ちょっと三国志
周倉(しゅうそう)
三国志演義のなかでは、正史に出てこない人物がたくさんいるが、多分架空の人物であろうと言われているうちのひとり。周倉と関羽の出会いは、関羽が、捉えられ曹操の元にいた時、劉備のいどこがわかり、曹操の元より離れ、五つの関を突破して劉備の元に行く途中、臥牛山(がぎゅうざん)のふもとで山賊をしていた周倉がそれを聞きつけ、関羽の通り道にて待ち、部下とともに関羽に降伏し、関羽の部下になったことである。荊州をまかされた関羽だったが、呉の将軍、陸遜、呂蒙(りょもう)の計略に係り、荊州城を失い、近くの麦城に落ち延びた。劉封(りゅうほう)、孟達(もうたつ)に出した援軍も来ず、食料も底を付き、関羽、関平(かんぺい)の両名が、麦城より援軍を求めに、飛び出した時、周倉は残っている、武将を、文官の事を頼まれた。しばらくして、関羽、関平が捕らえられ、周倉の前に、その首を持ってきて、降伏を促されたが、その首を見るなり、剣を取って、自らの首を切って、関羽に殉じたのだった。周倉は、常に関羽とともに行動し、最後は、関羽とともに死んでいった。関羽との出会い、赤壁での戦い(と言っても余り出てこないが)、荊州城をめぐっての呉との戦いと出番はかなり少ない周倉だが、関羽一筋に忠義を貫いた姿が好まれてか、周倉の像は、孔明を祭った武侯祠(ぶこうし)をはじめあちらこちらに、実在の武将とともに立っている。また、後の人たちは、関羽の絵を書く時は、必ずその横に、関平とともに、この忠義の武将周倉の絵を書いている。
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