ちょっと三国志



 馬謖(ばしょく)

  襄陽(じょうよう)の名門「馬家」の5兄弟はいずれも秀才の誉れ高く、特に、長男の馬良は秀才で、眉が白かったので、「白眉」と呼ばれた。馬謖は末弟。馬良は、文官として、荊州で劉備とであってから、劉備とともにいた。同時に、馬謖の才能も知れるところであり、早くから注目はされていたもの、なかなか出番は無かった。しかし、孔明はその才を見ぬき、将来の後継者とまで言われていた。その、馬謖が登場したのは、孔明が、南征を行っている時、兄「馬良」の死を告げるのと、兵士に酒を首都「成都」より運ぶ役目として登場する。この時、孔明は、馬謖に、「今の戦いをどう展開すれば良いか」と訪ねると、「兵を用いる道は、心を責めるをもって上とし、武力に終わるは下なり」と進言している。この進言に基づき、孔明は、南蛮の長「孟獲」を七回捕らえて、七回逃がし最後は、心から孔明に降伏させた話がある。とりあえず話として置いておいてほしい。さて、この一件より今まで以上に高く馬謖を評価する事になる。
「出師の表」を劉禅に出し、出発した北伐において、仲達が出陣した事を知り、それまで勝っていた戦いを忘れてまで、仲達の動きに気を配った。街亭での攻防戦をひとつの山と考えた孔明は、自ら策を練り、細い道に陣を張り、軍がとおれなくするように指示を出し、自分の後継者と賞せられる馬謖を用いた。念の為、用心深い王平を副官として付けた。大喜びして、参戦した馬謖だったが、実際に街亭に行きまわりを見渡すと、高き地があり、道を塞ぐようにして敵の兵を待つより、「高き所より責めよ」の兵法にのっとり、高い地に自軍の陣を孔明の命令に反して張った。それに対して、王平は猛反対したが、聞き入れてもらえなかったので、自軍だけ孔明の指示に近い位置にて、敵の兵を待った。仲達は、街亭にすでに蜀の兵士がいると聞き、「孔明恐るべし」と思ったが、下見に行った息子より、「敵は高い位置に陣を張っています。あれではすぐ、こちらが勝てます」と報告する。これに対して、仲達は「孔明は優れた軍師だか、人を見る目はないようだ」と馬謖をこの地の攻防の大将に選んだことを避難し、すぐ攻撃をかけた。結果は、予測通り、馬謖軍は大敗し、馬謖は命からがら逃げてきた。王平の働きと、孔明の機転で、街亭での敗北は最小限に留められたが、いかなる理由があろうとも、馬謖の命令違反だけは許すわけに行かなかった。常に法を遵守する事環一番と考えていた孔明は、蜀軍への影響等考え、自らの後継者と思っていた馬謖を軍法に照らし合わせて、処刑した。この時生まれた言葉が「泣いて馬謖を切る」だった。
武力、知力があったと思われる馬謖だか、結局は、机上の空論でしかなかった人物だったのかもしれない。孔明が、もっと早くから、実践の中で鍛え上げていたなら、街亭での馬謖の判断も違っていただろう。孔明がいたのに、能力を発揮できなかった人物だったのかもしれない。