明文化された「主体的登山のリーダーの法的責任」という新しいリスクを論理的に処理してゆきたい

未定稿

2003.3.16

宗宮誠祐

今回の控訴審判決は、今後の僕たちの登山活動、特に「初心者を連れて行くリーダーに」大きな影響をあたえることになったと思う。よって、このHPでは今後しばらくの間はこの影響と対応策について重点的に論評して行きたい。

ただし、この仕事量はかなりのものと推測できるので、その全てをまとめるにはかなりの時間が必要となる。僕はたいへんに怠け者なのだ。しかしながら、「リーダーが初心者を連れて行く」タイプの登山行為は毎日どこかで行なわれているという現実に照らして、緊急を要する点は、ただちに報告しておきたいと思う。僕たちがどれほど事前の準備に務めたとしても、僕たちの誰一人事故の発生確率を0にする能力を持ち合わせていないし、山に行かないと言う選択は「山屋」にはありえない選択肢だろうから。

控訴審判はリーダーの法的責任、つまり賠償金を支払う義務について以下のように判示した。

大学生の課外活動としての登山において,これに参加する者は,その年齢に照らすと,通常,安全に登山をするために必要な体力及ぴ判断力を有するものと認められるから,原則として,自らの責任において,ルートの危険性等を調査して計画を策定し,必要な装備の決定及ぴ事前訓練の実施等をし,かつ,山行中にも危険を回避する措置を講じるべきものといわなけれぱならない。

これは、少なくとも大学山岳部や社会人山岳会の活動における、ある程度以上の経験者同士の登山の安全確保については、各自の自己責任で行なうのが原則で、仲間への損害賠償請求は認められにくい」と考えておいて良いということである。高等裁判所も登山者の伝統的理念である「ケガと遭難は自分持ち」に一定の理解を示したのである。

それでは、大学山岳部や社会人山岳会の「自主登山」であれば、どんなメンバー構成、あるいはどんな計画であっても、「登山事故には法的責任はなじまない。ケガと遭難は自分達持ちなのだ。」という伝統的な理念をも、司法は支持したのだろうか。さらに、読み進むと「限定条件」が設定されており、答えはNOであることがわかってくる。

そうすると,大学生の課外活動としての登山におけるパーティーのリーダーは,そのメンバーに対し,たとえぱ,特定の箇所を通過するには特定の技術が必要であるのに,当該メンバーがその技術を習得していないなど,事故の発生が具体的に予見できる場合は格別,そうでなけれぱ,原則として,山行の計画の策定,装備の決定,事前訓練の実施及ぴ山行中の危険回避措置について,メンバーの安全を確保すべき法律上の注意義務を負うものではなく,・・・

ここで注目すべきは、「・・・特定の箇所を通過するには特定の技術が必要であるのに,当該メンバーがその技術を習得していないなど,事故の発生が具体的に予見できる場合は格別・・・」との言葉である。それにしても、「・・・格別,そうでなけれぱ,・・・」の用法はなんとかしてほしい。この文章を、「翻訳」すると「・・・は別として、そうでなければ・・・」となるようだ。よって、たとえば、クライミング技術やアイゼンワークが未熟な初心者を含むパーティがいて、このパーティのリーダーをひきうけた経験豊かな登山者の少なくとも過半数程度の人が、フィックスロープを張ってこれにプルージック等で自己確保をとって初心者を通過させるような岩陵帯をノーザイルで登らせて、初心者が滑落死してしまった場合などは法的責任が認定されるということだ。もちろん、「事故の発生が具体的に予見できる場合は」というのは、かなり基準が曖昧で、この点は裁判の重要な争点となると思われるが。

以上を、おおまかにまとめると、その山行を自力でこなせる程度の力のあるもの同士の自主登山は「自己責任」だが、その山行を自分でこなすだけの力量のない人が参加者にいてその参加者が遭難した場合は、自主登山であっても、「リーダーは賠償金を支払え」という法的判断が下されるケースがある、ということである。そして、次の文章は我々登山者には極めて重い判断と思われる。高等裁判所の判例は、最高裁判例ほどではないが、かなりの拘束力をもつと考えるべきだからだ。

例外的に,メンバーが初心者等であって,その自律的判断を期待することができないような者である場合に限って,上記の事柄についてメンバーの安全を確保すべき法律上の注意義務を負うものと解するのが相当である。

つまり、この法的判断に照らせば、もし今回のこの大学山岳部の事故で滑落死したのがサブリーダーではなくて新人であったら、かなりの確率でリーダーとサブリーダーは法的責任を認定されたということなのだ。さらに、この文章は、「自主・成年・非営利型登山」における法的責任を定義したものであり、仲間同士の主体的登山の法的責任を明文化した 判決であると言わざるを得ない。少なくとも主体的登山についてのこれまでの二つ判決はここまで明確に踏み込んで一般化した言及はしていない 。例えばこの裁判の一審判決は「被告bとしては、初心者であるf及びeについてはその動静に気を配り、危険のないよう配慮すべき義務を負っていたものと認められる」と記載され、このケースに限定して示唆した形にとどまっている。よって、ある意味で、2003年3月12日は、僕たちが受継いできた「ケガと遭難は自分持ち」という登山界の伝統が崩壊した日と言えるかも知れない。

司法改革によって、裁判と言う「国のサービス」を紛争解決の手段とする人は確実に増加して行くだろう。よって、僕たち登山者も、「リーダーには法的責任あり」とする訴訟の増加と、その主張の根拠として今回の判決が原告側から提出されることを、これからは踏まえていなければならない。特に、リーダーを務める人達はこの点に留意してほしい。また、山岳会の運営者は、「リーダー」を引き受けるリーダークラスの会員に対して、自主登山のリーダーの法的責任についての説明責任とインフォ−ドチョイスを全うする必要がある。

登山者は、これまでもずっと、登山のリスクについては深く真剣に考えてきた。僕たちも今回のこの判決をしっかりと受け止め、いままでにもまして、よりいっそう登山のリスクについて考察する必要がある。ただし、ここで確認しておきたいことはあるのだ。どの程度の割合かは不明であるが、この国のある程度の数の登山者にとって、この意味は、「ひたすらに安全確保のみを追求する」ということを意味しない。僕を含むあるパーセンテージの登山者は、そのような「絶対安全で危険率の全くない登山行為」には魅力を感じないからだ。少なくとも、僕の望みは「刻々と変化して行くリスクを、もちろんそれは極めて相対的なもので数値化は極めて困難なのだが、可能な限りの手段によって、可能な限り精確に、かつ間にあううちに把握したい」ということだ。そして、その後に、その測定したリスクを許容するか、あるいは許容しないかを自分自身で判断したいのだ。

こうやって、考えてみると、僕はやはり「冒険」に憧れているのだと思う。もちろん、僕はリスクをたくさんは許容できない性格なので、真の「冒険」などできはしないのだが、それでもそれなりの身の丈にあった「リスク」を許容して、信頼する仲間たちとアウトドアに向かい、喜びを共有し信頼を深めて帰り、その偉大な日について笑顔で話し、次のさらなる冒険について語りあい、その素晴らしい遊びの愉しみ方を次の世代に伝えて行きたいと思うのだ。

ところで、僕の裁判の時もそうだったけれと、今回も、きっと、「もう初心者を連れて行く登山はしない。同じくらいの実力の仲間か、おれよりうまい人とだけ行く」と言いだす登山者が現れるような気がする。確かにそう思うのは無理もない。なにしろ、リーダーは無事下山して当たり前。登山ガイドのように経済的利益がケットできるわけでもない。それなのに、もし事故ったら、何千万円の賠償金を請求されたり、場合によっては業務上過失致死傷の犯罪者になってしまうのだから。

しかし、それでも、リーダークラスの人達には、その選択はなんとか回避してほしい、踏み止まってほしいと僕は願うのだ。昨年の10月26日付の僕の意見書「本多勝一氏とB氏を批判する」 にも書いたが、僕たちは「先輩からの好意の無償のバトンタッチ」によって、アウトドアで思い切り遊ぶという幸運に浴して現在に至っている。特に、僕たちを生還させてくれる危険回避能力は「アウトドアの現場」での実際の危険への接近によってしか伝えらないだろう。よって、今回の判決で、別の意味でのリスクが増えはしたけれど、僕たちはこのリスクを甘受して、これからやってくる冒険の遺伝子の継承者たちに、先輩から引き継いだ冒険の精神や登山の魅力を伝えて行かなければならない。先輩たちが場合によっては生命をかけて僕たちを守り、そして、導いてくれたことを僕たちは知っている。先輩たちからのこの借りは、少なくとも僕たちにとってはかけがえのない宝物を、これからの若者達に伝えることによってしか返せない性質のものなのだ。

僕は、5年前の事故の後もアウトドアスポーツをやめるという手段を選択しなかった。僕は、激しい批判と忠告の中で、すぐにクライミングを再開し、再事故の可能性を確実に防止できるその手段を選ぼうとは思わなかった。それがなぜだったのか僕には良くわからない。しかし、少なくとも僕にはその選択しかなかったのだ。たぶんそれは僕の性分なのだろう。そんなわけで、僕は、今回も、この新しいリスクを回避するのではなく、これを良く分析して、リスクを最小限に押さえる手段を模索したいと感じるのだ。方法はきっとある。僕は今回の控訴審判決で、主体的登山のリーダーにハッキリと課せられた法的責任という新しいリスクを論理的に処理してゆきたいと考えている。よって、僕は今後も場合によってはリーダーを引き受けるという自己決定権を行使するだろう。それが、たとい、僕がまた遭難事故裁判の被告として法廷に通うリスクをも、引き受けるということを意味するのだとしても。もちろんかなりの葛藤は避けられまい。僕は、去年の『岳人』に「冒険の遺伝子を絶滅させてはならない」と書いた時の心境を、もう一度、思い出している。

追記

高等裁判所は、計画を止めなかった先輩達に法的責任があるとの原告側の主張に対しては以下のように判断した。

被控訴人c,同dの注意義務について

・・・大学生の課外活動としての登山に参加する者は,原則として,自らの責任において,ルートの危険性等を調査して計画を策定し,必要な装備の決定及ぴ事前訓練の実施等をし,かつ,山行中にも危険を回避する措置を講じるべきものであるから,パーティーのメンパー以外でその登山に関与した者は,たとえ,山岳部員の上級生やOBであっても,事故の発生が具体的に予見できた場合は格別,そうでなけれぱ,山行の計画の策定,装備の決定,事前訓練の実施について,メンバーの安全を確保すべき法律上の注意義務を負うものではないものと解するのが相当である。

控訴人らは,「一見明らかに安全上の問題がある場合」には,指導等の義務がある旨主張するが,たとえ,安全に対する配慮が「一見明らかに」不足していたとしても,本来自律的に判断し行動することが予定されているパーティーのメンバーに対し,そのメンバー以外の者がたやすく不法行為責任を負うと解するのは相当ではなく,ただ,事故の発生が具体的に予見できた場合には,それを指摘するだけでメンバーにおいて事故の発生を回避する措置を講じることが予想されるから,そのように容易に事故の回避が期待されるような場合に限って,メンバー以外の関与者の法律上の注意義務を認めるのが相当である。

そして,被控訴人c及ぴ同dにおいて,本件山行の出発前に,本件事故の発生が具体的に予見可能であったと認めることはできないことは,被控訴人bについて述べたのと同様である。そうすると,被控訴人c及ぴ同dには,本件山行の計画について変更,修正を指導,助言すべき法律上の注意義務があったとは認められない。・・・

ぼくは、高等裁判所民事第3部の青山邦夫裁判長・藤敏裁判官・倉田慎也裁判官の良識に深い感謝を捧げる。そして、その一方で、「・・・両親の悲しみに、被告たちの態度はあまりにも無責任と言わなければなりません。」と意見書で陳述した本多勝一さんや「現場での遭難者の細かいミスがあったとしても、事前準備におけるリーダーと大学、山岳部関係者の落ち度はそれを凌駕する重大なものであったと言わなくてはなりません」と意見書でのべたBさんが、彼らの意見書の中で、不当に (僕はそう考える) 被告という立場に6年間も立たされることになった二人の先輩の法的責任について弁護しなかったことに、僕は、一人の登山者として極めて深刻な疑問を持たざるをえない。

以上