「翡翠ちゃーん。時間ですよー」
「…………」
声が聞こえた。
その声が真っ暗で無音の世界から、私を連れ出す。
でも体が重い。もちろんまぶたもものすごく重い。
「う……ん」
鉛のように重い体の中で、指先だけがかろうじて動いた。それがきっかけとなったらしく、少しずつながら意識が覚醒する。
何とか自由になり始めた意識を総動員して重いまぶたをこじ開けた。
窓から差し込む光が、私の意識を覚醒させてゆく。
気付くと……私は上半身を起こして座っている状態になっていた。
ふと横を見ると、そこには優しい笑顔を向ける姉さんが立っている。
「…………あ……おはようございます……」
「相変わらず寝起きは苦手そうねー。さ、お勤めですよー。早く着替えて出てきてね」
そう言って姉さんは部屋を後にした。
メイドの朝は早い。朝の5時には起きて、ロビーや居間、トイレや厨房などといった、主人が起きてから出かけるまでに使用する場所を一通り整頓しなければならない。
一見楽そうに見えるが、いつかのように宴会で盛り上がってそのまま寝てしまった朝などは、この時間内で片付けるのはかなり大変である。……もちろん昨夜はごく平凡な夜だったので問題は無いはず。
……それにしても眠い。
夜は姉さんと交代で見回りをするので、実際に眠れるのはおよそ3〜4時間程度。
姉さんは私が夜弱い事を知っているので、消灯時間の22時から午前1時までが私で、その後4時間が姉さんと言った形で私にしっかり睡眠時間を取らせてくれている。
もちろんその分は、昼間の仮眠を少し長めに取ってもらう形で返している。
「…………」
ロビーと居間を見渡す。これと言って問題は無い。
まず私は居間の清掃を始める。
と言ってもそれほど時間も無いので、テーブルや椅子などを整える程度。
掃除機を使うなど、大掛かりで騒音が伴う事は、主人が居なくなってからするのが基本なので、とにかく今の時間は目立つごみなどを取る程度で済ます。
大よそ片付くと、次は階段の手すりなどの掃除。雑巾で済ませる仕事なら、早朝から行っても迷惑にはならない、と言うのがこれを優先的に行う理由である。
「翡翠。おはよう」
「……秋葉さま。おはようございます」
仕事の手を止めてお辞儀をする。
「…………」
普段なら一声かけるだけで去ってゆく秋葉さまが、その場に立ったまま私を見つめている。私は何か訊ねたい事があるのだろう、と感じ、こちらから聞いてみた。
「……どうかされましたか?」
「あ、いえ。ただちょっと……兄さんの事でね」
…………。
その人を思い浮かべるだけで、少し自分の体温が上がったような錯覚がある。
私は極力平静を装いながら答えを返した。
「はい。志貴さまがいかがしましたでしょうか?」
「私の前では元気そうに振舞っているけど、実際のところはどうなのかと思ったのだけど……翡翠が一番よく見ているでしょう?」
「……はい。私の見る限りでは、あの事件を過ぎてから、これと言った問題は無いように見受けられます。朝に体調が悪いと言う事も殆ど無いようです」
「そう……それを聞いて安心したわ」
そう言うと、秋葉さまは踵を返して居間の方へ向かった。
……時計を確認すると六時半。
そろそろ志貴さまを起こしに行く時間だ……。
私は掃除に使っていた雑巾とバケツを一旦自分の部屋に置いて、手を洗って服装を整えてから、志貴さまの部屋へ向かった。
「……失礼します」
ノックをしても反応が無いので、私は扉を開けて志貴さまの部屋に入った。
……志貴さまはいつものようにベッドに横たわり、安らかな寝息を立てている。
いつものように彫像と見間違えるような雰囲気で、触れてしまえば壊れてしまいそうな危うさと相まって、その周辺には近寄りがたい雰囲気すら伺える。
「……志貴さま……おはようございます……」
様子を見るように声をかけてみる。が、やはりいつものように反応は無い。
ここまで静かな空間なのだから、普通は今程度の声量でも聞こえるように思えるのに、志貴さまは何も聞こえていないかのように反応しない。
耳を澄ませば寝息が聞こえるし、ゆっくりと胸も上下している。これが無ければ亡くなってしまわれたのでは無いかと感じるほど静かである。
普段ならば、私は十分おきに様子を見に来て、その間は近くの部屋の掃除をしながら時間を潰す。
でも、最近はもっぱら志貴さまが目覚めるのを、部屋の中で眺めている事の方が多い。
その寝顔を見つめていると、あの夜の事を思い出す。
初めはそれしか理由が無かった故に。しかしそれから先は、確かに心が重なり……。
その時の感覚を思い出すだけで、全身の血液が沸騰したような錯覚に陥る。自分でも分かるくらいに体温が上がってしまう。
そんな私の葛藤など気付くはずもなく、志貴さまは眠っている。そうしてしばらく見つめていると……その頬にほんのりと赤みが差した。目覚める予兆だ。
「……志貴さま、おはようございます」
こうなれば反応してくださるので、再び声をかける。時計を確認すると六時五十分。大体いつも通りの時間だ。
「……ん……」
この屋敷にいらっしゃった直後は、色々あったせいでうなされていたり、起きて体調が悪そうな時が多々あったが、最近は非常に落ち着いて睡眠を取られている様子だ。
ゆっくりと瞳が開く。この半分寝ぼけた表情が、非常に可愛らしく、愛しい気持ちが心を支配する。しかし私はいつも通りの表情でご挨拶をしなければならない。
「……あ、翡翠……おはよう」
「はい、おはようございます、志貴さま」
「……えと……時間は……七時前か……」
「はい。お着替えが済まれましたら、お食事をお採りください」
私は一礼して部屋を出ようとした。
「あ―翡翠」
「……はい」
「毎朝ありがとう。助かる」
「……いえ。ありがとうございます」
毎朝、志貴さまにこの言葉をかけられるのが凄く嬉しい。メイドとして働く使命感よりも、この言葉を聴きたいがために志貴さまにお仕えしているかのような錯覚に陥る。
私は気分良く、居間へ向かった。出来る限り冷静に歩きながらも、心の中ではスキップしそうなくらいに弾んでいる。だがそれはそれ。気分を切り替えて私は仕事に戻った。