★ 長尾尾根から熊倉山そしてトヤド浅間へ

栗坂峠(九里坂)・浅間峠


栗坂峠の標識

東京都と山梨県の都県境尾根である「笹尾根」の末端を歩いてきました。
ふつう三頭山から浅間峠までを「笹尾根」と呼ぶようですが
三国峠までを含めて「笹尾根」と呼ぶこともあるようです。
「笹尾根」は素敵な峠の宝庫です。
今回は栗坂峠と浅間峠の二ヶ所の峠を通過しました。

二ヶ所の峠と書きましたが、
栗坂峠と浅間峠は同一とする説もあります。
同一の性格を持った異なるポイントという表現が
適切なのかもしれません。

今回は峠目当ての訪問というよりは、
「長尾尾根」と「トヤド浅間」が訪問の主目的です。
峠の謎解きはまたの機会に・・・。

 「暖かい春の陽気になるでしょう」という天気予報の言葉を信じて原チャリで檜原村へ向かう。
宮ヶ瀬湖畔の温度計は8℃! 寒いじゃないか! 
手はかじかみ、足はブルブルしている、ヘルメットの中では鼻水が流れ出す。
往路はまだいいが、下山後に汗をかいた体で日の暮れた復路に耐え得ることはできるだろうか。

トヅラ峠、牧馬峠を頼りない50ccのエンジンで越えるも路面はさっきまで凍っていましたという状態だ。
上野原町で名物「酒まんじゅう」の蒸し器から昇るホカホカの蒸気の誘惑に負けそうになったが
貧乏人は空腹も寒さも我慢しなければならない。

自分のお腹を満たすことよりも健闘たくましい原チャリ様の燃料をまず補給しなければならない。
山の中でのガス欠は避けたいからね。
役場前のスタンドで給油をして驚いた、リッター、なんと135円!
ハイオクでも入れ間違えたのかと思ったが、しっかりレギュラーだった。
でも、この価格設定は予想外のイレギュラー。
それでも往復交通費が1000円以下で済むのだから寒さを我慢すれば原チャリ登山も有効か。

長寿の里「棡原」から甲武トンネルを抜けるべく坂路にとりついたエンジンは唸りを上げる。
停まってしまうのではないかというほどの恐ろしいまでの低速だが景色を見るには丁度良い。
甲武トンネルを抜けるとそこは雪国だった。
日当たりの悪い南秋川の谷はまだ春浅かった。


落合橋
矢沢林道と熊倉林道の分岐点

南郷下川乗から矢沢林道に入る。
林道沿いの矢沢の流れが美しい。
適度な水量と石付きの苔、川辺の水草、
自然のままの様態が大変美しい沢だ。

熊倉林道との分岐である落合橋に原チャリを乗り捨てる。
よく遠距離をガンバッテくれたと感謝。
時間はちょうど12時。
登りに2時間、尾根で1時間、下山に2時間というアバウトな計算で
5時までには再びこの地に戻って来れるだろうと準備にとりかかる。
準備といってもヘルメットを脱ぐだけだけど。


森林組合道

熊倉沢に沿った熊倉林道の土道を進み
しばらく行くと対岸の斜面に尾根に向かうジグザグ道が発見できる。
『新ハイキング525号』で紹介されていた尾根取り付きの道である。
この道は森林組合が整備したと『新ハイ』には書かれている。

紀行文掲載から数年経過していて
熊倉沢を渡る木製の橋はすでに流失しているが
飛び石で容易に徒渉することができる。

ジグザグ道の木製の土留めは腐りかけてはいるが
踏み跡は明瞭で、よく造作された道である。
ジグザグを交えて小尾根に取り付き、一気に高度を上げる。
薄い板状の石が散乱した部分もあるので浮石には注意だ。
場所によっては切れ落ちた斜面を背にするところもあるので
一般向けコースではない。


最初の小ピーク

小尾根はモミの大木あり、アセビありの落葉樹林帯。
葉の落ちた樹林の向こうにドッシリしたトヤド浅間の山容が望まれる。

そろそろ急登も終わるかという頃、行く手に植林地がせまるが、
最後の最後までジグザグを切って暗い植林地に近付かないのが
心憎い演出である。

登りつめた最初の小ピークには
「自然環境保全地域・特別地区」の赤いプレートが立っている。
ここで森林組合道は終わるが、
後は南に向けて高処を目指して踏み跡を辿ればよい。


p844

p844はのっぺりしたピーク。
のっぺりしているだけに、この尾根を下降に利用する場合は
進路の拾い出しに戸惑うかもしれない。

明るい樹林に囲まれた気持ち良い場所なので
テルモスの紅茶と99円ショップのアップルパンで侘びしい昼食とする。
以前は99円ショップのクリームパンがマイブームであったが
最近はアップルパンに御執心である。
どちらにしても侘びしい食事に変わりは無い。


低い笹の快適な尾根道

p844から甲武国境稜線(都県境尾根)に出るまでが
この尾根の核心部で自然林の中に背の低い笹道が続く。
ここは奥秩父ではと錯覚させられる快適な道である。

さて、この尾根であるが先述の『新ハイキング』では
便宜上「仮称・熊倉山北尾根」としているがこれには異論もあろう。
(熊倉山には別に小さいながらも北尾根が存在しているから)

『奥多摩』(宮内敏雄著)によると、
「軍荼利山・・・この峰から北に蹴出す尾根は長尾(なごう)尾根と
呼ばれ熊倉沢と矢沢を分割しているのである。」
だとすると「長尾尾根」が適切ではないだろうか。


付近一帯は南郷の入会地のようだ

『奥多摩の尾根と沢』(奥多摩山岳会編)でも
軍荼利山の位置に疑問を呈しつつも「長尾尾根」を支持している。

心地好い笹道の尾根の所々に
「南郷共益会所有地」の看板が目立つ。
一帯の山林は麓の南郷の入会地のようである。
この看板は浅間尾根の松生山周辺でも見かけたことがある。
昭和のはじめ、南郷地区は130戸あり、うち85軒が炭を焼いていた
というから広大な山林が必要であったのだろう。

「長尾尾根」の「長尾(なごう)」は、
「南郷(なんごう)」の転化かもしれない。
都県境尾根から南郷の集落に下る尾根だから、
あるいは南郷所有の山林だから「南郷尾根」と呼ばれ
いつからか「長尾尾根」に変化したのかもしれない。


軍荼利山の標識裏に出る

甲武国境稜線(都県境尾根)に飛び出した所は、
ちょうど「関東ふれあいの道」の標識の裏手で
「南郷都有林」の看板も立っている。

標識の指示板には「←熊倉山0.4km、浅間峠2.6km」と
「三国峠0.7km、生藤山0.9km→」と書かれている。
標識をよく見ると柱の裏側にマジックで「軍刀利山」と書かれていた。
ここがこのマジック書きの通り軍荼利山なら登ってきた尾根は
「長尾尾根」で間違いないことになるだろう。


軍荼利山から熊倉山への道 まさに笹尾根

軍荼利山から熊倉山への道は小笹の緑が美しい道だった。
芽の膨らんだ木々、春を待ちかねた小鳥達の囀り、午後の優しい陽射し。
でも熊倉山から先は、一部分、足首までの雪が残っていた。
テニスシューズはドロドロ、グチャグチャ、スベスベ、ヒヤヒヤ。
浅春と残冬が混在した尾根歩きだった。


熊倉山下の山ノ神と道祖神

熊倉山からの下り途中の特徴ある形をした楢の大木の根元に
明治期の山ノ神と道祖神が祀られている。
刻銘によると上野原側の村人によって祀られたものらしい。

山ノ神と道祖神、あるいは馬頭観音が
同じ場所に祀られることは珍しいそうで、
この山ノ神の写真は『山の神の民俗と信仰』(佐藤芝明著)でも
紹介されている。


栗坂峠

p879を過ぎると栗坂峠である。
「関東ふれあいの道」の道標に手製の「栗坂峠」の標識が
括り付けられている。
この標識が無ければ誰もここが峠とは気付かずに
通り過ぎてしまうことだろう。

浅間峠と栗坂峠は同一であるという説もあるし、実際そうであろう。
『奥多摩』(宮内敏雄著)には、
「人に依って宮のある処を浅間峠、降りとなる処を栗坂峠というが、
同一とするのが正しいのである。」 とある。 【*1】

『甲斐国誌』にも栗坂峠について
「浅間明神の小祠あり境の宮と称す」 とあるので、
現在浅間社の祠がある浅間峠が栗坂峠とも呼ばれていたことが窺える。

『新編武蔵風土記稿』巻之百十一でも栗坂峠となっている。
「檜原谷より甲斐、相模二國への通路は上川乗より栗坂峠を越えて
原野に出づ、ここより甲斐國都留郡へ出る道、
及び相模國津久井縣へ出る道と両岐あり」とある。


栗坂峠 上野原側の道

浅間峠の檜原村側の道は上川乗への一本であるが、
上野原側へは地形図に道の記載がある猪丸・椿への道と、
一旦、p879まで都県境尾根を辿り、
地形図からは消えてしまったp879の南西尾根を伝い小伏集落に
下る二本の道があった。

そこで後世、便宜上、祠のある峠を浅間峠、
p879の南西尾根への巻き道分岐を栗坂峠と区別して
それが定着していったものと推測される。
(あくまで推測で確証は無い)
その地形図から消えてしまった上野原側への道は
小笹に埋まっているが、
興味があるので機会があれば調査してみたいと思う。


浅間峠 全景

『五日市町の古道と地名』(五日市町教育委員会発行)には、
「川乗浅間(笹尾根)の九里坂峠も今は《栗坂峠》であるが、
元は六町一里に由来した《九里坂》だったのである」との一文がある。

一町は109mだろうか?109×6=一里ということ?
654m×九=5886mという計算でいいのだろうか?
だとすると、5.8kmとはどこからどこまでの距離だろうか?
上川乗から猪丸の距離だろうか?


峠の神木

栗坂峠の標識地点からp881の東側を巻いて進むと
いわゆる浅間峠で、広々とした場所に東屋が建ち賑々しい。

峠の神木と思しき注連縄の張られた二本の大木の根元に
護られるようにして浅間社が祀られている。
「関東ふれあいの道」の看板やら石標があり
俗化の感も否めないがそれなりに峠の雰囲気が漂う。
古い石造りの道しるべもいい味を醸し出している。

峠のベンチに腰掛けてテルモスの紅茶と塩せんべいをパクつく。
人の姿の無い峠は静寂に包まれ、
ゆっくりした時の流れを感じる。


浅間峠の石祠

幾人もの旅人がこの峠を越えたことだろう。
富士詣の人々が、御岳参詣の一行が、
旅芸人の一座もこの峠を越えたことだろう。
五日市に交易に出た「サイバライチュード」も峠を越えた。 
【*2】
そんな峠のかつての賑わいを想像するひと時は愉しいものだ。

現在峠のある尾根下には朝方原チャリで通り抜けた
「甲武トンネル」と「栗坂トンネル」が貫通している。
車社会の現代にあって、両地域を結ぶ貴重な路線となっている。


嘉永年間の馬頭尊

浅間峠から上川乗へ向けて峠道を下り始めて数分の所に
嘉永年間の馬頭尊が祀られている。【*3】
馬の往来もあった峠道、事故で命を落とした馬たちもいたのだろう。

その少し先、「燃やすまい水のふるさと、緑の資源」の看板が
あるところがトヤド浅間への道の分岐となる。
踏み跡やテープの目印もあり見落すことはないだろう。
小ピークを越えると植林と自然林に挟まれた道となる。


笹ヤブも多少ある

トヤド浅間直下の鞍部に向けては笹ヤブ道の下降です。
丹沢ならダニに取り付かれるような道ですが、
奥多摩のそれも集落に程近い低山ならそんな心配もありません。

笹尾根という幹線尾根、メジャールートからは外れていますが
トヤド浅間に向う踏み跡はしっかりしています。
三角点マニアが大挙して訪れているのでしょうか?

山頂直下の急登を喘ぎ喘ぎ汗して登れば
北面は葉を落とした自然林、南面は植林のやや小広い山頂です。


トヤド浅間 831m

手作りの標識が二つ立木に括り付けられていました。
一つには山名の他に「ズンガリ」と書かれています。
「ズンガリ」とは何を意味するのでしょうか?
地元民が呼ぶトヤド浅間の別名なのでしょうか?

『新ハイキング512号』の紀行文の中では、
「軍刀利が訛ったものではないか」と推察しています。
「ずんぐり」とした山容でもないし謎である。


トヤド浅間の石祠

三角点から少し離れたところに石造りの祠が鎮座している。
トヤド浅間というぐらいだから浅間神社をお祀りしたものだろうか?
はたまた山ノ神だろうか?【*4】

それにしても「トヤド」って何?
やっぱり「鳥屋戸」だろうか?
小広い山頂だから小屋掛けをして
霞網で山鳥を獲っていたのかもしれない。


トヤド浅間真北尾根の急下降

トヤド浅間からの下降は大失敗だった。
北東尾根から京岳へ降りる予定であったが、
真北尾根も下れそうだったのでそれに引っ掛かってしまった。

下り始めは急傾斜ではあるが、
植林と自然林の境の隙間を利用して快調に下降することが出来た。
黄色のペンキマークもあり正解かなとも思った。
しかし、次第に自然林は谷筋に消え、尾根を拾い続けると
植林ばかりとなりヤブが勢いを増してきた。
傾斜もきつくなり45度超となり、両手両足フル活用の下降となる。

踏み跡もなければ、獣道すらない。
やや、これは困ったことになったとは思いつつも、
いま下った急斜面を山頂まで登り返すことなどできやしない。


激戦のテニスシューズ

これは覚悟を決めて突進するのみ。
植林地内なのだからいずれ作業道も見つかるだろうと
腹を決めて進むも、結局、最後の秋川の流れにぶつかるまで
急傾斜地でのヤブとの戦いの連続であった。

特に後半は急傾斜地にガレが加わり散々であった。
ゴロゴロした大小のガレ石の上に定植されていて足場が非常に悪い。
尚且つヤブと急傾斜である。
自分の崩した石で落石の恐怖を味わう始末であった。

やっとのことで降り立った秋川の川辺。
激戦を終えたテニスシューズはドロドロ、ボロボロ。
さらに冷たい秋川の流れを徒渉しなければならない。
あと数メートル川幅が広かったら足は凍り付いていたかもしれない。
檜原街道に這い出た所に「滑石」の看板と武田組の資材置場あり。
目標降下地点よりやや西に流されてしまった。

トボトボ歩いて原チャリを停めた落合橋には5時に無事到着。
一応、予定時間通りだ。
さて、ここから日も暮れて寒々した中を、
汗が冷えきった体、徒渉で凍えた両足にムチ打って
寒風を浴びて原チャリで帰還しなければならない苦痛といったら
トヤド浅間下降の激戦など比ではない。

「暖かい春の陽気になるでしょう」という天気予報を信じて来たものの
「朝晩は冷え込みがまだ厳しいでしょう」とも言ったかもしれないと、
軽率な原チャリ山行を痛切に反省しつつ帰路についた。

【*1】 昭和初期の古い山の雑誌である『山小屋』の創刊号、
    「三頭山より三國山まで」(岩科小一郎著)にも浅間峠・栗坂峠について興味深い一文がある。

    「栗坂峠と浅間峠は異称同体かと思っていたら、全然別物として扱う人が多い。
    たかが六町か七町の武路(ママ)に二つの峠名も可笑しなものではないか。
    『甲斐国誌』に従うと、確かに異称同体である事が判然としている
    “峠ニ浅間ノ小祠アリ境ノ宮トイフ”この一項は、
    浅間峠名の起源を語るものではあるまいか。
    一説には、本名は浅間峠であって、栗坂と云うは棡原村猪丸から
    尾根に至るまでの長い坂路の称であるとも称えるが、
    そうして見ると尚と二者同一である事が判然としてくる。
    現在甲州では浅間峠を用いている。」

    さて、浅間峠が本名か?栗坂峠が本名か?謎は深まる。

【*2】 『檜原村紀聞』(瓜生卓造著・東書選書) より

    「檜原と山梨の交渉はよほど頻繁だったと見える。笹尾根には、東からかぞえて、三国、浅間、
    日原、棡原、笛吹、西原など、いくつもの峠路が山梨県に通じており、馬も通った。・・・
    着ゴザ姿で、首に風呂敷包みを下げた格好を、《サイバライチュード》といった。
    山梨西原宿の市の人という意味であろう。西原の人はこういう格好で、檜原に入り、
    困難な迂回路をものともせず五日市へ交易に出かけた。」

     また、同著には往時の下川乗の様子と浅間峠の祠についても次のような記述がある。

    「下川乗の上下はことに断崖が多く、川筋の交通は常に危険が伴っていた。
    本宿に出るのは難儀で、里人は南の稜線を越えて、棡原(現上野原町)と交渉を持った。
    むかしの住人も山梨の方からやってきたのだろう、という。

    北谷(北秋川)との交通も容易ではなかった。
    いったん上川乗に出て、浅間尾根を越えていくが、上川乗へは秋川の両岸に断崖が落ち込んで、
    裏手の山を高捲きして下らなければならなかった。

    いきおい本宿や北谷との交渉は少なく、安全で楽な国境を越えて山梨県に出た。
    越える峠路は浅間峠で、生藤山までの間が浅間尾根である。
    村の中央のものを小岩浅間、こっちを川乗浅間といって区別していた。
    ・・・川乗浅間の尾根上にあった浅間神社を再建した。明治26年のことである。
    檜原には小岩浅間と、川乗浅間と、浅間神社も二つあった。
    浅間神社はもとは上川乗の社だったが、S氏が峠一帯の土地を買ったとき、神社の境内が
    分筆登記されてなかったため、自動的にS家のものとなった。
    S氏は朽ちた社を石造の物に替えた。・・・高さ数十センチ、宮型の、かわいらしい塔であった。
    祠前には杉の大木と《馬頭尊》と刻んだ供養塔がある。
    山梨県側と共同で建てたもので、馬頭尊という馬頭観音は村内で唯一のものである。」

                                                         (一部改変)

    『檜原村史』によると、浅間峠の浅間神社の祭神は木花開耶姫命、大山津見命という。
    毎年7月15日には御神酒と小豆飯を供え、それを下げて親類に配る。
    これを食べるとアツケ(日射病)にならないという言い伝えがある。 
    また、峠の明治13年に建てられた馬頭尊は用竹、小伏、猪丸、日原の村名が記され、
    明治になっても馬の往来があったことを物語っている。

【*3】 『檜原村史』によると、嘉永6年(1853)の馬頭観音は上川乗のHさんが繭を買入れてくる途中で
    馬が落ちて死んだために建てたと伝えられている。

【*4】 『檜原村史』によると、山頂の石祠は山神社で祭神は大山祗命という。
    『村史』では「トヤド浅間」ではなく「トヤオネ」と記されている。

【参考文献】

『奥多摩』 宮内敏雄 百水社 復刻版1992
『新ハイキング』 512号 1998.6 「熊倉山南西尾根」 松浦隆康
『新ハイキング』 525号 1999.7 「熊倉山北尾根」 松浦隆康
『山小屋』創刊号 「三頭山より三國山まで」 岩科小一郎
『檜原村紀聞』 瓜生卓造著 東書選書
『甲斐国誌』 『新編武蔵風土記稿』 『檜原村史』

● 以前の浅間峠・栗坂峠レポを見る
● 後日、浅間峠・栗坂峠の
上野原側を歩いたレポを見る
● 後日、浅間峠の檜原側、栗坂峠から小伏への道を歩いた
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