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「普通になる」とは何を意味するのか?

マルハナバチ


LD児や自閉児が「普通」になるって、どういうことなんでしょう? 

私は、アスペルガーでありながら(また、ADDや鬱、パニックのような症状もかかえながら)、「普通児」として成長しました。就学前健診でひっかかり、「公立に入れると特殊学級を勧められてしまう」と考えた母が、私学を「お受験」させてバイパスしたという「アクシデント」(母にとっては)はあったものの、普通学級で優等生を通し、高校までは、外からわかる困難など何一つなく育ちました。自分が、先天性の発達障害を持っていたと知ったのは、30を過ぎてからのことでした。

つまり、私は、うらやましいくらい「普通児」として通用する子どもだったわけです。

自分が普通ではなかったことを知ってから、「普通」の子どもたちの発言や、そこに表れている発想、理解に接すると、自分にはなかった(あるいは、自分がまだ獲得していない)知恵や思考に驚くことが多くなりました。それまでも、いとこの子どもや実家の両親の近所の子どもなどを見て、「なんでこんなに小さいのに、こんな高度なことがわかってるんだ。この子ひょっとしてすごい天才じゃないかしら」と思ったりしてはいたのですが、それは、自分を基準にしていたからだったのです。

そんな私でも、一見「普通児」として通用したのはなぜでしょう? 私は、自閉児なりの発想と知恵を使って、非自閉児が「カン」や「本能」で学ぶことを、全部理屈で分析し、それを大量に暗記していったのです。年齢が進むにつれて、発見した規則の数が増え、蓄積したデータの量も膨大なものになり、それらを使えば、外からそれとみてわかる失敗をする回数はどんどん減っていったのです。つまり、もともと普通児に近く見えた私は、成長するにつれて、ますます普通児としても通用しやすいようになっていったのでした。

でも、それは、私が、非自閉児・者と同じ能力を使って、同じ手順、同じ道筋で情報を処理し、外界のできごとに対処しているということを意味するのではありません。ちがう能力を使い、ちがう手順で、非自閉児・者がするのと同じ作業をこなし、同じ結果を出せるようになったというだけなのです。

つまり、両腕がない代わり、足や口を使って機械や道具を使いこなして生活しているようなものなのです。両腕がなく、足でタイプしたりしていれば、外からも、「ああ、この人は、この人なりに持てる能力を駆使しているんだな」ということがわかりますが、私たちの場合は、外から見てもわかりません。外からどころか、中からも、自分でさえわからずに、これが当たり前だ、みんなこうしているのだと思いこんで30過ぎまできてしまったほどなのですから。

そして、今の私は、たとえ「この薬を飲んだら明日からアスペルガーじゃなくなるよ、非自閉者と同じ脳になれるよ」と言われても、そんなもの絶対に飲みたくありません(確かに、聴覚過敏がおさまったり、不安発作が起こらなくなる薬とか、集中力を上げたり、強迫行動を止めたりする薬とかなら、自分の生活を楽にするため、飲んでみたいとは思いますが)。

知らないうちにとはいえ、私は30年以上かけて、足でタイプを打つことを学んできたのです。奇跡の薬とやらを飲んで、いきなり腕が生えてきたとして、私はそれを使えるでしょうか? これまで腕なんて使ったこともないというのに。私の肩は、首は、慣れない異質な物体の重みに耐えられるでしょうか? そんなぶらぶらする長いものをくっつけて、まっすぐ歩けるでしょうか? そして、使い慣れた、頼みの両足はすでに、他の人と同じように消しゴム一つ拾えない足に変わり果ててしまった・・・・・・ 悪夢以外のなにものでもありません。

私が「普通児」として通用してきたということは、私が両腕を持っていたからではありません。たまたま、すぐれたあしゆびの能力に恵まれていたからこそ、また、あしゆびの能力を努力で磨いてきたからこそ、非自閉児と同じ課題をこなしてこられたということなのです。

でも、それは外からは見えません。内側からだって、見えていなかったくらいですから。私は、自分がこんなに必死で努力してきたことさえ知らず、自分は怠け者だと思いこんでいたのです。

「普通に見えるようになった」といわれる子どもたち。実は、他の子と同じ発想をするようになったのではなく、その子なりの方法をたった一人で編み出して、データを蓄積して、他の子と同じ課題をこなせるようになっただけなのかもしれません。

そういう子のことを、「もうすっかり、普通の子と変わらなくなったね」と評するとき、その陰にある発想には、2種類あると思うのです。その子が、本当に「普通の子になった」と思いこんでそう言う人と、その子が自分なりの方法で「普通の子と同じ課題をこなせるようになった」進歩を喜ぶ人と。どちらが正当な評価でしょうか。

LD児や自閉児が、「普通の子になった」と思ってそれを喜ぶというのは、その子が独力で自分なりの工夫をあみ出した苦労を無視することにならないでしょうか? あるいは、その子が一生使いつづけていく、その子だけの「マニュアル」を、普通の子のものより価値の低い物と考え、必要のない恥の意識を植えつけてしまわないでしょうか?

また、少数派として、一生、生活のあらゆる場面で低レベルのストレスにさらされ続けながら、それを自分で処理し、コントロールしながら、その余力で普通の課題をこなしていくことになるその子の「微妙な疲労感」「低レベルながら、決して止むことのない雑音」の存在を否定してしまうことにはならないでしょうか?

移民や難民の子どもが、公立学校の普通学級に転校してきたとしましょう。最初は日本語もわからず、慣れない給食も食べられなかった外国人の子が、何年もかかって日本語を覚え、みんなと同じ成績をとるようになったとしたら・・・・・・。だれも、その子はクラスメート以上に努力をしていること、みんな以上のストレスにさらされていることを忘れたりはしないでしょう。そして、いくら日本語や日本人らしいふるまいを身につけたからといって、本国の文化、伝統を背景に持っているその子のことを、「すっかり日本人になれたね」と評するのは、ためらうでしょう。そう言ってしまうと、その子の本国の文化・伝統に対する侮辱にあたるぞ、と気づき、思いとどまるでしょう。

私は、相手の方が、ほめるつもりで、あるいは励ますつもりで「えーっ、まさか。普通に見えますよ」とか「アスペルガーって、自閉の一種なんですか? そんな、あなたは自閉症なんかに見えませんよ」とおっしゃってくださるとき、非常に高レベルの苦痛を感じます。

喉に焼け火箸をつっこまれるような痛みと、窒息感です。

相手が、「普通に見える」という言いかたを、ほめことばだと思って使っているということは、「非・自閉が上で、自閉が下。その中でもアスペルガーや非定型自閉などの高機能者は非・自閉者に近いから上」という前提があるわけです。その前提がまず、屈辱的です。そしてその他に、自力で「自分の脳の使いかた」をあみ出し、普通と同じ課題を普通と同じレベルでこなせるようになってきた努力を「なかったこと」にされた空しさを感じます。さらに、私が少数派として常に感じつづけるよりほかない、低レベルながら決して止むことのないホワイトノイズのようなストレス、疲労感を、「口にしてはならない」「隠し続けなければならない」というという窒息感を感じるのです。

日本で生活するのですから、日本語は知っていたほうが便利ですから覚えましょう。行く先々でトラブルを起こさないよう、日本式の生活習慣も覚えましょう。時には、自国の伝統・文化をわきに置いて、そちらの習慣に合わせましょう。でも、私はよぶんの努力をして日本語や日本文化を覚えたのだということを、忘れないでほしいのです。こっちが譲って合わせているのだということを、当然と思いこまないでほしいのです。「ちょっと変だけど、名誉日本人にしてあげるわ」ではなくて、「親日派・知日派の客人として尊重」されたいのです。

私は自転車の車輪を見つめるのが好きでした。証拠写真も残ってます。今でも、ヒマがあったらやるかもしれません。知らない方もいらっしゃるかもしれないので念のために書いておきますけど、自転車の車輪って、美しいですよ。

私は、今でも、風車の美しさに夢中になって、吹きすぎて過呼吸の発作を起こして倒れそうになったりすることがあります。あるいは、砂時計を見つめていて、たまごをゆで過ぎたり(なんのための砂時計なんだ)することがあります。仕事机がもしきれいな木目の天然木だったら、仕事にならず、しめ切りなど忘れ、信用をなくして失業するでしょう。

そういう副作用は困ります。だから、時間管理、気分管理のテクニックを身につけようと思います。そのための努力・実験・試行錯誤に、時間とエネルギーを使う用意はあります(それによって自由に使えるようになるであろう時間とエネルギーを上回らない範囲で、の話ですが)。

でも、自転車の車輪、風車、砂時計、木目、メノウの縞などの美しさがわかる、この感覚は、絶対に失いたくないのです。

私は、「正常」「普通」といわれる人たちの多くには、木目を見つめて何時間も楽しむことができないらしいということを知りました。きっと、それにはそれで利点があるのでしょう。だから、「気の毒な」と言ってしまうのは失礼というものでしょう。彼らにはその代わり、私たちにはわからない、別の美、別の楽しみがきっとあるはずだからです。

たしかに、自転車のペダルを手で回して、車輪を見つめる姿は、異様に見えます。でも、それを、「外では、指差されたり、いじわるを言ったりされると悲しいから、おうちでだけやろうね」というのと、「そんなものがおもしろいわけないでしょう。自転車は乗るためのものに決まってます」「いやね。気持ち悪いから、やめてよ。こっちが怖くなるじゃないの」と言うのとでは、天と地ほどの開きがあります。

さいわいにも私はかぎっ子で、ひとりの時間に恵まれて育ちましたので、好きなだけ木目を見つめたり、網戸の前にハエたたきをかざしてモワレを作ったりして過ごすことができました。母は私がそういうことを楽しんでいること自体を知らなかったので、ことこういう遊びに関しては、私は何の干渉もされずにすんだのです。モワレもようや、回転する物体に引き込まれる感性・美意識自体を「おかしい」と否定されることにはなりませんでした。

でも、あとあと、ほかの子の目にはこういう美しさはあまり見えていないらしい、見えても短時間しか続かないらしい、私ほどの興奮を得ていないらしい、ということを、経験から、次第に学んでいきました。そして、そういうものを美しいと感じる感覚・美意識自体を、恥ずかしいもの、汚いものと思いこむようになって行ったのです。

普通になるということは、普通の人と同じ結果が出せるようになる、その能力が身につくということなのでしょう。

でも、その到達目標はいろいろあります。「自転車は見ても美しいが、本来は乗るために作られたもので、乗ると便利でもある」ということを理解し、「急いでいるときは、美しさに気をとられないよう、車輪を見ないように工夫する」ということを覚えれば、それで十分とするか? 

「自転車の車輪の美しさを楽しむ前に、周囲に人がいないかどうかを確かめる習慣を身につける」というところまで進むべきか?

それとも、「自転車の車輪は美しくないと思えるようになる」段階まで進むべきか?

「普通になる」ということばは、定義さえ定かではなく、いろいろな意味で使われています。でも、到達目標をどこに置くにせよ、その結果には、共通する点があります。

「普通」に見えるようになれば、本当はよぶんの努力をしていることを、周囲からは当然のこととしてアテにされるようになるということ。陰の努力を、あるいはその疲れを、「なかったこと」にされること。歩み寄ったことを忘れられること。

そして、能力とは関係ない、別の感性や、特に不都合のない、障害にはならないはずの特性までも、恥ずかしいと思いこんでしまったり、知らずに矯正しようとするという危険ととなり合わせで十代、二十代の自己形成期を生き延びなければならないこと。

量的に機能レベルが上がれば、外面的・実用的レベルでは、生きやすくなります。でも、それを、質的な変化ととりちがえてしまうと、内面的に、自己像・自尊心の面で、混乱をきたしてしまいます。

外国人として日本語がうまくなるのは便利。でも、故郷の文化を軽蔑し、日本人にあこがれるように仕向ける必要はない。そう思うのです。

98・12・27


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