罠
眠るときに和谷がとなりにいることに、伊角はまだ慣れない。
いつものように三回ひもをひいて、和谷は常夜灯も消えるまで完全に電気を消した。そして黙る。だから伊角もしゃべらない。それはいつものことで、けれど伊角はそのことをつまらなく思う。左ひじの先だけが、和谷の右腕に触れている。和谷の体温は高い。
もっと夜が寒くなったら、この欲望が自然なことに思えるだろうか。和谷の寝息が聞こえはじめるまで、伊角はいつもじっと息を殺して待つ。
「伊角さん?」
ふいに和谷が口を開いた。
伊角は和谷の声が好きだ。遠慮がちにささやくようにしていても、こんなにはっきり力強い。
「寝ちゃった?」
つまらないと思っているのが素直に伝わってくる声だ。気持ちが、はっきりと伊角の耳に届く。身体にしみいる。和谷らしい。
「伊角さん、口元ゆるんでるぜ」
「ばれたか」
あきれたようにため息をついた和谷の言葉に、伊角はあっさりと降参した。
「子どもみたいなことするなよな」
「和谷、よくわかったな」
伊角はごろりと身体を倒し、和谷の顔があるであろう暗闇を見つめる。
「なんとなく」
和谷も自分に向けて身体を倒した気配がした。ひじに和谷の体温が残っている。和谷は視線まで温度が高いらしい。身体は触れていないのに、見られていると思うだけで自分の体温があがっていくの感じた。
「どうした?」
優しくたずねる。和谷がすぐに寝つかないのは初めてだった。寝よう、そう言って電気を消してしまえばそれがリセットボタンで、いつも朝になって、おはようを言うまでおしまいになるのに。
「ん、別に」
目覚まし時計の針が、かち、かちと秒を刻む音が耳につく。
「寒くないか、和谷」
「ん、大丈夫」
手探りでふとんをずりあげてやる。
「大丈夫だって」
少しだけ、和谷の声が大きくなった。声に笑いがにじむ。
「伊角さん、ちょっと過保護なんじゃねーの」
「お前がすぐ腹下したりするからだろ」
手を伸ばして和谷の頭を小突く。狙いが少しそれて、和谷の髪が濡れているのに今更気づいた。
「濡れたまま寝ると風邪ひくぞ」
「大丈夫だって、このくらい」
「和谷っ」
わざと厳しい声をだす。濡れた髪をくしゃくしゃとなでつけると、和谷がくすぐったそうに笑った。そして、
「伊角さん、その言い方」
「うん?」
「オレその言い方なんか好きだ」
唐突に言われて、伊角は手持ち無沙汰に和谷の髪をなでていた手を止める。
「伊角さんがオレのこと呼ぶの好きだ」
伊角が和谷の頭に置いた右手を、和谷の左手がぎゅっとつかんだ。熱いてのひら。
「おまえなぁ」
電気が消えていてよかった、と伊角は思った。顔どころか全身が熱くなっている。そんなことを言われたら、意識しないでいられない。お前のこと、なんて呼べばいいかわからなくなるだろ。
「伊角さんがさ、オレのことお前って言うのも好きだ」
間髪いれずに和谷が言った。身体の中まで強引にわけいってくるような、まっすぐな和谷の言葉、和谷の声。くっきりとした輪郭、荒削りなつらなり。
「和谷、ごまかそうとしてもだめだぞ。髪の毛拭いてこいよ」
かろうじてそれだけ言うと、和谷がちえっと言って伊角の手を離した。
「伊角さんつめてーのっ」
言い捨てて、それでもしぶしぶと和谷は起き上がった。
「ドライヤーも使えよ」
暗闇を手探りで歩いているであろう後ろ姿に声をかける。机にでもぶつけたのか、いて、と和谷がつぶやくから、伊角はふきださずにはいられない。何気なく目覚まし時計に目をやると、夜光塗料の塗られた針は2時前をさしていた。
「お前、明日は休みだよな」
ふと不安になって確認する。和谷はもうプロとしてのキャリアをスタートさせている。
「あのさあ」
和谷が髪を拭きながらあきれたような声をあげた。
「何度言ったらわかるんだよ、伊角さん。明日は休み。手合いも研究会も指導碁もなんにもなしっ」
「あ、そっか」
「なんだよ、そんなにオレのこと忙しくしたいわけ?」
「ごめんってば」
「休みのときくらい……」
和谷が途中でドライヤーーのスイッチを入れたので、言葉の後半は送風の音にまぎれてとんだ。けれど伊角の耳には、身体にははっきりと聞こえた。休みのときくらい、伊角さんのことだけ考えさせろよな。
やっぱり電気が消えていてよかったと伊角は思う。いつも和谷にはやられてばかりだ。
和谷がドライヤーをとめると、闇が一層深くなった。
「うー寒い。やっぱり夜は冷えるぜ」
戻ってくる和谷のつぶやきが耳に入ったとたん、伊角はいいことを思いついた。くくっとこぼれそうになる笑いをかみ殺す。そうだ、和谷が布団に入ってきたら、ぎゅっと抱きしめてやろう。そういつもいつも真っ赤にさせられて、あせらされてばかりでたまるか。
「なんだよ伊角さん、何企んでるんだよ?」
和谷の反応を想像するだけで口元が緩み、諦めて小さく笑っている伊角を見て、和谷がうさんくさそうな声をあげた。
暖めてやろうと伊角は思うけれど、寒い寒いと言いながら、どうせきっと和谷の体温のほうが高いのだ。それでも、お前のように好きだ好きだと言う替わりに、暑いから離せと言い出すまでは、それまでは優しくだきしめてやろう。小さな仕返し。小さな罠。
だけど、と、暗闇のなかで伊角は和谷の身体の華奢な継ぎ目のひとつひとつをあざやかに思い出す。ごめんな、暑がりなのは知っているけれど、抱きしめてしまったら、何を言われても離せなくなりそうだ。大好きな、大好きな和谷。
END
初の伊角視点。
裏タイトルは
「四六時中も好きと言って」
『真夏の果実』が頭から離れなくて、
それだけでできたお話。
……夏じゃなくなったけど。
ごくあまといえばこの歌でしょう。それと、スミワヤ。