ちょっと三国志



魏延(ぎえん)
 208年、荊州をめぐる争いに巻き込まれた劉備軍は、曹操の大軍を前にして撤退し、襄陽の劉j(りゅうそう)に助けを求めた。しかし、劉jは、曹操と手を結ぼうと考えており、劉備の助けの依頼をを拒否し、堅く門を閉ざした上に、劉備軍やそれについて来た荊州の民までにも矢を掛け始めた。その時、劉jの部下で、劉備につくよう劉jを説得し、門を開けさせようとしたものが現れた。それが魏延である。以来、劉備に心を寄せていた魏延だったが、やがて、関羽軍に身を寄せ、劉備の臣下になった。その時、孔明は、魏延の人相に反骨の相が表れているのを見て、劉備に殺すように進言したが、劉備はそれを許さなかった。劉備軍に入ってからは、結構色々な場面で活躍している。蜀への入国にあたっては、軍師ほう統の命を受け、益州の牧劉璋(りゅうしょう)を剣舞に事寄せて暗殺しょうとしたり(これは、劉備の知れることなり失敗に終わる)、劉備亡き後、孔明が、南蛮平定の軍を起こしたときは、趙雲とともに大将に命じられ(それだけ、この頃より、蜀には人材が乏しくなり始めており、孔明は魏延ですら持ちいらなければならなくなっていた)南蛮の大将孟獲を生け捕りにしたりと大小様々な手柄を立てていた。その手柄が次第に、人材が乏しくなり思うように軍が動かなくなって魏との戦いがうまくいかなくなってきた孔明の采配に対して反抗するようになる原因となった。227年、孔明が「出師の表」を後主劉禅にささげ、魏討伐の出兵に踏み切ると、魏延は先手の大将に命じられていた。(この頃になると、趙雲もなくなり、小粒ぞろいの軍になっていた)だが、魏延はおとなしく孔明の作戦には従わず異を唱えた。戦いに不慣れな夏侯楙(かこうぼう)が守る長安急襲を提言した。しかし、孔明は、魏延の策は危険が多すぎると言うことで提言を取り下げた。それ以来、魏延は、孔明を臆病者と批判しつづけた。と言うものの、一旦戦に出ると手は抜かず、安定城、冀城(きじょう)を攻略し、陳倉を攻め取るなど、孔明の北伐には大きく貢献した。234年五丈原(ごじょうげん)で魏の司馬仲達との対峙にも従軍し、孔明の計略に基づき仲達をあと一歩のところまで追い込んだ。しかし、孔明が病没すると魏延は、不穏な行動を取った。孔明は、自分が没したあと必ず、魏延が謀反を起こすに違いないからと言うことで、楊儀に事後対策を授けていた。楊儀は、それに従い、魏延にしんがりとして五丈原から撤退するように命じたが、楊儀の命令に従わず、その上、後主劉禅に「楊儀が裏切ったと」讒言して楊儀に反旗をひるがえした。結局、漢中に攻めにかかったところで、偽投降していた馬岱の手によって非業の最後を遂げることになる。実は、魏延にとって、後半は、孔明がどうかではなく、楊儀との関係が問題であった。仲が悪く、常に魏延の悪口を孔明に言っていた楊儀。自然と魏延に対する信頼がより失われていく。また、このような状態で対外的にも良い筈はない。事実、蜀の大使が呉の国に行ったとき、国王「孫権」が今の蜀の国のことを聞いたとき、大使に対して「政治が楊儀、軍事が魏延。ともにそんな器ではないと聞いているが・・・」といったという話も在る。反目しあう楊儀と魏延。ただ、常に孔明の近くに楊儀がいたことが、はじめてあったときに、反骨の芽ありといわれたこと、これらが魏延にとっては不利であったことには違いない。ただ、事実は、本当に謀反を考え、謀反を起こしたのかどうかはわからない。そういったこともあって、三国志「魏延伝」の注によれば、魏延と不仲であった楊儀が、魏延が軍勢を引き連れて魏に降伏すると言ううわさを流して彼を窮地に追い込んだからで、魏延には反乱の意思はなかったと言う説も記載されている。