吉田 美樹
・吉岡先生のことを回想すると、G.Wの無意根やサマースキーの旭岳に御一緒していただき、ザラメ雪の斜面を共に飛ばしたこと、先生の真似をして参加したフルマラソンで42.195kmを競いあったこと、新雪の手稲ハイランドに行くたびに北壁を舞い降りる先生に出会ったことなど、私が現役から若手OBの時代に先生と共に過ごしたエキサイティングな思い出の数々が脳裏によみがえってくる。
・1982年6月、吉岡先生は山スキー部部長に就任された。当時私は3年目で幹部になったばかりであり、はじめて先生が例会に来られるというので緊張した面持ちで先生を部室に迎えた。先生は穏やかで物腰の柔らい紳士でありながらも、その内側には若者と同じ種類の情熱が燃えていたのであろうか、妙に親近感を覚えながらお話をうかがったことを記憶している。
・先生の部長就任と前後して、山スキー部はプレハブの部室から現在の新サークル会館への引っ越しをし、また、木造の旧恵迪寮が鉄筋コンクリート5階建の現恵迪寮に変わるというようなことが続き、学生の自主性を重んじるという教育から管理する教育への変化を実感させられる時代であった。私が入部した頃の山スキー部員は長髪に山ジャンに長靴といったスタイルの者が多く、キャンパスを歩く一般の学生の中にも似たり寄ったりの出で立ちの者が結構おり、精神面においてもバンカラといった気風がまだ少し残っていたが、それも見る見るうちに色あせていくように感じた。日本経済はバブル景気の前の安定成長期で、学生も少しずつ豊かになってきた時代であった。学内に学生の所有する自動車が増えだしたのはその頃で、山スキー部にも多分に漏れずモータリゼーションの波が押し寄せ、それまでは専らバスや列車を利用して山行に臨んでいたのが、パーティごとに自動車で出かけることが多くなった。部員の服装も少しずつこざっぱりしたものに変わっていった。
・山スキー部は、活動地域の拡大や底力からのレベルアップなどの活動目標を掲げ、年間100日に及ぶ山行スケジュールをこなしていた。学業を犠牲(?)にしてまで山スキーに打ち込む者も多く、レベルの高い活動を模索していた。とくに厳冬期の中部日高や中部・南日高の沢において積極的に新たな山域に挑戦し、そこそこの成果をおさめていた。また、スキー技術の向上という課題が掲げられ、手稲ハイランドや藻岩山のスキーシーズン券を購入し、ゲレンデに何十回も通ってスキー練習をすることが盛んになった。このことが、部長に就任する以前からゲレンデに通われていた先生と現役が交流の機会を頻繁に持つことにつながっていった。
・一方、小屋祭りやサマースキーにおける山での宴会も大いに盛り上がっていた時期であった。たとえば、4月の無意根山における新人歓迎の山行や小屋祭りでは、6:00PMの開宴とともにドンブリに並々とつがれた焼酎を飲み干してから自己紹介と芸を披露する儀式が行われた。0:00AMのエッセン解放まで生き残っている者のみに夕食のカレーライスを食することが許され、”カレーを食った”というのはひとつのステイタスであった。当時はこれが山スキー部創設以来の伝統であると思っていたが、OBになってから色々聞いた話を総合してみると、こういう形式は私の入部前の10年以内に慣例化したものらしいことが判明した。
・ドンチャン騒ぎもやっていたが、普段は厳粛な気持ちで山に臨んでいたためか、それともたまたま運が良かったのか、先生の部長就任から私の卒部までの時期に大きな事故は起こらなかった。しかし、部員同士の車が衝突したとか、酔っぱらって大通公園の噴水で泳いだとか、街での失敗談には事欠かず、先生には相当精神的負担をおかけしていたのではと後悔はしてみるものの、今となっては若気のいたりということで許していただくしかない。
・先生との思い出でもっとも印象深いのは、私がOB1年目(1984年)のときに先生と共に参加した第1回豊頃サーモンマラソンのことだ。多分この大会はもうなくなっていると思う。参加人数は300人くらいだったろうか。わたしはその2カ月前に参加した千歳マラソンでまあまあの好タイムを出し、吉岡先生より順位が良かったことに気をよくし、この大会にも出場してみることにした。レースでは、2回目のフルマラソンということで少し自分の実力を過信したのか前半に飛ばし過ぎ、30km付近で腹痛を起こしてしまい、とぼとぼと歩く羽目に陥った。そこに後ろから来られた先生が軽快な走りで通りかかり、あまり無理をしないようにと2、3アドバイスを残されると、秋の十勝平野を1直線に横切る道の彼方に消えていった。その後、少し腹痛の回復した私は、沿道で声援を送る農家のおばちゃん達にひきつった微笑みを返しながら、なんとかゴールまでたどり着いた。先生は25位ぐらい、私は49位だった。タイムは先生が3時間10分前後、私が3時間25分位だったか。50位以内の者にあたる賞品の生鮭1本をかかえての帰路、札幌に向かう特急列車の中でお互いの健闘を讃えながら飲んだ缶ビールと、レースに備えてやめていたのを、先生にもらって一服したハイライトの味は忘れられない。
・それから10年、平成6年の山とスキーの会忘年会に向かう地下鉄車両のなかでバッタリ先生にお会いした。私は仕事の関係で2年ほど東京におり、札幌に戻ってきたのと入れ違いに、先生はドイツに留学されたので、数年振りの再会だった。先生は開口一番こう言われた。「吉田君、久しぶり。マラソンのほうの調子はどうだい。僕はコンスタントに3時間を切るタイムが出るようになったよ」。私のほうはたった1年、先生と一緒に参加した2回のフルマラソン以来、パッタリと走るのはやめており、せいぜい気分転換に週末のスキーを楽しむ程度だったので、その旨告げたところ先生は少し残念そうな表情をしておられた。その冬も何度か手稲ハイランドでお目にかかったが、継続的にトレーニングを積んでおられた先生の滑りは以前にも増してパワフルであり、また円熟味を加えておられたように思う。そして、先生は亡くなる直前まで、トライアスロン、マラソン、スキー等、部長時代にも増して挑戦を続けておられた。また、自らを鍛えるだけではなく、手稲ハイランドにおける現役の指導にも情熱を注ぎ続けられた。
・自分が走らなくなり、滑らなくなったことは、理由はどうあれ堕落したということなのだろうか、一方、先生は走り続け、滑り続けることで何を探しておられたのだろうか、と考えてみたりもするが答えは見つからない。ただひとつ確かなのは、先生が部長として、ランナーとして、山スキーヤーとして私達に示された、つねに穏やかに、柔らかく、そして雄々しく自己に立ち向かうという姿を、いつまでも胸に深く刻みこんでおきたいということだ。