ちょっと三国志


 周瑜(しゅうゆ)
 周瑜は少年時代に、孫権の兄「孫策(そんさく)」と『断金の交』(金属を断つほど強い交わり)を結んだ。二人は協力して、江東各地を攻略して「呉」の領土を広げた。200年孫策は、周瑜に遺言で、弟の「孫権」の事を頼み26歳の若さでなくなった。周瑜も孫策の遺言にしたがって呉に残り、孫権を助けて呉の発展に尽した。ただ、周瑜としては、孫権を助けたのは、孫策の遺言だけではなく、「臣また君を選ぶ」(臣下にも君主を選ぶ権利がある)と友人の「魯粛(ろしゅく)」に言ったと伝えられるように、「孫権」の持つ魅力に引かれて残ったと言う事も事実であろう。202年、呉にとって最大の危機が起きる。勢力を伸ばしていた「曹操」より「孫権」の子を人質として差し出すように要求してきた。時代の流れ、曹操の持つ勢いから、呉の重臣達は要求を飲み平和的解決を図ると言う方向に傾いていたが、周瑜が「不当な人質要求など以ての外。断固はねつけるべきだ」と主張し、それで押し切った。208年、「曹操」は今度は、同盟を申し入れてきた。呉と魏で劉備軍のいる夏口、江夏を撃ち、劉備軍を滅ぼそう。その時は、劉備軍のいる夏口、江夏を呉に与えると言う内容だった。と同時に85万の軍を呉の周りに配備し、呉を威嚇した。この状況に、呉の重臣達は震え上がり、降伏論が大勢を占めていた。この時、降伏論を論じていたもののなかに、孔明の兄「諸葛謹(しょかつきん)」がいた。この状況は、夏口にいる劉備軍も察知しており、孔明がその対策に、呉まで出かけていた。呉の重臣相手に、降伏論を論破したと言う話もある。(この方が面白い)この時、呉の周瑜、劉備軍の孔明、二大軍師が合間見えた事になる。周瑜は前回の時同様、曹操に降伏する事をよしと考えていなかったため、会議に臨むなり、「曹操打つべし」と叫び、その理由と作戦をとうとうと述べた。彼の主戦論には迫力と、説得力があり、結局戦う事になった。周瑜は、その時呉にいた、鳳統(ほうとう)―当時孔明を臥竜、鳳統を鳳雛と呼び将来の大器として期待されていた―を自軍に向かい入れ、友に策を練り「連環の計」を用いて赤壁で「曹操軍」を撃破した。この辺の話では、孔明が出て来たり、一晩で10万本の矢を作ったりと、面白おかしくしている話が良くあるが、実際は、周瑜の卓越した作戦、指揮能力がもたらした勝利と言えよう。赤壁の戦い後「孫権」に呉の国の将来について進言し、益州を攻め蜀を平定する事を進めた。この間に、南郡の曹仁を攻めた折に矢が当り重傷を負ってしまったが、それも策に使い曹仁を撃退した。その後、本当に病に倒れ、36歳の若さでこの世を去った。周瑜の死に関しても色々な話があるが、小説では、周瑜の繰り出す策を次々と孔明が打ち破り、その為怒りにより矢の傷が破れて死んでいく、と言う事に成っている。これは、周瑜と対比させることにより、孔明の偉大を出す為に作られたらしい。それほど、周瑜の能力は高かったと考えて言いのだろう。ここでも、「もし」が出てくるが、もし、周瑜がもっと長生きしたなら三国時代の国図は変わっていたかもしれないとMR趙雲は思う。