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「違う」ということは何を意味するのか?

ジム・シンクレア


国際自閉ネットワーク機関誌、「Our Voice」1992年Issue 1より転載



自閉者たちは他の人たちとは違っている――ぼくたちはしじゅうそう聞かされている。けど、本当のところ、それはいったいどういう意味なのだろう? 非自閉の人たちにとっては、ぼくたちがみんなと同じじゃないということがずいぶん気になるらしい。ぼくたちの両親や先生なんかもたいていはそうみたいだ。だから、療育の結果、自閉者のふるまいかたが非自閉者らしくなればなるほど、その療育法は効果的だったといわれる。自閉者の方も、「正常に行動する」ことを学習すればするほど、立派になったといわれる。でもちょっと待ってくれ。「人と違っていること」や「正常であること」の、ぼくたちにとっての意味というのは何なのだろう?

ぼくはカレンとアーノルドにきかれた。「自分が違っているということを自覚するようになったのはいつ?」正直いって、ぼくはまだそんなことを自覚したことはない――少なくとも、二人の言っているのと同じ意味では。だってぼくは最初から、自分がみんなと同じ生きものであるはずという前提をもっていなかったのだから。ぼくが小さいとき、周りは自分と似ても似つかないモノたちでいっぱいだった。両親を始めとするおとなたち、犬たち、ハムスターたち、木々、花々、家財道具。みんな自分と似てないのが当然であって、似ていないからといって驚くようなことだとは思えなかった。ほかの子どもたちというのもそれと同じで、自分と似ていないものというカテゴリーの一つにすぎなかった。まさか自分がその一人ということになっているだなんて、本当に思ってもみなかったのだ。

謎がひとつ解けたような気がしたのは大学を卒業してからのことだった。他の人間たちはぼくのことを、自分たちと同じカテゴリーに属すると本気で考えているということを知ったのだ。そのときはずいぶん驚いたものだし、なんだかおかしな話だなあと思った。いや、今でももう一つよく理解できない。

でも、もっと小さいうちから理解できていたこともある。ほかの子どもたちがぼくをいじめているということには気がついていた。そう、ぼくはいじめられっ子だったから。いじめられるのはきらいだった。そしてときどき、どうしてこいつらはこんなにたちが悪いんだろうと不思議に思うことこそあったが、自分がそんなたちの悪いやつらと同じにならなければいけないなんて思ったことはない。

母はそんなぼくに、しきりと「みんなにやさしくしてあげなさい。そしたらみんなお友だちになってくれるわ」と言ったものだ。でもぼくにはなんのことだかわからなかった。やさしくしろだって? ぼくはあいつらを困らせることなんか何もしていない。みんなのじゃまは一つもしていない。勝手に自分の好きなことをしてるだけじゃないか。これ以上ぼくに何をしろというんだ? それに、ぼくはあんなやつらと友だちになんかなりたくない。ぼくをこんな目に合わせるやつらなんか好きじゃない。どうして友だちになりたいと思わなきゃいけないんだ?(つけ加えておくけど、みんながみんないじわるだったわけじゃない。親切な子も何人かはいたし、ぼくは彼らとの友情を宝物のように思っていた。ただそれでもやっぱり、「やさしい友だち」と「いじめっ子」とを同じカテゴリーに分類するという発想がどうしても浮かばなかったのだ)

ぼくはこれまで、ほかの自閉者たちが「こんなに変わっていなかったらよかったのに」と言うのを何度も聞いてきた。みんな、いじめられてつらい思いをしてきたのだ。そして、いじめられる理由が、自分が変わっていてみんなとなじめないからだというのを知っていたからだ。ぼく自身は彼らと同じ結論に達したことこそないが(ほかの誰かさんがいやなヤツだからといって、どうして自分に不満をもたなきゃいけないんだ?)、その理屈は理解できる。彼らが他のみんなみたいになりたいのは、周りになじむこと自体が魅力だからじゃない。周りになじめば、その結果、状況が好転すると思っているからなのだ。

周りになじむことそれ自体を願うことばというのを、ぼくは今まで他の自閉者から聞いたことがない。まわりと違っていることそのものが、それだけで不幸だということばを聞いたことは一度もない。自閉者が自分がみんなと違っていることを苦にしているとしたら、それは、非自閉の人々に「みんなと違っていたら痛い目にあうぞ」と教えこまれてきたからなのだ。

ここでは子どもどうしのいじめの例をとり上げた。だが、ぼくがこれまで見てきた限りでは、もっとも破壊的な影響を残すのは、両親をはじめ、子どもを愛している人々が善意ゆえに送るメッセージだろう。わが子がよその子とは違うということを何度も何度も嘆き悲しむ親を間近に見て育ったとしたら、その子にはどんなメッセージが伝わるだろうか? 何かというと両親に「ふつうにしなさい」と言われつづけたとしたら、一番喜んでもらえ、一番ほめてもらえるのが「非自閉の人みたいに」行動したときだったとしたら、子どもは何を学ぶだろうか? 

「ママもパパも、このままのわたしじゃいやなんだ。ふつうの子じゃなくて、代わりにわたしが生まれたから、悲しいんだ。ママとパパに、わたしのことを好きになってもらうためには、ほかのだれかのまねをするしかないんだ」

中には、このメッセージを内面にとり込んで、「普通の人みたいになること」というのを人生の主目的にしてしまう子もいる。そして、ぼくがこれまで見てきた限りでは、自閉者は「正常になること」に努力を注げば注ぐほど、不安や鬱に悩まされ、自尊心を失う可能性は高くなるようだ。当然の結果ではないか? 彼らは「自分ではない誰かほかの人になること」というのを人生の最優先課題にしてしまったのだから。

じゃあどうすればいいのかって? まず手はじめは、みんな、自閉者であることはみじめでもなければ恥でもないというのをはっきり認識すべきだろう。とにかく、悲しむのをやめるんだ! 次に、非自閉の人たちには、わが子がみんなと違うからといって悩むのをやめてもらう必要があるし、自閉者の方でも、非自閉の人たちのつまずきやこだわりなんぞにつき合って振り回されるのは終わりにしなきゃいけない。自閉者と非自閉者の差異を否定するのも、矮小化するのもやめるべきだ。それに、自閉と人格は別物だなどというごまかしもあきらめなくてはいけない。自閉者というのは、非自閉の人々とは大きく違う存在だ。その違いは、自閉者の人格の中心部分、意識のありかたそのものにまで及んでいるのだから。

そして。周りと違うというのはちっとも異常なことではないのだ! 非自閉の人と違うというのは、自閉者としては当然の性質ではないか。ぼくたちにとっては、これが正常なのだから。相手が自分と違っているのに耐えられないというのは、非自閉の人々がかかえている障害であって、ぼくたちの問題じゃない。他人の問題のために自分の自己感覚を狂わされてしまうなんてやめなきゃいけない。それに第一、非自閉の人たちはぼくらのことを嫌ったり怖がったり哀れんだりするかもしれないが、ぼくらがありのままの人間でいた方が、本当は彼らのためにもなるんじゃないだろうか。だって、王様が裸だってことにまっ先に気づくのはぼくたちなんだから。

それはつまり、自閉者には療育も教育も必要ないって言いたいのかって? とんでもない。この世界で生きて行けるようになるためには、どんな子どもたちでも、教育を必要としている。大人だってなにかというと難題にぶち当たるし、新しい技術を学んだり、外部の助けを求めたりする必要がある。ぼくが言いたいのは、自閉者を援助するなら、非自閉者みたいになろうという努力に一生を費やしてしまうよう仕向けるのではなく、この世界の中で自閉者として生きて行けるように手を貸すべきだということなのだ。

もし誰かが、自分や他人に危険なことをしていたり、他人に迷惑をかけるようなことをしていたら、それは確かに問題だし、解決する必要がある。あるいは、もし誰かが、持てる実力を発揮し、自分の定めた目標を追求するのに必要な技術を欠いていることがわかったら、その技術を教えるためにできるかぎりの努力を注ぎ込むべきだろう。ぼくが問題にしているのは、ただ単に、自閉者の外見をより非自閉者に近づけるというだけの目的のために――つまり、非自閉者の目に不気味に映るというだけの理由で、無害な行動までもやめさせようとしたり、非自閉者たちに人気のある娯楽だからというだけの理由で、当人に興味のない技術や遊びを教えこんだりするために――徹底的な、苦痛の多い、そしてしばしば非常に金のかかる訓練を強制するという風潮のことだ。

自閉者は、自閉者として機能できるように、手を貸してもらう必要がある――そのことを考えるうえで、もう一つ、無視できない点がある。自閉者は、たとえ非自閉者と同じ目標を設定したとしても、その目標に到達するには、別の手段をとり、別の道すじを通る必要があるかもしれない、ということだ。これをぼくは「自閉の流れに乗って努力する」とよんでいる。「自閉を克服するように努力する」のとは正反対のアプローチといっていいだろう。自閉の人々は、学習スタイルも、記憶方法も、適応方法も、それに問題解決方法も、非自閉の人たちとは違っている。ぼくたちは、なんでもかんでも非自閉者と同じ方法でやろうとするのではなく、自分にとって自然な方法でうまくやれるように工夫をする必要がある。もちろんそのためには、自分が違っているということを自覚しないといけないし、そのことを恥ずかしがるのをやめなければいけない。

ところで、ぼく自身の経験から言うと、自分が興味を持ったことや、自分にとって意義のある目標を追求するのに、みんなのやりかたでやろうという努力をちっともせず、自閉らしい手順・操作を採用すると、トラブルの種になるらしい。みんなの予想や期待を裏切ってしまうからだろう。

でも、これまで生きてきてわかったことだが、人の期待を裏切ってしまうということに関するかぎり、ぼくには選択の余地はないのだ――何をどうやろうと、ぼくはどのみちみんなの予想や期待を裏切ってしまうことになっている。だってぼくは、たとえ本当にその気になったとしても、どうしたら普通にやれるのかわからないのだから。

だとしたら、残された選択肢は、みんなの期待をどこで、どう裏切るかという点だけなのだ。仮に、自分で意味も理解できないくせに、ほかの人の規範を受け入れてしまったとしたら、みんなの期待に応えられないだけではなく、自分で定めた規準もクリアできないことになってしまうだろう。

逆に、ぼくにとって意味のある規準だけを自分に課すことにして、自分に見えている現実世界とは無関係な規範や役割は鵜呑みにしないことに決めてしまえば、ぼくはアイデンティティを揺るがされずに済むし、自信をなくすこともない。たとえ、みんなの信じている「これが正常」という思いこみに反してしまったとしても、自分でその理由が納得できるし、人にも説明することができる。ぼくが規範を満たせないのは、その規範は非自閉の人々を対象にしたものだからだ。ぼくは非自閉者ではないのだから、非自閉者と同じ行動をとらなければならない理由はないし、同じ行動をとらなくても挫折感を味わうこともない。

こういう態度を、孤立主義だと考える人もいるかもしれない。でも、この姿勢が孤立主義になるかどうかは、ぼくの出会う非自閉の人たちの態度にかかっているのだ。ぼくが彼らに混じって、それでもなお自閉者としてのやりかたで生活し、機能することを、彼らは許容する気があるかどうか? ということだ。

ぼくには、一般に正常と考えられている規準に合わせることが困難だったり、不可能だったりする点がいくつもある。そのうちいくつかは、みんなが自然にそなえている機能がぼくの場合は弱かったり欠けていたりするせいだし、またいくつかは、みんなには難しいスキルや力をぼくが持っているためだ。さらにいくつかは、ぼくの認知スタイルや反応スタイルが、みんなより良いとか悪いとかじゃなく、ただ単に種類が違うからだろう。

ぼくの最大の強みの一つは、自分の内面が安定しているということだろう。自分が何者なのかという感覚は確固として揺るがないし、自分にとって何が重要なのかを見失うこともない。一方、ぼくの弱点は、自分には無意味に思える社会的規範を学習したりとり込んだりできないということだろう。これまでの体験から、弱点から出発するよりも、長所から出発する方が、自分はより効率よく機能できるということがわかった。つまり、なにかほかの存在になろうとするより、自分はこうなんだというのを前面に押し出した方が、うまくいくことが多かったのだ。

さて、果たしてぼくはこれから先、自分の長所を最大限に活かし、弱点の影響を最小限におさえられるような居場所を、この社会の中に見つけることが――あるいは作りだすことが――できるのだろうか? おそらくそれは、一生終わることのない冒険になることだろう。ぼくたちは一人残らず、道なき道を歩みつづけなければならないのだ。
(訳 ニキ リンコ)


原文へ→http://members.nbci.com/jimsinclair/different.htm

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