峠ブラブラ (津古久峠・善波峠)


明治39年測図42年製版 1/20000「厚木」地形図

フラフラしそうな暑さが続きますが峠への思慕はやまず身近な峠をブラブラしに出掛けました。
秦野に住む友人宅へ向かうため遠回りになるにもかかわらず、わざわざ二つの峠を越えて行くのです。
まずは伊勢原市と厚木市の境(昔風に言うと愛甲郡と大住郡の境)に位置する津古久峠です。
「津古久」とは室町期の文献に見られる「石田庄津奥郷」の「津奥」が語源とのこと。
どこか美しい響きが耳に残ります。

古い地形図にはその床しい峠名を見ることができますが、
現在の峠周辺は日産テクニカルセンターに侵蝕され、見るも無惨な変貌を遂げています。
それでも峠の名残を求めて南麓の東富岡から、かつての峠道と思しき道を辿ってみます。


「道祖」と判読できる道標


ポツンと寂しげな峠の石標

龍散寺門前を通過する二車線道路と分かれ、
「道祖」と判読できる石標の置かれた田畑の角を折れて民家前の道を進みます。
これが峠へ向かうかつての本道と思われます。

コンクリ舗装された農道のような幅の細い道は、雑木の茂る薄暗い中を一気に駆け登り、
峠を破壊した日産テクニカルセンターの横断橋の脇へと導きます。
『丹沢今昔』(奥野幸道著)に掲載されている昭和40年頃の峠写真の面影は最早そこには無く、
同書の中に記された「馬頭観音が二基雑草の中に立つだけの寂しい峠」といった雰囲気もありません。
今となっては馬頭観音の行方は知れず、その姿を確認することはできません。

ここ日産テクニカルセンターで研究開発されたスポーティーな自動車が、
日本各地の峠道を傍若無人に走り回る「走り屋」さん達に寄与していないことを祈るばかりです。


津古久峠茶屋跡


茶屋跡石標

 「津古久峠はいい峠である。 
 馬頭観音の石碑が二つあって、其処からはじまる峠路は153.1米独標の南側を捲き、
 気持ちの良い山腹を数町の間辿る。
 よく各地にある<八町峠>式の峠路の一つで、麦畑が多いが邪魔にはならない。
 晩春のキンラン、オニアザミも美しい。雑木道や芝の道の感じの佳い部分が暫くつづく。
 一個所絵のように端正な大山が望まれるところもある」
                   (『丹澤山塊』 ハイキングペンクラブ 登山とスキー社 昭和17年 より)

上記古いガイド本にもあるように、やはり峠にはニ基の馬頭観音があったようですが、
いまその姿は残念ながら見当たりません。
また、峠道は岡津古久と東富岡とを単に南北に結んでいただけではなく、
153.1m峰の南側山腹を巻き西富岡方向へと続いていたこともわかります。
(明治期の地形図にも描かれている通り)

その道に足を踏み入れてみると、心地好い土道が残されており、
峠の茶屋跡と標された石柱を目にすることができます。
きっと大山参詣の旅人もここで喉を潤したことでしょう。


古道の面影を残す道は続くが・・・


「オバサマ」と読むのだろうか?
「伯父様」の立場は・・・

なおも暫くは古道の面影を残す踏み固められた土道は続くのですが、
伊勢原市の総合運動公園や都会に本拠を置く某大学のグラウンドの中へと埋没してしまうのです。

ヤマトタケル伝説も残る由緒ある峠道を、
なにも寄ってたかって痛めつけることはないと思うのですが、これが峠の現実なのです。

次なる目的地、善波峠へ向かうため三之宮比々多神社に立ち寄ったりします。
途中、「伯母様」なるバス停があって、頬が緩みます。
「オバサマ」と読むのでしょうか?そして「オジサマ」はないのでしょうか?


坪ノ内バス停から道標に従い峠道へ


「善波太郎の力石」

車の流れの絶えない喧噪の国道246号線から離脱し、坪ノ内から旧矢倉沢往還を辿ります。
以前善波峠を訪れた時は、小田急鶴巻温泉駅から吾妻山を経由して尾根道を辿ったので、
今回歩く善波川沿いのコースは初めてとなります。

善波峠を指し示す石道標に従い、旧矢倉沢往還に入ってすぐの所に、
「善波太郎の力石」なるものがあります。
添えられた説明書きによると、石の上部にある二本の筋状の部分は、
善波太郎が下駄で力踏みした時の跡であるとのこと。
なんの変哲もない石にしか見えませんが、善波峠がもっとメジャーな峠であったならば、
きっと石を象った「力石饅頭」や「力石おはぎ」が販売されているに違いないと思ったりもします。

さらに進むと、伊勢原市指定天然記念物「神代杉(うもれ木)」などもあり、【*1】
なんとも見所豊富な峠道であります。


「矢倉沢往還」の説明看板がある吾妻山分岐


言い伝えの残る「夜泣石」

ひんやりした空気に包まれ、植林混じりの雑木林の中へと峠道は続きます。
「吾妻山0.35km」との標識が立つ分岐には「矢倉沢往還」の説明看板が設置されています。

 「この道は奈良時代に開かれ、箱根越えの東海道が出来るまで官道の役割をしていました。
 江戸時代には裏街道として賑わい伊豆、沼津から足柄、秦野、伊勢原、厚木、荏田を経て、
 日常生活に必要な炭、わさび、干し魚、茶、それに秦野のたばこなどが馬の背で江戸へ運ばれ、
 人々に矢倉沢往還(矢倉沢街道)と親しまれていました。
 また、大山、阿夫利神社に詣る道ということから大山街道の名でも親しまれていました」
                                     (環境庁・神奈川県設置の説明看板より)

国道246号線を走るトラックやバイクの音が耳に届きはしますが、
古道の佇まいはひっそりと保たれています。
夏の陽射しを遮る木々に涼を感じながら進むと、「夜泣石」が現われ、さらに背筋が寒くなるのです。
行き倒れになって死んだ人の霊が夜毎苦しんで泣く声がこの石のあたりから聞こえてくるとの
言い伝えが残されています。


馬頭観音が居並ぶ


しばらくはコンクリ簡易舗装の道が続く

村人は「夜泣石」の近くに御堂を建立し、
さまよう霊を供養したとのことですが、現在、その御堂はなくなっています。
行き倒れの話や路傍にたくさん並ぶ馬頭観音を見ると、
善波峠道がかつては難儀な道であったことが窺がえます。

「千人がくれ」という場所には追剥ぎがたむろし、近くの山に見張り役を置き、
人が通ると旗を振って仲間に知らせ、追剥ぎ行為におよんでいたとの話も残されています。
そのため峠を越える旅人は麓の村人にいくらかの金を支払って同行を依頼していました。
追剥ぎなど昔のことと思いがちですが、「カツアゲ」と名を変え、現代でも人通りの少ない場所には
悪い輩が出没するものです。
身ぐるみ剥がされることはないにしても、悪い奴らの考えることは昔も今も大差ありません。


弘法山ハイキングコース分岐を見送る


「この先通り抜けできません」の標識に阻まれ右折

一旦開けた場所を通過し、再び樹林の中の峠道を進んで行くと、
「弘法山ハイキングコースへ」と書かれた指導標分岐が現れます。
こちらから弘法山を目指す人がどれだけいるのか甚だ疑問ですが、
踏み跡は案外としっかりつけられています。

弘法山分岐標識からわずかばかり進むと、
「この農道はこの先通り抜けできません ハイキングコースは右折」と書かれた
伊勢原市設置の標識に行く手を阻まれます。
この先もまだ峠道は続いているかに見えますが、
きっと峠直下のラブホテルの敷地内に吸い込まれてしまうのでしょう。
無闇矢鱈に進入すると、ホテル関係者に変質者出現と勘違いされ
警察に通報されかねないので素直に右折します。

右折して民家前を通り、素直に国道に出るのが正しい選択なのでしょうが、
民家脇からのびる土道の誘惑に負け、そちらに足を踏み入れます。
しかし、これはいささか難ありの選択肢で、笹ヤブと蜘蛛の巣が待ち構えており、
グルッと回って結局、国道に放り出されるという不始末なのでした。


見事な切り通しの善波峠


峠全景

まとわりつく蜘蛛の巣と、笹ヤブ通過で薄汚れた風体で、
渋滞する国道を横目に善波トンネル手前で左折して善波のラブホテル街へと進みます。
ホテル街は昼間だというのに利用客が多いようで、
擦れ違うアベックを乗せた車になぜかこちらが気を遣い視線を外したりします。
煌びやかなお城のような建物前を顔を赤らめたりしながら素通りし、旧善波トンネルを潜り抜け、
秦野市側から峠の切り通しへと向かいます。

国道の排煙と爆音、ホテル街の煌びやかさと淫猥が嘘のような峠の静寂と落ち着き。
以前訪れた時と同じく、首無しを含めた数体の石仏が峠の訪問者を無言で迎えてくれます。


首無しの石仏が迎えてくれる


夜の峠道を照らした御夜燈

峠の切り通しにも矢倉沢往還について書かれた説明看板が立てられていますが、
すでにその文字は消えかかり判読が難しくなっている悲しい状態です。
一段高みに設置された「御夜燈」前には、「平成二十年熊野修験 修行相模國善波峠
入峯天下泰平如意祈〇 七月吉祥日那智山青岸渡寺」と書かれた御札が供えられていました。
この札は最近、大山周辺各地で見られるもので、熊野からの修験者が回峰しているようです。

善波のラブホテル群が醸す妄念が厳しい修行の妨げにならなかったか心配ですが、
過酷な修行を積んでいる熊野修験者ならきっと雑念の湧く余地などなかったはずでしょう。
しかし、自分なら邪念を払拭することができず、修行中に尾根道から足を踏み外してしまうことも
大いに考えられます。

峠には、「聖峰3.5km、高取山2.9km、弘法山1.1km、鶴巻3.1km」の標識が立っています。
『新編相模國風土記稿』には「聖峰、高取山」の他に、
「猿子峯、丸山、笹尾、松尾、澤山、金山」といった山の名前が見られますが、
それらがどこの峰を指すのか気になるところでもあります。

『新編相模國風土記稿』には、善波峠について、
「矢倉澤道の係る所にて、一に切通と呼ぶ。
登り廿町許、道幅一間半、此路次所々に老松多くして人の目標に係れり」と短く記されているだけてす。
今や目につく老松の姿は無く、峠下のラブホテルばかりが嫌でも目に飛び込んできます。
林立する夥しいラブホテルを見るにつけ、峠をブラブラするという言葉よりも、
峠でラブラブするという言葉の方が似つかわしく思えてなりません。

峠のブラブラ歩きとホテル街での要らぬ妄想で友人宅に辿り着く前に疲れ果ててしまったので、
迎えに来てくれるように携帯電話で救援を求めると、
電話口の向うから「なんで善波にいるの?」という怪訝そうな声が返ってきました。
それは、もっともなことです。

【*1】 「神代杉(うもれ木)」

「洪積世の後半頃に善波峠一帯に広がる火山灰土の地域に茂っていた大森林が大洪水のため倒伏埋没し、
赤土(関東ローム層)の中で腐朽をまぬがれ長い年月の間に炭化が進んだもので、その後渓流によって赤土層が洗われ、
露出したものである。考古学でいう旧石器時代に相当するといわれている」 (現地の教育委員会設置の説明看板より)

【参考になる書物】

『丹沢今昔』 奥野幸道
『道しるべを追って・厚木の街道』 鈴村茂 県央史談会厚木支部
『かながわの峠』 植木知司  かもめ文庫
『秩父多摩丹沢』 直良信夫  武蔵書房
『峠路』  直良信夫  校倉書房
『碓氷峠・足柄峠への古道』  蜂矢敬啓  高文堂出版
『武蔵野歴史散歩2関東山ノ辺の道』  蜂矢敬啓  有峰書店新書
『板東の峠路・古代、中世の古道を行く』  蜂矢敬啓  高文堂出版
『伊勢原の民俗・比々多地区』 「第四章交通と交易」 伊勢原市教育委員会

●以前に、津古久峠を訪れた時のレポートを見る