(濃い背景色が苦手な人、印刷して使う人はこちらへ)

「初めて言葉をしゃべったのはいくつのとき?」
      ――カナー自閉、アスペルガー自閉、そして非定型自閉

アマンダ・バグズ


「初めて言葉をしゃべったのはいくつのとき?」

これは、自閉がらみの話をしているときに私がよくきかれる質問だ。この質問の裏にある意図は(いつもというわけではないけど、たいていは)、私がどのカテゴリーにあてはまるか知りたいということらしい。

きき手の想定しているカテゴリーとしてはまず、「カナー自閉」とか「古典的自閉」とかよばれるものがある。これは、話し言葉が全くないか、あったとしても発達が著しく遅れるのが特徴だとされている。一方、「アスペルガー自閉」とよばれるものもある。これは「高機能自閉」と同じだという人もいれば、全く違うものだという人もいるが、どちらにせよ、言葉の発達に遅れがないか、ほとんどない。そしてそのほかに、「非定型自閉」といわれるものがある。私の診断名は、この「非定型自閉」ということになっている。この名前は、私は自閉ではあるけれども、カナー自閉の範囲にもアスペルガー自閉の範囲にも分類できないということを意味する。

この分類にはいろいろと困ったところがある。中でも大きな問題なのは、分類名を聞いただけで、あまりにもたくさんのことをわかったつもりになってしまう人が多いという点だろう。たとえば、私は、自閉の子どころか、たいていの非自閉の子どもたちよりも早くから言葉を話しはじめた。だから正直にそう答えると、質問した人は、すぐに私をアスペルガーだと決めつけてしまう。

アスペルガーというレッテルを貼られて困る理由はいくつもある。一つは、世の中にはアスペルガー症候群は自閉ではないと考えている人々もいるということ。もう一つは、アスペルガー症候群の特徴とされている性質には、私には当てはまらないものがいくつもあることだ。

よくある思い込みの一つに、アスペルガー症候群の人たちは「本当は人との交わりを求めている」というものがある。つまり、「人とつき合いたいけれども、その方法がわからないだけなのだ」というのだ。でも私はどうかというと、別に人との交わりを求めているとは思えない。子どものときのことを思い出してみても、人の近くにいるのも好きだったし、人が近くにいないというのも好きだった。いや、「人がいると簡単に刺激過多になって疲れてしまう」という言いかたの方が正確だろう。私にとっては、心地よい、幸福な日というのは、一日のほとんどを人と交わらずに過ごした日であり、私にとっての幸福な時間というのは、ごくわずかな例外を除けば、一人ですごす時間なのだ。

アスペルガーというレッテルにまつわるステレオタイプはほかにもある。「不器用」とか「言語を愛する」とかいうのがそれだ。私はとてもじゃないが言葉で考えるタイプではないし、このあいだ精神科で認知テストをしてもらったら、頭で考えてから言葉が出てくるまでの間にかなりの時間差があるという結果が出た。それに、ときどき、全く口がきけなくなってしまうときだってあるくらいなのだ。運動能力やバランス能力に関して言えば、いくつかのスキルには多少の問題があるけれども、たいていの分野では平均以上だといっていい。

私が、初めて言葉を話したときの月齢を答えると、人はそれだけで自動的に、私のことを「本当は社交的になりたがっている」「言葉が好き」「不器用」と決めつける。私が「自分に似ている」とか「自分とは似ていない」とか「うちの子に似ている」とか「うちの子とは違う」とか決めつける。初語の月齢だけを規準に私を判断し、一つの型に当てはめようとするのだ。でも、この型は私ではないし、私の姿を正確に言い当ててさえいない。

そもそもこの分類規準自体に関してさえ、みんなの意見が一致しているわけではない。カナー自閉とアスペルガー自閉は大きく違うと言う人もいれば、アスペルガー自閉(あるいはアスペルガー症候群)はそもそも自閉の一種でさえないと言う人までいる。ある人は、アスペルガー自閉というのは高機能自閉の中の一タイプだと言う。小さいときにカナータイプだった人が、大きくなるとアスペルガータイプになることもあると考える人さえいる。

私はどうやら、カナー自閉の特徴と、アスペルガー自閉の特徴を少しずつそなえている他に、カナータイプともアスペルガータイプともつかないがやはり自閉的な特徴も示しているらしい。だからこそ私は「非定型自閉」という診断名を与えられることになったのだ。この名前は、私の特徴を正確に表している。〈カナータイプとアスペルガータイプと、その他の特徴が混ざったもの〉という意味だ。私の場合、「その他の特徴」の一つとして解離状態というのがあるが、これが神経学的なものなのか、心理的なものなのか、あるいはその組み合わせによるものなのかはよくわからない。

とにかく、初語の月齢によって私という人間を判断しないでほしい。初語が早ければ、それは初語が早かったというだけのことでしかない。初語が早かったからといって、「このタイプ」とか「あのタイプ」とかいうことにはならない。私の初語の月齢を知ったところで、他の分野の発達経過についてはほとんど何もわからない。それどころか、現在の私に、言葉を使って不自由なくコミュニケーションできる能力があるかどうかにさえ関係がない。私の人格についても、ほとんど何も語ってはくれない。

一方、「自閉」という言葉は、私という人間について、確かに多くを語ってくれる。「自閉」という範疇の下位分類は、私についてほとんど何も語ってくれない。「非定型自閉」という用語は、あたかも、十分自閉らしくないという意味であるかのように聞こえるかもしれない。でもそれは、私が他の自閉の人たちとは別の存在だという意味ではない。

ただ簡単に「私は自閉です」とだけ言ってしまえたら、どんなにいいだろう。それ以上あれこれ質問されることもなく、説明もせずにすんだら、どんなにいいだろう。だって私はまず自閉者なのであり、「非定型」などというのは、あくまで二次的なものなのだから。

だからこそ私は、「自閉スペクトル障害」全体を、単に「自閉」と呼ぶべきだ、そして、個々の診断名は、症状に応じたサブタイプと考えるべきだ、という意見に賛成している。どの症状が最も目立つか、その症状はどの程度重いか、という違いは確かにある。ただし、症状の本来の重さを正確に知るのは容易なことではない。個々人が適応のために発達させたテクニックによって、症状が覆い隠されることがあるからだ。
(訳 ニキ リンコ)


多種族社会の部屋」へ戻る

自閉連邦在地球領事館附属図書館」へ戻る