年寄りのたわごと

                          中村 晃忠(77)

・もし生まれ変われるなら、僕は1940-1950年代のヨーロッパのアルピニストに生まれ変わりたい。ヘルマン・ブール、リオネル・テレイ、ルイ・ラシュナル、ワルテル・ボナッティ、などなど、あの時代の山には苛烈な夢があった。せめて、定年になって暇が出来たら、ブールが生まれ育ったインスブルックを訪ねて、彼が少年時代に登ったチロルの山々の岩に手を触れてみたい、と考えたりする。

・また、たまたま青い空に低い雲が流れて、その上に積雲が見えたりすると、その更に上に白い峰が見えるのではないかと探している自分に気づくことがある。そして、なにか少し寂しくなる。山という言葉にとみにこの頃敏感になった。体力と気力の衰えを意識すればするほどに。それほど一生懸命に山に登っていたわけではないのに。

・夢枕獏の「神々の山嶺」上下巻を読んだ。著者自身がいうように、空前絶後の山岳小説だ。新田次郎や井上靖、北杜夫を、山岳小説というジャンルにおいては遥かに超えた、と思った。物語はエベレスト南西壁の冬期単独無酸素登頂という現代の山屋にただ一つ残された課題についてのものである。

・昔、谷川岳の山裾にある土合山の家は、目をギラギラさせ、ザイルを肩に三ツ道具をガチャつかせた若い連中でいっぱいであった。家族連れやハイカーには近寄り難い雰囲気があった。今は、そんな人間にはとんと会えない。私のような中高年登山者の集会所になっている。

 

・3年後輩の高橋俊二君が「森を歩く会」と称して東京近郊の日帰り登山を続けていた。ほぼ2、3週間に1回の割合で随分長く続いた。おかげで東京近郊にも人の気配のない深い山がこんなにあることを再認識した。シーズン中の名のある山々はヒトだらけなので、それを考えただけでウンザリしてしまうのだが、ちょっとはずれると熊や猿やカモシカにでっくわす場所があったのだった。彼が再び活動の本拠をアラビアに移して以来、「森を歩く会」も頓挫してしまった。

・この2年くらいの間に山らしい所へ行ったのを振り返ってみると、「森を歩く会」約4回、永野企画で札幌の人たちに世話になった冬の無意根山行(パラダイス集会つき)、夫婦での土合い山の家を中心とした夏休み(蓬峠越えを含む)、夫婦での八が岳(緑池から赤岳)、塘企画の夏の富士山、竹内・武藤両君に世話になった5月の白山、そんなところである。富士山は大きくて高かった。高所障害の片鱗を垣間見た。白山は懐が深い名山だった。蓬峠をこえて着いた土樽の駅でローカル線を待つ間にホームに寝転がってながめた赤トンボの群、初冬の丹沢の霧氷、大菩薩峠近くの草原で味わった紅葉とワイン、そして、雪の大蛇が原で舐めたウイスキー、僕らだけの無意根小屋の吹雪、寒さで口がこわばった長い頂上稜線。多くは他力本願とはいえ、やはり、山はいいな、と思う。 

・カムチャツカ遠征から約3年半が過ぎた。よくぞ行ってきたものだと今頃になって感心する。言い出しっぺ、プロモーター、サポーターがいて、口車に乗る人間もいて、あの山行があったのだが、何といっても阿部幹雄、石塚吉浩両君がいなければ不可能であったのは明白だ。自分自身についていえば、2枚の写真を見ていただけで、ノコノコと出かけたことにあきれる。また、阿部君はジミナを遠くから見ていたとはいえ、よくも実力未知のロートルを引っ張っていったものだ。でも、このヤブレカブレみたいのが遠征の醍醐味なのかもしれないし、そんなことができるのが、「山とスキーの会」なのかもしれない。

・今の現役の活動期間は3年間しかないようだし、授業も過密で先生も甘くないと聞いている。北海道の山やスキーの開拓期はとっくの昔に過ぎ去ってしまった。エベレスト南西壁・冬期単独無酸素しか残されていない、チョ・オユーの頂上からのスキー滑降も随分むかしの話だ、マッターホルンの東壁の滑降だってやった人がいる、そういう時代だ。でも、大学時代だけで終わってはさびしいし、3年間でやれること、経験できることは少ない。大それた課題には縁遠いとしても、また、開拓者の時代に戻れるわけでもないが、自分にとって初めての山、初めての斜面、初めての経験は無限だ。大学時代の基礎があって、環境が続きさえすれば、みんなが、老いも若きも、自分の夢や可能性をふくらますチャンスを作れる。そのために「山とスキーの会」が役割を果たせたら素晴らしい。

・HUSV・MLはそれを膨らませるインフラの一つだろうが、道具の工面とか、遭難対策とか、海外情報の収集などのネットを更に充実させることができれば、会員だけでなく、北大山スキー部の現役の励みにもなるのではないだろうか。そういう体制を少しでも作りたいものだ。

・ともあれ、皆さん、また山でお会いしましょう。