ちょっと三国志


馬超(ばちょう)

  馬騰の子。馬騰が曹操に謀殺された後、その難を逃れた馬岱とともに、劉備軍に降る。劉備軍の武将となった知らせを聞いた劉璋を君主としていた「蜀」の国は、その勇猛さを知っていたため、知らせを受けて、10日後には門を開いた。「蜀」の武将になってからは、「関羽」「張飛」「趙雲」「黄忠」らと並んで「五虎大将」に封じられる。この時、プライドの高い関羽は、馬超とともの五虎大将を辞退するが、孔明が「張飛と肩を並べるほどの豪の者だが、ただ、貴殿には一歩譲るだろう」の手紙を渡す事で、関羽のプライドをくすぐり、無事、五虎大将ができた。劉備が、関羽の仇討ちのため、呉の国に攻め入った時、馬岱とともに、漢中を守った。また、劉備が、呉の陸遜の計略にはまり、白帝城まで敗走してきた時、魏の国がこの時どとばかり攻め入ろうとした。5つの方面より攻め入ったが、そのうちのひとつ「羌人」を利用して、蜀を襲わせようとしたが、「羌人」にとって、馬超は「神威天将軍」と畏敬されている事を知った孔明により「羌人」が攻め入ってくる、「西平関」を守らせた。馬超の事を知っている「羌人」達は戦わずして逃げ去り、他の方面からの攻撃も不発に終わり、一難を逃れた。劉備死後の話は、「演義」によると、孔明の絶対的な信頼で、孔明の南征の間、漢中を任せられた。また、北伐時には、すでになくなっていたとされているが、「蜀志」によると、劉備の死後1年後になくなっていたと言われている。「演義」の方が、蜀における馬超の活躍や、孔明からの信頼が、派手に出ている。それがなければ、馬超の活躍は、7年ぐらいしかなく、五虎大将の一人としてはかなりさびしい存在になってしまう。やっぱり、こっちのほうが面白い。