ちょっと三国志
太史慈(たいしじ)
北海の孔融(こうゆう)が黄巾党の残党に包囲された時、包囲網を突破して、日頃母が恩を受けている孔融の助けに来た。太史慈は、孔融の命を受け、劉備に助けを請うため、連日、門より出て弓の稽古をするふりをして、相手の隙を狙い包囲網を再び突破した。劉備にあった太史慈は、援軍をつれて残党軍を蹴散らし、孔融を助けた。その後、劉ように仕えたが、孫策が、劉ようを攻略した時、孫策と激しい一騎打ちを演じた。やがて、劉ようが敗れ、太史慈が一騎城に踏みとどまり戦ったが、やがて孫策に捕らえられた。孫策は、自分との一騎打ちで、引き分けまでにした太史慈に対して惚れこみ、手厚いもてなしを行った。母よりの言いつけで「恩」を大事にしていた太史慈は、その孫策の礼に降伏し以後、孫策に仕えた。仕えた後すぐ、劉ようの残存兵を集めひとり、孫策のもとより離れた。各武将は、このまま太史慈が帰ってこないのかと思ったが、三日後、孫策の信頼を裏切ることなく、各地に散らばっていた、劉ようの残存兵を集めて戻ってきた。孫策の死後孫権に仕えた。合肥(がひ)を攻略しょうとした戦いで、魏の勇蒋「張遼(ちょうりょう)」と戦い矢に当って戦死した。
41歳だった。横山光輝氏の三国志では、門より突入し、全身矢だらけになった太史慈の姿が描かれている。三国史上、信義に重い武将がいろいろ書かれているが、この太史慈もその中の一人であり、ベスト10のなかに数えられる一人でもあろう。
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