イサバ・ニガイの越えた峠 A

右左口峠・迦葉坂(柏尾坂峠)・七覚峠・関原峠(野坂)

前回訪れた女坂峠(阿難坂)に続いて、今回も中道往還の峠を訪ねます。
女坂峠を訪れた後に体調を崩し、間が空いてしまいました。
新緑のこの時季は日毎に山の様子が変化します。
雑草が踏み跡を隠してしまう前に、訪れ人の少ない道は歩かなければなりません。

◇ 右左口トンネルから迦葉坂旧道を歩き右左口峠・迦葉坂峠(柏尾坂峠)へ ◇


右左口トンネル


峠道に入って最初の石仏

右左口峠へ向けてどこから歩き始めるか、やはり右左口の宿から歩き始めるのが筋というものでしょう。
しかし、事前にネットで情報を収集してみると、右左口の宿から右左口トンネルまでの沢沿いの道は、
堰堤の築造もあり、かなり荒れている模様です。

 「右左口トンネルまではとても初心者が歩けるような径ではなかったし、歩いて楽しい径でもなかった。」
  (ホームページ『ロッジ山旅』 「掲示板/迦葉坂から日蔭山へ」 2009年3月8日)

 「ヤブの上にガレた箇所が多く、自転車を押して進む。・・・・突然 径は竹ヤブの中に没してしまった。」
  (ホームページ『自転車で峠越え』 「右左口峠と迦葉坂」 2007年12月31日」)

少し不安にもなりますが、両先人とも無事に歩き通しているので問題は無いように思われます。
しかし、地形図から峠道を示す破線道が消えて久しいですし、
『山梨県歴史の道調査報告書第三集・中道往還』(山梨県教育委員会)のルート図では、
右左口の宿から右左口トンネルまでの沢沿い区間は破線表記になっていて通行難渋が予想されます。

前回の女坂峠旧道探索で学習したことを踏まえれば、沢筋堰堤地帯では旧道は消滅したと考え、
国道358号線の右左口トンネルから峠を目指すのが良策と思えます。
とりあえず、お昼からの歩行開始なので、核心部は確実に押えて置く必要があるだろうと、
右左口トンネルから峠へ向けて歩き始めることにします。

日蔭山トンネルと右左口トンネルの間に、広い路肩があるので、そこへ車を乗り捨て歩き始めます。
塔岩橋、天狗橋、里見橋とトラックの爆走する国道を進み、最後に迦葉橋を渡れば登り口なのですが、
道々、谷筋を覗きこめば、右左口の宿から上がってくる峠道が沢筋の左岸上部に目視でき、
それほど悪い状態には見えないのです。
右左口トンネルに到着後、右左口へ下る道の様子を覗いてみると、確かな踏み跡があり、
「ふるさとカルタ」の石碑も設置されていて、どうやら難無く歩けそうなので下山後に歩いてみようと思います。

「ふるさとカルタ」とは平成元年に中道町が選定したもので、町内四十四ヵ所に石碑が建てられています。
この右左口トンネル脇の石碑には、「いしだたみ 昔を語る 迦葉坂」と、
「わらんじを 代えて一ぷく 強清水」という峠道に因んだ二句が刻まれています。


伝説が残る「強清水(こわしみず)」


残念ながら清水は枯れていた

峠への登り口には中道往還の案内看板があり、歴史ある道を後世に伝えようとする
町の熱意が少なからず感じられます。(同様の看板は右左口峠頂上にも設置されている)

   「この道は甲斐の古道の一つで、若彦路と河内路のちょうど中間を通っていたことから
   中道往還と呼ばれてきました。甲州(山梨県)より駿州(静岡県)吉原、沼津に通じ、
   文化の交流、価値の高い物資の運搬など、どの道よりも早く往来できましたので
   「イサバ」(魚介類の道)としても多く使われました。
   甲州名物の煮鮑の道でもあったこの道は、現在もその様子を残し、
   石畳や伝説のある「強清水」など交通の要路であったことを表わしています。
   また、中世には武田信玄、織田信長、徳川家康などの戦国の武将たちも兵を率いて
   この道を往来しました。」 (現地案内看板より)

案内看板には、その行程が「1747.25m」と書かれていますが、
これは右左口トンネルから右左口峠頂上までの距離数で、峠越え全行程の距離ではありません。
ちなみに右左口トンネルの全長は1625mですが、歩道が無く、暗いトンネル内部を、
爆走するトラックに怯えながら通行するのは至難の業だと思われます。

峠道はかなり前に整備されたらしく、木製の階段などは腐りかけていますが、
道の状態は全般的に良好で、ヤブは無く、踏み跡も明瞭です。
沢に沿って進み、最初の石仏を過ぎると「強清水(こわしみず)」と呼ばれる水場を迎えます。
残念ながら水は枯れていましたが、強清水の伝説を紹介する案内板が設置されています。

   「夏の暑い日に峠を越える旅人は、皆ここで汗をふき、清水を口にした。
   昔、右左口峠の反対側の上九一色村に親孝行の若者が住んでいた。
   若者は父親と二人暮しで、毎日山へ炭焼きに行っては、その炭を背負って右左口峠を越えて、
   甲府の町へ炭を売っては爺様(父親)を養っていた。
   爺様は酒好きで、息子は炭を売ってはその金で毎日竹の筒へ一本ずつ酒を買い求めて、
   爺様に飲ませてやった。
   ある日、炭が思うように売れず、酒を買うにも金は足りず、どうしようかと思案しながら
   右左口峠まで差しかかり、強清水の前まで来ると、息子は仕方がなく、
   この清水を竹筒に詰めて帰ったところ、爺様は「これは諸白の酒だ」と喜んで飲んだ。
   そんなはずはないと思って、息子は一口飲んで見ると、やはりただの水である。
   爺様が飲んでみるとやっぱり酒であった。
   息子は「不思議なこともあればあるんだなあ」と驚いていた。
   これは神様が孝行の徳をほめて清水を酒に変えたものであろう。
   それから後、「親はモロハク、子はシミズ」とみんなはいい、
   清水の名もコワシミズと名づけられた。」  (現地案内看板より 『甲斐伝説集』)

「強清水」は、『甲斐国志』の中にも見られます。

   【迦葉坂】「又柏坂ニ作ル 右左口山ニ在リ 中道ノカカル所ニシテ下芦川村ヘ二里
         山中ニ 女夫石・山芋石・強清水ト云フアリ」
                              (『甲斐国志』巻之二十六 山川部第七)

「強清水」の他に、『国志』に記されている「女夫(めおと)石」、「山芋石」はどこに所在しているのでしょうか?


新しい道標が設置されている
標識には「右左口峠頂上まで1310.4m」、
「右左口隧道入口まで436.8m」と書かれている


峠路唯一の崩壊箇所
トラロープが渡してある

道は安定しており、不安要素はありませんが、冬眠から目覚めたばかりのヘビが二匹、
道の真ん中で日向ぼっこをしているのにはギョッとしました。
突然、沢の対岸の斜面でガサガサと大きな音をたて、姿の見えぬ大型の獣が移動して行くのには
もっとギョッとし、カバンから慌てて鈴を取り出し、首には笛をぶら下げたりして、
こちらの存在を急遽アピールしたりするのです。

路傍の千手観音、如意輪観音を写真に収め、古い石積みが施されている斜面を登りはじめると、
小沢の横断部で道が滑り落ち、完全に消失してしまっている箇所を迎えます。
峠路中、唯一の難場ですが、規模は小さく、トラロープが渡されているので歩行に支障はありません。
この崩壊箇所が無ければ、今でも馬が通れる峠路なのに残念です。
ここさえ整備してくれれば、老若男女が心配なく歩ける観光ハイキングコースにもなれると思います。

崩壊箇所を横断すれば、道は再び安定した姿を取り戻し、
いよいよ「迦葉坂の険」と呼ばれた長いジグザグが始まります。
しかし、そのコーナーには微笑ましい石仏が配され、幅広の道に、適度な勾配と、
険しいはずの坂道もなんら苦とは感じられません。
数多く安置されている石仏には、それぞれに番号を付した木杭が打たれ、名称が書き込まれています。
峠に至るまでの間、20体ほどの石仏が訪問者を癒し、励まし、楽しませ、
峠歩きの無事を見守ってくれているのです。


崩壊箇所を過ぎれば馬でも歩けるジグザグが始まる


ジグザグのコーナーには石仏が置かれている

新緑に萌える山は美しく、心地好い風が吹上げてきます。
追い越す人も無ければ、すれ違う人も無く、峠路をただ独りゆくことに快感を覚えます。
峠道を独占してはいるのですが、この道を家康や信長が通り、駿河からの海産物を積んだ荷馬が
行き来していたことを思うと、独りであって独りではないような不思議な感覚もします。

峠道ばかりを好んで歩いている自分の前世というものは、
戦国武将配下の足軽ではなかったのか、塩や魚を運ぶ馬子ではなかったのか、
それとも、山里から山里へと渡り歩く行商人や渡世人ではなかったのかと思い巡らしたりするのです。
はじめて歩く峠道に、懐かしさを覚えるのはなぜなのでしょうか?

足元には、イチリンソウやヒトリシズカや名前の知らぬスミレが咲いています。
カイコバイモ(甲斐小貝母)は残念ながら時期を逸したのか、目にすることができませんでした。
右左口生まれの放浪歌人・山崎方代の歌に、
「右左口の峠の道の馬ごやし道をうずめて咲いておるらん」という歌があります。
「馬ごやし」とは「馬糞」のことでしょうか?馬の通行の絶えた峠道にそのようなものは落ちていませんが、
峠道には愛らしい春の花々が咲き競っていました。


トンネルからの峠路中間地点
標識には「右左口峠頂上まで873.6m」、
「右左口隧道入口まで873.6m」とある


だんだん千手観音が「蟹」のように見えてくる

小気味よいジグザグに呼吸が乱れることはありませんが、額からは汗が噴き出します。
汗を拭うために立ち止まると、足元には可憐なカタクリの花弁がコクリコクリと風に揺れているのです。
振り返れば右左口集落は遠ざかり、甲府盆地の広がりを一望することができるのです。

古いガイド本には、右左口集落から下芦川へと越す峠道の様子を次のように記しているものもあります。

  「集落はひどい傾斜地に建てられ、民家の一軒ごとに高くなり、見上げると屋根棟が階段の様だ。
  右左口峠までの一時間の登行は、胸を衝く急坂の連続で汗を拭くのに忙しい。
  途中時々立停って下界を見返ると、甲府盆地の絵の様な景は登攀の苦しさを忘れるのに充分だ。
  右左口峠の頂上は十坪ばかり平坦地になって居り、芝草の上に腰を下して行く手を眺めると、
  畑を越えて遥か下手に芦川の渓流が岸を噛んで泡立っている。
  尾根に沿ってダラダラ下って行くと、間もなく、欅、櫟の潅木類が頭上に枝を交えて緑のアーチを
  作って居り、其の下を歩むのだから、盛夏の頃でも日光の直射を避けて贅沢なコースだ。」
                                     (『甲斐の山々』 島田武著 昭和17年)

歴史ある峠道となると、一般には、大味であったり、
コンクリートやアスファルトでガチガチに固められてしまうケースが多いのですが、
この迦葉坂は、昔の佇まいを今に残し、とても好感の持てる峠道です。
以前に歩いた下芦川側の道と合わせて、まさに峠越えを堪能できる「贅沢なコース」といえます。
この素晴らしい峠道を知らぬままに、峠下に貫かれたトンネルを走り抜けてばかりいることは
実に惜しいことです。


路面状態は良好、幅広で、勾配も適度


蟹、カニ、カニ、・・・カニにしか見えなくなってきた

一番多く路傍に置かれた千手観音像を見ているうちに、
だんだんとその姿が「カニ」にしか見えなくなってきました。
次はどんな石仏だろうかと楽しみにしていると、次も「カニ仏」でちょっとガッカリといった感じ。
この「カニ仏」は大量生産されたのでしょうか?峠のシンボル的存在になっているとまで言えます。

Oさんからお寄せ頂いた情報によると、最近、『迦葉坂の石仏マップ』なるものが発行されたとのことです。
また地元では、右左口宿歴史文化推進委員会を立ち上げ、中道地区文化協会とともに、
石仏の調査や、長年にわたる風水害によって荒れてしまった峠道の修復がなされているといいます。
峠道を整備、保存する気運が高まっていることは嬉しいことです。 【*1】


右左口峠と迦葉坂(柏尾坂峠)の分岐に置かれた石仏
この形の石仏はここにしかないので分岐路の目印になる


右左口峠への良く踏まれた道

ひとしきりジグザグで汗をかくと、右左口峠と迦葉坂(柏尾坂峠)の分岐を迎えます。
分岐点に道標はありませんが、ここにしかない立体座像が置かれているので目印になるでしょう。
迦葉坂の旧道である柏尾坂峠に向かう道は、ややきつい登り勾配で、ちょっとばかり荒れていますが、
すぐにそれとわかるでしょう。

右左口峠へ向かう道は相変わらずの明瞭で、よく踏み固められています。
見るからに本道という感じがしますが、旧道の迦葉坂が本来の意味でいうところの本道なのでしょう。
峠路は時代の移り変わりとともに変遷していったようです。


明治21年測図昭和4年修正測量「市川大門」2万5000図 参謀本部
「右左口峠」と「柏尾坂」の名が見られる
ちなみに明治21年陸地測量部2万図では「右左口峠」の記載は無く、「迦葉坂」の名が見られる

現行版の地形図からは北面の右左口側の峠道は完全に抹消されていますが、
旧版の地形図には、その道筋がしっかりと描かれています。

国土地理院が地形図に載せる峠道、山道の基準をどのように設定しているかは知り得ませんが、
歩いた印象では、この峠道を地図から抹消してしまった理由がまったくわかりません。
もっともっとひどい状態の山道が地図に載っていることはざらにあります。
なぜこの素敵な峠道が現行版地形図から抹殺されてしまったのでしょうか?

あるいは、つい最近まで歩くのも困難なほどに荒れ果てていたのでしょうか?
現状の安定した姿があるのは、地元の方々の道普請の御蔭なのかもしれません。


右左口峠目前の安定した道


右左口峠

右左口峠と迦葉坂(柏尾坂峠)の分岐で、右左口峠へ向かう道を選択して進みます。
道の状態はさらに向上し、木の間越しには
県道甲府精進湖線が目の高さとなり接近してきます。
終わりが近づいたことを悟り、歩みを緩め、新緑に包まれた土道の感触を存分に堪能します。

ひょいと飛び出した右左口峠は、未舗装の県道が抜ける明るい峠で、
通信施設や不法投棄があったりしてやや興醒めではありますが、
山桜が咲く静かな点と下芦川側の谷深さが体感できる点で、なんとか合格点を得ることができます。

【右左口峠】

  「県道甲府-精進湖線にある峠は標高860m、甲府盆地を一望に出来る景勝の地が何か所かある。
  いわゆる中道往還の右左口峠は、迦葉坂の険と呼ばれて、まったく別、荒れ果てている。
  下芦川の右左口峠の手前には駒ン場と呼ばれるやや広い台地がある。
  徳川家康が入国の折、ここで駒を休めたとの伝承がある。」
                           (『河内地方における歴史・民俗と自然環境の関連調査』

  「御坂山地のほぼ中央部を、甲府と静岡県吉原宿を結んだ中道往還(右左口路)にある峠。
  迦葉坂の急坂がかかる。東八代郡中道町右左口と西八代郡上九一色村古関の境界に当たる。
  北麓の右左口宿から迦葉坂を登り、御坂山地の北嶺滝戸山の西に続く日蔭山(1025.3m)の
  西の鞍部860mにかかり、峠を越えて九一色郷(芦川流域)の飯田に通じ、
  さらに阿難坂(女坂)を越えて富士山麓に続く。
  はじめ軍用道路で、天正10年徳川家康も当峠から入国した。
  のち海産物輸送路として利用され、甲駿を結ぶ最短路であるため右左口宿は大いに繁栄した。
  昭和43年自衛隊による自衛隊路が旧峠道に開削され、
  さらに同45〜48年県営甲府精進湖有料道路がつくられた。」
                                                (『日本地名大辞典』)


迦葉坂(柏尾坂峠)


立ち木にマジックで名前が書かれている

右左口峠から迦葉坂(柏尾坂峠)へ向けて西進します。
尾根伝いにp888を経由しても行けそうですが、「888」は「パッパラパー」と語呂が悪いのでパスして、
その南面の水平道を辿ります。
この水平道は地形図にも記載されていて、肩幅ほどの幅員しかありませんが良く踏まれています。
明るい松林の中を進み、地蔵堂からの道を合わせると迦葉坂(柏尾坂峠)の鞍部に到着します。

公的な標識はありませんが、(立派過ぎる標識は雰囲気を壊すので不要でありますが)、
すぐにそれとわかる奇麗な凹状を成し、南北に道が越えています。
中央の立ち木にはマジックで「迦葉坂」と書かれていますが、それ以外の目立つものはありません。
東西それぞれの高みに、峠を守護するかのように静かに石祠が祀られているだけです。

  「汗拭きて憩へば嬉し迦葉山頂き既に黎明(あけ)ならんとす」  山崎方代
  「紅葉なす迦葉の峰の朝空を雲鮮かに流れ往く見ゆ」       山崎方代

駿河から夜通しで海産物を運んできたイサバの衆は、ここ迦葉坂で夜明けを迎えたといいます。
朝陽に照らし出される甲府の盆地を見てきっと安堵したことでしょう。


峠を見下ろす東側の石祠


北面の道を分岐点まで下ってみる 赤布の目印あり

歌人・若山牧水は、精進湖畔から女坂峠を越え、下芦川の谷から迦葉坂を登り詰めた紀行の中で、
峠の心象を次のように述懐しています。

  「坂なりの宿場を通り過ぎると愈々嶮しい登りとなった。 名だけは女坂峠という。
  掘割のようになった凹みの路には堆く落葉が落ち溜ってじとじとに濡れていた。
  越え終わって渓間に出、渓沿いに少し歩き、渓を渡ってまた坂にかかった。 右左口峠という。
  この坂は路幅も広く南を受けて日ざしもよかったが、九十九折の長い長い坂であった。
  退屈しいしい登りついた峠で一休みしようと路の左手寄りの高みの草原に登って行って
  わたしは驚喜の声を挙げた。
  ふと振返って其処から仰いだ富士山が如何に近く、如何に高く、
  而してまたいかばかりか美しくあったことか。」
                                           (『木枯紀行』 若山牧水著)

若山牧水が越えたのは自衛隊が開削する前の右左口峠だったのでしょうか?
それとも、迦葉坂(柏尾坂峠)の方だったのでしょうか?


やはり石仏と安定した道が続く


カニ石仏もいる

右左口峠と迦葉坂(柏尾坂峠)の分岐点まで北面の道を下ってみると、こちらにも石仏が祀られ
道も安定した状態を保っています。 峠道のアイドル(?)千手観音改め、「カニ仏」もいます。

立ち木には道迷いを防ぐ赤布が取り付けられており、手入れの跡が窺がえます。
きっと由緒ある峠道を愛する地元の方々の手によって取り付けられたものなのでしょう。
峠から数分下ると、右左口峠と迦葉坂(柏尾坂峠)の分岐点となります。

◇ 迦葉坂(柏尾坂峠)から芦川北稜を関原峠へ ◇


峠を見下ろす西側の石祠


以前も目にした尾根上の放置自転車

迦葉坂の下芦川側の峠道を再び歩いてみたくもなりましたが、ここは我慢して稜線を西へと進み、
七覚峠、関原峠を目指すことにします。

大きな屋根を乗せている西側の石祠の背後から踏み跡を拾います。
芦川北稜を以前歩いたときは女郎蜘蛛の巣にひどく悩まされましたが、今の時季はその心配はいりません。
時折、顔面を直撃する小さな蜘蛛の巣はありますが、女郎蜘蛛に比べると、さして苦ではありません。
前回も目撃した錆びついた自転車は相変わらず放置されたままです。
昔は峠道を自転車で越える人が居たのでしょうか?郵便配達夫さんの遺物でしょうか?


心地好い新緑の尾根歩き


蛙の卵が浮かぶヌタ場

芦川北稜は冬の眠りから覚めたばかりで、まだスッキリとしていますが、
5月の連休を過ぎる頃あたりから潅木ブッシュが勢力を増し、道を隠しはじめることでしょう。
ヘビは峠道の歩きはじめ以来見ていませんが、ハエが多く飛び交い、執拗に追いかけてきます。
汗の臭いに反応しているのか、オヤジの加齢臭を好んでいるのか知りませんが、
こうもうるさいと、蜘蛛の巣に頑張って欲しいと、身勝手なことを思ったりもするのです。

姿こそ見えませんが芦川北稜の主は、イノシシのようで、ヌタ場が見られます。
ヌタ場の水面には無数の蛙の卵が浮かんでいて、ちょっと気味が悪くもあります。
イノシシに食われはしないかとも思いますが、こんな小さな水溜りが産卵地として山中ではきっと貴重で、
蛙も生命をつなぐことに必死になっているのでしょう。


推定・七覚峠


七覚峠の目印

前回、芦川北稜を歩いたときは七覚山から道を見失い、七覚峠を見落してしまいましたが、
今回はそれらしきものを見出すことができました。
北麓の七覚集落へと下る浅い凹とした道形が確認でき、立ち木には黄色テープが巻かれています。
多分ここが七覚峠なのでしょう。

「七覚峠」といっても、その呼び名が正式名称なのかは不明です。
『中央線の山を歩く』(藤井寿夫著・新ハイキング社)の中で登場しているのを見るばかりで、
他の資料では一向にその名前を見たことがないからです。
『豊富村誌(上巻)』に、「関原峠と右左口峠の中間に中塚という小高い場所に峠がある」という
記述が見られますが、これが七覚峠のことを指しているのかわかりません。

七覚峠から関原峠へかけて、踏み跡が怪しくなる箇所もありますが、
スズランテープや荷造り用の白ヒモが、点々と、立ち木に結び付けられているので迷うことはありません。
わずかばかり進めば見覚えのある関原峠の鞍部となります。


『中央線の山を歩く』(藤井寿夫著・新ハイキング社)挿入図より
「七覚峠」の表記が見られる

◇ 関原峠から北麓の関原集落へ ◇


関原峠の標識


関原峠 (野坂)

関原峠は萌える新緑の中にありました。
以前訪れた時にも目にした峠の標識は、位置が変わり、痛みも激しくなっています。
木製の標識だとばかり思っていましたが、よくよく見てみれば、弁当のパッケージに
黒マジックで手書きされた即席のものでした。
こんなことなら新しい標識を作ってくれば良かったと思ったりもします。
(是非機会があれば手製標識を持参して、南面の下芦川側の道も歩いてみたいものです)

      【関原嶺(セキハラタウゲ)】
        「本村ヨリ下芦川村ヘ踰ユル所ナリ 下芦川村ニテ野坂ト称ス
        此ノ道ニ木戸口ト云フ地名アリ 古ヘ関門ヲ建テシ所ト云ヒ伝フ」
                               (『甲斐国志』巻之二十六 山川部第七)

『国志』によると、関原峠は「野坂」とも称し、峠の登り口には関門が置かれていたとあります。
旧版の地形図を見ると、関原峠の道は、迦葉坂、右左口峠の峠道に劣らぬ、幅広の道で描かれており、
往時は通行が頻繁にあったことを窺い知ることができます。

  「下芦川に関原峠があり、薪炭を背負って豊富村の関原に出作していたので、馬を追って
  峠を往来したため、道路は割合に整っていたが、今は荒れ道となっている。」
                                                   (『三珠町誌』)

  「今は荒れ果てて見る影もない関原峠も、かつては枝や下草もよく刈り払われ、
  踏み固められて展望のきく峠だった。
  上り下り六キロ余りの峠道を暮らしの道にしていたのは九一色郷の人々だった。
  芦川渓谷沿いの谷底のような所に点在する小集落にとっての生業は炭焼きなどの林業が主で、
  それをこの関原峠越えに市川大門方面におろし、食料などの生活物資と交換していた。
  初めは炭を人の背に群をなして峠を通った。」
                                (『豊富村誌』より『豊富村郷土散歩』の孫引き)

どれほど峠道が荒廃しているか心配ですが、北麓の関原の集落へ向けて下ってみようと思います。
かつては駄馬の往来があった峠道ですから歩けないことは無いでしょう。
『中央線の山を歩く』には、関原峠から関原へ下ったときの記録が次のように記されています。

   「峠路自体は思ったより鮮明なのだが、これをふさぎにかかる倒木もまた多く目に入り、
   前途に一抹の危惧を抱かせる。・・・・
   みちはしっかり踏まれているうえ、実におだやかな蛇行曲線を描いて、一路、下界へいざなうのだ。
   終始こうなら、めでたしめでたしだが、・・・やがてみちは勾配をつよめ、うず高い落ち葉の下に
   石くれをひそませ、足元をしきりにおびやかす。
   おまけに、松喰い虫で枯死したアカマツの伐木がやたらデポされていて、歩きにくいの何の。
   ふもとに近く路肩の欠損も相次ぎ、遠回り・高巻きを強いられること再々だった。」

少々難儀しそうな峠道ですが、早速下ってみることにし、意気揚揚と踏み出しますが、
最初の数歩で足をとられてコケてしまったのは、あまりに無様でありました。
上手く反応して手を着いたまでは良かったのですが、その右手の着地点には干からびた山栗の
イガイガがあり、見事に右手の掌に十数本が刺さるのです。
すぐに抜きにかかるのですが、数本は折れてしまい皮膚の中に取り残され、違和感が続くのです。
よりによって栗のイガイガがあるなんて、峠の神様のイタズラにしてはひどすぎます。


前半は安定した道が続く
倒木もたいしたことなく、明るい道が続く


バカデカイ栂の木がにょっきり聳えている
写真ではわからないが相当デカイ!道幅も広い!

懸念した峠道の状態は拍子抜けするほど良好で、倒木や降り積もった落ち葉が堆積してはいるものの、
迦葉坂以上の幅広で、安定した凹とした道が続いています。
ジグザグも大きく切ってあって、加えて勾配も緩やかなので駄馬の通行も楽だったと思われます。
しかし、それも上部だけのことで、次第に『中央線の山を歩く』に書かれた通りの状態を呈してくるのです。

途中、バカデカイ栂の木を見る辺りは、最も安定した素晴らしい峠道を呈しています。
道は緩やかに下っているので、歩いても歩いても高度を下げている感覚が得られないのが
じれったくもあります。(なかなか里に近付かないのです)


寛文年間の石祠

バカデカイ栂の木を過ぎると、道を外した左手の茂みの中に、寛文年間の石祠を見ることができます。
うっかりしていると気付かずに通り過ぎてしまいますから注意していなければなりません。

『豊富村誌』には、『豊富村郷土散歩』からの引用として、
「峠道の管理は関原、下芦川両村の共同責任で、その象徴が寛文十年(1670年)に祀られた
山の神の石碑
である」との記述があります。

たまたま遭遇したこの寛文年間の石祠が、その象徴の「山の神の石碑」なのでしょうか?
里人が参詣している形跡は無く、祠の柱が一本欠損しています。
峠の通行が減少するに従い、神への畏敬の念も消えていってしまったのでしょうか?


高台に3体の石仏が祀られている


天保期の石仏

「九一色郷の林産物と、関原以北の農産物・生活用品を馬の背などによる物々交換路として、
早くから使われ馬頭観世音も残っている」という、『豊富村誌』の記述の通り、
峠道を見下ろす高みには、天保期の三体の馬頭観音が肩を寄せ合って祀られています。
往時は頻繁にあったであろう峠交通の情景が目に浮かびます。

この三体の石仏を過ぎると、道幅はグッと狭くなり、勾配も強まってきます。
最前まで大きく切られていたジグザグは、小刻みに切られるようになりどんどんと下り始めます。
地形図の破線道の表記は適切で、見事に峠道の状態を示しているといえます。
馬鹿正直に落ち葉の積もった凹道を歩いていては、浮石や倒木に足をとられたりするので、
土手をショートカットするように進みます。


天明2年の馬頭観音座像が祀られている

頼り無くなってきた道は欠損している箇所も見られますが歩行には何ら支障がありません。
しかし、荷を積んだ馬の歩行は、今の道の状態ではできないことでしょう。

穏やかな表情を浮かべた天明2年の馬頭観音座像を過ぎると、道がヤブかかってきます。
見ればズボンにはダニが取付いていて、歩行の傍ら軍手を外しては、
ダニを指先で弾き飛ばす作業が加わります。

踏み跡が錯綜し、進路が曖昧になってくると、林道近しの合図です。
崖から飛び降りると、ちょこんと林道上に着地して、地形図にも記された堰堤が見えています。
逆に、下降地点から峠道に取り付く場合は判りにくいですが、林道の簡易舗装が途切れる場所である
林道分岐点の正面尾根に取り付けば、峠道を拾い出すことはできるでしょう。


林道を抜けると最初の「調整池」がある


ゲートを通過すると「第二配水池」となる

石がゴロゴロした簡易舗装の道をしばらく進むと、地形図に記載のある●記号のコンクリート製の
丸い調整池が現われます。そして、鍵の掛かっていないゲートを開けて進むと、同形の配水池が現われ、
ここからはアスファルト舗装が始まります。
なにげに「熊に注意」の看板があったりして、なるほど自然林が豊富で熊の棲息には適している
山域に違いないと実感したりします。なにより里に下れば甲府盆地の豊かな果樹園があるのですから、
熊にしてみれば食料に事欠くことは無いでしょう。

山から飛び出て緊張感から解放されたのか空腹感を覚えるので、カバンから「りんごパン」を取り出して
食べ歩きしながら関原の集落へと入ります。
近頃は財政難で所持するパンはひとつきりになってしまいました。
山の中で食べればいいのですが、もしも万一という場合の非常食の持ち合わせがないのですから、
そうやすやすと食べてしまうわけにはいきません。
そこで山中では空腹であるということを意識しないという耐性が備わってきたのかもしれません。

集落の外れには、山中で見た寛文年間の石祠と同形、同時代の石祠が祀られ鳥居が建っています。
山ノ神の里宮なのでしょうか?
山中への参拝は面倒なので、ここで手を合わせて済ましているのかもしれません。


山中にあった石祠と同様の祠が祀られている


石原家のケヤキ

愛宕山門前の石仏や道祖神、豊富村の天然記念物である石原家のケヤキなどを見物し、
樹齢約400年の桧の神木を祭る若宮八幡神社の境内に入って休憩します。
関原の集落には古い時代の石造物が道端に多く見られ、由緒ある社寺が配されていることから、
かつては迦葉坂のように関原峠を行く人馬の往来も頻繁にあったことが窺がわれます。

静かな集落の関原ですが、『日本地名大辞典』によると、関原峠の峠道は、
「富士山麓と甲府盆地とを結ぶ物資流通路の一つとなっていた」とありますから、関原の集落も昔は
それなりの賑わいを見せていたことでしょう。
関原では、明治36年中央線が甲府まで開通する以前は、笛吹川の水運を利用して
市川、鰍沢方面との往来も多かったといいます。
関原峠を越えた三帳村、下芦川村と笛吹川右岸乙黒村とを結ぶ道筋にあったともいえます。
また、関原では中道往還の右左口宿の助郷も勤めていたようです。
山地のうち、関原峠を含む関原嶺は、関原、木原、二か村の入会地であり、
薪炭業や堆肥用の草刈りが盛んに行われていたといいます。
それは今に残る峠道の状態からも容易に察することができます。

◇ 右左口宿から右左口トンネルまで迦葉坂旧道を拾う ◇


右左口の宿


歌人・山崎方代の生家跡

関原からテクテクと里道を歩いて右左口へと移動します。
北に見える小高い丘陵が標高380mの米倉山で、その麓には畑や果樹園が広がっています。

歌人・山崎方代は米倉山から眺める故郷、右左口の姿を、
「米倉山の上から見れば右左口の村はさびしくあからさまなり」と詠んでいます。
方代の目には、冬は長く、雪が多く、田は少なく、畑は石ころばかりの貧乏村と映っていたようです。
現在では、そのような姿には見えず、肥沃な土地のように見えます。
それは鍬を手に痩せ地を開墾した先人の汗と苦労がこの土地には染み込んでいるからかもしれません。

右左口の集落は直線的な道の両脇に往時の面影を伝える家並みが連なっています。
武田勝頼を滅ぼした織田信長の往来のため、徳川家康によって道や家並みが整備され、
間口は四間二尺に統一されているとのことです。また、宿泊のための仮御殿まで造られたといいます。


徳川家康御殿場跡


迦葉坂入口

家康御殿場跡には「ふるさとカルタ」の石碑が建ち、「初鰹 中道往還 突っ走り」の句が刻まれています。
迦葉坂が生魚の越えた「魚の道」であったことを伝える躍動感ある句だと思います。

右左口集落の直線的な道を登りつめると、
最近設置されたらしい「中道往還・迦葉坂」と表示された立派な標識を目にします。
これなら右左口トンネルまでの沢沿いの道も整備されているに違いないと思い、足を進めます。
最終民家を過ぎると、大きな堰堤が現われますが、左手から越えるように道が付けられています。
この最初の堰堤だけ左手から越え、その後いくつもある堰堤はすべて右手から越えることになります。


赤と白の布目印が点々と付けられている


左岸上部へと高度を上げる

沢筋に築造された堰堤群によって歩行は困難かと思われましたが、地元の方々の手によって
整備されているようで、紅白の布目印が立ち木に付けられていて迷うことはありません。
事前のネット情報の収集から、かなり荒れていることを予想していましたが、
その後、急速に手入れがされたようです。

堰堤上の茂みで立小便をしていると、下山してくる単独行の登山者が突然現われました。
まさか登山地図にも、地形図にも載っていない峠道を下ってくる老ハイカーがいるとは
思ってもいなかったのでビックリしましたが、小便が丁度終わったところで助かりました。
もう少し早い出現だったら、もっと驚いていたことだろうし、きっと手を濡らしていたことでしょう。

ハイカーと言ったものの、足固めは万全で、醸し出す雰囲気もかなり山慣れされた御仁かと思われます。
こちらはというと、ほとんど街歩きと変わらぬ格好ですから、暮れはじめる峠道を登る様を見て、
自殺志願者と勘違いされたかもしれません。
そうでなくても、立小便直後の不意をつかれたので、かなり挙動不審に見えたに違いありません。
でも、これで峠道は歩ける状態なのだと再確認できたわけです。


沢を挟んで国道358号線が見える


安定した左岸上部の道でトンネル脇に出る

堰堤の上の河原を歩いたり、竹林内の導水管に沿った道は旧道と同一の道筋とは思えませんが、
左岸斜面上部に取り付く辺りからこれはまさに旧峠道ではないかという雰囲気がしてきます。

左岸上部の道は緩やかに高度を上げ、国道358号線が目の高さと等しくなると、トラバースを開始し、
途中一箇所小さな荒れた沢筋を横断して、右左口トンネル脇へと導いてくれます。
右左口の宿から右左口トンネルまでは、不粋な堰堤を越えたり、昔を偲ぶ石仏の姿も無かったりと、
確かにパッとしない道ですが、歩行は支障なくできることがわかりました。

これで一応、中道往還の二大難所である女坂峠(阿難坂)と右左口峠(迦葉坂)の全行程を
歩くことが出来たわけですが、静岡県吉原宿から甲府までの中道往還の全行程を分割せずに
歩き通せと言われたら、確実に後込みしてしまうことでしょう。
まして夜の山道、峠道など魑魅魍魎の世界に違いありません。
軟弱な訪問者は、とっとと自動車で二つのトンネルを走り抜けて家路を急ぐのでした。

【中道追分節】

富士ノ裾野ハシグレテ居レド
甲府ノ空ハ、ハレテ居ル
コノ生魚モ未ダ女坂ヤ
右左口坂ノ難場ヲ越ヘテ
アスハ甲府ニ着カナキャナラヌ
急ゲヨ青ヨ、青ヨ急ゲヨ

(峠行2009.04.20)

【*1】 峠道訪問後に、中道支所にて『迦葉坂の石仏マップ』を入手しました。

    『迦葉坂の石仏ガイドマップ』 作成:右左口宿歴史文化推進委員会 6ページの小冊子

【参考文献・参考HP】

『甲斐国志』
『山梨県歴史の道調査報告書第三集・中道往還』 山梨県教育委員会 昭和59年
『豊富村誌』 豊富村誌編纂委員会企画 豊富村役場発行 平成9年
『曽根丘陵地帯の豊富村郷土散歩』 志村量美著 豊富村教育委員会 1980年
『三珠町誌』 三珠町誌編纂委員会 1980年
『河内地方における歴史・民俗と自然環境の関連調査』 山梨県 昭和55年
『新編みなかみ紀行』 「木枯紀行」 若山牧水著 岩波文庫 2002年
『山崎方代全歌集』 山崎方代著 不識書院 1995年
『山崎方代のうた』 大下一真著 短歌新聞社 2003年
『日本山岳案内3・中央線に沿ふ山・御坂山塊』 鉄道省山岳部編 博文館 昭和15年
『甲斐の山々』 島田武著 朋文堂 昭和17年
『甲斐の山山』 小林経雄著 新ハイキング社 平成4年
『山梨の峠』 小林栄二著 自費出版 平成10年
『中央線の山を歩く』 藤井寿夫著 新ハイキング社 平成10年
『山梨県の地名』 平凡社 1996年
『角川日本地名大辞典・山梨県』 角川書店 昭和59年
『甲斐路・ふるさとの道』 「中道往還(右左口路)」 山梨日日新聞社
『山梨県政だより・ふれあいvol.10』 「山梨の旧道を訪ねて/中道往還(右左口宿)」 平成18年10月号

HP 『自転車で峠越え』 「右左口峠と迦葉坂・2007年」
HP 『ロッジ山旅』 「掲示板/迦葉坂から日蔭山へ・2009年」

◆本文中に引用した地名は平成の大合併に対応していません。

● イサバ・ニガイの越えた峠@(女坂峠<阿難坂>)のレポートを見る。
● 以前、迦葉坂の下芦川側の峠道を歩いた時の
レポートを見る。