★ 長尾尾根から熊倉山そしてトヤド浅間へ
栗坂峠(九里坂)・浅間峠
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東京都と山梨県の都県境尾根である「笹尾根」の末端を歩いてきました。 ふつう三頭山から浅間峠までを「笹尾根」と呼ぶようですが 三国峠までを含めて「笹尾根」と呼ぶこともあるようです。 「笹尾根」は素敵な峠の宝庫です。 今回は栗坂峠と浅間峠の二ヶ所の峠を通過しました。 二ヶ所の峠と書きましたが、 今回は峠目当ての訪問というよりは、 |
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| 「暖かい春の陽気になるでしょう」という天気予報の言葉を信じて原チャリで檜原村へ向かう。 宮ヶ瀬湖畔の温度計は8℃! 寒いじゃないか! 手はかじかみ、足はブルブルしている、ヘルメットの中では鼻水が流れ出す。 往路はまだいいが、下山後に汗をかいた体で日の暮れた復路に耐え得ることはできるだろうか。 トヅラ峠、牧馬峠を頼りない50ccのエンジンで越えるも路面はさっきまで凍っていましたという状態だ。 自分のお腹を満たすことよりも健闘たくましい原チャリ様の燃料をまず補給しなければならない。 長寿の里「棡原」から甲武トンネルを抜けるべく坂路にとりついたエンジンは唸りを上げる。 |
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南郷下川乗から矢沢林道に入る。 林道沿いの矢沢の流れが美しい。 適度な水量と石付きの苔、川辺の水草、 自然のままの様態が大変美しい沢だ。 熊倉林道との分岐である落合橋に原チャリを乗り捨てる。 |
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熊倉沢に沿った熊倉林道の土道を進み しばらく行くと対岸の斜面に尾根に向かうジグザグ道が発見できる。 『新ハイキング525号』で紹介されていた尾根取り付きの道である。 この道は森林組合が整備したと『新ハイ』には書かれている。 紀行文掲載から数年経過していて ジグザグ道の木製の土留めは腐りかけてはいるが |
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小尾根はモミの大木あり、アセビありの落葉樹林帯。 葉の落ちた樹林の向こうにドッシリしたトヤド浅間の山容が望まれる。 そろそろ急登も終わるかという頃、行く手に植林地がせまるが、 登りつめた最初の小ピークには |
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p844はのっぺりしたピーク。 のっぺりしているだけに、この尾根を下降に利用する場合は 進路の拾い出しに戸惑うかもしれない。 明るい樹林に囲まれた気持ち良い場所なので |
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p844から甲武国境稜線(都県境尾根)に出るまでが この尾根の核心部で自然林の中に背の低い笹道が続く。 ここは奥秩父ではと錯覚させられる快適な道である。 さて、この尾根であるが先述の『新ハイキング』では 『奥多摩』(宮内敏雄著)によると、 |
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『奥多摩の尾根と沢』(奥多摩山岳会編)でも 軍荼利山の位置に疑問を呈しつつも「長尾尾根」を支持している。 心地好い笹道の尾根の所々に 「長尾尾根」の「長尾(なごう)」は、 |
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甲武国境稜線(都県境尾根)に飛び出した所は、 ちょうど「関東ふれあいの道」の標識の裏手で 「南郷都有林」の看板も立っている。 標識の指示板には「←熊倉山0.4km、浅間峠2.6km」と |
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| 軍荼利山から熊倉山への道は小笹の緑が美しい道だった。 芽の膨らんだ木々、春を待ちかねた小鳥達の囀り、午後の優しい陽射し。 でも熊倉山から先は、一部分、足首までの雪が残っていた。 テニスシューズはドロドロ、グチャグチャ、スベスベ、ヒヤヒヤ。 浅春と残冬が混在した尾根歩きだった。 |
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熊倉山からの下り途中の特徴ある形をした楢の大木の根元に 明治期の山ノ神と道祖神が祀られている。 刻銘によると上野原側の村人によって祀られたものらしい。 山ノ神と道祖神、あるいは馬頭観音が |
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p879を過ぎると栗坂峠である。 「関東ふれあいの道」の道標に手製の「栗坂峠」の標識が 括り付けられている。 この標識が無ければ誰もここが峠とは気付かずに 通り過ぎてしまうことだろう。 浅間峠と栗坂峠は同一であるという説もあるし、実際そうであろう。 『甲斐国誌』にも栗坂峠について 『新編武蔵風土記稿』巻之百十一でも栗坂峠となっている。 |
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浅間峠の檜原村側の道は上川乗への一本であるが、 上野原側へは地形図に道の記載がある猪丸・椿への道と、 一旦、p879まで都県境尾根を辿り、 地形図からは消えてしまったp879の南西尾根を伝い小伏集落に 下る二本の道があった。 そこで後世、便宜上、祠のある峠を浅間峠、 |
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『五日市町の古道と地名』(五日市町教育委員会発行)には、 「川乗浅間(笹尾根)の九里坂峠も今は《栗坂峠》であるが、 元は六町一里に由来した《九里坂》だったのである」との一文がある。 一町は109mだろうか?109×6=一里ということ? |
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栗坂峠の標識地点からp881の東側を巻いて進むと いわゆる浅間峠で、広々とした場所に東屋が建ち賑々しい。 峠の神木と思しき注連縄の張られた二本の大木の根元に 峠のベンチに腰掛けてテルモスの紅茶と塩せんべいをパクつく。 |
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幾人もの旅人がこの峠を越えたことだろう。 富士詣の人々が、御岳参詣の一行が、 旅芸人の一座もこの峠を越えたことだろう。 五日市に交易に出た「サイバライチュード」も峠を越えた。 【*2】 そんな峠のかつての賑わいを想像するひと時は愉しいものだ。 現在峠のある尾根下には朝方原チャリで通り抜けた |
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浅間峠から上川乗へ向けて峠道を下り始めて数分の所に 嘉永年間の馬頭尊が祀られている。【*3】 馬の往来もあった峠道、事故で命を落とした馬たちもいたのだろう。 その少し先、「燃やすまい水のふるさと、緑の資源」の看板が |
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トヤド浅間直下の鞍部に向けては笹ヤブ道の下降です。 丹沢ならダニに取り付かれるような道ですが、 奥多摩のそれも集落に程近い低山ならそんな心配もありません。 笹尾根という幹線尾根、メジャールートからは外れていますが 山頂直下の急登を喘ぎ喘ぎ汗して登れば |
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手作りの標識が二つ立木に括り付けられていました。 一つには山名の他に「ズンガリ」と書かれています。 「ズンガリ」とは何を意味するのでしょうか? 地元民が呼ぶトヤド浅間の別名なのでしょうか? 『新ハイキング512号』の紀行文の中では、 |
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三角点から少し離れたところに石造りの祠が鎮座している。 トヤド浅間というぐらいだから浅間神社をお祀りしたものだろうか? はたまた山ノ神だろうか?【*4】 それにしても「トヤド」って何? |
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トヤド浅間からの下降は大失敗だった。 北東尾根から京岳へ降りる予定であったが、 真北尾根も下れそうだったのでそれに引っ掛かってしまった。 下り始めは急傾斜ではあるが、 踏み跡もなければ、獣道すらない。 |
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これは覚悟を決めて突進するのみ。 植林地内なのだからいずれ作業道も見つかるだろうと 腹を決めて進むも、結局、最後の秋川の流れにぶつかるまで 急傾斜地でのヤブとの戦いの連続であった。 特に後半は急傾斜地にガレが加わり散々であった。 やっとのことで降り立った秋川の川辺。 トボトボ歩いて原チャリを停めた落合橋には5時に無事到着。 「暖かい春の陽気になるでしょう」という天気予報を信じて来たものの |
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| 【*1】 昭和初期の古い山の雑誌である『山小屋』の創刊号、 「三頭山より三國山まで」(岩科小一郎著)にも浅間峠・栗坂峠について興味深い一文がある。 「栗坂峠と浅間峠は異称同体かと思っていたら、全然別物として扱う人が多い。 さて、浅間峠が本名か?栗坂峠が本名か?謎は深まる。 【*2】 『檜原村紀聞』(瓜生卓造著・東書選書) より 「檜原と山梨の交渉はよほど頻繁だったと見える。笹尾根には、東からかぞえて、三国、浅間、 また、同著には往時の下川乗の様子と浅間峠の祠についても次のような記述がある。 「下川乗の上下はことに断崖が多く、川筋の交通は常に危険が伴っていた。 北谷(北秋川)との交通も容易ではなかった。 いきおい本宿や北谷との交渉は少なく、安全で楽な国境を越えて山梨県に出た。 (一部改変) 『檜原村史』によると、浅間峠の浅間神社の祭神は木花開耶姫命、大山津見命という。 【*3】 『檜原村史』によると、嘉永6年(1853)の馬頭観音は上川乗のHさんが繭を買入れてくる途中で 【*4】 『檜原村史』によると、山頂の石祠は山神社で祭神は大山祗命という。 【参考文献】 『奥多摩』 宮内敏雄 百水社 復刻版1992 ● 以前の浅間峠・栗坂峠レポを見る |