気になる集落の峠

御林峠(十文字峠)・和見峠A・和見峠A´・和見峠B

 気になる名前の集落があります。
1/25000地形図「上野原」図幅の右上の方にある「墓村」という名前の集落です。
なんとも おどろおどろしい名前です。
いったいどんな謂われから、そう呼ばれるようになったのでしょうか?

ちょっと気になる墓村を訪ねつつ、周辺の集落を結びつけるいくつかの峠を訪れてみました。

事前に「墓村」の情報を得ようと、ネットで検索しましたが、
「八つ墓村」の情報ばかりで役立ちませんでした。


予想外に明るい(?) 墓村

上野原の市街地某所に車を停めて、
墓村の入口である用竹までひたすら歩き続けます。
貧弱なバス便を調べてこなかった罰です。

天気はどんよりした曇り空で、雨降山方面は鉛色の空です。
陰鬱な名前である墓村には訪問日和でしょうか。
薄暗い植林地の中、墓村に続く道は細く、カラスがカァーと鳴くと
不気味さが漂います。

しかし、そんな雰囲気も出だしだけで、今野集落に入ると、
山鳥の歌声に包まれた、山あいの美しい集落に早変わりです。
庭先の花咲く草花を楽しみ、畑仕事のお年寄りと挨拶を交わし、
爪先上がりの道で徐々に高度を上げてゆきます。
振り返ると鶴川沿いの聖武連山も遠ざかってしまった山懐です。


御林峠入口前の石仏様

さて、待望の墓村ですが、
予想に反して(?)明るい集落でありました。
そのネーミングとは裏腹に陽の当たる明るい斜面に展開する
明朗で平和的な数戸からなる ささやかな山村集落でした。

おどろおどろしい不気味なイメージを抱いていただけに、
なんとなく裏切られた、拍子抜けした感じです。
「八つ墓村のたたりじゃ〜」とは無縁の地でありました。

それにしても、なぜ墓村と呼ばれるようになったのでしょうか?
武田信玄の時代に墓作りの生業をしていたという
話もあるようですが定かではありません。

「ハガ、ハカ」とは地形語で「崖地、崩壊地、斜面」を意味します。
現地を訪れて、斜面に開墾された畑や、
急傾斜地にへばりつくような家屋を見ていると、
その地形から「ハカ村」と呼ばれるようになったのではないかと
思えてきました。


御林峠 入口

御林峠の入口は分かりづらいですが、
地形図を信じて、しっかり読めば辿り着くことができます。
「権現山」の指導標につられて集落の奥に入ってはいけません。

峠道入口には馬頭観世音があり、
よく見ると「左 和み」と刻まれています。

馬頭観世音の対面には石仏もあり、
古くから利用された道であることを窺わせます。


峠入口の馬頭観世音

入口付近は少し薄気味悪いのですが、
腐りかけた木の橋を渡って植林地の中に続く峠道は
明瞭につけられています。

足下に咲くシャガの花を分けて進みます。
いまや山仕事をする人しか利用する人がいないような道です。
いや、それも稀で、よっぽどの山オタクか峠マニアしか
歩いていないのではないでしょうか。


峠道の途中にある馬頭観世音

峠道の途中に、二つ目の馬頭観世音がある分岐があります。
まっすぐの道の方が、草も無くて歩き易そうですが、
馬頭尊をよく見ると、「右、和み」と刻まれていますので、
迷うことなく右の道を選択できました。

この馬頭尊には、
「墓村 今野」とも刻まれていました。
現地で「墓村」の名を目にした最初で最後のものでした。


御林峠 (十文字峠)

最初の尾根を越える地点で南から道が交わります。
登下集落か大倉集落からの道のようです。

周囲の様相も植林帯から広葉樹が混じりだします。
朽ちた道標があり「権現山 用竹」を指し示していました。

歩き易いなだらかな傾斜を進み、
崩壊気味の沢筋をぐるっと回り込めば御林峠に到着です。


峠の古い石標

峠には登山者向けの道標と、
歴史を感じさせる古い石標があります。

石標には「南、芦垣 北、大室山 東、棡原 西、和見」と
刻まれていました。
「〇〇ェ門」といった人の名前も見られますので
江戸時代の頃のものでしょうか?

かつては集落と集落を結ぶ交易のための
幹線道だったのかもしれません。 
また、「大ムレ権現」への信仰の道だったのかもしれません。


峠から和見への道

「御林峠--和見峠--浅川峠」と結べば、
甲州街道の裏道的な役割も果たし得たと考えることもできますが、
さてどうでしょうか?

峠から和見への道は幅も広がり、さらに歩き易くなります。
徐々に山道から林道に姿が変わり、
手入れされた植林地の中を進みます。

小さな丸石の馬頭観音を見送れば、
「民有林 林道和見線」の看板が現われます。


悪病塞ぎの神

林道脇の一段高い場所の老木の根元に丸石が祀られていました。
「悪病塞ぎの神」と白い字で書かれていました。
今の世に残る古くからの風習のようであります。

通常、「塞ぎの神」は峠や村境に祀られると思いますが、
ここはそのようでもないようです。 
でも、ニツクラ山の南にのびる尾根を越えたところにあるので、
地勢的にはある種の境界であるのかもしれません。

すぐそこは和見の集落でありますから、
いわゆる「村はずれ」の場所なのかもしれません。


和見の斜面畑

和見集落の空は広く、
山中にこんな広い土地があったのかと思わせます。

斜面に開かれた畑には桑も見られますが、
養蚕が盛んだった頃の名残でしょうか?

「和見」とはどういう意味でしょうか。
「タワミ」の「ワミ」とは関係ないでしょうか?
居酒屋の「和民(ワタミ)」ならよく行くのですが・・・


林道和見棚頭線 入口

和見集落の西外れから
手持ちの地形図には載っていない林道が伸びています。
(『山と高原地図』には記載されています)

林道は和見と棚頭を結ぶもので、
雨降山とゴウド山の鞍部を越えています。

林道に入って最初のコーナーに
旧峠道が残されていたのでそちらを進みます。
旧道は暗い植林地の中で、古い石積みなども見られます。
何ヶ所か分岐がありましたが、標識が設置されています。


林道上の和見峠 A´

突然視界の開ける伐採地を過ぎると再び林道上に出ます。
林道を横断して旧道が残されていますが、
標識には「危険」とありましたので、林道を歩いて鞍部に向かいます。

林道上の和見峠(A’)は尾根を切り崩した切り通し状の峠です。
権現山と高指山を示す標識がそれぞれ立っています。
恩賜林の説明板なるものも設置されています。

和見からの道は舗装済ですが、
棚頭への道はダートのままになっています。
また、峠から分岐しているダートの檜尾根線は
ゲートで固く封鎖されていました。


山道の和見峠 A

北に尾根を辿って本来の和見峠(A)にも行ってみました。
先ほどの「危険」の旧道が合流する地点で、
峠というよりは乗越ふうでしょうか。

反対側に越える道は無く、
設置されている標識に「和見峠」の名前はありませんでした。

雨降山に向かう山道に注連縄が張られていました。
この辺りから「大ムレ権現」の神域となっているのでしょうか。


高指山 911m

林道上の和見峠に引き返して高指山を目指します。
地形図に山道の記載が無いので、
ある程度のヤブ漕ぎを覚悟していましたが、
道はよく踏まれており、分岐には標識があり、
随所にビニールヒモの目印もつけられていました。

落葉松、赤松混じりのほぼフラットな尾根を辿ると911mの山頂です。

「甲東三山の一つにして、この山頂に立てば、
郷土の全てを指さし見ることができる」 と書かれた
案内板が登山標識に取り付けられていました。

しかし、郷土の全てはおろか、一部たりとも、
展望の望めぬ山頂です。
「甲東三山」とは、高指山、不老山、高丸でしょうか?
それともゴウド山(ゴド山)が入るのでしょうか?


和見峠 B

山頂から不老山に向けては、
踏み跡も明瞭で、標識で方向も指示されていますが、
これから向かう高丸経由、和見峠(B)への
道は標識では示されていません。

しかし、物好きな低山マニアが残してくれたであろう
ビニールヒモの目印が桑久保まで無事に導いてくれますし、
よくよく見れば、案外道もはっきりしています。

のっぺりした雑木尾根を下り、
イノシシの掘り返しが見られる植林のジグザグ道を
下りついたところがもう一つの和見峠(B)。


峠は岩を砕いた切り通し状になっている

和見峠(A)より、この和見峠(B)の方が峠の味があるように思えます。
桑久保と和見とを結ぶ集落間の連絡路だったようですが、
車時代の今日、里人にも顧みられない峠道のようです。
峠は岩を砕いた切り通しになっています。【*1】
岩を砕いてまでも造られた峠道の必要性とは何だったのでしょうか。

桑久保の集落を抜けて、
甲東小学校前のバス停に辿り着きましたが、
次のバス便まで40分の時間がありました。
しかたなく上野原の市街までトボトボと仲間川沿いの道を
歩いて戻りました。

鶴川の川越えの後、国道20号線に出る坂道ではヘトヘトでした。
鶴川越えは、自分の足を唯一頼りにする旅人には
今も昔も難儀のようです。

【*1】 『山梨の峠』によると、峠は切り通しを抜けて和見側に少し行った所にある高点だそうです。

● 地形語辞典によると「和見」とは「谷間、谷あい、窪地」の意味があるようです。


今回歩いた付近には「登下」という集落があります。
登り下りと書いて「とっけ」と読むようです。

「とうげ」と「とっけ」、なんとなく似ています。
上って下る峠の語源は地形説と手向説が有名ですが、
案外、「とっけ」なんぞの音の響きにも関係していたりして・・・。


御林峠や和見峠A、和見峠Bの他にも付近には、
今野と登下を結ぶ峠や登下と大倉を結ぶ峠があります。
具体的な名称があるのかは未確認です。

それぞれの集落は山襞の奥に存在し、一見するとそれぞれ独立した集落に見えますが、
尾根を越えて他の集落と強く結びついているようです。
閉鎖的に見える山村集落は、実は峠から峠へと様々な地域と広範囲に渡り関係があり、
多くの人々の往来があったのかもしれません。

それは生活の糧を得るための仕事上での往来だったのかもしれませんし、
物と物とを交換するための往来だったのかもしれません。
あるいは信仰する地へ向けての往来だったのかもしれません。

人間嫌いの私ですら、奥山の地では寂しさを感じずにはいられません。
人間が本来持ってやまない、人間を求める気持ちが
尾根を越え、峠道を開削していったのかもしれません。
峠は人間の本能がつくりあげた産物といえるのかもしれません。