湯山峠
民俗学者、早川孝太郎氏の「湯山峠」という短い文章を読みました。
九州は日向から肥後へと山中を旅しているときに越えた湯山峠での一コマを描いた作品です。
峠で出会った一家族の侘びしい生活。
全体に、うら悲しさが漂う文章でした。
「湯山峠」の冒頭には以下の一文があります。
| 「木地師とか山窩でなくとも山の人生はいつも私たちに清新な何物かを与えてくれる。 それを強いて索めているわけでもなかったが、しかし山から得た印象にはいつも力強い鮮やかさがあった。 これに対して、山から見た平地の人生のこともまた見逃せない。 たしか伊賀の国などでも聴く言葉だが、山から平地を呼ぶ場合に、ヒロミ(広見)という。 これは三河の山などでも山人のよく使う語であった。 「ヒロミへ出れば---」 少しセンチメタルだが、言外に哀愁を含んでいる。 (以下略) 『早川孝太郎全集W/山村の民俗と動物』 「湯山峠」 より |
ふだん都会暮らしをしている者が峠歩きに出かけると
その視線は、山里に、山々の自然に、向けられることが多いのではないでしょうか。
そこには山村側から平野部を見渡し、都市部の生活を俯瞰するという視点は欠けているのかもしれません。
そもそもそんな発想すら持ち合わせていないのかもしれません。
もちろん平野部を眺めるという行為はしていると思いますが、
それは平野に暮らす旅人が自分の暮らす地をただ単に眺めているに過ぎないのです。
時には山暮らしをしている住人の視点に立って、
峠から平野部を見渡すということがあってもいいのかもしれません。
峠歩きに訪れて注がれる目線は、
山国育ちの人が峠に立って見るそれとはおのずから性格を異にしていることでしょう。
人が峠に立った時、その視線の先が何に向けられているかは個人差があるものです。
たとえ同じものに視線を注いだとしても、それをどう見るか、どう捉えるか、
峠で何を感じるかは人それぞれでもありましょう。
束の間の旅程の峠から眺める平野の姿と
厳しい山峡生活を続ける中で眺める峠からの平野の姿は異なることでしょう。
彼らの平野への想いを体感することは束の間の旅人には
出来ないことなのかもしれません。
このことは平野に暮らす人々が峠に立ちて山間の暮らしを垣間見るときにもいえることでしょう。
山の撓み、丘陵の低点、地形上のある一つのポイントに過ぎない峠でありますが、
そこには目に見えない二重三重のフィルターがあるのかもしれません。
峠から見下ろす「ヒロミ」は、ある人には明るく豊饒な土地に、潤いと温順の地に見えるかもしれません。
また、ある人には平凡で猥雑な土地に、冷酷で非情な地に映るかもしれません。