★ 三国山稜・ヅナ坂峠探訪

ヅナ坂峠(綱峠)道・三国峠旧道  <おまけ>明神峠旧道

 籠坂峠と三国峠の間、三国山稜に位置するヅナ坂峠を再訪しました。
以前訪れた時は、ただ尾根上の峠を通過するだけでしたので、
峠道そのものがどのような状態であるかまではわかりませんでした。

今回は静岡側の峠道と山梨側の峠道の現状を探索してみます。
武田信玄の軍勢も越えたという峠道の様子は今どうなっているのでしょうか?

 ところで、「三国山稜」は丹沢山塊に含まれるのでしょうか?

丹沢を紹介した大抵のガイドブックには「三国山稜」についても“おまけ”のように付属して紹介されています。
だとすると「三国山稜」も丹沢に含まれるということでしょうか?
逆に含まれないとすると、何か山域を示す適当な呼び名があるのでしょうか?
「富士山塊」?「山中湖岸連峰」?など、多分耳にしたことはありません。

小山町産業観光課発行の『おやま散策マップ』には、
「丹沢山塊の西端籠坂峠から明神峠に至るなだらかな起伏の稜線を三国山稜と呼ぶ」とあります。
籠坂峠が丹沢の西端という見解のようです。
そうすると三国山稜は公的機関によって公認された歴とした丹沢山塊の一部ということになるのでしょう。
神奈川県民としては籠坂峠までを丹沢山塊の領分としてもなんら異存はありません。
しかし、静岡県民や山梨県民の怒りを買いそうな気もします。

ハンス・シュトルテ氏は著書『続・続丹沢夜話』(有隣堂)の中で三国山稜を「丹沢の尻尾」と表現しています。
なかなかウマイ表現だと思います。

「丹沢の尻尾とは丹沢最西端の三国山から西へ突き出す、通称三国山稜をさしている。
異論もあるかもしれないがこの稜線は丹沢山塊の一部で篭坂峠で富士に接すると私は考える」

と述べていらっしゃいます。

丹沢山塊に含まれると明言すると反感を招く恐れがあるので、そっと曖昧にしておきましょう。

 

峠道の入り口を確認しようと、山梨県側平野と静岡県側大御神、中日向を事前に訪れていましたが、
結局、峠道の登降口の発見には至りませんでした。
それもそのはず、山梨県側は大規模別荘地に、静岡県側はゴルフ場と富士スピードウェイにより
かつての峠道は破壊を余儀なくされてしまっているのですから。

そうとなれば確実な方法は、峠から両側に峠道を下るに限ります。
今回は三国峠に車を止めて、三国山経由でヅナ坂峠に至り、一旦静岡県側へ峠道を下降、
下降した道を登り返し再びヅナ坂峠に戻り、次に山梨県側に下降します。
平野から車を置いた三国峠に戻るには三国峠道の旧道を辿ることにします。


三国山頂
御料地境界標

青い空に入道雲、真夏の炎天下、
こんな日はキツイ山登りなどしたくはないものです。
しかし、場所を選び天候条件を考慮すれば、多少は酷暑を
回避できるというもの。

遠く九州地方を北上中の台風の影響で、
関東地方も南よりの湿った空気が入り込んでいます。
こんな時、相模湾からの風を受ける三国山稜は
ガスに覆われる機会が多いのです。

この機を狙えば、酷暑の下界とは異なり、
若干ながらクールウォークが楽しめるはず。
しかし、アレレレ・・・、現地は雲は涌いているものの
涼しいガスは流れていません。
天然のクーラーはまだスイッチが入っていないようです。


「三国峠・鉄砲木ノ頭」を指し示す岩田翁の標識
三国峠から三国山までは10分間の急登です。
いきなり汗が噴きだします。
しかし、車道から離れてすぐにブナの森に
吸い込まれていくのは心地よいものです。

山頂には山中湖村が設置した「三国山ハイキングコース」
の指導標識と岩田翁が設置した「三国峠・鉄砲木ノ頭」を
指し示す標識があります。

籠坂峠から歩いてきたハイカーが三国峠への分岐に気付かず
明神峠方向に行ってしまうケースがあるため
指導標識の整備が必要であると岩田翁は町議会でも
再三訴えておられました。 【*1】


三国山稜尾根道

三国山稜の快適尾根をヅナ坂峠へ向かいます。
途中、小学生の集団に「こんにちは!」の雨を浴びせられますが
頂稜部の天気の方は曇ってはいるものの安定し、
雨の落ちる気配はありません。

ガスは流れていなく、
神秘性と期待した涼しさには欠けますが、
三国山稜は何度訪れても良い雰囲気を保っています。

この快適な三国山稜尾根道を『日本百名山』の著者、深田久弥氏も歩かれています。

「・・・この山稜はずっと道の両側が雑木林になっているので、展望が利かない。
もっとも二、三ヵ所開豁な眺めを得る場所があり、そこで息抜きが出来るが、
あとは眼覆いを付けられた馬車馬のように、前を見て行くだけである。
瞑想の好きな人には気が散らなくていい。」
 【*2】 

なるほど、確かに両サイドは木々に覆われ展望は無く、前を見て行くだけの道です。
時には濃いガスに包まれることも多く、前すらろくに見ることができないこともあります。
そうなると「瞑想」どころではなく「迷走」状態にもなりかねないことでしょう。

深田氏の歩いた時代とは異なり、瞑想気分を妨げる富士演習場の砲撃音や
富士スピードウェイの爆音が稜線には轟いています。
気が散って瞑想しながら歩くには難しいかもしれません。


ヅナ坂峠 (綱坂・綱峠)

山稜自体がほぼ平坦なために鞍部という感じはしませんが、
尾根を横切る一筋の道が確かにあります。
このか細き踏跡のような道を、武田信玄の軍勢が越えて行ったとは俄かに信じ難いものです。

 


『大月市史』付図「天保8年郡内領絵図」より

『小山町史第三巻近世資料編U』(小山町史編纂専門委員会)
には次のように記されています。

「元亀二年(1571)武田信玄は峠を越えて
中日向村から竹之下村を通り、深沢城を攻め、
城内へ火矢を射かけ陥落させた記事が深沢村の明細帳にある。
ヅナ峠は武田時代から甲駿を結ぶ交通路であったのだろう。

江戸時代には甲斐国側に口留番所が設けられていた。
甲斐国の口留番所は武田時代の関所を踏襲したものといわれ、
甲斐国全体で20数ヵ所あり、国境の警備、
人や物の出入りの取締りにあたった。
一般に口留番所は明治維新で廃止されるが、
平野村のものは享保期に廃止された。
おそらく宝永砂降りで、人や物の移動ルートが変化し
設置の必要がうすれたのであろう。」

 

『甲斐国誌』巻之三十七 山之部第十六ノ下 「加古坂」の項にも以下の記述があります。

「・・・駿州日向村ヘ越ユル坂路アリ升降二里此ノ道古ハ専ラ往来セルニヤ古道ノ跡存シテ広道アリシト見ユ
永禄十一年十一月三日武田信玄平野村ニ与ヘシ朱印ニ曰ク甲駿両国之通路不自由之間本栖之地下人等ノ
如ク諸役御赦免之旨仰セ出サ被ル者也トアルハ即チ此ノヅナ越エノコトナリ
平野ノ南山足ニ関所ノ址アリ是レ古ノ往還路ニシテ加古坂ヨリハ攀ジ易シト見ユ土人曰ク古ヘハ加古坂峻路
ニシテ攀ジガタカリシガ宝永四年富士山爆火ノ時砂礫吹キオロシテ谷ヲ埋メ平地ノ如クナレリ故ニ通路開ケテ
往来自在ニナリシヨリヅナ坂自ラ通行スル者ナシト云フ」

古くは、現在の籠坂峠よりも交通があったらしいヅナ坂峠ですが、
宝永年間の富士山噴火により、それまで険しかった籠坂峠の谷が埋まり、歩き易くなったことで、
人の流れがヅナ坂峠から籠坂峠に移ってしまったようです。

『峠と人生』(NHKブックス)、『峠路』(校倉書房)の著者であり峠に造詣の深い直良信夫氏は
その著書『秩父多摩丹沢』(武蔵書房・昭和48)の「武蔵と相模の峠路」において
「ヅナ坂峠」について次のように語っています。

「横走駅(よこばしりのうまや)から甲州に入るのには、今の籠坂峠越えをしたのではない。
古代には、この辺は富士火山噴出の岩屑物が、うず高く堆積していて歩けなかった。
その上西風に乗って、富士山の噴出物が落下していたので、どうにもしようのない山地であった。
だから甲州への道は、通りよくて、そして富士山の噴出物が、降り積もっていない所ではなくてはならない。
そのような意味合いで、選ばれたのがヅナ坂峠であった。
しかしこの道は、山道にかかる所は、海抜480メートルで、峠の頂は1330メートル余の所であるから、
一気に850メートル余の高度を持つ坂を登らなければならないことになる。
が幸なことには道は山道にかかると、尾根筋をはいあがっている。
だからきついとはいっても、沢を行くのとは、またちがった趣をもっている。
昔は、道は木立で覆われていたろうから、坂道を登る人には、存外夏などはらくであったかもしれない。」

また、直良氏は「加古」(古文献では「加吉」)を平野付近と推定し、
ヅナ坂峠が、“最古のそしてほんとうの「加古坂峠」”ではなかったかと推論づけています。


新しくなっていた標識


以前訪れた時の標識

峠の手作り標識は平成16年に新調されたようで、以前訪れた時のものとは変わっていました。
以前のものは峠の歴史についても詳しく書かれ、味のある歌が添えられていたのが印象的でした。
ちなみに山中湖村設置の「三国山ハイキングコース」の標識もあるのですが、そこには「ヅナ坂峠」の
名前は記されていません。 歴史ある峠道なのに残念なことです。

山中湖村役場観光課発行の『ハイキングガイド山中湖』、
小山町産業観光課発行の『おやま散策マップ』には、それぞれ峠の名前は記されていますが、
現地には公的機関による「ヅナ坂峠」の標識はないのが現状です。 【*3】
地元の方の手作り標識がなければ、ここが峠であるとは気づきにくい地形です。
標識資材を苦労して運び上げられた方々に感謝であります。

ちなみに、山中湖村役場観光課の資料では「ズナ坂峠」、
小山町産業観光課の資料では「ヅナ坂」となっています。 
『甲斐国誌』の読み取りを尊重すれば小山町産業観光課が正確といえるのかもしれません。
「綱坂(峠)」とも表記されることから「ヅナ坂」が正しいのではないでしょうか。
(「頭奈越」と表記されることもある)

「ズ」か「ヅ」の細かい違いですが、
一部の登山ガイドブックに見られる「ブ」は明らかに誤りだと思います。
ブナが多い山稜なので「ブナ坂峠」としたい気持はわかりますが、史実に反するので「ブ」はいけません。


静岡側に続く踏跡


最初は笹の切り開き道です

さて、まずは静岡側の峠道を下ってみます。 いったいどんな状態なのでしょうか?
三国山稜を歩くハイカーは数多くいますが、ヅナ坂峠をこちらからあちらへと越えたという記録は
見たことがありません。 ネットで検索してみても、山稜部縦走の記録ばかりです。

先の『秩父多摩丹沢』(直良信夫著)によると、昭和40年頃の様子として、
「地形図には、今日でも、峠越えの小径が点線で引かれている。 が、実際には、もう踏跡などはついていない。
まったくの廃道となって、矮木雑草がものすごく、はびこっているだけである。」との記述がみられます。
富士スピードウェイの建設後は、「この坂道を行き来する人は、里人だって一人もいない。
中日向の部落で、土地生まれの老人に、ヅナ坂峠のことを尋ねても、まったくといってよいくらい
話題を持っていない。」とも書かれています。

実際、昭和初期の地形図と現在の地形図を見比べると、山麓の変貌は著しいものがあります。
ヅナ坂峠の南方下部は富士スピードウェイ建設に伴って甚大な被害を受けたと容易に推測されます。
峠から尾根を伝わり、麓の中日向集落に繋がっていた峠道は見事なまでに富士スピードウェイに
分断されてしまったのがわかります。


最初の展望台


二つ目の展望台

峠からの下り始めは、薄暗い笹の切り開き道が続きます。
思いの他、人の手入れがあり、笹の刈り払いがされているので容易に歩くことができます。
ヤブと蜘蛛の巣を掻き分けるひどい道かとも思っていましたが、幸い予想に反し、良い状態の道が続いています。

腐りかけた木製の階段が現れると、最初の展望台に到着です。
展望台には、これまた腐りかけた木製ベンチが一つあるだけです。
やや傾斜がきつくなり、なおも笹の切り開き道を進むと二つ目の展望台があります。
こちらは鉄パイプが使用されていますが、腐りかけた床板に体重をかけていいものか心配です。
展望は良く、明神峠へ駈け上がる県道を望むことができます。
日当たりも良いのでヘビがとぐろを巻いて日光浴をしていました。

それにしても、この第一、第二展望台は何を目的に設置されたのでしょうか?
とても利用するハイカーが多いとは思えませんが・・・


緩やかな尾根道となる


植林地内にあった「2K」の謎の標識

やや急な勾配だった道は笹が消えるとともに緩くなり、歩き易くなります。
『秩父多摩丹沢』によると、「故徳富蘇峰氏が古城に仮寓されていたとき、ヅナ坂越えを思い出されて、
駕籠で越えられた・・・」ともあります。
このくらいの緩斜面なら駕籠で越えたというのも本当なのかもしれないと思えてきます。

徳富蘇峰といえば山中湖村の「旭日丘」という地名の命名者でもあります。
また、世附峠の近くには「蘇峰台(樹下の二人)」があり、
この辺りを散策したという徳富蘇峰の名に因んで付けられています。
実際に、どういう径路で周辺を散策したのかは不明ですが、氏の著作物や資料が収集されている山中湖畔の
「文学の森公園・徳富蘇峰館」を訪れれば、その時の様子を記した資料があるかもしれません。
(昔の峠の様子を知るためにも資料があればと思いますが徳富蘇峰館は入場有料の施設であります、残念)

峠道の状態は何の問題もありません。
道幅も広く、不明瞭な箇所もヤブもなく快適に下降を続けています。
植林を管理する人の通行があるのか、蜘蛛の巣もありません。
次第に右手には植林地が現われてきます。
植林地内の道端に謎の「2K」の標識、これは南側の登降口から「2km」という意味でしょうか?


「間伐作業中です」の看板があるところ Part 1


「間伐作業中です」の看板があるところ Part 2

道に沿っては点々と境界見出標が設置されています。
歩いているこの道が古来からのままの峠道であるかは定かではありませんが、着実に尾根上を拾って
道がつけられています。

地形図を見ると、三角点p1071付近から西側の谷へ下る破線道が描かれています。
注意して見ていましたが正確な分岐ポイントはわかりませんでした。(そもそも地形図でも接続はしていませんが)
「間伐作業中ですハンターの方十分注意して下さい」の注意看板が二箇所に設置されており、
そのそれぞれの箇所から西側へ薄い踏跡があるようでしたが未確認です。


棚頭山野組合 境界杭


送電線クロスポイント

棚頭山野組合と書かれた黄色の杭が複数埋められた場所からも西側へ向かう踏跡があります。
ちょっと進んでみましたが、これが西側の谷へ下る分岐ポイントかもしれません。(未確認)。 【*6】
植林地の中をよく見ると、凹とした道跡らしきものが確認できます。
現在の峠道(尾根道)は植林地と自然林との境につけられていますが、
古くの道は今の植林地の中を通じていたのかもしれません。

棚頭山野組合の境界杭から吉久保山野組合の境界杭に変わると、前方が明るくなり、
送電線とのクロスポイントに飛び出します。
送電線の鉄塔名は不明ですが三国山方面へと続く次の鉄塔番号は288とあります。
鉄塔の脇には剥げかかった白ペンキの標杭があり、なんとか「佐久間幹線」との文字を拾うことができます。


送電線ののびる先、三国山方向を見る


伐採されたビューポイント

送電線クロスポイントの先は、伐採跡地のビューポイントになっています。
ただし、この辺は日当たりが良く、草深いのでマムシには注意が必要です。
なにしろ、そこら中でカエルがピョンピョン跳ねているので恰好の餌場となっているかもしれませんから。

ビューポイント右手の林に入ると、さらに先に続いている峠道を確認することができます。
植林地内の腐りかけた木製階段を下ると、再びのビューポイント出現です。
眼下に富士スピードウェイを一望することができます。
何か大きなカーレースがあるときは双眼鏡を持ってここまで登ってくればタダで楽しめそうです。

『小山町議会会議録』によると、市町村緊急地域雇用創出特別事業により、
その交付金(国からの補助金)約420万円を使ってヅナ坂峠の道を整備したとのこと。
まさか峠道の随所に見られる腐りかけた木製階段や腐りかけの展望台がその整備の成果?まさかね。
岩田翁は町議会において、不要な支出ではないかと疑問を呈していらっしゃいます。 【*4】
しかし山稜上部の笹の刈り払いは大いに助かったので、道普請に使われたとなれば致し方ないか。

小山町としては三国山稜を訪れるハイカーをヅナ坂峠を経由させ、町に誘引する狙いもあるようですが、
その下降口が爆音渦巻く富士スピードウェイや墓石が居並ぶ冨士霊園じゃねぇ・・・・どうなんでしょう?
明るい観光地、山中湖側に降りてしまうハイカーが多いのは分かるような気がします。
どちら側が風光明媚かはともかく、交通の便を考えると、三国山稜を訪れるハイカーが
「山中湖村側から登り、山中湖村側に下る」のは止むを得ないことなのかもしれません。


富士スピードウェイを見下ろす

富士スピードウェイはもう間近です、高速回転のエンジンの爆音が腹の底まで響きます。
タイヤの摩擦音であるキキキィー!キィー!キュルキュルキュー!で頭が痛くなってきます。
高品質のガソリンが贅沢にも消費されていると思うと貧乏人にはこれまたたまりません。
ガソリン価格高騰の折、車内のエアコンを使用しないで燃費向上を図り、
節約運転でここまでやって来たのですから。

富士スピードウェイの外縁に造られた周遊道路も見えています。
この峠道をさらに下り続ければ、あの周遊道路に接続することでしょう。
これで静岡県側の峠道の様子は大体わかったので引き返すことにします。


富士スピードウェイ中央ゲート近くの路傍の石仏

富士スピードウェイに分断される前の峠道が通っていたであろう付近に石仏と石祠が祀られています。
昔の峠道の様子について尋ねても石仏は何も答えてはくれません。
ただヅナ坂峠の峠道の一部が富士スピードウェイの爆音の下に眠っているという事実があるだけ。
究極のスピードを求めるスピードウェイ、時代遅れの峠越えの道はもはや不要な存在なのでしょうか。

三国山稜で隔てられていた両地域の人や物の交流・交換を綱を固く結ぶようにして担っていた綱峠、
いまやその綱は断ち切られてしまったのです。


再びのヅナ坂峠 ガスが流れ出した

いま下降して来たばかりの峠道を登り返して、再びヅナ坂峠に到着です。
先ほどとは打って変わって、ガスが流れ始めています。
大分涼しくなってきました。天然クーラーのスイッチが入ったようです。
三国山稜にはやっぱりガスが似合います。


山梨側へ続く踏跡


時々ガスが流れます
自然林の中の緩やかな下降路です

今度は山梨県側の峠道の様子を探ります、明るい自然林の中へと続く踏跡を拾います。
しかし、この道は現行地形図に記された破線道とは異なる道筋です。
昭和初期の地形図に描かれている本来の峠道がまだ登山道として残っているようであります。
現行地形図のp1250と記載された辺りの、のっぺりとした尾根を下降しています。

静岡県側のカーレースの爆音ほどではありませんが大音量のロックミュージックが聞こえてきます。
山中湖でロックイベントでも開催されているのでしょうか? 大音量のスピーカー音が山中にこだまします。
これなら熊除けの鈴も笛も不要です。 逆に、熊がロックのリズムに興奮しないかと少々心配です。

踏跡は明瞭、ただ、どこでも歩いていけるような箇所(道に見える)もあるので、
一番濃い踏跡を丹念に拾います。(積雪期はどこが道だかわからないことでしょう)
でも、地形図を見れば分かる通り山中湖側は緩やかな斜面です。
どこを歩いても別荘地に無事に飛び出すことでしょう。


ブナの巨木に出会う
これは必見!


大男を逆さにして土に埋めたような巨木
足だけが地面に出ているようです

自然林の中、時折ガスが流れます。
とてもおいしい空気が充満した心地好い道です。
途中、ブナの巨木に出会います、幹の瘤と苔がその長老振りを示しています。
そして二又の古木にも出会います、大男が逆さまになり頭から地面に埋まっているような風体です。


別荘地側 出口
案内標識一切なし

さらに勾配緩やかな道を歩み続ければ、ひょっこりと別荘地の裏手に飛び出します。
ちょうど草刈りの作業中でトラックが止まっていました。
山道への出入り口には何の案内標識もありません。
歴史ある峠道にしてはいささか冷遇されているのでは。

ヅナ坂峠の山中湖側の道は三国山稜のエスケープルート、アプローチルートとしても十分使えます。
この道を目的に訪れてもいい感じの道です。
もっと宣伝され、歩かれてもいいのではと思いましたが、宣伝されないのは私有地の可能性もあります。
別荘開発業者が既に買い上げているとか(?)

『甲斐国誌』巻之五十三 古跡部第十六ノ下 「口留番所ノ廃址 平野村」の項には以下の記述があります。

「本村ヨリ南三町許リニアリ東南ハ山足ニセマリ西北ハ湖水ノ汀ニ近シ堤防ノ崩レ礎石ノ跡今存セリ
此レヨリヅナ峠ヘ係リ駿州駿東郡日向村ヘ出ヅル古道ナリ日向村マデ山路二里余」

平野村にはヅナ坂峠の往来を取り締まる口留番所が置かれていました。
現在のどの辺りでしょうか、今は付近一帯がリッチな別荘地になっています。

口留番所も置かれた歴史ある峠道を顧みる者は
避暑地で快適別荘ライフを送る住人の中にどれほどいるのでしょうか。
峠道を下って、登って、また下って、汗まみれになったみすぼらしい薄汚れた旅人は疑問に思うのでありました。


三国峠旧道入口か?
ここから別荘地に別れを告げ山道に入る。


道幅は広いが雑草だらけ

さて、貧乏人には場違いな別荘地から、車を乗り捨てた三国峠に戻らなければなりません。
ここは近道、三国峠旧道を探索します。

ペンションモーツァルトや大きなドッグランを備えた建物の前を通り過ぎ山端に近づいて行きます。
それらしき入り口を発見、果たしてここが三国峠旧道の登降口なのでしょうか?
ゴミ焼却施設(山中湖村クリーンセンター)の一本隣りの道であるはずです。

山道に入ると雨水にえぐられた道、でもすぐに幅広のそれらしき道になります。
道幅といい、勾配といい、馬が荷を積んで歩ける道の様子です。
でもちょっと地形図の破線道からは外れてしまったようです。
p1085と書かれた上あたりを、丘陵を巻き気味に進んでいます。

近くから自動車の走る音が聞こえてきます。
三国峠のかなり手前、p1085と書かれた右側の車道カーブ地点に飛び出してしまいました。
三国峠の旧道探索は失敗です。
この辺は平野村の入会地だったため里道が入り組んでいるようです。


振返るとカヤト原と山中湖の輝き

振返るとカヤトの海の向こうに頭を雲に隠した富士山と山中湖の輝く湖面が望めます。
前方には鉄砲木ノ頭の上に夏のモクモクとした雲が浮いています。
三国峠には白いガスが漂っています。
正味4時間弱のプチウォークでしたが、忘れられた峠道を堪能できたひと時でありました。

  <おまけ> 明神峠旧道 


ヘアピンカーブの脇に旧道が残る


明神峠旧道

現行の地形図と昭和初期の地形図を見比べると、
明神峠道はほぼ現在の県道山中湖小山線と重なっています。
ただ明神峠南方の三角点p792の東側を旧道が通っていることくらいしか異なりません。
現行地形図にも破線道として残されているこの旧道の一部は今でも確認することができます。

県道山中湖小山線の走り屋が好む一番急なヘアピンカーブの脇に、入口を草に隠しつつも、
ひっそりと旧道は残されています。 蜘蛛の巣がかかっていますがわりと立派な道です。

三国峠、明神峠は山中湖周辺の平野村、長池村の村人が
足柄地方へ出稼ぎに赴くために越えた峠でありました。
明治末期より「イネコキ」や「ミカンモギ」の出稼ぎに、大勢の未婚の女性が行李を背負って、
三国峠、明神峠を越えて、小山まで4時間近く歩き、小山からは汽車に乗って足柄上郡、下郡へと
向かったといいます。 【*5】

【*1】 『平成15年第5回9月定例会 小山町議会会議録』 『平成14年第5回9月定例会 小山町議会会議録』 より。
    現在は観光客集客に熱意のある山中湖村設置の標識がしっかりと整備され道迷いすることはない。
    この山中湖村の標識には目的地までの所要時間が「大人〇〇分」と書かれているが、「子供」だとどうなるのだろうか?
    子供の足の方が時間がかかるととるべきか、運動不足で腹の出た大人の方が遅いととるべきか、
    我が身の体力の衰えを痛感し、後者のような気がしてならない。
    ちなみに、この辺り小山町による公的標識は一切ない。

【*2】 『山頂山麓』 「一日二日の山」 朝日文庫  より

【*3】 2001年8月頃から2002年9月頃(?)まで、「東海道四〇〇年祭・北郷三国峠県際まほろば交流」を記念して、
    北郷森林ボランティアの会の手によって、ヅナ坂峠には立派な案内看板が設置されていたようです。
    看板には以下のように書かれていたようです。

    「地元では綱山の上部に位置する峠であったため、昔から自然とヅナ峠と呼ばれている。
    又、古来より山中湖村(合併前の平野村)でも、ヅナ峠と呼んでいたと『甲斐国誌』に記載されている。
    戦国時代に武田・北条氏の戦いの折、このヅナ峠から古道を通って武田の軍勢が静岡県側の中日向村へ駆け下っていった。
    北条氏の出城であった深沢城(御殿場市深沢)を略取する時は、この峠が利用されている。」

    今現在、公的な機関が設置した、峠の歴史を記した看板はない。峠名を記した標識すらない。    

【*4】 『平成14年第5回9月定例会 小山町議会会議録』 『平成15年第3回6月定例会 小山町議会会議録』 より。

【*5】 『山中湖周辺の民俗』 吉田チエ子 岩田書院 2004年 より

【補足】 小山町教育委員会社会教育課発行の『史跡いろいろみちしるべ その5 北郷地区編』によると、
     大野林道の奥に「明神峠古道」の記載があります。
     現明神峠よりさらに西、p1047付近に突き上げる小尾根に古道があったようです。
     この情報は、後日、T自然保護協会のOさんより頂きました。 ありがとうございました!
     ちなみに、『史跡いろいろみちしるべ その6 須走編』を見ると、籠坂峠のさらに西、藤原光親の墓所の上に
     「籠坂峠古道」の記載があります。
     「明神峠古道」「籠坂峠古道」は気になりますので今後の探索課題にします。

【*6】 後日、ヅナ坂峠南尾根三角点1071の西側ジグザグ道を探索したところ、この棚頭山野組合の境界杭の場所に出ました。
    その時の記録を見る → 
★三国山稜・南面バリエーションルート(ヅナ坂南尾根-立山南方下降路)

(峠行:2006.08.19 晴れ一時ガス、下界34℃)