とりこぼしていた峠
二十曲峠(唐松峠?七曲峠?),細尾峠?(曲沢峠?),内野峠(楢尾峠?二十曲峠?曲沢峠?カネ沢峠?)
立ノ塚峠(内野峠・鞍掛峠),平本峠(車坂峠),鳥居地峠(鳥居峠・鳥打峠)
| 以前、忍野三山の峠を訪れた時に、とりこぼしてしまった峠を訪れました。 「鳥居地峠−オオザス峠−立ノ塚峠」と歩き、立ノ塚峠から二十曲峠の間が未踏になっていました。 |
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| 『山と高原地図』では「内野峠」、『日本山岳案内1』では「曲沢峠」(文中ではカネ沢峠)の名前が見られる。 二つの地図では沢の名前が異なっている点にも留意されたし。 |
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さらに、『あしなか第2号』(山村民俗の会)の「鹿留山附近の山名に就いて」(加藤秀夫著)には、
もう一つの峠(細尾峠)の存在が示され、峠名の呼称についても興味ある記述があります。
「鹿留山附近の山名に就いて」 (加藤秀夫著) - 引用 - |
| 「石割山から北微西に派出される尾根は東桂村と忍野村の界をなす主脈の末端で、 始め大同の送電線に添って急なカヤトを降りついた鞍部は松の木などショボショボあり、 二本松の根方に大山祗神の石碑があった。 鹿留では唐松峠といい、内野では七曲峠と云った。 二十曲峠と云うのはナラ尾峠の事で、ここは内野の草刈り地ではない。・・・・・・ 七曲峠から次の1223.7mを計算されたる峯は砂須山で、 オバタケ沢から米山沢の頭まで鹿留側一部が古来から内野集落の小芝下草採集地となっていた。 |
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| 上記資料には、現在の鹿留林道が越える二十曲峠は、「唐松峠」又は「七曲峠」と呼ばれていたということ、 二十曲峠は「楢尾峠」のことであること、砂須山と加背山の鞍部に「細尾峠」があること、等々 今まで知らなかったことが記述されています。 ちなみに忍野村の『村勢要覧』を見ると、 |
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● 二十曲峠〜細尾峠〜内野峠〜立ノ塚峠
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| 内野から舗装されたクネクネ林道を登ります。 このクネクネを数えてみると、ホッー!確かに“二十曲り”くらいあるのです。 だから「にじゅうまがりとうげ」と命名されたのでしょうか? 先述した『あしなか』によると、「唐松峠」、「七曲峠」というとありますが、 これら別呼称の手掛かりを見つけることは出来ませんでした。 二十曲峠の旧道がどうなっているかはとても興味あるところです。 峠は富士の展望地として有名で多くの富士写真マニアが訪れ、時としてカメラの放列に驚かされます。 |
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| 峠には水神と山ノ神が祀られています。 眼下に広がる忍野村の水田地帯に豊饒をもたらす根源となっているのかもしれません。 峠を越える鹿留林道は完全ダート時代にオフロードバイクで幾度か走り抜けたことがあります。 二十曲峠から立ノ塚峠に向けて未踏の尾根を辿ることにします。 p1221を越えると可愛らしい鞍部があり、尾根を越える道が横切っています。 |
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| <推定>細尾峠は小さな可愛らしい峠で、峠の造形美を感じさせる姿をしています。 登山標識はあるのですが、現在地の名を記したものはありません。 ですからこの場所の名称が本当に細尾峠であるとの確信は持てません。 ただ『あしなか』の記述を信じれば「細尾峠」ということになるのでしょう。 まさか「旧二十曲峠」ということではないと思います。 |
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| 内野側の道は軽トラでも走れそうな道で、事実、タイヤ痕も残っています。 鹿留側の道はいかにも峠道といった感じの山道がのびています。 どうなっているのかちょっと鹿留側を探索してみます。 300mほど良い道が続き、p1217(砂須山)の北東尾根に沿って道は続いています。 クマザサの密生に恐れをなし、再び鞍部に戻り、 |
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| <推定>細尾峠からちょいと進むと四等三角点のある砂須山です。 ピークという感じには乏しく、尾根上の小突起といった感じ。 「砂須」とは『地名の由来おしの』によると、「焼畑、切替畑を意味する」とのことです。【*2】 山頂からしばらくは軽トラ走行可能な快適過ぎる尾根道となります。 アカマツ主体の自然林の道は心地好く、内野側には時折木々間から水田風景が俯瞰できます。 |
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| 加背山の短い急傾斜を下れば新緑美しい平坦な道となります。 この一連の尾根上には境界見出標として「恩」の字の刻まれた恩賜林標が 一定の間隔ごとに埋設されています。 恩賜林標300手前付近には鹿留側から薄い踏み跡(獣道かも?)が確認できました。 再び道は林道のような道になり、視界が開けてきます。 途中、p1252楢尾山に向けて林道分岐があります。 『日本山岳案内』には「曲沢峠(又はカネ沢峠)」とありますが、 |
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| 内野峠から楢尾山に向けては、平尾根上をほとんど林道だと言ってよい道がのびていますが、 内野側には道らしきものが見当たりません。夏草に埋もれているのでしょうか? 古い地形図を見ると、内野側からの道は立ノ塚峠の道と途中まで同じで、途中分岐して峠に至っています。 立ノ塚峠の道がメインであって、内野峠は次第に衰退していったのでしょうか? 楢尾山に向けて進むと主尾根から一段下がった所にジープが止まっていました。 楢尾山に近づくにつれ夏草が蔓延りだします。 古い地形図を見ると、この道を下降すれば御正体山シキリ尾根登山口辺りの鹿留林道に接続しています。 |
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| 登り着いたヤブ気味の楢尾山の三角点の脇には「内野峠」と書かれた標柱が転がっていました! 三角点の点名が「内野峠」なのでしょうか? それともここの小ピークの名前が内野峠なのでしょうか?(ドッケ系の峠?) 「内野峠」の文字を発見できたことに喜びを感じつつ立ノ塚峠に向かいます。 |
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| 二度目の訪問である立ノ塚峠に大きな変化はないようです。 寛政生まれの地蔵尊も松の木の下に同じように佇んでいらっしゃいます。 変わったことと言えばペットボトルの賽銭箱が置かれ、登山標識が新しくなったことでしょうか。 誰が賽銭箱を置いたのでしょうか? |
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| 『甲斐の山山』(小林経雄著・新ハイキング社)には、 「昭和30年代には盛んに炭焼きが行われていた所である。 その当時すでに鹿留川池ノ平へ下る峠道は廃道化していた」とあります。 それから50年ばかり経過した現在、鹿留側の峠道はどうなっているのでしょうか? とても興味あるところですが、今回は時間の余裕がありません。 今後機会があれば、それぞれの峠道の現状(特に鹿留側)を探りたいところです。 |
● 平山往還、平山峠へ
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| 平山峠は高座山、鳥居地峠のさらに西端、芝草と明見を結ぶ峠です。 地形図では実線で描かれ、四輪駆動のジープなら走り抜けることのできそうな林道が越えています。 忍野八海のコンビニローソン前が入口で、庚申神の石塔が目印です。 入って数十メートルは舗装されていますが、その先は未舗装の道となります。 辿り着いた峠は切り通し状で美しく、薄暗い中に馬頭観音数体と廻国供養碑などが祀られています。 |
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| 昔は御殿場の御厨の早乙女たちが、毎年、集団で郡内へ田植え稼ぎに 赴く際にこの峠を越えて行ったといいます。 【*3】 交通の要路であったという峠も今はひっそりとしています。 |
● おまけで鳥居地峠に行く
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ここまで来たついでに鳥居地峠を再訪してみました。 峠自体に特に変化はありませんが、登山標識が新しくなっていました。 「鳥居地峠」という文字が以前の標識より大きくなっています。 『山岳』に載っている武田久吉氏の文章に以下の記述があります。 |
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| 【*1】 「新富嶽百景」は平成6年に山梨県によって選定されました。 県内各地から望まれる富士の秀麗ポイント100箇所が選ばれています。 峠では以下の場所が選ばれています。 001 大菩薩嶺からの富士(塩山市) 002 柳沢峠からの富士(塩山市) 【*2】 『民俗と植物』(武田久吉著・講談社文庫)の「地名と植物」の中で、ズサ山のズサとはアブラチャンのことだとしている。 【*3】 『甲斐路・ふるさとの道』 山梨日日新聞社 より 『富士吉田市史』によると、平山峠は「平坂峠」、「車坂峠」ともいうらしい。 【*4】 『山岳第21年第3号』昭和2年9月発行 「第二回修正版地形図『山中湖』に就いて」(武田久吉著) 【参考】 『地名の由来おしの』(忍野中学校郷土クラブ・1975)に「鳥居峠」、「立塚」について由来が記されていました。 「鳥居峠」 「立塚」 『明見の民俗』(富士吉田市教育委員会)に鳥居地峠についての記述がありました。 「峠の両側には富士山を祀る鳥居があったという。 この鳥居は大明見の者と忍野の者が賭けをして明見の者が負けたため |
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| 《補足》 関連参考資料追加 |
| 『富士山とその付近』(昭和35年・山と渓谷社) 「石割山から鹿留山へ」(羽賀正太郎) より (以下引用) 「・・・左に忍野方面から道が登ってきている二十曲峠に出る。 |
(峠行2006.06.03)