阪谷 聡
・今、わたしが30才を越えてますますスポーツに精進し、また何に対しても楽しく前向きに向かっていけるのは、吉岡先生の存在がおおきくかかわっています。吉岡先生のライフスタイルに多大な影響を受けたからです。
・わたしが入部したとき、先生は確か41歳だったと思います。倍以上の年齢差でした。当時山スキー部では、毎年7月に千歳で開かれるフルマラソンに、数名の有志が挑戦していました。新入生のわたしにとっては、フルマラソンを走りきるなど考えられないことであり、まさに一世一代の大チャレンジでした。最初で最後の挑戦のつもりでエントリーをしました。結果、へろへろになりながらも何とか完走し、大変な満足だったのですが、一緒に参加していた吉岡先生は、わたしより1時間近くも早く、3時間を切って走られたのでした。
・入部以来ほとんど接点がなかったので、この日が先生を直接知る最初の日になったわけですが、先生は大変強烈な存在としてわたしの前に現れたのです。それ以来、先生はわたしにとって目標となってしまいました。
・「このおやじはすごい」それからわたしは「40のおじさんに負けるわけにはいかん。ぬいてやる。」と思って毎年マラソンに出ました。先生という目標がもてたおかげで、4年間、他のどの部員、OBにも負けなかったのですが、先生だけは結局ぬけませんでした。
・その後も「このおやじの体力が下り坂になる前にぬいてやる。」と思っていました。しかし、先生は間もなく、サロマ湖100kmマラソンや留萌の鉄人レース(フルトライアスロン)に出られるようになって、目標の対象としては、わたしにはもうお手上げになってしまいました。
・吉岡先生はわたしに、トライアスロンの素晴らしさをこう話されていました。
「スイム、バイク、ラン。その一つひとつが楽しいのに、それを3つまとめてできるこのスポーツはなんと楽しくありがたいスポーツか」と。
・このことばは、わたしにとって大変ショッキングなことばでした。スポーツに対する先生の精進をお聞きすると、ストイックに厳しさを克服されているのだろう思っていたのですが、実は大変な楽しみの中にいらっしゃるということを知ったからです。この言葉に、吉岡先生のスポーツの楽しみ方、ひいては人生の楽しみ方をうかがえたと思うのです。そしてそれは、今でもわたしに「どんなことでも楽しくがんばる」という気持ちを持たせ続けてくれています。説教されたわけでも、諭されたわけでもありませんが、先生の実践された生き方から、学べたんだと思っています。
・スキーでもそうでした。技術の高さもすばらしいのですが、毎日毎日よく手稲ハイランドに通っておられました。その気力に負けてなるものかと、わたしも毎日毎日通いました。わたし自身、現役生活4年の間、スキー場に通った回数は、部員の中で毎年1番か2番だったと思います。しかし、いつ行っても吉岡先生は必ずいらっしゃいました。わたしよりも誰よりも1番スキー場に通われたのは吉岡先生だったのです。
・そしていつも一緒に滑ってくださり、教えをいただきました。部員の中で一緒に行く奴が見つからなくても、ゲレンデに行けば吉岡先生がいるという状況でした。そんな吉岡先生は、我々部員にとって、ものすごく頼もしい存在であったのです。
・体力とか技術だけではなく、その気力、スキーに対する情熱、向上心。言葉ではなく自らの行動、態度から伝わってくるその姿は、わたしにとってすべてにおいて「師匠」でした。
・最初にドイツに赴任される年の正月、ハイランドでお会いし、その夜、入部以来はじめて(クラブの集まりではなく)プライベートでいっしょにお酒を飲みました。現役のときもそうでしたが、スキー場では毎日のようにお会いするのに、それ以外ではほとんどお会いすることがなく、面と向かっていろんな話をするのは、OB4年目にしてその時が初めてでした。
・スキーやトライアスロン、そしてトレーニングの話など、相変わらずの底知れぬパワーに脱帽でした。わたしも相変わらずスキーをがんばっていること、その他いくつかのスポーツに精進して充実したスポーツライフをおくっていることをお話し、先生は感心してくださいました。先生のパワーに比べれば恥ずかしいばかりでしたが、感心してくださることがうれしかったのです。ことスポーツに関しては、先生に誉められることが一番うれしかったのです。
・この年になられてもスポーツをこれほどまでに高いレベルでつづけ、楽しまれている。おごることも、慢心する気配もない。これほどまでにストイックなスポーツライフをおくっておられるのに、まさにそれを楽しんでおられる姿は、わたしにとって目標であり、あこがれであり、手本でありました。札幌に行って吉岡先生に会うことはわたしの楽しみであり、活力の源であったのです。
・結局、その夜が先生とお会いした最後となりました。卒業以来毎年正月休みに札幌にいっていたのですが、ここ3年は行けませんでした。その間、先生は一度日本に帰ってこられ、またドイツにいかれたということですが、無精なわたしは、連絡を差し上げることを怠っておりました。ただ、きっと相変わらずどこかでパワフルにスポーツを続けられてるのだろうと思っていました。なんの疑いもなく、また近いうちに再会して、先生のパワフルな話をおうかがいし、そしておよばずともわたしの話を聞いてもらえる日が来るものと思っていました。
・先生が亡くなられた翌週の、手稲ハイランドの現役スキー合宿は、わたしも参加を予定していました。参加を決めたときから、久しぶりに先生とお会いできるかもしれないと楽しみにしていたのです。
・1月24日の金曜日に、現役部員と電話で話をしたとき、先生が参加されることを聞きました。ちょうど直接先生にお電話をして、参加されるかどうかおうかがいしようとしていたところでした。
先生の参加はわたしにとっては何よりの朗報であり、4年ぶりの再会は、まさにわくわくの気分でした。その後すぐにでも先生宅に電話をしようと思いましたが、夜も遅かったので、そのまま関東支部の五竜スキーツアーに出かけました。そしてスキーツアーから帰ってきた日曜の夜、訃報を知りました。
・五竜では加藤峰夫さん、高橋君、福島君などに「現役スキー合宿に参加して久しぶりに吉岡先生といっしょに滑ろう」と誘っていたところだったのです。4年前の正月以降の先生の日独でのパワフルな活動を話していただくことを楽しみにしていました。また、わたしの精進も聞いてほしかった。
・わたしがお会いしていた4〜5年前、先生は「現役を刺激するほどスキーに一生懸命なOBが札幌にいなくなった」と危惧されていました。この現役スキー合宿へのわたしの参加は、吉岡先生をはじめとするわたしに多大な影響を与えてくれた当時のOB、先輩に対する恩返しのつもりだったのです。
・お会いしていなかった4年間の、わたしのささやかな頑張りにも、やはり先生を意識したものがあったと思います。わたしはパワフルな先生しか知りません。ピークを下りていく先生を見ることはないわけですから、これからも永遠に元気なままの姿で、大きな存在としてわたしに影響を与えつづけるんだろうと思います。
・先生に出会えたことに感謝します。