風土記稿の山を行く-』 神奈川県高体連登山部 かなしん出版 1988年
『藤野町史 資料編下 近現代・民俗』 発行・編集藤野町 平成6年
『ふじ乃町の地名』 藤野町教育委員会 藤野町文化財保護委員会編集 昭和54年
『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年

【下山後は図書館へ】

相模原市と合併して藤野町の図書室がリニューアルされました。
藤野駅近くの藤野中央公民館の二階に図書室があり、郷土資料などを見ることができます。
山を早く降りたら図書室で時間調整をするのも良いかもしれません。
『ふじ乃町の古道』、『ふじ乃町の文化財』、『ふじ乃町の地名』などは山歩きの参考になります。
図書室にコピー機がないのが残念ですが。

また、お隣りの上野原市西原地区の資料も揃っています。
上野原市立西原中学校が発行した以下の資料はどれもこれも素晴らしいものばかりです。
『西原の神仏信仰』、『郷土西原の研究』、『西原の巨樹』、『西原のことばで綴る樹木たち』、
『西原の屋号と年中行事』、『松姫伝説の里・西原』、『西原の山・川・地名・旧跡』 など。

【その後】

HP『悠遊趣味』さんが笠松峠の探索を行い、山行レポート「562陣馬山12」(2009.07.16)を発表されています。
その後も連続して笠松峠探索レポをアップされています。

【補足資料・1】


『中央沿線の山旅』(アルパインガイド18・羽賀正太郎著・昭和36年・山と渓谷社)挿入図より転載
伝通から栃谷尾根を越えて西沢へつながる道に「傘松峠」の名前が見られる。

【補足資料・2】

「(栃谷から)・・・栃谷尾根へ達する立派な道が迷路もなく続いている。休石で一休みし、登り詰めた所が中沢の頭で、
是を降りると笠松峠である。 笠松峠は栃谷奥の伝通から西沢の上に出て佐野川へ通ずる峠であったが、
今は廃道の如くなって踏跡も微かである。」
                                 (『日本山岳案内・2』 鉄道省山岳部編 博文社 昭和15年)