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いくつもの巨岩がころがる谷川。風も無く蒸し暑い空気とは裏腹に、手足がちぎれる程冷たい水流。水音と時折聞こえる野鳥の声の他は何もない。鋭くえぐり取られたV字谷と狭い夏空があるだけだ。
あれは1975年8月2日。両親と私と弟で、秋山郷の終点、切明に行った時の事。宿はリバーサイドに取った。当時のリバーサイドには、エアコンなどは設備されていなくて、宿の人の話によると、21時までは虫が入って来るので灯かりを消し、窓は開け放しにして欲しいとの事だった。灯かりもない部屋にいても暑いだけだし、家族で夕涼みに出かけたのだ。
発電所の水銀灯の他には、あたり一面闇が広がっていた。しだいに目も馴れてくると、彩度の沈んだ中にも、野草や川原の石、光る川面がうかんでくる。ジャリ石と靴の擦れる音。さっきから聞こえている水の音にまじって、虫の音がしてくるのだった。昼間聞いた無縁仏の話や、飢饉で亡んだ村の話を思い出し、闇の怖さを感じたり、本当に寂しい所なんだと思ったりもした。歩きながら夕食に出た天ぷらに、ゲーロッパ(オオバコの葉)が出てきた話になった。私もそれには驚いた。私達をゲーロッパを知らない都会の家族だと思っているのだろうか。そう言えば昼間、宿の女の人がそこいらで草を摘んでいたっけよと、母が言って皆が笑った。
ゲーロッパが出てくるなんて人を馬鹿にしている様で少々腹立たしかったが、今考えると、秋山の飢饉の時は草木の根まで食したし、そういった意味もあったのかも知れないと好意的に考えている。また、ハウス栽培の野菜ばかり食べている都会の人々には、かえって珍しがられるのかもしれない。
突然皆が「オーッ!」と叫んだ。当時、小学5年の弟の興奮は凄く、私はいったい何が起こったのか判らずじまい。家族の証言を総合すると、15mほど前方にある雑魚川の左岸の斜面より紅い炎が立ち上ったと言う。それはガスの様にボワッと上がって消えたらしい。母も初めて見たのだそうだ。
残念ながら私は目撃していない。一瞬の出来事で、見逃した自分が悔やまれる。これを狐火という。このような深山でもそうそう見られるものでも無いので非常に残念であった。いつか機会があれば見てみたい。秋山の狐火を・・
補足:2003年秋にこの日の出来事を記した日記が出てきた。当初8/13と上記に記されていたが、この記録によると昭和50年(1975)8月2日(土)である。よって記事を訂正した。なおこの記録が発見された事により家族で話題になった。母の記憶によれば、地上3mのあたりにぽっかりと満月よりも大きな紅い丸があったのだという。それがすうっと、消えたのだそうだ。これを狐火と呼んでよいものやら、一体あれは何であったのか今だかつて謎のままである。
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