甲子園物語
第3回は、丹波慎也投手(横浜)をテーマに書いていきます。
横浜高校が全国制覇を成し遂げた5年前の夏…。
甲子園に手が届きそうだったが、準決勝の日大藤沢戦、7点差を終盤にひっくり返されてまさかの敗戦。 その直後、新チームが発足された。そのエースで4番を任されたのが、丹波慎也投手。彼は1年生の夏、現在横浜ベイスターズの矢野投手の控えとしてベンチ入りし、甲子園にも行っている。
2年生の夏は、春先にフォームを崩してスランプになったらしく、なかなか登板の機会はなかったという。しかし、その悔しさをぶつけるように新チームでは大活躍。秋の大会までの、オープン戦や遠征試合では、投げては2度の無安打無得点、打っては高打率に本塁打と大活躍。もちろん、ドラフト上位指名候補だった。
新チームは、春も夏も甲子園に出場。しかし、甲子園のマウンドに丹波投手の姿は、なかった…。平成7年8月15日、遠征試合が終わり、チームメイトと食事をとった後、いつもと変わりなく家に帰り就寝。ところが、彼は就寝したまま、二度と目を覚ますことなく、あまりにも短い人生を終えた。
死因は、心臓肥大による急性心不全。今まで体調の異変は一度もなく、それだけに周りにいた人たちは、この出来事が信じられなかった。渡辺監督をはじめ、チームメイトのショックは大きい。あまりにも早すぎる突然な死。
1週間後、背番号1を欠番にして秋の大会に挑んだ。彼のために甲子園に行くことを誓って。松井投手は、関東大会ではじめてエースナンバーのユニフォームに袖を通すことになる。しかし、丹波投手のためにという気持ちが気負いとなり、4点ビハインドで終盤を迎えた。
しかし、ここからがドラマの始まり。8回、ヒットと本塁打で差を縮めた。9回2死から2つのヒットと四球で満塁にし、相手守備がもたついている間に、2者が生還し同点。なお続くチャンスにサヨナラヒットを打ち、半分諦めていた勝利を手にした。そして次の試合も勝利、選抜切符も手にした。
この劇的な逆転勝利に、「丹波が守ってくれた」と渡辺監督の目が潤む。本塁打を打った幕田選手は、この打席のときだけ風向きが変わったと証言している。選抜では雨の中の試合となり、残念ながら1勝は夏にお預けとなった。
夏は、あの7点差をひっくり返された宿敵の日大藤沢を破って出場。そして、甲子園でやっと念願の1勝をあげた。3回戦の相手は福井商。この日は、丹波投手の命日でもあった。
ところが、4−2とリードしていた9回、一挙6点を取られて大逆転負け。松井投手は、自分の悪送球が敗因だと肩を落とした。墓前の前で何も言えないと、松井投手は語った。選抜出場決定後、部員たちがお金を出し合って、丹波投手の姿が描かれたレリーフを製作。今もなおグラウンドの片隅に置かれている。
そして昨年のドラフト会議、ヤクルトの8位指名選手は丹波幹雄投手。彼は、丹波慎也投手の兄。怪我で野球を断念したが、弟の死がきっかけで再開することを決意したという。
「横浜高校のエースといえば、誰を思い出しますか?」と聞かれると、ほとんどの人が「松坂大輔投手」と答えるであろう。 「春夏連覇」や「決勝戦で無安打無得点」の偉業からして当然でしょう。
しかし、私は丹波慎也投手と答えたい。決して松坂投手を否定するわけではないが、私にとって心に残る投手です。マウンドの姿を見た事ないが、彼のためにとナインが頑張り、チームは一つに。そんな彼らを見て、丹波投手がどれだけ信頼されていたかが想像できます。
そして、志半ばで他界した彼を思うと、ちょっとのことでは悩めなくなります。はじめ、この話はずっと後に紹介しようかと考えていました。でも、横浜高校が全国制覇した今だからこそ、過去に悲しい出来事があったのだという事を伝えたいと思い、ホームページ開設1ヶ月を記念して第3弾を製作するに当たって、丹波投手をテーマにまとめました。
レリーフが横浜高校に置かれている限り、彼のことは忘れたくはないです。