とりこぼしていた峠

二十曲峠(唐松峠?七曲峠?),細尾峠?(曲沢峠?),内野峠(楢尾峠?二十曲峠?曲沢峠?カネ沢峠?)

立ノ塚峠(内野峠・鞍掛峠),平本峠(車坂峠),鳥居地峠(鳥居峠・鳥打峠)

 以前、忍野三山の峠を訪れた時に、とりこぼしてしまった峠を訪れました。

「鳥居地峠−オオザス峠−立ノ塚峠」と歩き、立ノ塚峠から二十曲峠の間が未踏になっていました。
この空白の尾根には『山梨の峠』(小林栄二著)や旧版の『山と高原地図』(昭文社)を見ると、
「内野峠」という峠が「立ノ塚峠(内野峠)」とは別に存在しているようです。
また、『日本山岳案内1』(鉄道省山岳部編)を見ると「曲沢峠、カネ沢峠」という表記も見受けられます。


『山と高原地図 富士・富士吉田』
昭文社 1992年版


『日本山岳案内1』
鉄道省山岳部 昭和15年

『山と高原地図』では「内野峠」、『日本山岳案内1』では「曲沢峠」(文中ではカネ沢峠)の名前が見られる。
二つの地図では沢の名前が異なっている点にも留意されたし。

さらに、『あしなか第2号』(山村民俗の会)の「鹿留山附近の山名に就いて」(加藤秀夫著)には、
もう一つの峠(細尾峠)の存在が示され、峠名の呼称についても興味ある記述があります。

「鹿留山附近の山名に就いて」 (加藤秀夫著)   - 引用 -

「石割山から北微西に派出される尾根は東桂村と忍野村の界をなす主脈の末端で、
始め大同の送電線に添って急なカヤトを降りついた鞍部は松の木などショボショボあり、
二本松の根方に大山祗神の石碑があった。 
鹿留では唐松峠といい、内野では七曲峠と云った。
二十曲峠と云うのはナラ尾峠の事で、ここは内野の草刈り地ではない。・・・・・・

七曲峠から次の1223.7mを計算されたる峯は砂須山で、
ここを越えた次の鞍部にある乗越道は
内野では細尾峠と云う。
次の1227m峯は加背山で、頂に多少の露岩がある。
尾根は東北に向きを変えて右に見える小尾根をオバタケ頭と呼び、
下った処が
楢尾峠で一寸高原状を呈した処である。

オバタケ沢から米山沢の頭まで鹿留側一部が古来から内野集落の小芝下草採集地となっていた。
1252.3m三角点峰は楢ノ尾山と云うもので毛無シノ丸山である。
そこから尾根径はやがて東西に抜ける馬道にぶつかる。
これが鹿留側で云う
内野峠で立ン塚峠とは内野の呼称である。
内野側に寛政十三年末十月吉日と刻した地蔵尊がある。
立ン塚はこの辺り一帯の呼称で太刀塚とも書かれ、
古く長慶天皇の太刀を埋められた処であると云うが真偽不明である。 
この附近南北朝伝説到る処に残っている。」

上記資料には、現在の鹿留林道が越える二十曲峠は、「唐松峠」又は「七曲峠」と呼ばれていたということ、
二十曲峠は「楢尾峠」のことであること、砂須山と加背山の鞍部に「細尾峠」があること、等々
今まで知らなかったことが記述されています。

ちなみに忍野村の『村勢要覧』を見ると、
立ノ塚峠には「鞍掛峠」、二十曲峠には「二重曲峠」との表記が見られます。
「二重」は「二十」の誤記かもしれませんが、
「鞍掛」は当該箇所の尾根が馬の背のように低くなっていることからそのような呼び名があったようです。

● 二十曲峠〜細尾峠〜内野峠〜立ノ塚峠


二十曲峠 全景


峠の松の大木

内野から舗装されたクネクネ林道を登ります。
このクネクネを数えてみると、ホッー!確かに“二十曲り”くらいあるのです。
だから「にじゅうまがりとうげ」と命名されたのでしょうか?
先述した『あしなか』によると、「唐松峠」、「七曲峠」というとありますが、
これら別呼称の手掛かりを見つけることは出来ませんでした。

二十曲峠の旧道がどうなっているかはとても興味あるところです。
特に鹿留側は昭和初期の地形図と現林道との道筋を比べると経路が大分異なっています。
また、鹿留川に沿って「林用手押軌道」の記載が見られ、
林業用のトロッコのようなものが敷設されていたことが窺え、この地域の歴史や人々の暮らしにも
関心があるところです。(後日、二十曲峠の旧道を探索したレポート

峠は富士の展望地として有名で多くの富士写真マニアが訪れ、時としてカメラの放列に驚かされます。
東屋やトイレ、水場も完備され、泊りがけでシャッターチャンスを狙うマニアもいます。
確かにここから眺める富士の姿は素晴らしいの一言。 特に朝焼けの美しさには定評があります。
山梨県の選定した「新富嶽百景」の地にも選ばれています。 【*1】


峠に祀られる水神


峠に祀られる山ノ神

峠には水神と山ノ神が祀られています。
眼下に広がる忍野村の水田地帯に豊饒をもたらす根源となっているのかもしれません。

峠を越える鹿留林道は完全ダート時代にオフロードバイクで幾度か走り抜けたことがあります。
現在は大分舗装化が進んでいるようです。
(最近、走行したことがないので現状は不明です、また冬期はゲートで閉鎖されます)
御正体山への登降路であるシキリ尾根や鹿留山北尾根・北東尾根などを歩く際に
訪れることが今後あるでしょう。

二十曲峠から立ノ塚峠に向けて未踏の尾根を辿ることにします。
思いの外、道の状態は良く、しっかりと踏み固められた尾根道が続いています。
てっきりヤブ尾根かとばかり思っていましたが、
杓子山と二十曲峠を結ぶハイキングコースとして忍野村の整備の手が入っているようです。
標識も完備され、夏でも草に埋まることの無い安心できる幅広の山道です。

p1221を越えると可愛らしい鞍部があり、尾根を越える道が横切っています。
ここが『あしなか』にある「細尾峠」のようです。
『あしなか』では「砂須山と加背山の鞍部」とありますが、
そもそも同書では砂須山を現行地形図の三角点p1217とはしていませんからOKなのです。
古い地形図を見るとわかることですが現行地形図のp1221を砂須山としていたようですから。
(『日本山岳案内』では「砂須山」ではなく「サアタマ山」と表記されています)


<推定> 細尾峠

<推定>細尾峠は小さな可愛らしい峠で、峠の造形美を感じさせる姿をしています。
登山標識はあるのですが、現在地の名を記したものはありません。
ですからこの場所の名称が本当に細尾峠であるとの確信は持てません。
ただ『あしなか』の記述を信じれば「細尾峠」ということになるのでしょう。
まさか「旧二十曲峠」ということではないと思います。


奇麗な鞍部


鹿留側の道へ


クマザサに埋没

内野側の道は軽トラでも走れそうな道で、事実、タイヤ痕も残っています。
鹿留側の道はいかにも峠道といった感じの山道がのびています。
どうなっているのかちょっと鹿留側を探索してみます。

300mほど良い道が続き、p1217(砂須山)の北東尾根に沿って道は続いています。
しかし、途中から道形は残っているもののクマザサに埋没してしまい、歩く意欲をそがれてしまいました。
多分強引に突き進めば、二十曲峠から派生する鹿留林道支線に降り立つことになると思われます。
林道支線を横断し鹿留川本流部まで道が続いているかは不明です。
ちなみに昭和4年の地形図では道は途中で途絶えています。

クマザサの密生に恐れをなし、再び鞍部に戻り、
立ノ塚峠へ向けて何の恐怖も感じない明るい尾根道を進みます。
何の恐怖も感じないというのは嘘で、ヘビ二匹と遭遇し多少のビビリはありました。


砂須山 三角点


加背山

<推定>細尾峠からちょいと進むと四等三角点のある砂須山です。
ピークという感じには乏しく、尾根上の小突起といった感じ。
「砂須」とは『地名の由来おしの』によると、「焼畑、切替畑を意味する」とのことです。【*2】

山頂からしばらくは軽トラ走行可能な快適過ぎる尾根道となります。
内野側山麓に降りて行くらしい軽トラ走行可能な道とは次の分岐で別れを告げ、
再び尾根道は歩き専用の山道となります。

アカマツ主体の自然林の道は心地好く、内野側には時折木々間から水田風景が俯瞰できます。
ちょっとした露岩帯を通過して、辿り着いたp1275が加背山で、ここで進路が北東に変更されます。
標識があり、しっかりとした踏み跡もあるので迷うことはありません。
「加背山」の「加背」は、字名では「賀背」になっています。


恩賜林標 300ポイント


楢尾峠 (内野峠・楢尾山分岐)

加背山の短い急傾斜を下れば新緑美しい平坦な道となります。
この一連の尾根上には境界見出標として「恩」の字の刻まれた恩賜林標が
一定の間隔ごとに埋設されています。

恩賜林標300手前付近には鹿留側から薄い踏み跡(獣道かも?)が確認できました。
恩賜林標297の右手の小尾根は『あしなか』に記述のある「オバタケ頭」なのでしょうか?

再び道は林道のような道になり、視界が開けてきます。
この状態が立ノ塚峠まで続きます。
高原状といえば聞こえは良いですが、草叢からヘビが飛び出してきそうな気配が濃厚です。

途中、p1252楢尾山に向けて林道分岐があります。
どうやらここが『あしなか』でいう「楢尾峠」であり、
『山と高原地図』や『山梨の峠』にある「内野峠」のようです。

『日本山岳案内』には「曲沢峠(又はカネ沢峠)」とありますが、
「曲り沢」という沢の位置から察して、「曲沢峠」は細尾峠の別名として考える方が自然かもしれません。


分岐から一段下った所
カーブした道にジープが停まっていた


楢尾山を右(南)側から巻く道


楢尾山頂

内野峠から楢尾山に向けては、平尾根上をほとんど林道だと言ってよい道がのびていますが、
内野側には道らしきものが見当たりません。夏草に埋もれているのでしょうか?
古い地形図を見ると、内野側からの道は立ノ塚峠の道と途中まで同じで、途中分岐して峠に至っています。
立ノ塚峠の道がメインであって、内野峠は次第に衰退していったのでしょうか?

楢尾山に向けて進むと主尾根から一段下がった所にジープが止まっていました。
ここで道は大きくカーブし、楢尾山に向かう山道と鹿留側下方に向う林道とに分れます。
このジープはどこからやって来たのでしょうか?
この先は鹿留林道支線、あるいは立ノ塚峠の鹿留側の峠道との接続が考えられます。

楢尾山に近づくにつれ夏草が蔓延りだします。
あまりこの季節に、歩きたいとは思わない道です。
楢尾山を右手(南側)から巻く道は、刺のあるイラクサなどに埋まりつつも鹿留側に向かってのびています。
「H16県造歩修80」などと書かれた板切れが転がっているところを見ると、
道の補修がなされているようです。

古い地形図を見ると、この道を下降すれば御正体山シキリ尾根登山口辺りの鹿留林道に接続しています。
今回は、それを確認する余裕はないので、とりあえず三角点を目指して道無き斜面を登ります。


楢尾山の三角点 標名は「内野峠」なのか?

登り着いたヤブ気味の楢尾山の三角点の脇には「内野峠」と書かれた標柱が転がっていました!
三角点の点名が「内野峠」なのでしょうか?
それともここの小ピークの名前が内野峠なのでしょうか?(ドッケ系の峠?)

「内野峠」の文字を発見できたことに喜びを感じつつ立ノ塚峠に向かいます。


立ノ塚峠 十字路全景


内野側


寛政期の地蔵尊

二度目の訪問である立ノ塚峠に大きな変化はないようです。
寛政生まれの地蔵尊も松の木の下に同じように佇んでいらっしゃいます。
変わったことと言えばペットボトルの賽銭箱が置かれ、登山標識が新しくなったことでしょうか。

誰が賽銭箱を置いたのでしょうか?
もちろん簡単に持ち運べるものですから不届き者が持ち去ることは考えられます。
しかし、そんな輩には天罰がくだることでしょう。(熊に襲われるとか)


熊出没注意の看板と松の根本の地蔵尊

『甲斐の山山』(小林経雄著・新ハイキング社)には、
 「昭和30年代には盛んに炭焼きが行われていた所である。
 その当時すでに鹿留川池ノ平へ下る峠道は廃道化していた」とあります。
それから50年ばかり経過した現在、鹿留側の峠道はどうなっているのでしょうか?

とても興味あるところですが、今回は時間の余裕がありません。
車を乗り捨てた二十曲峠に向けて来た道を引き返します。
これで一応とりこぼしていた峠である内野峠、細尾峠は拾うことが出来ました。

今後機会があれば、それぞれの峠道の現状(特に鹿留側)を探りたいところです。


● 平山往還、平山峠へ


峠口に祀られた地蔵尊


峠の馬頭尊、庚申塔


富士吉田側は二本に分岐している

平山峠は高座山、鳥居地峠のさらに西端、芝草と明見を結ぶ峠です。
地形図では実線で描かれ、四輪駆動のジープなら走り抜けることのできそうな林道が越えています。
忍野八海のコンビニローソン前が入口で、庚申神の石塔が目印です。

入って数十メートルは舗装されていますが、その先は未舗装の道となります。
緩やかな勾配の道で大きく二度ほどカーブをして高度を上げていきます。

辿り着いた峠は切り通し状で美しく、薄暗い中に馬頭観音数体と廻国供養碑などが祀られています。
峠名の書かれた道標等はありませんが、
この峠は「かまくら道」の一本であったと言われている歴史ある峠道なのです。


造形美を感じる平山峠

昔は御殿場の御厨の早乙女たちが、毎年、集団で郡内へ田植え稼ぎに
赴く際にこの峠を越えて行ったといいます。 【*3】

交通の要路であったという峠も今はひっそりとしています。
観光客で賑わう忍野八海の裏山に、訪れる人も少ない峠が眠っています。


● おまけで鳥居地峠に行く


新しくなった鳥居地峠の標識

ここまで来たついでに鳥居地峠を再訪してみました。
峠自体に特に変化はありませんが、登山標識が新しくなっていました。

「鳥居地峠」という文字が以前の標識より大きくなっています。
どうせ標識を変えるなら「鳥打峠」に変えた方がよかったのでは?
『甲斐国誌』には「鳥打峠」とあるのだから。

『山岳』に載っている武田久吉氏の文章に以下の記述があります。
「鳥打峠を新版図で《鳥居地峠》と記してあるのは嗤ふ可き誤で、
大方測量士が東北地方の人でもあった事から起った語であろう。
郡内弁は幾分訛りがあっても、ウチをヰヂとは発音しない。」【*4】

【*1】 「新富嶽百景」は平成6年に山梨県によって選定されました。
    県内各地から望まれる富士の秀麗ポイント100箇所が選ばれています。
    峠では以下の場所が選ばれています。

    001 大菩薩嶺からの富士(塩山市) 002 柳沢峠からの富士(塩山市)
    015 御坂峠-黒岳ハイキングコースからの富士(笛吹市)
    011 雁坂峠からの富士(山梨市) 016 すずらん峠からの富士(芦川村) 021 折門峠からの富士(身延町)
    028 佐野峠からの富士(南部町) 030 西行峠からの富士(南部町) 053 木賊峠からの富士(北杜市)
    050 ホッチ峠からの富士(韮崎市・甲斐市) 059 花水坂からの富士(北杜市) 072 二十曲峠からの富士(忍野村)
    080 御坂峠天下茶屋からの富士(富士河口湖町) 081 新御坂峠からの富士(富士河口湖町) 

【*2】 『民俗と植物』(武田久吉著・講談社文庫)の「地名と植物」の中で、ズサ山のズサとはアブラチャンのことだとしている。
    「このズサはおそらくこの辺にズサの木が沢山生じているからの名であろう。
    この地方でズサと呼ぶのはアブラチャンのことで、その近縁種なるダンコウバイはイワズサと呼ばれる。」

【*3】 『甲斐路・ふるさとの道』 山梨日日新聞社 より

    『富士吉田市史』によると、平山峠は「平坂峠」、「車坂峠」ともいうらしい。
    平山峠のちょっと西に、忍野村下村と鐘山温泉とを結ぶ「海沢峠」があるようだ。

【*4】 『山岳第21年第3号』昭和2年9月発行 「第二回修正版地形図『山中湖』に就いて」(武田久吉著)

【参考】 

『地名の由来おしの』(忍野中学校郷土クラブ・1975)に「鳥居峠」、「立塚」について由来が記されていました。

「鳥居峠」
・鳥居が建てられていた峠で浅間神社-芝草郷社にある鳥居であるという説と芝草の仁王門という説。
・昔の街道で鳥居が建っていたと古老が言う。現在もその跡があるという。
・トリウチ峠とも呼び山中湖や芝草から吉田方面に向かって水鳥が越える峠であったと言われているので鳥打峠と書くこともできよう。

「立塚」
・武将の墓が存在している一帯をそう呼んでいる。
・立沢、立場、縦道など横に対する縦と考えられる。あるいは竜出現の場とも考えられる。
・境界の塚であろうか。

『明見の民俗』(富士吉田市教育委員会)に鳥居地峠についての記述がありました。

「峠の両側には富士山を祀る鳥居があったという。 この鳥居は大明見の者と忍野の者が賭けをして明見の者が負けたため
忍野に持っていかれたと伝わる。 峠の南側を天狗峯といい、昔天狗が住んでいた。
忍野から明見に織物の糸染めに必要があった薪が峠を越えて運ばれた。」

《補足》 関連参考資料追加
『富士山とその付近』(昭和35年・山と渓谷社) 「石割山から鹿留山へ」(羽賀正太郎) より (以下引用)

  「・・・左に忍野方面から道が登ってきている二十曲峠に出る。
  これから少し登りになり、1233メートルの砂頭山を越えれば細尾峠で、
  尾根は西北に登りになって加瀬山(1277m)をすぎて間もなく、
  右折して北に下りついた鞍部が楢尾峠で、次の鞍部が内野峠になる。
  長慶天皇の伝説に絡んで太刀塚(たちんづか・立塚)とも呼ばれているここへは、
  鹿留川から道が登ってきている。」

(峠行2006.06.03)